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卒業(学級経営日記その後)
「学級経営日記」から五年後の話です。
パラレルストーリーですので、ご注意ください。


 
  1
 
 きっと涙が止まらなくなってしまうわ。と、フランソワーズは思った。卒業式要項のレジュメを見ただけで、熱く目が潤んでしまったのだから。
 卒業生答辞は島村ジョー。指導するのはブリテン教諭だという。
 中学の三年間をこの生徒たちとともに過ごした。が、彼らが高校に進んだとき、一緒に上がった教員は学年主任のブリテンと、ハインリヒのみ。フランソワーズは中学校に残った。それでも、高校二年と三年ではこの学年の物理を部分的に担当したから、一部の生徒とはつながりが切れなかった。
 教員は、生徒に忘れられるぐらいでいいんだ、とよくハインリヒは笑う。フランソワーズもそのとおりだと思う。それでも、別れはつらい。そして、生徒たちを区別するわけではないけれど、それがひときわつらい学年というのもある。
 六年前、フランソワーズは初めて担任した高校生たちを卒業させた。その喪失感はすさまじく、四月から再び高校で新入生を迎える気力など到底わかなかった。彼女は半ば衝動的に、同じ敷地内にある付属中学校への異動願いを出してしまったのだ。そして、島村ジョーたちに出会った。
 彼らのわけのわからないパワーは、フランソワーズが長く感傷に浸り続けることを許さなかった。あっという間に彼女は、彼らの中に巻き込まれ…そして、また六年がすぎたのだった。この子たちがいなかったら、乗り越えることができなかったかもしれない、と思うようなことも、少なくなかった。その彼らが、とうとう卒業する。
 忘れられるぐらいでいい、と心でつぶやく。その気持ちに嘘はない、とフランソワーズは思う。でも、きっと私は忘れない。あなたたちのことを。
 
 島村ジョーは、いつも理系クラスの首席にいた。中一の時の幼さは跡形もなく、高校の教員たちは、無口だけれどしっかりした生徒だ、と口を揃えて言う。たしかに、無口になったのかもしれない。ジェット・リンクやアポロンと一緒に中学職員室を訪ねてくるときも、彼だけは静かだったような気がする。
 なぜか、フランソワーズが高校で島村ジョーのクラスの授業担当になる機会はなかった。夏期講習などで顔を見ることはあったかもしれないが、彼が質問にきたこともない。その必要もなかったのだろう。
 高校に上がってから、彼の成績は急激に上昇した。もとからできない生徒ではなかったのだが、その伸び方は目を見張るものがあった。理系教科だけでなく、彼はほぼ全ての教科で「10」をとった。それを担任でも教科担当でもないフランソワーズが知っているのは、彼が学期末に必ず通知簿を見せにくるからだった。
 
「失礼します。アルヌール先生はいらっしゃいますか」
 礼儀正しく中学校職員室の入り口できっちりお辞儀をしてから、彼は入ってくる。アルヌール先生、今お手すきでいらっしゃいますか、とこれまた丁寧に尋ね、通知簿を差し出す。
 高一の一学期末、島村ジョーが初めて訪ねてきたときには本当に驚いた。彼がひどく生真面目にこちらを見ているので、笑うのも変な気がして、フランソワーズは真剣な顔で通知簿を受け取り、真剣に眺めた。ずらっと10が並んでいる。
「よく勉強しているのね……立派だわ」
 他に言うことはない。そういう通知簿だった。何かもっと言ってあげたいような気もするのだけど、言葉が出てこない。とにかく、こちらの顔に穴があくのではないかと思うぐらいじっと見つめられるので、何を言うべきかわからなくなってしまうのだった。
「あまり勉強しすぎて、体をこわしたりしたらダメよ」
 仕方がないので、そんなことも言ってみたりした。島村ジョーは微笑して、大丈夫です、と答え…また礼儀正しくお辞儀をして、挨拶をして、職員室を出て行くのだった。そんなことがこの三年間、毎学期ごとに続いた。この間の二学期末にも、もちろん来た。
 卒業式の日も、彼はくるのだろうか。最後の通知簿と、卒業証書を持って。
 そう思うと、また涙が出そうになるフランソワーズだった。
 
  2
 
 卒業式は、きれいな晴天となった。卒業学年担当ではないフランソワーズは、保護者の受付に追われ、式の前半は会場の外にいた。
「エッカーマン先生、もうここはいいですから、中に入って下さい」
 声をかけられ、フランソワーズはちょっと躊躇した。が、同僚は温かい微笑で彼女を更にうながした。
「思い出深い奴らでしょう…連中も、先生に送ってほしいと思ってますよ」
 
 中に入ると、来賓の挨拶が続いているところだった。卒業証書授与は終わっていたけれど、島村ジョーの答辞にはなんとか間に合ったことになる。会場の空気はしんと張りつめていた。
 フランソワーズは足音をさせないように歩き、教職員席の端に座った。卒業生席の一番前に座っているはずの島村ジョーの姿はここからは見えない。ふっと不安になった。あの子、変なところがそそっかしいから。間違えたりしないかしら。
 考え始めると、なんだか気になってしまう。来賓の祝辞がだんだん耳から遠のいていく。
 
 危ないのは……そう、最後だわ。締めの挨拶よ。保護者と来賓にお礼を言って、ここに出席している人たちのご多幸とこの学校の発展を祈って……そのあたり、ちゃんとつっかえずに言えるかしら?ああ、それに日付があるわ!何回目の卒業生なのか言うところもあるし……。
 フランソワーズは頭を動かさないようにしながら、ちらっとブリテンの方を盗み見した。
 原稿のチェックはしているのだから、大丈夫なはずだけど…でも、ブリテン先生もちょっとうっかりしてるところがあるわ。三月だから、年度は日付の年とずれてるし、それに……
 大丈夫、大丈夫よ……と、フランソワーズは心に繰り返した。次第に心臓が高鳴ってくる。
 
 ううん、違う。読む方より、むしろ心配なのは、所作だわ!あの子、階段でつまずいたりしないかしら?お辞儀の順番を間違えたり、抜かしたり……ああ、そう、奉書を広げるとき、落としたりしないかしら?それに、読み終わったら、答辞は包み直して校長先生に渡すのよ。うっかりそのまま席にもって帰ったりしちゃったら……。
 
 不意にまだあどけない13才の島村ジョーが脳裏に浮かび、消えた。フランソワーズは深呼吸を繰り返し、大丈夫…大丈夫よ、落ち着いて…と、むやみに念じ続けた。
 
「…卒業生答辞」
 
 司会が厳かに告げる。心臓が飛び上がりそうになった。
 島村ジョーがゆっくりと階段を上がり、落ち着きはらって奉書を広げる。やがて、彼は朗々と答辞を読み始めた。つっかえることも、とまどう様子もまったくなく、極めて端正に読み終えると、包み直した奉書を校長に渡し、丁寧に礼をする。フランソワーズは、全身から力が抜けていくのを感じ、大きく息をついた。
 きっと涙が止まらないと思っていたのに、わけのわからない脱力感に包まれ、フランソワーズは、ぼうっと式の進行を眺めていただけだった。卒業の歌のときも、卒業生の退場を拍手で送り出したときも、ついに涙は出なかった。
 
 教室から放たれ、卒業生たちが中庭から校門へと散っていく。別れを惜しむ生徒たちがあちこちで写真をとったり、抱き合ったりしている。中学校職員室にも、見知った顔が次々にやってくる。
「失礼します。アルヌール先生はいらっしゃいますか」
 来た。島村ジョーだ。そう思った瞬間、けたたましい笑い声が響いた。
「なぁ〜にが『アルヌール先生はいらっしいますか』だよ、ジョー!スカしやがって!」
 ジェット・リンクだった。思わず吹き出すフランソワーズに、大股で近づき、彼は握手を求めた。
「世話になったな、エッカーマン先生!」
「生意気ね…!ネクタイ曲がってるわよ!」
 ええっ?と慌てふためくジェット・リンクを押しやり、島村ジョーが通知簿を差し出した。
「アルヌール先生、お世話になりました」
 黙って受け取り、そっと広げる。やっぱり10が並んでいた。卒業証書は?と小声で言うと、島村ジョーは照れたように微笑し、それを差し出した。ゆっくり広げ、眺める。
「なんだよ、先生…そんなのどれも同じだろ?」
 ネクタイを直したジェット・リンクがのぞきこむ。フランソワーズは顔を上げ、首を振った。
「違うわよ…一枚ずつ全部違うの。ジェット、あなたのも見せて」
「えーっ!」
「まさか、もうなくしちゃったんじゃないでしょうね?」
 島村ジョーが珍しく声を上げて笑った。
「アルヌール先生は、僕たちがいつまでもコドモだと思っていらっしゃるんでしょう?」
 そんなことはないけど…と言おうとしたとき、ジェット・リンクがごそごそカバンを探り、卒業証書を取り出した。ただ無造作にカバンにつっこんだらしく、既に妙な折跡がついている。
「何、これ、ジェット!教室で、ちゃんと筒をもらったでしょう?」
「え…?」
「貸しなさい…!もう〜こんなにぐちゃぐちゃにしちゃって〜!ダメダメ、まだコドモだわ、あなたたちって…!」
「…まだコドモだってさ、ジェット!」
 苦しそうに笑う島村ジョーの後頭部を、ジェット・リンクは思い切り小突いた。
「ホントにガキなのはオマエだろ、ジョー!こんなもの律儀に先生に見せにきてよぉ〜!第一、いつまでも『アルヌール先生』はないだろ?なぁ、エッカーマン先生?」
「ふふ…でも、あなたたちと一緒にいた頃はそうだったのよねえ…私をそう呼ぶのって、もうジョーだけかもしれないわ」
「…だって」
 島村ジョーはふと真剣な表情になった。まっすぐにフランソワーズを見つめ、言った。
 
「アルヌール先生はアルヌール先生、ですから。僕には、永遠に」
 
  3
 
 卒業式が終わると、学校は隙間ができたようになり、なんとなく寂しくなる。
 今年の卒業生の進路も大方決定し、進路指導部では資料の整理を始めているようだった。中学校にいると、そういう情報がなかなか入ってこないので、島村ジョーの進路をフランソワーズが知ったのは、もう終業式も間近にせまった頃だった。
「入学…しない、ですって?」
 驚くフランソワーズに、ハインリヒは苦笑しながら説明した。島村ジョーは、第一志望の超難関国立大学に、卒業式の二日後、見事合格した。が、その大学には結局入学しないことを告げてきた。彼は、アメリカに留学するつもりだ…と。
「アメリカ…って。まさか……」
 フランソワーズの脳裏に、大きな鼻の老人がよぎった。ハインリヒは軽く肩をすくめ、うなずいた。
「そう、『保護者』の意向で…のようだ。ドクター・ギルモアが関係している大学に籍を置いた方が、何かと『効率』がいいらしい…どうも、今までも何だかんだ、あのじいさんの手伝いをしていたようだしな、ジョーは」
「そんな!」
「まあ、そう悪い話でもないんだろう…アイツにはそういうやり方の方が向いているのかもしれん。早く一人前になりたいってのが、口癖だったからな。それに、幸い君もいる。ジョーは運がいいさ。『おふくろさん』が一緒なら、あのじいさんも、そうアイツをコキ使うわけにいかないだろうよ」
 『おふくろさん』についてはとりあえず黙殺しておいて、フランソワーズはぎゅっと唇を噛んだ。
 たしかに、彼が合格した国立大学に行くことだけが最善の道でない、というのはわかる。それでも、彼が本当に心からそう望んでいるのかどうかはわからない。もし、周囲の大人たちに気を遣って、自分の気持ちを抑えているのだとしたら……。
 早く一人前になりたい、というのも、ふつうの子供たちのように、早く自由になりたい、という意味ではないのかもしれない。ジョーは中一のころから言っていた。早く博士の役に立ちたい、と。役に立つ人間にならなければいけないと、思いこんでいるような彼の姿に胸を痛めたことを、フランソワーズは昨日のことのように思い出した。
「本当に、あの子の叔父さんって人は、一体何をしているのかしら?これじゃ、あのころと何も変わっていないわ…!」
「ま、その辺はどうにもならないことだ。気に病んでも仕方あるまい?それより、君は自分のこともよく気をつけた方がいいぜ…相当人使いの荒いじいさんだっていうじゃないか。ジョーの身代わりに働こう、なんて下手に考えるなよ」
「私は…大丈夫。ちゃんとドクターに文句だって言えるもの」
「そうかもしれないが…とにかく無茶はするな」
 ハインリヒはいたわるように言った。
 生徒たちには黙っていたが、フランソワーズはこの三月で学校を退職することに決めている。六年前のように、喪失感に耐えかねてやけくそになった…わけではなく。
 行き先は、アメリカ。ドクター・ギルモアが去年設立した、新しい「研究所」だった。
 
 三年前、島村ジョーたちが中学校を卒業した春、フランソワーズは、同僚だったカール・エッカーマンと結婚した。カールは結婚と同時に教職を辞め、父の研究の片腕をつとめるようになった。 
 カールとの生活に、何も不満はなかった。結婚するときそう思ったように、彼はあくまで優しく、聡明で、これ以上にない理想的な夫だった…と思う。もちろん、今でも。なぜこのままでいられないと思ったのか、自分でもわからない。いや、わからないと思いこもうとして、三年間、自分はひたすら何かから逃げ続けていたような気がする。
 私は、ワガママだわ。
 フランソワーズはカールの寂しい横顔を思い浮かべながら、胸が鋭く痛むのを感じた。この痛みが消えることは、きっと一生ないだろう、と思う。消してはいけない…とも思う。
 カールは、最後まで優しかった。私はもう誰を愛することもない…そんなこと、できないと思う、とつぶやき、うつむいたフランソワーズをそっと抱きしめ、彼はささやいた。
「そんなことを言わないで、フランソワーズ。僕は幸せだったよ。そして、君にも、そうであってほしいと思っている。いつか、誰かを心から愛して、本当の幸せを見つけてほしいんだ」
 
 離婚届にカールが署名をし、手渡してくれたのは二月のはじめだった。翌日、いつものように出勤したフランソワーズは、大きな笑い声に顔を上げた。島村ジョーと、ジェット・リンク、それに、アポロンが、何か叫びながらじゃれあっている。
 ああ、高三の登校日なのね…とぼんやり思ったとき、三人はフランソワーズに気づいた。
「アルヌール先生!」
 ジョーの明るい声に、どきん、とした。
 そうだわ。私は。
 
 島村ジョーの、変わらぬ澄んだ声と、まっすぐに向けられたまなざし。それで救われた、と言うなら、あまりにあっけなく、むしろ罪深いと思う。それでも、フランソワーズは、不意に胸にかかった霧が晴れていくのを感じていた。
 そうだわ。私は、これからも生きていかなければいけない。こんなにつまらない女だった私。あんな優しい人を傷つけて……あの人は何も悪くないのに。ただひたすら私を愛してくれたのに。
 私は、あの人を愛していなかった。尊敬していたけれど、愛したことはなかった。わかっていたのに、私はあの人の優しさに甘えて、あの人を愛するふりをして。ただ、自分が幸せになるために。そんな残酷な私が、私なんだわ。そして、それでも私は生きていかなければならない。この空の下で。愚かなずるい女のままで。
 
 数日後、離婚届を役所に出した帰りに、フランソワーズはドクター・ギルモアへの封書を投函した。
 以前から、彼の助手の一人となり、アメリカに来てくれないかと求められていた。返事をするには遅すぎるタイミングだと思ったが、フランソワーズは決心した。私は、私のままでいよう。愚かなただのフランソワーズ・アルヌールに戻って、もう一度やり直そう、と。
 
  4
 
 ハインリヒと別れ、校門を出ると、風はすっかり春の暖かさでフランソワーズを包んだ。この校舎に通うのも、あと数日になる。
 
 私は、あなたたちのように、豊かに学び終え、卒業して出て行くわけではないわ。むしろ、この校門をくぐる前の私に戻って、何も持たず裸足のまま出て行くのかもしれない。
 でも、ジョー、あなたとは、新しい場所でまた会えるのね……どんな顔をするかしら?
 そう思うと、温かいものが少しずつ心を満たしていくような気がした。
 
 ジョー。あなたは何も知らないけれど、あなたの目は、いつも私を試していたのかもしれない。なんだかそんな気がするの。六年間、あなたがあの澄んだ目で私を見ていてくれなかったら…そして、何も疑わない、あのきれいな声で「アルヌール先生!」と呼び続けてくれなかったら、私は自分の過ちに…自分の醜さに気づくことができていたかしら?もし気づいたとしても、それに向かい合う勇気までは、持てなかったかもしれない。
 いつもまっすぐで優しい子だったジョー。学校を離れたら、もしかしたら…ううん、きっと、あなたは私なんかよりずっと立派な若者なのにちがいないわ。
 ふと、フランソワーズの胸に、あの日のジョーの言葉が浮かんだ。
 
「アルヌール先生はアルヌール先生、ですから。僕には、永遠に」
 
 ごめんなさい、ジョー。
 あなたが思ってくれるほど、私は正しい人間じゃなかったの。「先生」なんて呼ばれる価値のない、馬鹿な女だったのよ。それをあなたに知られてしまうのは、少し怖い。あなたが言ってくれたとおり、私も、永遠にあなたの「アルヌール先生」でいたかった。あなたがそう思ってくれる気持ちを、大切にしたかった。
 私は…ただのフランソワーズ・アルヌールは、きっとあなたをがっかりさせてしまうでしょう。あなたのきれいな目が曇るのを見なければいけないのは、とてもつらいことだわ。本当に、このままでいられたらいいのに。でも……
 フランソワーズは青く晴れた空を仰ぎ、その眩しさに目を細めた。
 
 でも、また、会いましょう、ジョー。
 また、会いましょうね。


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