ホーム 五段活用 卒業 ピンポン 敗北の五月

ピンポン
5月15日のイベントで各務りか様が発行された
無料配布本「WISH」に収録していただきました。


 
  1
 
 あれこれ考え合わせてみると、やっぱりジェットが悪かったんじゃないか、と、後になってジョーはひそかに思った。たぶん、そう主張したとしても誰も賛成してくれないだろうとも思ったけれど。というか、そもそも、そんなに悪いことが何かあったのかと皆に問いつめられてしまう危険すらあるかもしれないわけで。
 だから、結局、ジョーがこの晩の出来事について何かを語ったことは、以後なかった。
 
 ともあれ、発端がジェットだったのは間違いない。
 そうはいっても、それを避ける術はなかったのだ。メンテナンスのため、彼が研究所に来たことを、フランソワーズはとても喜んでいたし、もちろんジョー自身もそうだった。だから、彼が何の前触れもなく到着した日が、ちょうど休暇の前日で、翌日は全員…ギルモアとイワンとフランソワーズとジョー…で、温泉旅行に出立するところだった…なんてことも、とるにたらないことだ。
 悪かったなーと何度も繰り返すジェットに屈託のない笑顔を返しつつ、仲間思いのフランソワーズはすみやかに彼のメンテナンス終了に合わせた日程で、旅館の予約を取り直したのだった。当然のことながら、人数を一人増やして。
 だからその晩、そこ…やすらぎ温泉花村ホテル遊戯室…にジェット・リンクがいたのはそういう理由でだった。
 
 ジェットの参加について、正直、ジョーには助かったな、という思いがあった。
 もうずいぶん前からフランソワーズとは名実ともに恋人同士になっている。が、ギルモアとイワンも一緒の旅行…ということになると、彼女とは恋人同士というより、兄妹に近い雰囲気になってしまうのが常だった。実はそれもジョーの勘違いで、その雰囲気は長年連れ添った夫婦にはるかに近いものだったのだが、彼にはそうした夫婦の身近にいた経験が全くなく(というのは彼は孤児だったので)そのため、そう考えるには至らなかったのだ。
 いずれにしても、そうなってしまったとき、フランソワーズがこの旅行…というよりはむしろそうなってしまう彼女の恋人…に心から納得し満足してくれるかどうかと考えると、ジョーは非常に心許ない気分になった。滅多にない休暇、それもゆったり過ごすことができる旅行中に、彼女と恋人らしい時間を持つことが一切できない…となると。
 正確に言えば、一切できない、ということはありえない。ただジョー自身の羞恥心がそれを許さないだけで、だからこそ、フランソワーズはそういう恋人にあからさまではないものの、失望の色を表すわけだ。その辺りの自分の責任については彼も自覚していたし、ある意味民族性の違いでもあるのだから仕方ないのだ、と諦めてもいた。
 が、旅行メンバーとしてジェットが加わると、「恋人らしい時間を過ごさなければならない度」は大幅に減少する、とジョーはかなり安堵しつつ考えたのだった。
 001、002、003、009とギルモアが一緒に旅行するのだから、つまりそれはサイボーグチームの半数が共に行動するということでもある。この事実が、フランソワーズに、ここは「恋人」でなく「仲間」あるいは「家族」としてふるまうべき場だという気分を濃厚に与えてくれるだろう。そして、その気分は当然、自分にも伝染するはず。
旅行にジェットも加わると決まった晩、ジョーは久しぶりにやすらかな思いで床についた。これで、最も恐れていた事態は確実に回避できる、と思った。
無自覚のまま熟年夫婦の雰囲気を醸し出す彼らではあったが、そうはいってもジョーにとってフランソワーズの魅力は日々新鮮で、時に脅威ですらあった。だから、もしも彼女が自分の目の前で、洗い髪の浴衣姿なんかでくつろぎ、あまつさえ膝を崩して寄り添ってきたりしたら、どんなに気を強く持ち自分を律していたとしても、ギルモアとイワンの前で、うっかり何らかの失態をさらすことがあるかもしれないのだ。
 それは絶対にあってはならないことだ、でも…とジョーはここ数日、ひとり悩み抜いていたのだった。
 とにかく、そういうわけで、問題の晩、ジェットはそうなるに至った事情からはちょっと考えられないほどジョーから感謝・歓迎され、そこにいたのだった。
 そこ……つまり、やすらぎ温泉花村ホテル遊戯室…に。
 
  2
 
 大浴場から部屋に戻る途中でそこにさしかかり、あれは、なんだ?とジェットに問われたとき、ジョーは一瞬迷った。それが何かをジェットが知らないはずはなく、従って、彼の質問には、当然それ以上の意味がこめられていたからだった。
 しかし、それはとりあえず卓球台…としか言いようのないものだったので、ジョーは仕方なくそのように答えた。案の定、ジェットはあからさまに、トロイ奴だな!と言いたげな不満の色を表しつつ、さらに質問を重ねるのだった。
「そんなことはわかってるぜ。なんでこんなところに卓球台があるんだ?なんかの合宿でもあるのか?」
 いっそのこと、そうだ、と言ってしまえばよかったのだ。しかし、根が生真面目なジョーは、ただ自分が煩わしさから逃れるためだけに、仲間に嘘をつくことなどできなかった。
「そういうわけじゃなくて…ただ遊ぶためのものだよ」
「誰が?」
「お客が。僕たちみたいな」
「卓球でか?変なホテルだな?」
「いや、そうでもない…日本ではよくあるんだ。結構面白いよ」
「まあ、日本は卓球強かったっけな、そういえば」
「それは中国だよ…それに、コレはそういう競技とはちょっと違うんだ。卓球というより、ピンポン、かな?」
「何が違うんだ?」
「ええと…だから、遊びなんだ。暢気なのさ…たとえば、このカッコでやるんだよ、大抵」
「こんなカッコでかよ?」
 腑に落ちない顔で、ジェットは台に歩み寄り、薄汚れたラケットをつまみ上げ、ジョーを振り返ると、あまり気のない調子で言った。
「…やるか?」
 
 動きにくいな、と文句を言いつつも、ジェットはよく動いた。なんだかんだいっても負けず嫌いのジェットは、明らかに勝負に熱中しつつあり、動きも次第に烈しく大胆になっていった。それにつれ、浴衣の合わせ目がなんとなく怪しくなっていくのに気づき、ジョーはだんだん落ち着かない気分になってくるのだった。
 もともと、ジェットの浴衣の着方には、無理もないこととはいえ、かなり問題があった。さらにどこで聞いたのか、キモノを着るときは肌着を一切つけないのが正統なやり方なのだと彼は思いこんでいた。
 几帳面にランニングを着こんでから浴衣を広げるジョーを、訳知り顔でせせら笑いながら、ジェットは湯上がりの体をロクに拭きもせず、豪快に浴衣を羽織り、豪快に前を合わせ、豪快な適当さで帯を巻き付けてしまったのだった。
 ひたすら困惑しつつ、こういう勢いのジェットには何を言っても無駄かもしれない…とジョーは思った。卑怯なやり方かもしれないが、ここはフランソワーズに叱ってもらうのが一番…という気がしたのだった。
 大浴場から部屋までたいした距離ではないし、その間に着崩れしてどうこうということはなさそうだった。万一そんなことがあったとしても、人とすれ違う可能性は極めて小さい。で、ともかくも部屋に戻りさえすれば、どっこいしょ、とあぐらをかいた途端、速攻でフランソワーズが激怒するだろう。ジェットはパンツさえはいていないのだから。
 たぶん、「アナタがついていてどうして?」みたいに、自分も一緒に怒られてしまうのかもしれないが、それはそれで仕方がないよな、とジョーは思ったのだった。
 
それが、こんなことになるとは。既に、ジェットの着衣状態はぎりぎりというべきレベルに到達していた。しかも、こんなに派手に打ち合っていたら、ココを通りかかる人の目をもれなく集めることは間違いない。やはり、脱衣場で速やかに彼の誤りを指摘しておくべきだったのだ。
とにかく、もう一刻の猶予もならない。判断の甘さ…ちょっとした手抜きが大事につながるということを、自分たちは知り抜いているはずだったのに。ジョーは少々反省しながら、したたかにスマッシュを決め、強引に勝負を終わらせた。
「…っ!てめぇ、何が遊びだ?今の……」
「帰ろうよ、ジェット…フランソワーズが待ちくたびれてるよ」
 フランソワーズ、と言われ、ジェットは反射的に時計を見やり、小さく舌打ちした。
「…っきしょう、メシのあと決着をつけようぜ!」
 
  3
 
 予想通り、部屋に戻るとジェットはフランソワーズに盛大に叱られ、速攻で肌着をつけさせられた。そして、これも予想通り、次に彼女は、アナタがついていて、どうして…と、ジョーを叱るのだった。
 ジョーとしては、最悪の惨事を防いだわけで、そこを評価してほしい気持ちもないではなかったのだが、ソレを彼女に細かく説明するのははばかられたし、努力を理解してもらう過程でさらに叱られるだろうことも予想された。ジョーは仕方なく、ばつの悪そうな顔で下をむき、彼女の怒りをやりすごすことにした。
 ひとしきり怒ってから、だいたい、どうしてこんなに長い間お風呂に入っていたの?と彼女がけげんそうな顔をしたとき、仲居が入ってきて夕食の支度をはじめ、その話はなんとなくそこでおしまいになった。
 夕食は少々の酒が入って、ほどよい盛り上がりとなった。ジェットの冗談に楽しそうに声を上げて笑うフランソワーズを眺めつつ、ジョーはかなり幸福な気分を味わっていた。
「君は、まだお風呂入ってないのかい?」
 ふと気づいてたずねると、フランソワーズはにっこり笑ってイワンを振り返った。
「さっき、ここで入ったわ。大きいお風呂には、あとで坊やと一緒に行こうと思うの」
 それでゆっくりできるのかどうか少々疑問だったが、彼女はどうも大浴場に抵抗があるらしい。それも無理ないか…と思っていると、ジェットが得意そうに笑いながら話に割り込んできた。
「もったいつけてたらツマラナイぜ、お嬢さん。オンセンに来たら、ハダカのつきあいを味わわなきゃな」
「アナタの蘊蓄は全然当てにならないのよね…」
「だったらこの日本人にちゃんと聞けよ。せっかく異文化の体験ができるチャンスだってのに…ったく、フランス人ってやつは頑固でかわいげがないよなー」
「まあ!失礼ね…オンセンのことぐらい、知ってるわ」
「へえ?じゃ、ユカタの着方もわかってるのか?」
 これ以上言わせるとマズイ気がして、ジョーはあわててジェットをさえぎった。
「本格的に着るならともかく、旅館のユカタに流儀なんかないよ…ただ前を合わせて帯をするだけさ。それに最近の女の人だと、着ない、ってことも結構あるらしいし」
「ふーん。オマエ、オンナとこういうトコロによくくるんだ?」
「…は?」
 思いもよらない攻撃に、ジョーはついたじろいだ。助け船を出したのに、なぜこんなことになるのか、と咄嗟に思ってしまったため、一瞬何を言うべきかわからなくなってしまったのだ。なんとなく重くなった空気に、ギルモアがけげんそうに顔を上げる。
「どうかしたのかね?何を喧嘩しておる?」
「喧嘩…というわけでは」
 たとえば、誰と誰が喧嘩しているように見えるんだろう?と、ジョーはこっそりギルモアをのぞいた。が、たいしたこともなさそうだと判断したのか、ギルモアはもう吸い物椀の中身に興味を戻しているのだった。
 
 食事が終わると、ジェットは勢いよく立ち上がり、まだお茶をすすっていたジョーを引きずるようにして地下遊戯室へ向かった。ジョーとしては、どことなく口数が少なくなった…ような気がするフランソワーズに何か声をかけておきたかったのだが、そんなヒマはなかった。
もっとも、それでよかったのかもしれない。どうせ、自分は彼女の機嫌を直せるような話術をもっておらず、下手にしゃべると事態をさらに悪化させるかもしれないのだ。ジョーはそう思った。そもそもやましいことは何一つないし、それがわからないフランソワーズでもないのだから、いつものように、沈黙と少々の時間がことを解決するはずなのだ。
 
遊戯室には数人の客がいたが、卓球台はまだ一つあいている。いそいそとラケットをとる長身のアメリカ人は、それだけで十分人目をひく存在だった。ジョーはため息をつき、ラケットを構えた。周囲を気にせず、ゲームに集中した方がなんとなく精神衛生にいいような気がする。
とにかく、負けてやらないと、一晩中ここから解放してもらえないような気がしたし、かといってわざとらしく負けるともっと面倒なことになるだろう。そう危惧していたジョーだったが、幸い、ジェットの気合いには並々ならぬものがあったので、ごく自然に劣勢になっていった。
「もらったあっ!」
 雄叫びと共に、スマッシュが決まった。つい横っ飛びして追いかけたジョーのラケットをわずかにすり抜け、ボールは乾いた音を立てて床に落ちた。
 完璧な勝利を手にして、すっかり上機嫌になったジェットに、ジョーはようやく胸をなで下ろした。これでなんとか部屋に戻れそうだった……のだが。
 ラケットを台の上に置いたジェットは、同じように片づけをはじめようとしたジョーを軽く目で押さえた。
「フランソワーズを呼んでくるから、オマエこの場所とっとけ」
「…え」
「さっきはちょっとマズったからよ…悪かったな」
 やや申し訳なさそうに笑い、ジェットは止める間もなく去っていった。あっけにとられてその背中を見送ったジョーは、ふと周囲を見回し、少し慌てた。いつの間にか、遠巻きに控えめに…ではあったが、ギャラリーらしき輪ができているようなのだった。
 もちろん、若い女性ばかりだった。
 
 オマエはオンナに甘い、とよくアルベルトに言われたっけなあ……と、思い出したりしながら、ジョーはいつのまにかどういうわけか見知らぬ若い女性たちとピンポンをしているのだった。
 遠巻きにしていた彼女たちに気づき、声をかけたのは、場所を譲るためだった。そのへんがそもそも間違っていたのかもしれないが、迂闊にもジョーは、そうすればジェットのピンポン攻撃から逃れられる!とか思ってしまったのだった。
 で、場所を譲るはずだったのに、どうしてこんなことになっているのか、ジョー自身にもさっぱりわからない。しかも、相手は生身の女性たちだから、とにかく手加減が面倒、というか見当がつかない。ちょっと強めに打つと、きゃあ、なんて言われてしまい、ジョーとしては大いにうろたるのだった。
 こうなってくると、むしろ早くジェットに来てほしい……とジョーは思った。日本人は外国人が苦手だし、ジェットのようにあくまで陽気に迫られたら、彼女たちはかえって退くだろう。まして、フランソワーズも一緒なのだから……って。あれ?
 空振りしてしまった。きゃあきゃあ喜ぶ女性達を背中に、ジョーは弾むピンポン玉を追いかけていった…のだが、見失ってしまった。焦ってきょろきょろしている彼に、優しい声が降った。
「はい、これでしょう?」
「あ、ありがとう…………フランソワーズ」
 優しく微笑するフランソワーズからピンポン玉を受け取り、ジョーはむやみに瞬きした。別にやましいことをしているわけではない、が。
 
「あ、シマムラさん!今度は私…の番……」
 楽しそうに笑いさざめいていた女性たちが、振り向くなり、しん、となった。あくまで微笑するフランソワーズに、さっきまでジョーと打ち合っていた女性ははっと息をのみ、卓球台に放り出すようにしてラケットを置いた。
「い、いえ、その…シマムラさん、ありがとうございました…楽しかったですう〜」
「お邪魔しましたあ〜」
 口々に言いながら、女性たちは次々お辞儀をして行ってしまった。
カン、と乾いた音に振り返ると、フランソワーズがうつむいたまま、ピンポン玉を台に弾ませて遊んでいる。彼女は旅館のユカタに着替え、髪も簡単にではあったが、結い上げていた。
「あ、あの…ジェットは?」
「たった今、お風呂に行っちゃったわ。面白いから、オマエも遊戯室に来い、ってしつこく言うからついて来たのに……気まぐれなヒトね」
「……う、うん」
 逃げたのだ。間違いない。ってことは、今、僕がおかれているこの状況は、逃げなきゃいけないような状況だってことなのか……?
「ジョー?」
「…え」
 フランソワーズは女性が台に置いていったラケットを手に取り、持ち手をユカタの袖で軽く拭うようにしてから、しっかり握り直した。
「せっかくだから、お相手してもらえない?」
 
   4
 
 ギルモアとイワンが一緒で、さらにジェットが一緒の旅行ということになると、そうあからさまにフランソワーズと恋人らしく過ごしまくるわけにはいかない。それにしても滅多にない旅行なのだ。彼女とは、それなりに楽しい思い出を作りたい、とジョーは控えめながら、願っていたのだった。
 で、コレがソレなのかというと、甚だ疑問ではあるのだけれど、考えてみたら、少なくとも、戦い以外の場でこれほど真剣に彼女と向かい合ったことは、ここしばらくなかったのかもしれない。コレはコレでよかったのかもしれないな…とか、そんなことを妙にしみじみ考えながら、ジョーは機敏に台から飛び退き、フランソワーズの鋭いスマッシュを打ち返した。
 フランソワーズは強かった。めちゃくちゃ強かった。彼女に卓球の経験があるかどうかなんて、聞いたことはなかったけれど、とても素人とは思えない。サイボーグになると、こんなにスポーツができるものなのだろうか?考えたこともなかったが。
 もっとも、フランソワーズは視聴覚系を強化されている。その能力については、自分よりも遙かに勝っているはずだ。ということは、卓球に必要なのは、まず鋭い目…ということなのかもしれない。そうかもしれない。自分の攻撃はさっきからことごとく読まれている…ような気がする。スマッシュも、変化球も、フェイント攻撃も、彼女にはまるで効かないのだった。
 たしかに、温泉旅館の遊戯室で卓球…という状況が、ジョーにとって相当不利だった。運動能力自体は言うまでもなくジョーの方が格段に上だが、だからといって、その力をここで出し切ってしまえば、イロイロなものを壊してしまうだろう。下手をすると、フランソワーズまでも。出せるのはせいぜい彼女と互角の力まで、だ。…とすると。
 これは僕が負けるかもしれないな、と、思った。それはそれで仕方ない。それに、こうして力一杯打ち合った上に勝利すれば、彼女の気分もかなり爽快になってくれるかもしれないし。
「……っと!」
 ついに拾い損ねた。こん、こん、と転がるピンポン玉を追いかけ、拾い上げたジョーは、初めて辺りを見回し、思わず声を上げそうになった。
 いつの間にか、新しいギャラリーに取り囲まれていたのだった。
 
 どうなっているんだ?いや、どうもこうもないっ!
 
 ジョーは大慌てで卓球台に駆け戻り、息を弾ませているフランソワーズの手をとった。
「ジョー?」
「もう、部屋に戻ろう…大きいお風呂にも入るんだろう?」
「え……でも」
「戻るんだ、フランソワーズ!」
 つい強い声が出てしまった。フランソワーズの目がふっと曇る。あ、やばい、と思った瞬間、彼女は目をうるませてジョーを見上げた。
「私とでは…やっぱり楽しくないの?」
「…へっ?」
 彼女の視線を何気なくおいかけ、ジョーは座り込みたい気分になった。あの女性たちがまた戻ってきて、ギャラリーに加わっているではないか。
 というか、彼女たちに気づく前に、もっと別のことに気づいてほしいと、ジョーとしては、切に思う。が、そっちについて、フランソワーズは全く頓着していないようだった。フツウは逆じゃないか?と、ジョーは片手で髪をむやみにかき回した。
 固唾をのんで見つめているギャラリーのほとんどは男性だった。彼らが自分に注目しているわけではない、ということぐらい、ジョーにもよくわかっている。ごく僅かな例外がいないとは限らないが、それはどうでもいい。
 もちろん、彼らはこの金髪碧眼の美少女……フランソワーズをひたすら見つめているのだった。
 
 あらためてこっそり彼女をのぞき、ジョーは思わず呻いた。注目されるのも当然かもしれない。
彼女のユカタは、汗を吸ってはんなりなまめかしく、しかも烈しい運動のため、ごく僅か、あるかなきかの感じで着崩れはじめていた。
髪を上げ、惜しげなく見せたミルク色のうなじには、仔猫のうぶ毛のような後れ毛がふわふわ頼りなく揺れている。
裾を少々長目に、しかも裾つぼまりに着ているようなので、さすがにふくらはぎが見えることはなさそうだった。でも、走るたび、スリッパからバラ色の丸い踵が浮き上がって、白い柔らかそうな土踏まずがちらっとのぞいたりするのは、どうにも避けられないだろう。
とにかく、なんというか、もうどうしようもない。これ以上、彼女をココに立たせておくわけにはいかない、断じて。
……が。
 
「……わかったわ」
「フランソワーズ?」
 消え入りそうな声に、ジョーはさらに慌てた。フランソワーズは悄然とうつむいている。なんだかんだ言って、いつもは結構勝ち気で明るい彼女が、見るも無惨にうちしおれてしまっているのだった。そうでなくても細い肩が、ますますはかなく頼りなく見えるにつけ、自分が何かとんでもなく非道なことを彼女に要求しているような気分になってきて、ジョーはひたすらうろたえた。
「あの人たち、あなたをずっと待っているんですもの…ね」
「ええと、あのね、フランソワーズ」
「邪魔するつもりじゃなかったの…ごめんなさい」
「ちょっと、待てよ!」
 ジョーは、駆け出そうとするフランソワーズの手首をつかんだ。
 
このまま行かせてはいけない!でも行かせなければいけないし!
 
 ジョーは混乱していた。生まれてこのかた、もちろんサイボーグになってからも含め、これほど混乱したことはないかもしれない、というぐらい、混乱しきっていた。
 しかし、いつものことであったが、追いつめられたときにこそ、009の能力は天井知らずとなる。混乱の極みに追いやられ、何も考えられなくなった、まさにその瞬間、ジョーはまったく無自覚のうちに、自らの持つ凶悪なまでの最終兵器を発動したのだった。
 彼は、ぐっとフランソワーズを引き寄せ、耳元で囁いた。
「あの子たちに君の代わりができるもんか。このまま終われると思ってるのか、フランソワーズ?……覚悟しろよ」
 はっと顔を上げたフランソワーズは、妖しい光を放つ茶色の瞳にとらえられ、たちまち動けなくなった。
「…ジョー」
「さあ、はじめよう……僕が勝って、終わりだ」
 
   5
 
……だから。
 だから、どうしてこんなに強いんだ、フランソワーズっ!
 
 勝負を挑んでから数分後、ジョーは目がくらみそうな焦燥の中にいた。
 自分がこんなに息が上がっているのだから、フランソワーズが無事なはずない。ないのに、どう打っても、彼女は必ず返してくる。
 はじめは気になったギャラリーのどよめきも、いつの間にかまったく耳に入らなくなっていた。ジョーはひたすらフランソワーズの動きと視線に意識を集中し、打ち続けた。
今度こそ!と絶妙の位置に落としたフェイントも、これはもしかしたらヤバイかも、というくらい力を込めて打ち込んだスマッシュも、ことごとく拾われる。それどころか、少しでも気を緩めると、はっとするような所に打ち込まれてしまう。
 
勝たなければ。終わらせなければ。早く、一刻も早く!
呪文のように心に唱え続けるジョーは、しかしなぜ早く勝たなければならないのか、何を終わらせなければならないのかを半ば忘れていた。
それでも、勝つのは僕だ、という自信だけは、ジョーの中で揺るがなかった。サイボーグの能力など、この際関係ない。とすると根拠のない自信と言えなくもなかったが、自分が敗北する、ということがイメージできない以上、それはありえないことなのだった。
 
突然、ジョーはぎりぎりまで高ぶった神経がふと鎮まるのを感じた。いける、と思った。戦いの中で、こんな瞬間を感じることがたまにある。
すっと目を上げると、視界が急に澄みとおるように鮮明になった。
 
見える!
 
今打ち返したピンポン玉の軌跡。フランソワーズの目の動き、息づかい、流れるようなフォーム。全てがスローモーションのようだ。それだけでなく、次に何がどう動くのかということさえ、ジョーには鮮明に手に取るように理解できた。
 
彼女がココにこう、打ち返してくる。僕はそれをまっすぐ、しかし微妙にスピンをかけながらソコに落とす。それ自体は難なく拾えるはずだが、そのとき彼女の上体はほんの僅か、左にぶれる。その逆をついてスマッシュだ!
完全に虚をつかれた彼女は、慌てて精一杯体を、腕を伸ばして…でも、間に合わない。ピンポン玉は、床に落ちる。僕の勝ちだ!
 
そうしたら、彼女…は、ええと。そのまま勢いあまって倒れる…のか。ケガなんかしないよな。うーん、どこに倒れるんだろう…って、うわ、そこなのかぁっ?
待て、待てよフランソワーズ、そんな所にそんな格好でそんな風に倒れたりしたら……わあ!
だ、だめだだめだっ!ぜったいだめだ、そんなこと〜っ!
 
「うっ、わあああああああああああっ!」
 
 と、実際に叫んだのかどうか、はっきり覚えていないものの、叫びたい気分だったことだけは確かだ。しかし、そんな絶望的な状況の中にあっても、彼はあくまで009だった。最悪の事態を避けるべく、最後の瞬間まで望みを捨てはしなかった。
 ジョーは、ありったけの気力をふりしぼり、恐るべき集中力をもって、009としての全性能を…加速装置を除いて…瞬間的にフル稼働させた。そして、今まさに完璧な計算のもとに完璧に振り抜かん!としていたラケットを一瞬でコントロールしなおしたのだった。
間一髪、中途半端に止まったラケットに、ピンポン玉は、コン、とどこか間抜けな音を立てて当たり、ふらふらと宙に舞い上がった。
予想もしなかったジョーの打ち損じに、フランソワーズは戸惑ったものの、躊躇はしなかった。彼女は、そのまま床に倒れ込んだ彼にかまわず、容赦ないスマッシュを決めた。
 
   6
 
 意識が飛んでいたのは、ほんの数秒だったらしい。程なく駆け寄るフランソワーズの通信に、うっすらと目を開けたジョーは、軽く手を振って彼女を安心させようとした。
「ジョー…大丈夫?どうしたの、あなたが…こんな……」
「う、うん…ちょっと…油断、した」
 何をどう油断したというのだろう?なお怪訝に思いながらも、フランソワーズはさりげなく手を貸してジョーを起き上がらせ、どよめくギャラリーから逃げるように、そそくさと遊戯室を後にした。
ジョーもまた手を貸してもらいながら、素早くさりげなく彼女の着衣状態を点検確認し、これといった乱れがないのにほっと胸をなで下ろしたのだった。
 
 フランソワーズの剣幕におされるようにして、ギルモアはジョーを布団の上に横たわらせ、緊急チェックをおこない、大きな故障は何もないから安心しなさい、とうけあった。
「大きな…って、それじゃ、小さい故障は何かあるんですか?」
 詰め寄らんばかりのフランソワーズにギルモアは苦笑し、宥めるように言った。
「うむ。循環器系が少々バランスを崩しておったな…なに、ほれ、さっき食事前に、002とずいぶん長風呂をしたという話じゃったから、そのせいではないかの?」
「まあ…」
 ジョーはじーっと目を閉じていた。循環器系がバランスを崩しているということは、もちろん、たった今も実感できる。そして、その原因が風呂にあるわけではない、ということもまた、彼には心から実感できるのだった。
 原因は、ひとつ。
 
 フランソワーズは申し訳なさそうにジョーをのぞきこんだ。
「ごめんなさい、ジョー……私、むきになってしまって。ゲームに夢中で、あなたの調子がフツウじゃないことに気づかないなんて、003失格だわ」
「……そんなこと、ないよ」
 ジョーはなるべく元気に見えるようにと願いながら微笑した。
 
 もちろん、君は正しかったんだよ、フランソワーズ。
 僕の調子は、たしかに君から見れば、フツウだったはずだ。異状といえば異状だったのかもしれないけど、その状態が僕のフツウなんだから。
つまり、僕の循環器系がどうにかなってしまう原因は、大抵が君だってことさ。で、その君はいつも僕のそばにいるんだからね。
 
「もう、しないわ」
「……何を?」
「ピンポン」
「どうして?楽しくなかった?」
「そうじゃ、ないけど……」
 うつむくフランソワーズを、熱を帯びたまなざしでじっと見つめながら、ジョーは囁くように言った。
「僕は、楽しかった。そうだな……今度は二人きりになれるところで、しようよ」
 
 で、そんなところがあるものなのか?とか、いやあるとして、実際二人きりになれたときにするコトがそんなコトでホントにいいのか?とかいうような疑問は、言うまでもなく、今こうして見つめ合う二人にとって、およそどうでもいいことなのだった。  
 


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