1
少年は、憎悪に燃える視線を向け、言い放った。
「お前なんかに名乗る必要はない!」
言われてみれば、そのとおりなのだ。
が、思わず言葉を失ったとき、頭上から柔らかい声が降った。
「ええ、必要はないわ。でも、あなたの名前を知りたいの……それだけよ」
「……00、3?」
ふと見上げる009に003は微笑した。
いや、そうではなく、彼女は彼の背後の少年に微笑したのだけれど。
それでも、その微笑は自分に向けられたもののように、009には思えた。
「009、そこから跳べそう?」
「ああ、もちろん」
うなずいてから009は少年を振り返り、もう一度手を差し伸べた。
少年は、ぼんやりとその手を取った。
おとなしくしてくれさえすれば、彼を抱えて飛び上がることなど造作もない。
そっと地面に下ろされると、少年は暗い眼差しで003を見つめ、つぶやくように言った。
「……どうして」
「理由なんてないわ……無事で、よかった」
少年は口を噤んだ。
003も、それ以上何も言わなかった。
2
「結局、わからなかったな」
ちらちらと踊る焚き火の炎を見つめながら、不意に009が口を開いたので、003はただ首を傾げた。
そんな彼女の表情に、わからないのは僕の方だと気づき、009は思わず苦笑した。
「いや…ゴメン。さっきの、あの子の話さ」
「…あの子?」
「ウン。…あの子の、名前。とうとう教えてくれなかったな…と思って」
「そう、ね……考えてみたら、当たり前だったわ。見知らぬ人に名前を教えても、いいことなんてひとつもないもの……そうやって、あの子は生きてきたんだわ」
「そうだね。そう言われてみれば、僕だってそうだったからな」
「……え?」
009は、眩しそうに目を細めて003をちらっと見やり、苦笑いのまま続けた。
「僕に、名前を言えっていう知らない大人は、警察官か、教師か、チンピラか……そんなトコロだったよ」
「…まあ」
「名乗れってことは、宣戦布告みたいなモノさ……そういえば僕もよく言ったっけ。『オマエなんかに名乗る必要はない!』ってね」
「そうなの?」
想像できないわ、という表情で目を丸くしている003の額を軽くつっつき、009は今度は楽しそうに笑った。肩をすくめてくすっと笑い、003はまた首を傾げた。
「でも、私はあなたがそう言うのを聞いたことがないような気がするわ……私たち、初めて会ったとき、どうやってあなたの名前を聞いたのかしら」
「僕は、名乗っていないよ。君たちの方から教えてくれたんじゃないか。『君が009だ』…ってさ」
「…あ!」
「今思えば、あれでよかったんだなあ…そうでなきゃ、いきなり喧嘩になってたかもしれない」
「まあ、まさか!」
ころころ笑い出した003を満足そうに見やると、009は照れ隠しのように棒で火をかき回した。
「あのときは、お互いの呼び名を知る必要があった。ありすぎるほど……でも、僕にとっては初めてだったんだ。『君が必要だ』って言われたのは」
「…ジョー」
003ははっとして、009を見つめた。
いつものように背中を丸め、炎に見入っている彼の眼差しがどこか遠く、ひどく寂しげに見える。
……あのとき。
肩で息をしていたずぶ濡れの少年に、仲間たちは言った。
君は兄弟だ、俺たちを信じてくれ……と。
自分も言った。
009、あなたもこっちにいらっしゃい……と。
そして、白衣の男たちは言った。
そっちに行くな、あいつらをやっつけろ、と。
あのときの009は、もしかしたら、ただ「命令」を嫌っただけだったのかもしれない…と、003はふと思う。
勝手に彼に「009」という名を与え、押しつけて、その役割を果たすように要求したという点では、BGの科学者も自分たちも同じだったのかもしれない。
「君が必要だ」なんて……。
そういう意味ではないはずだった。
自分たちは、彼を……009としての力だけを「必要」として、ただその役目を果たすことだけを求めて、その名を呼んだわけではないはずだった。
……でも。
不意に背中に温かい手のひらを感じ、はっともの思いから覚めた003は、いつのまにか間近にある茶色の瞳にうろたえた。
「……いい?」
「エ…?…あ、あの…」
「何が、なんて聞くなよ?……どうしても聞きたければ言うけど」
「…ジョー…?」
まさか、と思ったときにはぴったりと抱き寄せられ、唇を塞がれていた。
3
ゴメン、と口の中でつぶやき、009は眠る003の体を粗末な毛布でくるみ直すと、そっと膝の上に抱き上げた。
せめて朝までこうしていよう、と思う。
今更、やり直すわけにはいかない。
そんなことはわかっている……が、やっぱり、僕は妬いていたんだな、と009は苦く笑った。
フランソワーズ。
君に名前を聞いてもらいたかった。あの子のように。
僕は必ず、君をはねつけただろうけれど。あの子のように。
でも、きっと、君は。
「必要はないわ。でも、あなたの名前を知りたいの……それだけよ」
そんな風に、始めたかった。
今更やり直すわけにはいかないし、それに、そんな風に始まっていたら、きっとこうして君を手に入れることもなかったはずだ。あの頃の僕に、君がくれたものを素直に受け止めるだけの勇気はなかったから。始まった瞬間、僕はすべてを終わらせてしまっただろう。あの子のように。
それでも……
それでも、フランソワーズ。
僕は、妬ましい。妬ましくてたまらない。
だって、あの子の中には残るだろう。
あなたはあなたであるだけでいいのだと、君がくれた微笑が。
小さいけれど、一生消えない……眩しい光が。
後悔しているわけじゃない。
あの子が手に入れたモノと、僕が手にしているモノ……もし、あのとき選べたとしても、僕はこっちを選んでいるだろう。
僕は、迷わず選ぶ。
ただ島村ジョーであることよりも、003を守り、この腕に抱くことを使命とした、この世でただ1人の男として生きることを。009であることを。
後悔なんかしない。
誰にもこの座を譲り渡しはしない。
その役割こそが、僕の生そのもので構わない。
ただ、妬ましいだけなんだ。
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