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  10   第8章 誘惑
 
 
 
ここで、力を抜いてはいけない。
 
そういう大切なときに限って「限界」が来る。
001は、低く呻きながら拳を叩き付けるようにしてスイッチを切った。
あともう一歩で停戦が実現しそうなところまで漕ぎ着けていたのだが、これでまた振り出しに戻ってしまうだろう。
深く溜息をつく。
 
「フランソワーズ……」
 
001は、眠る003を切なそうに振り返った。
 
「やっぱり、君がいてくれなければ、僕は……」
 
父の研究によると、「母」である彼女を自らの手で殺してしまえば、自分の力は世界を制するのに有り余るものとなるのだという。その理論が正しいとは言い切れなかったが、間違いを見つけることも001にはできなかった。
ということは、間違いはない、ということなのかもしれない。
 
しかし、仮に003を自らの手で殺してしまったら……どうなるか。
001は苦笑した。
 
父さん、あなたは大切なことを忘れていた。
あなたが神を作ろうとした目的は、悪を…戦争をこの世から消し去ることだったのだろう。あなたには、それをやり遂げたいと思う動機があった。十分にあった。あなたは幼い頃、戦争によってかけがえのない人を失い、ささやかな幸福を踏みにじられるという経験をいやというほどしていたのだから。
でも、僕は違う。
 
この世から戦争がなくなったとして。
全ての人々が幸福になれる世界が実現したとして。
でも、僕のフランソワーズはその世界にいないのだとしたら。
 
…わかるかい、父さん?
 
僕は、そんな世界を作りたいとは思わないんだ。
僕にとっては、何のメリットもないことだろう?
 
あなたが自分の全てをかけて…凄まじい犠牲をはらってまで、神を作りたかったのは、要するに自分のささやかな幸福を守りたいという気持ちからだったんだ。
だったら、それは、僕も同じこと。
 
あなたが犠牲にしたのと同じ数の人々が、僕を神とあがめ、感謝を捧げてくれたところで、それには何の意味もない。
あなたにとって彼らの命が何の意味もないものだったのと、同じさ。
 
僕は、フランソワーズを守りたい。
彼女の笑顔を独り占めしたい。
それには、彼女が生きて、そして僕を見て笑ってくれなければいけないんだ。
そうでなければ、僕は……
 
001は眠る003の頬を優しく撫でた。
ここまで、どうにかして、自分の力で彼女の望む世界を作ろうとした。
成功すれば、目ざめた彼女は自分を受け入れ、愛してくれると信じて。
が、それはどうしても適わなかった。
何かが足りない。
その何か、とは何であるのか……001にはもうわかっていた。
 
フランソワーズ、僕を愛して。
僕とひとつのものとなって、僕のために祈って。
僕は、そうやって「神」になりたい。
君の祈りをかなえるためだけに存在する神になりたいんだ。
 
……そのためならば。
 
001は、003の頬を両手でそっと包みながら跪いた。
思いをこめて、その耳に囁く。
 
「そのためならば……僕が、イワン・ウイスキーでなくなることなんて……本当に、なんでもないことだよ」
 
 
 
ふっと目が開いた。
 
見知らぬ部屋にひとりで寝かされていることに気づき、フランソワーズは、ぼんやりつぶやいた。
 
「ここは……どこ?」
 
咄嗟に眼と耳を使う……が、何もとらえられない。
何か、研究室のような場所であることはわかるのだが、サイボーグたちのメンテナンスルームではないし、ガモ博士の研究室とも……そこまで思い出して、フランソワーズははっと飛び起きた。
 
「イワン!……イワンは?!……ジョー!」
 
思わず叫んでいた。
記憶がみるみる蘇る。
 
「落ち着いて、フランソワーズ!」
 
不意に後ろから抱きしめられ、フランソワーズは身を堅くした。
が、その柔らかく深い声は……
 
「……ジョー?」
「ああ。…大丈夫。全て終わったよ。何も心配はいらない」
「終わ…った…?」
 
フランソワーズは不安げに辺りを見回し、それから自分を優しく見下ろしている茶色の瞳に訴えた。
 
「でも、イワンがいないわ!……イワンはどうなったの?」
「フランソワーズ」
 
ジョーの目に微かに寂しげな陰がよぎった。
が、彼は微笑したまま首を振った。
 
「イワンは、もういない」
「…え」
「大丈夫。そのことはもう気にしなくていいんだ」
「何を…言うの?どういうこと?…イヤ、離して、ジョー!」
「おとなしくして…頼むよ、フランソワーズ。心配はいらない。さあ、僕を見て……君は、いつも僕を信じてくれるだろう?」
「ジョー……でも」
「僕を見て。……フランソワーズ」
「…え…ジョー?…ア!」
 
――愛している。
 
囁いているのか、脳波通信なのか、それとも別の何かなのか、わからない。
ただひたすら、愛している、と繰り返す彼の熱い声が、心に直接溶けこんでいくようだった。
 
――僕を見て。僕を感じて。僕を愛して。いつものように。
 
「待って、ジョー……駄目よ、教えて。イワンはどうしたの?もういないって…どういう…ンっ…!」
 
むさぼるように唇を求められ、そのまま押し倒されて、フランソワーズは言葉を失った。
続く執拗な愛撫に、次第に頭の芯がぼうっと甘くかすんでいく。
 
「すごく…可愛いよ、フランソワーズ……もっと感じて。ほら……」
「ア…ああっ、……ジョー…!」
「そうだ、それでいい…その声で、もっと僕を呼んで。僕を見て。僕だけを感じて…」
「や…イヤ……だめ…っ!」
「もう、こんなに…なってるのに……何が駄目なんだい…?」
 
からかうような言葉とともに熱い指でかき乱され、フランソワーズは思わず切ない喘ぎ声を漏らした。
 
「君は、僕のものだ、フランソワーズ……永遠に、僕だけの…」
「……ジョー」
「このまま……ずっと二人でいよう。ここで、いつまでも……!」
「…っ!待って、ア……ああ…っ!」
「フランソワーズ…!」
「おね…がい、教えて……イワン、は…」
「その名を呼ぶな!」
 
彼は半ば悲鳴のように叫ぶと、もがくフランソワーズの華奢な腰を強引に引き寄せ、一気に貫いた。
 
「――…っ!」
「愛している……愛しているんだ……ああ、フランソワーズ…!僕は、君だけいてくれればいい…君だって……そうだろう?」
「…ちが…っ…ジョー……や、め……ア…ああっ、ジョー…!」
「そう、そうだよ…感じて…もっと……!わかるだろう…?…僕だ、フランソワーズ…愛している…僕の、フランソワーズ…!」
「ア…ジョー……ジョー…!」
 
熱にうかされたように、ただ繰り返しジョー、と呼び続けるフランソワーズを烈しく揺さぶり、責め立てながら、彼は心で叫んだ。
 
――堕ちろ!
 
無数の白い羽が舞い散る幻影を見た……ような気がした。
小さく痙攣しながら鋭く細い声を上げ、やがてぐったりと力を失った彼女を抱きしめ、彼はやさしくその汗ばんだ額に口づけた。
 
「いい子だ…すてきだったよ……僕の、フランソワーズ」
 
 
 
「……フランソワーズ、どうして…?」
 
眠る003の手を両手でそっと握り、跪く。
 
「どうして、君は目を覚ましてくれないんだ…?何も恐れることはないのに…君はもう何度も…僕を、受け入れてくれたのに…なのに、どうして…!」
 
001は彼女の手を握りしめたまま、目を閉じた。
そして。
やがて、ゆっくりと開かれた目は青から茶色に変わっていた。
 
「わかるよね…?僕は…009。島村ジョー。君の心がこの世でただ一人受け入れる男だ。君の望みは全てここにある……お願いだ、目を覚ましてくれ、フランソワーズ!目を覚まして…僕に笑いかけて。僕を抱きしめて。僕を……」
 
僕を、愛して。
いつも君が…彼に、そうしていたように。
 
「今夜こそ…君を、つかまえる……!」
 
囁きながら001は……009の姿になった001は、眠る003の額に自分の額をそっと押しつけた。
やがて、そこからぼうっと浮かび上がった淡い光が、少しずつ彼女の体を包み込んでいく。
 
「…フランソワーズ……!」
 
001はありったけの思いをこめて、囁き続けた。
 
僕を愛して。
僕を見て。
 
…わかる?
僕は、イワン・ウイスキーではない。
 
そんなモノはもうこの世に存在しない。
君が全てを統べるこの世には。
 
僕は、君の愛を受ける唯一の男。
それこそが、神の証。
 
――僕は、島村ジョーだ。
 


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