1
初めて彼女の腕に抱かれたとき…僕は、全てを忘れてしまった。
それまで微かに感じていた罪悪感も…「あの男」が何かを企んでいるようだ、ということも。
僕は、有頂天になっていたのだ。
科学者たちは、003が僕の情緒を安定させ…僕が能力を格段に上げつつ、その力を正確に制御できるようにもなった、ということを無邪気に喜んでいた。
やはり「母親」が必要だったのか、と感慨深げに語り合っていた。
誰も気づかなかったのだ……あの男の意図に。
僕自身さえも。
どうして、あのまま気づかずにいられなかったのだろう。
僕は、永遠に彼女の腕に抱かれることを望んだのでは…なかったのか?
2
「まとめてみよう…つまり、ガモ博士の目的は…001を『神』にすることじゃった」
ギルモアは沈痛な面持ちで言った。
「そのために必要だったのは、まず001の『能力』そのものの引き上げと…リクツはもうひとつわからんが、ヒトとしての父母を殺すことだった…と、いうことかの」
「たぶん、そうですね…あの『壁』は、彼の力が十分なものになれば感知できるように作られていた…ガモ博士の研究は、要するに『壁』の完成度を上げ、001を待つことだったんだ」
「そうして、博士はいつか自分が息子に殺される日を夢見ていたアルか?…狂ってるアルよ」
「…だが、もうひとつ問題があった。001には…」
「『母』がいない…だから、『母』を作る必要があった。彼に、殺されるための」
「それが、003の役割…だったのか?ギルモア博士、まさか…」
「馬鹿な…!そんな計画はドコにもなかった!…じゃが、たしかに003は…その…ブラック・ゴーストの実験体としてさらわれた者としては、かなり異例ではあった…つまり…」
「なるほど。そういえば彼女だけは、別に『はみ出し者』ってわけじゃなかったよな…俺たちと違って」
002のあざけるような声音に、ギルモアは思わず目を閉じ、うつむいた。
気まずい沈黙を008が静かに破った。
「001は…どこまでガモ博士の計画を知っていたのだろう?…もし003が彼の母親として選ばれ、さらわれたのだとしたら…少なくとも、彼女をそうやって『探し出す』ことができたのは001だけのはずだ」
「…そいつはわからねえな。001は、少なくともあの部屋に入るまでは…何も知らないように見えたが…どう思う、009?」
「…あのとき」
009は重い口を開いた。
「彼女が、ガモ博士に刺されて倒れたときから、何かが変わったような気がする。あの瞬間、すさまじい『怒り』を感じた。僕も、その中に巻き込まれ、流されてしまったと…思う。実際に001に異常が現れたのは、それより後…誤って、彼の力で彼女を傷つけてしまったとき…だったけれど」
「…うむ」
「その『怒り』の中で、アイツは結局父親を憎み、殺し…姿を変えたってことか…そして、同じように母親を殺せば…」
「完全な神に、なる…っていうのか?」
「そんなこと、とても信じられないね…ああ、心配アル。003は…無事でいるアルやろか…?」
「ああ。たぶん、まだ大丈夫だろうよ」
004は新聞を無造作に広げると、中東での大規模な紛争を報じた記事を指で示した。
「少なくとも、偉大なる完全な神とやらが見そなわす世界で、こんな事が日常茶飯事に起きたりは…しないだろうからな…ありがたいことに、だ」
3
君は…本当に、僕の「母」なのだろうか?
僕は、君を殺さなければならないのだろうか?
あの男は、僕に囁いた。
お前に、母を取り戻してやろう…と。
だが、再び失うために取り戻すのだとは、明かさなかった。
僕も、彼の本当の意図に気づかなかった。
だから僕は、世界中に思念を飛ばして「探し」…そして、君を見つけた。
それは、楽しい…わくわくするような冒険だった。
それが君にとってどういうことを意味するのか…考えもしないで。
そうだ、僕はそれを考えなかった。
さらわれた君の絶望と悲しみを感じ取るまでは。
それだけじゃない。
僕は、忘れたんだ。
君に初めて抱かれた、あのとき。
息がつまるような幸福感に我を忘れた僕は…全てを忘れてしまった。
自分が、何者であるかということも。
もしかしたら、あのとき、僕はもう一度「生まれた」のかもしれない。
少年は、死んだように眠る003に両手をかざすと、目を閉じた。
柔らかな光が少しずつ彼女を包みこんでゆく。
「君を殺すことはできない…でも、僕はなすべきことをしなければならない」
つぶやいた少年がぱっと目を見開くと…光とともに003の姿は消えていた。
4
――また、溜息ついた。フランソワーズ。
「…え?」
途端に、彼女の鼓動が早くなり、柔らかい頬が濃い色に染まる。
かわいいなあ…とふと思う。
――あんなこと言ってたけど、ジョーは君のことが一番大切なんだよ。僕が言うんだから、間違いないだろう?
「…まあ。イワン…」
――彼は、今おそろしく不機嫌だ。自分が君を悲しませていることも、君が僕を抱いて心を慰めていることも、ものすごく気にくわないと思ってる。いつものワガママだよ。気にしないことだね。
「イワンは…本当にオトナなのね…ごめんなさい、心配させてしまって」
――心配しているんじゃない…よ。
そうとも。
僕は、いつでも心配なんかしていなかった。
本当をいうと、彼が君を悲しませるたびに、あんなヤツさっさと見限ればいいのになあ…ぐらいに思っていたんだ。
ついでにいうと、問題はそういう彼じゃなくて…そういう彼を見限ることのできない君の方だとも思った。
君たちはいつも愚かだった。
つまり、それが「恋」というものらしいと、僕は理解していったのだけど。
君は、009に恋している。
009も、君に恋している。
ならば、君たちが愚かだからといって、僕が何を心配する必要があるだろう?
009は君にいつも優しかったわけではない。
そんなとき、君の胸は僕を抱きながら…寂しい、寂しいとうたっていた。
寂しい君の胸に抱かれて、僕も少し寂しかった。
わかってる。
僕も、愚かだったんだ…いつも。
フランソワーズ。
僕は、たぶん君に恋していた。
君に恋した僕は、いとも簡単に「母」を忘れ、父を忘れ、宿命を忘れ……自由を夢見た。
そして、あの島を去ったのだ。
君たちとともに。
君たち…そう、009もともに。
あの日、彼の心を「仲間」に引き寄せたのは僕だった。
今にして思えば、それは、僕の唯一、でも取り返しのつかない過ちだった。
僕が初めての恋を恋と知るより前に、君は彼に惹かれてしまった。
彼に恋する愚かな君。
愚かな…でも、幸福な君。
そして、愚かな僕も、そんな君の腕に抱かれ、幸福だった。
どうしてあのままいられなかったのだろう。
僕は、愚かなままでいたかった。
愚かな君たちの傍らで眠る…全てを忘れた愚かな僕。
それでよかった。
つまり、「恋」とはそういうものなのだから。
でも、僕は思い出してしまった。
そして、気づいてしまった。
あの男の意図に。
5
僕が、すぐにあの男を消そうとしたのは、思い出した僕の真実を、君にだけは知られたくなかったから。
そして、全てを思い出しても、あの男を消しても、僕は変わらないでいられるという自信が、あのときはあったから。
だって、あの男は…僕の父ではない。
そして、君も僕の母ではない。
そう思っていたんだ。
僕は、本当は…何を間違えたのだろう?
それでも、僕はなすべきことをする。
これまで犠牲にしてきた全てのために。
君の望んだ世界を君のためにつくる力が、僕にはきっとある。
目ざめた君が…全てを知った君が、それでも僕を優しく抱きしめてくれるように。
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