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発展編


  2   溜息(Side F)
 
 
どうして、あんな夢を見たのかしら…?
 
事件がすっかり片づいてからも、私は時々考えた。
 
古代エジプトの悲劇。
幼い王と王妃の物語。
 
ツタンカーメンとアンケセナーメンについても調べてみた。
胸が痛いような…それでいて、どこか暖かいような…
不思議な気持ちだった。
 
もしかしたら…少し、私たちと似ていたのかもしれない。
 
運命の出逢い。
そういえば、素敵だけど…つまりは、逆らえない大きな力に流されていっただけのこと。
それでも…そこにはお互いしかいなかったから。
 
二人、寄り添うように戦った。戦うしかなかった。
巨大で残酷な何かと…死にものぐるいで。
 
そして…彼は薨れた。
 
 
 
私の前には、静けさだけがあった。
ひややかな大理石の床。
 
いやよ。
進みたくない。
 
でも…進むしかなかった。
 
私は両手で握りしめた花束を胸に押し付け、部屋の中央へ歩いた。
 
いや。
見たくないの。
こんなの、嘘よ。
嘘だもの。
 
約束したでしょう?
 
私たち、決して負けない…と。
私を最後まで守ると…あなたは約束してくれた。
 
…私だって。
 
口にしたことはなかった。
きっと、あなたは困った顔をすると思ったから。
でも、いつも心に思っていた。
祈っていた。
 
ただひとつの、私の願い。
 
あなたを、守りたい。
 
それが…ただひとつの、私の……
 
 
棺の中で、あなたは眠っている。
なんて安らかな…静かな眠り。
 
 
わかっているよ、フランソワーズ。
 
 
優しい声。
 
 
わかっているから。
君は、ちゃんと僕を守ってくれた。
だから…もう泣かないで。
 
君が守ってくれたから…僕はこうして静かに眠れるんだ。
君の愛を胸に…僕は永遠に生き続ける。
 
 
「…ええ、オシリス。私たちは…もう二度と苦しまない。」
 
…でも。
 
彼の胸に花束を捧げ、私はその場に崩れ落ちた。
 
永遠の命なんてほしくない。
私は…今はただ、この花になりたい。
いつまでも、あなたに寄り添っていたい。
 
 
「…っ!」
 
飛び起きていた。
 
震える指で濡れた頬を探る。
…まただわ。
 
どうして、こんな…夢を。
 
私はベッドを降り、そっとカーテンを開けた。
まだ薄暗い。
 
今日もまた図書館にこもることになる。
少しでも眠らなければならないのに…
 
どうしたというの…私。
 
 
 
たしかに、雲をつかむような調査だった。
でも…ギルモア博士も、ジョーも少しも迷わず、作業に没頭している。
 
こういうときは、理屈ではない。
一種の勘…みたいなもの。
私の中にも、予感があった。
今やらなければならない…と。
 
それなのに。
 
集中できない。
どこか頭の隅がぼんやりしていて。
 
寝不足のせい…かもしれない。
いえ…もしかしたら。
 
私は、真剣に資料を繰るジョーを何度も見やった。
彼は、気づかない。
 
…あ。
 
唇を噛んだ。
 
いけない。
また…溜息をついてしまったわ。
 
ジョーは、溜息に敏感だ。
もとはといえば、私がいけなかったらしい。
初めてであったころ、何度となく溜息をつく彼が心配になって…
それに彼が気づいて。
 
日本人だって、むやみに溜息ばかりつくことは嫌うんだってこと…そのうちわかってきた。
それでも、私の感覚に比べたら、それほどではないように思う。
日本では…特に男の人は、憂いに沈む人の方が、陽気な人より好感を持たれることもあるらしいわね。
 
ちょっと失敗したなあ、と、今では思う。
でも…そんな小さな行き違いが、あの頃の私たちにはたくさんあった。
 
…いえ。
今だって…行き違いなら…それなりに。
 
「大丈夫か、フランソワーズ?」
 
少し厳しい声に、私はハッと息を呑んだ。
いけない…!
また溜息ついちゃったんだわ。
 
ジョーは少し怒ったような…とても心配そうな目で私を見つめている。
私はちょっと慌てた。
 
「なんだかすごく疲れているようだけど…今日は、これでやめようか?」
 
…やっぱり。
 
私は急いで笑顔を作り、首を振った。
こんなことでごまかせるとは思わなかったけど…
でも、とりあえず。
 
「…大丈夫よ、ごめんなさい」
 
ジョーは返事をしない。
あの何もかも見通すような強い眼差しでじっと見つめるだけ。
時々、怖くなることがある。
もしかしたら、この人には全部わかってしまうのかもしれない。
私のささやかな隠し事も。
小さな偽りも。
 
不意に、あの夢が蘇った。
冷たい、大理石の感触。
 
私は微かに身震いした。
 
ダメ…!
夢なのよ、これは。
 
夢…なんだから。
 
 
小さく深呼吸した。
唇に微笑みを浮かべて…楽しそうに話してみる。
 
寝不足なの。
変な夢を見て…ヘンなの。
 
だってね、私がアンケセナーメンになって、夫の…アナタの。
 
…棺。
 
背筋に氷の感触。
 
違うわ!
夢だもの…ただの夢よ。
おかしいわね…おかしくない?
アナタが私の夫なの。
私たち、結婚してるのよ…おかしいでしょう…?
 
自分が何を言っているのかよくわからない。
頬が熱くなる。
 
一生懸命笑った。
涙がこみ上げそうになるのを押さえつけて。
 
泣いたらダメよ…夢なんだもの。
なんておかしな夢…だって、そんなこと、ありえない。
 
あの花束を握りしめた感触が蘇る。
 
…いや!
 
少しでも言葉を緩めると、喉の奥から叫びが迸りそうになる。
私はとぎれとぎれに弁解めいた言葉を紡ぎながら、机の下でぎゅっと両手を握りしめ、うつむいた。
 
「花…花だって?!」
 
彼の強い声が、突然私の思考を断ち切った。
辺りの空気が軽くなる。
 
私は顔を上げた。
急に視界が明瞭になった気がした。
 
茶色の瞳。
澄んだ、強い光。
 
「花だ!」
 
ジョーは、私から資料を取り上げ、慌ただしくページをめくると、博士と顔を見合わせた。
 
出口が見つかった。
 
そう、直感した。
 
 
 
叱られる…って、すぐに思った。
あなたが、厳しい顔で私の部屋を訪ねてきたとき。
 
思ったとおり、あなたは私を諭し始めた。
 
自分を大事にしてほしい。
苦しいときは苦しいと言ってくれ。
僕にはわからないのだから。
 
ガマンしないでほしい。
君に、倒れられたら……
 
あなたはふっと口を噤んだ。
同時に、冷たく暗いものが私たちの上に降った気がした。
…まさか。
 
あなたも…あなたも、感じているの…?
あの…夢。
 
いいえ。
夢じゃない…きっと。
あなたもそれを感じるなら…見たというのなら。
 
 
不意に両肩をつかまれた。
澄んだ目が私を覗いている。
顔を上げられない。
怖くて……怖くて。
 
やがて。
あなたは静かに言った。
 
「フランソワーズ…わかってくれたかい?」
 
…どうしよう。
どうしたらいいの。
 
いやよ。
わかりたくなんかない。
でも…
 
でも、あなたがそれを望むなら。
あなたが…そうしろと言うのなら。
 
私は、心を決めた。
ちゃんと、聞こう。
それが私たちのさだめなら…彼の口から、はっきりと。
 
それでも、声が…震える。
 
「…それだけ?」
 
やっと…言えたのはそれだけだった。
…でも。
 
ジョーは、不思議そうに私を見ている。
 
…あ。
 
かあっと頬に血が上った。
 
やだ…私ったら。
一人で…ぐるぐる考えて…考えすぎて。
 
でも…怖かったの。
怖くてたまらない。
あの夢…どうして私はあんな夢を…
 
一生懸命笑顔を作りながら、私は首を振った。
 
「…ううん…ごめんなさい…わかったわ」
「フランソワーズ…?何か…あるのか?」
 
彼が、あの視線で私を見ている。
何もかも見抜いてしまう透明な視線。
 
ダメ。
見ないで。
見せない…見せないわ。
 
これは夢だもの。
私の夢。
私だけの。
 
どんなに苦しくても、この心の中に閉じこめておけるなら…それで構わない。
閉じこめてあるかぎり、夢は夢のままだもの。
 
彼の厳しい声が私を責める。
 
ダメよ。ダメ。
叱られたって…嫌われたっていい。
あなたには、教えない。
 
やがて…彼は根負けしたように立上がった。
ふっと肩の力が抜ける。
 
次の瞬間、ベッドに突き倒されていた。
思わず上げかけた叫びを、彼の唇が塞いだ。
 
 
 
どうして、あんな夢を見たのか…今でもわからない。
 
事件が解決してから、あの夢を見ることは二度となかった。
そして、私の傍らにはあなたがいて。
 
あれから、ジョーは毎晩のように私を抱きしめて眠ってくれる。
夢を見なくなったのは、そのせいなのかもしれない。
 
あなたには…わかっていたのかしら。
わかっていたのかもしれない。
…不思議な人。
 
 
私は、あなたを守れるかしら?
せめて、あの花束と同じくらいに。
 
私の予感は、否、と言っている。
愛する人の棺の前にひざまずく幼い王妃。
悲しい、無力な少女。
あれが、きっと私。
 
…それでも。
 
「…また、溜息ついた」
 
心配そうな声に私はあ、と顔を上げた。
 
「…ほんと?」
「うん…そうだ、フランソワーズ、ちょっと出かけないか?」
「気分転換に?…でも大丈夫よ…それに、夕ご飯の支度しなくちゃ」
 
ジョーはちょっと眉を顰めて首を振った。
 
「いいよ、そしたら博士とイワンは張々湖大人の店に送っていって…それで、帰りに拾うことにして」
「…でも」
「ニュースで見ただろう?湾岸に新しい橋ができて…すごくキレイなライティングなんだって。見に行こうよ」
「…でも」
 
いいから、とジョーは私の手をぎゅっと握って、ぐいぐい引っ張っていく。
 
ほんとに…いいのに。
 
私は…ただ、あなたがいてくれればいいの。
いつも、それだけでいいのよ。
 
どんなことも私を本当に苦しめることなんてできないわ。
そうね、せいぜい小さい溜息をつかせることぐらいしか。
 
だって、あなたがいてくれるから。
 
誰よりも優しくて…強くて、辛抱強くて。
そして、正しい心で私たちの行く手を照らすあなた。
あなたを、守りたい。
 
いつもそれだけが、私の願い。
 
 


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