1
どうして、あんな夢を見たのかしら…?
事件がすっかり片づいてからも、私は時々考えた。
古代エジプトの悲劇。
幼い王と王妃の物語。
ツタンカーメンとアンケセナーメンについても調べてみた。
胸が痛いような…それでいて、どこか暖かいような…
不思議な気持ちだった。
もしかしたら…少し、私たちと似ていたのかもしれない。
運命の出逢い。
そういえば、素敵だけど…つまりは、逆らえない大きな力に流されていっただけのこと。
それでも…そこにはお互いしかいなかったから。
二人、寄り添うように戦った。戦うしかなかった。
巨大で残酷な何かと…死にものぐるいで。
そして…彼は薨れた。
2
私の前には、静けさだけがあった。
ひややかな大理石の床。
いやよ。
進みたくない。
でも…進むしかなかった。
私は両手で握りしめた花束を胸に押し付け、部屋の中央へ歩いた。
いや。
見たくないの。
こんなの、嘘よ。
嘘だもの。
約束したでしょう?
私たち、決して負けない…と。
私を最後まで守ると…あなたは約束してくれた。
…私だって。
口にしたことはなかった。
きっと、あなたは困った顔をすると思ったから。
でも、いつも心に思っていた。
祈っていた。
ただひとつの、私の願い。
あなたを、守りたい。
それが…ただひとつの、私の……
棺の中で、あなたは眠っている。
なんて安らかな…静かな眠り。
わかっているよ、フランソワーズ。
優しい声。
わかっているから。
君は、ちゃんと僕を守ってくれた。
だから…もう泣かないで。
君が守ってくれたから…僕はこうして静かに眠れるんだ。
君の愛を胸に…僕は永遠に生き続ける。
「…ええ、オシリス。私たちは…もう二度と苦しまない。」
…でも。
彼の胸に花束を捧げ、私はその場に崩れ落ちた。
永遠の命なんてほしくない。
私は…今はただ、この花になりたい。
いつまでも、あなたに寄り添っていたい。
「…っ!」
飛び起きていた。
震える指で濡れた頬を探る。
…まただわ。
どうして、こんな…夢を。
私はベッドを降り、そっとカーテンを開けた。
まだ薄暗い。
今日もまた図書館にこもることになる。
少しでも眠らなければならないのに…
どうしたというの…私。
3
たしかに、雲をつかむような調査だった。
でも…ギルモア博士も、ジョーも少しも迷わず、作業に没頭している。
こういうときは、理屈ではない。
一種の勘…みたいなもの。
私の中にも、予感があった。
今やらなければならない…と。
それなのに。
集中できない。
どこか頭の隅がぼんやりしていて。
寝不足のせい…かもしれない。
いえ…もしかしたら。
私は、真剣に資料を繰るジョーを何度も見やった。
彼は、気づかない。
…あ。
唇を噛んだ。
いけない。
また…溜息をついてしまったわ。
ジョーは、溜息に敏感だ。
もとはといえば、私がいけなかったらしい。
初めてであったころ、何度となく溜息をつく彼が心配になって…
それに彼が気づいて。
日本人だって、むやみに溜息ばかりつくことは嫌うんだってこと…そのうちわかってきた。
それでも、私の感覚に比べたら、それほどではないように思う。
日本では…特に男の人は、憂いに沈む人の方が、陽気な人より好感を持たれることもあるらしいわね。
ちょっと失敗したなあ、と、今では思う。
でも…そんな小さな行き違いが、あの頃の私たちにはたくさんあった。
…いえ。
今だって…行き違いなら…それなりに。
「大丈夫か、フランソワーズ?」
少し厳しい声に、私はハッと息を呑んだ。
いけない…!
また溜息ついちゃったんだわ。
ジョーは少し怒ったような…とても心配そうな目で私を見つめている。
私はちょっと慌てた。
「なんだかすごく疲れているようだけど…今日は、これでやめようか?」
…やっぱり。
私は急いで笑顔を作り、首を振った。
こんなことでごまかせるとは思わなかったけど…
でも、とりあえず。
「…大丈夫よ、ごめんなさい」
ジョーは返事をしない。
あの何もかも見通すような強い眼差しでじっと見つめるだけ。
時々、怖くなることがある。
もしかしたら、この人には全部わかってしまうのかもしれない。
私のささやかな隠し事も。
小さな偽りも。
不意に、あの夢が蘇った。
冷たい、大理石の感触。
私は微かに身震いした。
ダメ…!
夢なのよ、これは。
夢…なんだから。
小さく深呼吸した。
唇に微笑みを浮かべて…楽しそうに話してみる。
寝不足なの。
変な夢を見て…ヘンなの。
だってね、私がアンケセナーメンになって、夫の…アナタの。
…棺。
背筋に氷の感触。
違うわ!
夢だもの…ただの夢よ。
おかしいわね…おかしくない?
アナタが私の夫なの。
私たち、結婚してるのよ…おかしいでしょう…?
自分が何を言っているのかよくわからない。
頬が熱くなる。
一生懸命笑った。
涙がこみ上げそうになるのを押さえつけて。
泣いたらダメよ…夢なんだもの。
なんておかしな夢…だって、そんなこと、ありえない。
あの花束を握りしめた感触が蘇る。
…いや!
少しでも言葉を緩めると、喉の奥から叫びが迸りそうになる。
私はとぎれとぎれに弁解めいた言葉を紡ぎながら、机の下でぎゅっと両手を握りしめ、うつむいた。
「花…花だって?!」
彼の強い声が、突然私の思考を断ち切った。
辺りの空気が軽くなる。
私は顔を上げた。
急に視界が明瞭になった気がした。
茶色の瞳。
澄んだ、強い光。
「花だ!」
ジョーは、私から資料を取り上げ、慌ただしくページをめくると、博士と顔を見合わせた。
出口が見つかった。
そう、直感した。
4
叱られる…って、すぐに思った。
あなたが、厳しい顔で私の部屋を訪ねてきたとき。
思ったとおり、あなたは私を諭し始めた。
自分を大事にしてほしい。
苦しいときは苦しいと言ってくれ。
僕にはわからないのだから。
ガマンしないでほしい。
君に、倒れられたら……
あなたはふっと口を噤んだ。
同時に、冷たく暗いものが私たちの上に降った気がした。
…まさか。
あなたも…あなたも、感じているの…?
あの…夢。
いいえ。
夢じゃない…きっと。
あなたもそれを感じるなら…見たというのなら。
不意に両肩をつかまれた。
澄んだ目が私を覗いている。
顔を上げられない。
怖くて……怖くて。
やがて。
あなたは静かに言った。
「フランソワーズ…わかってくれたかい?」
…どうしよう。
どうしたらいいの。
いやよ。
わかりたくなんかない。
でも…
でも、あなたがそれを望むなら。
あなたが…そうしろと言うのなら。
私は、心を決めた。
ちゃんと、聞こう。
それが私たちのさだめなら…彼の口から、はっきりと。
それでも、声が…震える。
「…それだけ?」
やっと…言えたのはそれだけだった。
…でも。
ジョーは、不思議そうに私を見ている。
…あ。
かあっと頬に血が上った。
やだ…私ったら。
一人で…ぐるぐる考えて…考えすぎて。
でも…怖かったの。
怖くてたまらない。
あの夢…どうして私はあんな夢を…
一生懸命笑顔を作りながら、私は首を振った。
「…ううん…ごめんなさい…わかったわ」
「フランソワーズ…?何か…あるのか?」
彼が、あの視線で私を見ている。
何もかも見抜いてしまう透明な視線。
ダメ。
見ないで。
見せない…見せないわ。
これは夢だもの。
私の夢。
私だけの。
どんなに苦しくても、この心の中に閉じこめておけるなら…それで構わない。
閉じこめてあるかぎり、夢は夢のままだもの。
彼の厳しい声が私を責める。
ダメよ。ダメ。
叱られたって…嫌われたっていい。
あなたには、教えない。
やがて…彼は根負けしたように立上がった。
ふっと肩の力が抜ける。
次の瞬間、ベッドに突き倒されていた。
思わず上げかけた叫びを、彼の唇が塞いだ。
5
どうして、あんな夢を見たのか…今でもわからない。
事件が解決してから、あの夢を見ることは二度となかった。
そして、私の傍らにはあなたがいて。
あれから、ジョーは毎晩のように私を抱きしめて眠ってくれる。
夢を見なくなったのは、そのせいなのかもしれない。
あなたには…わかっていたのかしら。
わかっていたのかもしれない。
…不思議な人。
私は、あなたを守れるかしら?
せめて、あの花束と同じくらいに。
私の予感は、否、と言っている。
愛する人の棺の前にひざまずく幼い王妃。
悲しい、無力な少女。
あれが、きっと私。
…それでも。
「…また、溜息ついた」
心配そうな声に私はあ、と顔を上げた。
「…ほんと?」
「うん…そうだ、フランソワーズ、ちょっと出かけないか?」
「気分転換に?…でも大丈夫よ…それに、夕ご飯の支度しなくちゃ」
ジョーはちょっと眉を顰めて首を振った。
「いいよ、そしたら博士とイワンは張々湖大人の店に送っていって…それで、帰りに拾うことにして」
「…でも」
「ニュースで見ただろう?湾岸に新しい橋ができて…すごくキレイなライティングなんだって。見に行こうよ」
「…でも」
いいから、とジョーは私の手をぎゅっと握って、ぐいぐい引っ張っていく。
ほんとに…いいのに。
私は…ただ、あなたがいてくれればいいの。
いつも、それだけでいいのよ。
どんなことも私を本当に苦しめることなんてできないわ。
そうね、せいぜい小さい溜息をつかせることぐらいしか。
だって、あなたがいてくれるから。
誰よりも優しくて…強くて、辛抱強くて。
そして、正しい心で私たちの行く手を照らすあなた。
あなたを、守りたい。
いつもそれだけが、私の願い。
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