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発展編


  7   初恋(原作)
 
 
無駄だからやめておけ、と誰もが言った。
 
ある人はからかうように。
ある人は真顔で。
 
でも、やめておけ、と言われてやめられるものではもちろんなく。
僕は、何の望みもないことを十分承知で、それでもあの人から目を離せないでいた。
 
それは、僕の初めての恋だった。
 
 
 
その人の名はフランソワーズ。
ごくありふれた名前だ。
 
年は…よくわからない。
でも、僕より上なのは確かで。
 
踊りのテクニックといい表現といい、凄く上手な人だと思うんだけど…なぜか、公演には出ない。
何か事情があるらしくて。
先生たちもそれは承知らしい。
 
いつ、どんなきっかけで好きになってしまったのかわからない。
ほとんど言葉も交わしたことがない彼女を、僕は遠くから見ているだけだった。
そんな僕に気づいた先輩たちは、口々にやめておけ、と言った。
 
こういうことで後輩をからかうのはよくあることだけど…
でも、彼らの表情には、何か別の悲しげなものがあった…ように、今では思う。
 
稽古場の外で彼女を見たのは、彼女が気になり始めてしばらくしてからだった。
彼女がパン屋でアルバイトをしているところを偶然見つけた。
で、そのパン屋にはちょうど求人募集の貼り紙がしてあって。
僕は、後先も考えずにその店に入った。
 
一緒に働いてみると、いろいろなことがわかった。
 
彼女は、とても気さくて、親切で、優しい人だった。
すごくお姉さんっぽく見えるのに、ときたま小さい女の子みたいにはしゃいだり。
稽古場ではあまり聞けなかった声も、とても柔らかくて温かい響きで。
 
彼女を目当てにやってくる客も多かったと思う。
でも、嫌な感じはしなかった。
みんな、彼女となんでもない言葉を交わして、彼女の笑顔を見るのを楽しみにしていた。
 
僕も、それだけでいいと思っていたんだ。
それだけで…十分心は温かくなったから。
もしあのまま何も知らなかったら…彼女を自分のものにしたい、なんて、きっと思わなかった。
 
 
 
あの日、図書館からの帰りに…雨に降られた。
傘を持っていなかった僕は、ずぶぬれになりながらひたすら走っていた。
地下鉄の駅へ、あと少し、というところで。
聞き慣れた柔らかい声が僕を呼び止めた。
 
「エリック…!」
 
あの人の声でなかったら、振り向かなかったかもしれない。
だって、駅はもう目の前だったから。
 
立ち止まった僕に、彼女は足早に近づき、傘をさしかけてくれた。
 
「あ…ありがとう」
「どうしたの、こんなに濡れて…」
「え、ええと…図書館に…大丈夫、もうこれで帰るから」
「帰るって、地下鉄で?ダメよ、風邪を引いてしまうわ…」
 
彼女は少し考えて…僕の腕を引っ張った。
 
「え?な、なに、フランソワーズ?」
「うちで服を乾かしていきなさい…シャワーも浴びて」
「う、うち…って…君のうち?」
「ええ…すぐそこなの」
「い、いいよ…大丈夫だから…その」
 
彼女はぴたっと足を止め、少し厳しい目で僕を睨んだ。
 
「ダメ…!体は大事にしないと…もうすぐコンクールじゃない」
 
それは…そうだけど。
 
とにかく、まごついているうちに、彼女の部屋にほとんどひきずられるように押し込まれてしまった。
彼女はまっすぐバスルームに走って…僕は、投げるように渡されたタオルで髪を拭きながら、なんとなく部屋を見まわしていた。
 
落着いた雰囲気の部屋だった。
女の子の部屋にしては装飾物が少ない…ような気がしたけど、掃除は行き届いている感じで。
 
テーブルの隅に小さい写真立てがあった。
若い男の写真。
どこかで見たことがあるような気がした…けど、バレエ団の人間ではない。
よく見ると、東洋系の顔だ。
 
やがて、支度ができたわ、と彼女が戻ってきた。
着替えよ、と、シャツとズボンを渡されて、バスルームに追いやられた。
 
シャワーを浴びて、暖まって、着替えて…出てきた僕に、彼女は熱いお茶を入れてくれた。
テーブルの上の写真立てはなくなっていた。
 
たとえば、どうして彼女の部屋に男物の着替えがあったのか…みたいなことを、そのあと、僕はあまり考えないようにしていた。
あんなに素敵な人なんだから、恋人がいたっておかしくない…というか、いるのが当り前だろう。
たぶん、あの写真の男だ。
 
で、それ以上考えたってしかたがないじゃないか。
 
別に、彼女と恋人同士になりたい…なんて、思ってなかった。
でも…あの男が彼女の恋人なんだと思うのは、やっぱり少しつらくて。
知らなくてもいいことなんだから、知らんぷりしていようと思っていた。
好きこのんで自分から自分を傷つけるような真似はしなくてもいいだろう…って。
でも。
僕は、ほどなくその男の名を知ることになった。
 
島村ジョー。
 
世界に名を知られる、日本出身のレーサーだった。
 
 
 
彼女が見ていた雑誌の記事から、僕は彼の名を知った。
それで、少し気が楽になった。
彼女は、彼のファンなんだと思ったから。
 
だから、部屋に写真まで飾っていたんだ。
隠したのは、僕に見られるのが恥ずかしかったからなんだろう。
 
ただのファンだとしても、彼女が好きなのはこういう男なんだと思ったから、僕はそれから島村ジョーに少し関心を持った。
栗色の長い髪。整った顔立ち。
超一流のレーサー…なんだけど、謎が多い男だとかで。
 
で、僕の髪も栗色だ。
顔立ちは…自分で言うのもなんだけど、まあまあ…かな。
もちろん、東洋系の彼とは全然違うタイプだけど。
 
そんなことを真面目に考えている自分が少しおかしくなった。
でも…どうしてだろう。
島村ジョーの記事をみかけるたび、あの写真立てが気になって仕方なかった。
 
たぶん、僕はあのとき気づいてしまったんだ。
もし、彼女が誰かのものになれば…当り前だけど、僕からはどこまでも遠い人になってしまうんだって。
いや、それでよかったはずだった。
僕は彼女を遠くから眺めて…時折言葉を交わせるだけでいいと思っていたはずだった…のに。
いつのまにか、彼女は僕の心にすみついてしまっていた。
 
あの写真立てを思い出すたび、僕の胸はうずいた。
彼女を僕にしっかり引付けておきたかった。
どこにも…誰のもとにも行ってほしくなかった。
 
僕は、行動に出ることにした。
 
レッスンの帰り…アルバイトの帰り…時間が許す限り、彼女と過ごした。
食事に誘ったり、お茶を飲んだり。
休みの日には、彼女の好きな音楽会や美術館に一緒に行った。
 
同時に、僕はレッスンにそれまで以上に力をいれた。
もうすぐ、コンクールがある。
入賞すれば、奨学金ももらえる。
一流のダンサーになるための登竜門だった。
 
僕は、一流のダンサーに…一流の男になる。
そうして、彼女に告白する。
僕と…ともに生きてほしいと。
 
それは、他愛もない望みだったのかもしれない。
でも、僕は幸せだった。
彼女には何も告げず、僕はひたすら踊り…働いた。
 
 
 
寒い日だった。
 
僕は、いつものカフェに向かって走っていた。
フランソワーズと待ち合わせをしていたのに…遅れてしまった。
 
息せき切って、カフェに飛び込もうとしたとき。
僕は、思わず足を止めた。
 
ガラスの向こうで彼女が…誰かと向かい合っている。
栗色の長い髪…若い男だった。
 
不意に男が立上がった。
彼女はじっとうつむいている。
やがて、そうっと両手で顔を覆った。
 
泣いてるのか…?
 
慌てて扉を開けようとして、中から出てきた男とぶつかりそうになった。
咄嗟に顔を上げ、睨み付けた…瞬間。
僕は、息をのんだ。
 
島村…ジョー…?!
 
彼も一瞬足をとめ、僕を見つめた。
そう、一瞬…だ。
…でも。
 
僕は、その場に凍り付いたように立ちつくした。
彼と目が合った瞬間、鋭い光に射抜かれたような気がした。
 
一瞬の、氷のような…刃の視線。
 
僕が彼に会うことは二度となかった。
だから、僕の島村ジョーについての印象は今でもこれだけだ。
 
席にかけよると、フランソワーズは驚いたように僕を見つめ…弱々しく笑った。
涙は…なかった。
 
今の人は?と、僕は聞けなかった。
彼女も、何も言わなかった。
 
僕たちは、いつもと同じようにお茶を飲み、他愛のない話をした。
 
 
 
その翌日だった。
彼女が、長い休暇をとった、ということを、僕は先輩から聞いた。
驚いた…なんてものじゃない。
だって、彼女は僕に何も話さなかった。
 
呆然としている僕に、先輩は少し気の毒そうに言った。
 
「君は、知らなかったんだね…彼女には、よくこういうことがあるんだ…大丈夫。またきっと戻ってくる」
「で…でも、どうして…」
「理由は…わからない。つまり、コレが彼女が公演に出ない理由なんだろう…前の休暇は一年近かった。復帰してから取り戻すまであんなに苦労したのに…な」
 
そんな、馬鹿な…!
 
僕の脳裏に、あの男の影がよぎった。
刃の視線。
島村ジョー。
 
そうだ。
あのとき…泣いていたじゃないか、彼女は。
泣いていたんだ、やっぱり…!
 
唇を噛みしめる僕に、先輩はためらいがちに声をかけた。
彼女を、愛しているのか…?と。
 
強くうなずくと、彼はどこか寂しそうに微笑み、諦めたほうがいい、とつぶやくように言った。
 
かけつけた彼女の部屋は既にもぬけの殻で。
彼女の行き先を知る人も誰もいなかった。
 
そして、先輩が彼女について言ったことには…ひとつだけ、間違いがあった。
彼女は、二度と戻ってこなかった。
 
僕の初めての恋は、こうして終った。
 
 
 
「フランソワーズ…?」
 
彼がずっと後ろに立っていることを、彼女は知っていた。
小さく深呼吸して、振り向く。
 
「今、流れ星が見えたのよ…願いごと、しそこねちゃった」
「…願いごと…」
 
ジョーは口の中でつぶやいた。
 
「何を…お願いしようとしたんだい?」
「考えているうちに、消えてしまったの」
「帰りたい……とか?」
 
囁くような声に、フランソワーズは一瞬息を呑み…柔らかく微笑した。
 
「それなら、願い事をする必要なんてないわ…帰りたくなったら…帰れるんですもの。いつでも」
「…でも、君は…」
「帰りたくないから…帰らないだけ…ううん…私、ここにいたいの…ダメ?」
 
ダメなはずはない。
それは、むしろ長い間切望していたことで。
003ではない彼女と暮らすようになって、ジョーは生まれて初めて心の安らぎを得たような気がしていた。
…でも。
 
「一度ぐらい…帰ってみても…いいんじゃないかな」
「…ジョー?」
「君を…心配している人も…いるかもしれないし」
 
わずかな沈黙の後、フランソワーズは小さく首を振った。
 
「そんな人…いないから、大丈夫よ」
 
そう…気をつけていた。
私が、誰かの心に残ることなどないように。
あの街にとって、私は亡霊のようなもの。
 
でも…それでも。
 
私は、亡霊じゃなくて…ただの女なんだってこと、気づいてしまったから。
誰も、亡霊のように生きることなんてできない。
だから、もう…戻れない。あの街には。
 
さようなら、エリック。
 
まっすぐで…純粋で。
かなしいほど優しかった少年。
あなたのおかげで、私は気づいた。
自分が亡霊ではない…ということに。
 
フランソワーズはもう一度ゆっくり首を振った。
ジョーは、そんな彼女をじっと見つめ、囁くように言った。
 
「そうだね…会わない方がいいのかもしれない」
 
 
 
どうか、彼女を幸せにしてください。
どうか、彼女の笑顔を曇らせないでください。
どうか、彼女の傍にいて、彼女を守ってください。
彼女は、僕が初めて愛した人なのです。
 
何度も読み返したためにくたびれてしまった紙片を慎重に広げ、食い入るように見つめていたジョーは、やがて、丁寧にそれを折りたたみ、上着の内ポケットにしまい直した。
 
彼女は、僕が初めて愛した人なのです。
 
そう書き送ってきた少年の目を、一度だけ見たことがある。
彼女に残酷な宣告を残し、そのまま置き去りにした…あのとき。
 
彼の鳶色の瞳の中には、明るい光があった。
自分が失ったもの全てがあるような気がした。
 
彼女がそれを選ぶなら、それでもいいと思った。
あのときは、本当にそう思った。
でも…今は。
 
僕が初めて愛した人。
 
その言葉を、ジョーはゆっくり口の中でつぶやいた。
繰り返し、繰り返しつぶやく。
 
自分がそれを呟くとき。
そこに、あのとき彼が放った眩しい光はない。
 
それでも…これが僕の真実ならば。
 
彼女を幸せにしてくださいと、切ない思いをつづった少年の祈りに応えられるとは思えなかった。
彼女は、忌まわしい宿命の鎖で自分に繋がれているだけなのだから。
それもまた、真実。
 
それでも…彼女は、僕が初めて愛した人だから。
 
生まれたての、光の中で育んだ愛ではない。
気が遠くなるほど回り道をして…たくさんの罪を犯して、涙を流して。
そして、闇の底でようやくつかんだ…僕たちの儚い愛。
 
きっと、あの少年は嘆くだろう。
許せない、と憤るだろう。
その嘆きと怒りを胸の奥深くに沈め、僕は今日も彼女を抱きしめる。
 
僕が初めて愛した人。
天にも地にも一人きりの愛おしい人。
 
僕の、フランソワーズ。
 


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