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発展編


  8   誘惑(平ゼロ)
 
 
この街に入ってから、何となく感じていた。
003の様子がおかしい。
 
彼女と一緒に暮らすようになって、それなりの時間が経った。
もちろん、全てがわかったわけではないけれど、でも彼女が今どんな気持ちでいるのか…はわかるようになってきた、と009は思っていた。
ギルモアによれば、彼女はだいぶ感情を表に出すようになった…ということで。
そのせいかもしれなかったけれど。
 
それでも、少しは自信があったつもりだ。
他の仲間の誰よりも、自分は彼女を理解している…と。
もちろん、第一世代の悩みだとか、過去を想うときの悲しみ…みたいなものは別だったけれど。
 
お茶を飲んでいる彼女。笑っている彼女。眠るイワンを見つめる彼女。窓の外を眺める彼女。
そんなちょっとした仕草と視線…声の表情。
そういうものから、彼女の気持ちをくみ取ることにかけては誰にも…002や004にも…負けないだろう、と009は密かに自負していた。
 
この街に入ったときから、何かが彼女をうっすらと包んでいるような気がしていた。
何なのかは、わからない。
でも、彼女の表情に少しずつ不安が見え隠れするようになった。
それは、009が今まで一度も見たことがない種類の表情だった。
 
いや。
強いて言えば、「あのとき」に似ていたかもしれない。
 
踊りたい。まだ、踊っていたい…!
 
そう彼女が叫んだ…あのクリスマスイブ。
…だとしたら。
 
 
 
「スフィンクス」が支配する、コンピュートピア。
004が珍しく苛立ち、バランスを崩したように、この街には、サイボーグである自分たちの心を騒がせる何かがある。
でも、それだけではないような気がした。
 
ブラックゴーストはいない…たぶん。
少なくとも、ここにはいないはずだ。
…でも。
 
考え考え歩いていた009は、力無くうつむいている003を視線の先に捉えた。
唇をぎゅっと噛みしめ、足早に近寄った。
 
「どうしたんだ、003?」
 
答えてくれるかどうか、一瞬不安になった。
が、彼女はすぐに言った。
 
「こわいの。なんだか…誰かに見つめられているような気がして」
 
ハッとした。
もしかしたら…やっぱり、そうなのかもしれない。
あのときのように…誰かが、僕たちを…いや、君を。
 
心の中に誰かが入り込んでくるようで、こわい…と、彼女は体を震わせ、すがりつくように009の両腕を掴んだ。
 
大丈夫。
あのときとは違う。
 
009は自分に言い聞かせるように心でつぶやいた。
 
あのときの僕たちとは違う。
君は、僕を頼ってくれている。
こうして…僕の腕を掴んで、僕に身を寄せて。
 
もし、誰かが君に邪悪な手を伸ばそうとしているなら…今度こそ、守ってみせる。
僕の、全てをかけて。
 
009は003の両肩にそっと手を置いて、彼女の眼を見つめた。
しっかり見つめ返してくる視線にうなずく。
 
大丈夫。
こわがらないで。
僕が、君を守る。
 
「ちょっと、外の様子を見てくるよ」
 
009は003の両肩を励ますように力を込めて抱いてから、そっと離した。
 
どんな敵でもかまわない。
彼女の心を乱すものは見つけ出し、倒さなければならない。
必ず、倒す。
 
「敵」が彼女を狙っているということなのか。
それとも、自分達を狙う存在を、誰より鋭敏な彼女の神経が捉えている…ということなのか。
 
自分には何も感じられない。
それは能力の問題なのだろうけれど。
009は、もどかしかった。
 
003はいつも気丈に振る舞っている。
でも、敵の存在に真っ先に気づくということは、その瞬間、誰の助けも得られず、唯一人敵意にさらされるということでもあるのだ。
その敵意から、一刻も早く彼女を解放する。
自分たちの戦いはそういう戦いでもある、と009は思っていた。
 
やがて。
何も感じられないもどかしさに苛立ちがつのりはじめたとき。
攻撃が、始まった。
 
 
 
全てを自分で背負うつもりだった…わけではない。
ただ、自分は誰よりも優れた性能をもつサイボーグだから。
だから、誰よりも烈しく戦うべき者は自分なのだ。
009は、いつもそう思っていた。
 
自分の身を気遣う仲間達の声を聞きながら、009はその意を新たにした。
ほどなく、妨害電波が仲間達と自分とを遮断したが、おそらく彼らは何としてでも自分のもとに駆けつけてくるだろう。
003が懸命に目をこらし、耳を澄ます姿が脳裏をよぎった。
 
彼女が僕を見つけるまでに、カタをつける。
彼女は…みんなはきっと、どんな危険もいとわず、駆けつけてくれる。
だからこそ…その前に、カタをつける。
終らせるんだ。
 
執拗な攻撃をことごとくかわし、反撃しつつ、009は走った。
敵の正体も目的もわからない。謎はひとつとして解けない。
攻撃がやんでも、警戒を解くことはできなかった。
もちろん、仲間と連絡をとることも。
…だが。
 
目の前に現われた人影に、009は息を呑み、叫んだ。
 
「003!どうしてここに?!」
 
微笑をうかべながら近づいてくる彼女に、009は思わず小さく息をついていた。
…タイム・アウトだ。
見つかってしまった。
 
彼女がそれを承知するはずはないとわかっていたものの、009は説得を試みた。
ここに来てはいけない、と。
案の定、彼女は彼の言葉など何も聞こえないかのように微笑したまま…で。
 
しかし。
突然、その表情に緊張が走った。
 
反射的に身構えた009の前から003は走り去り、そして。
 
「フランソワーズ!!」
 
爆発。
自分の叫びが遠く聞こえた。
何が起きたのか、わからない。
 
…いや。
それでも、叫んだのだから…わかっていたのだ。
わかりたくなかっただけで。
 
どうして…君が。
 
009は呆然と心で繰り返した。
 
どうして…どうして、君なんだ。
どうして…
 
ちぎれたマフラーの切れ端が舞い降りてくる。
頭上に上がる黒煙。
彼女を焼く煙。
 
どうしてだよ…っ?!
 
獣のように咆吼し、009は黒煙に向かって夢中で走った。
 
 
 
もし、利用されたのが003でなかったら。
もし、捕らわれたのが003でなかったら。
 
後になって、009はふとそう思うことがあった。
 
 
エッカーマン博士とギルモア博士から、何が起きているのかを説明され…モニターに映し出された003の姿を見たとき、言いようのない憤怒が胸を突き上げた。
 
スフィンクスは彼女の頭脳に直接侵入し…彼女を仮想空間に引き込もうとしているのだという。
それがどういうことを意味するのか、そうなったとき彼女がどうなるのか…は予想もつかないことで。
しかし、何であれ、そんなことは断じて許さない。許すわけにいかない。
009は、堅く唇を噛みしめた。
 
スフィンクスは彼女の体…姿を既に手に入れた。
望むままにコピーロボットを作り、思い通りに動かす。
手に入れたものは自分のもの。
作るも、壊すも自分の意のまま…ということだ。
 
そして、今度は…彼女の心を手に入れようとしている。
 
そんなことができるはずない。
オマエに何がわかる。何ができる。
 
009は拘束された003が映し出されているモニターをありったけの憎悪をこめて睨み付けた。
 
現に…理屈はさっぱりわからないものの、あのコピーロボットはスフィンクスの命に背き、自分を庇った。
彼女は、強い。
 
幸せだった少女が突然地獄に落とされ、全てを奪われる。
そんな理不尽の中で、彼女は心を失わなかった。
戦場に放り込まれながら、自分を守る力は何一つ与えられず、降り注ぐ敵意をただ受け止めることだけを宿命づけられた003。
それでも、彼女は心を失わなかった。
彼女は、強い。
 
…しかし。
 
一緒に暮らすようになって、わかった。
彼女には…ひどく脆いところもある。
しかし、それは、欠点ではない…と、009は思う。
 
壊れやすく、繊細なもの。
彼女の奥には、いつも静かに息づくそれがある。
それは欠点ではない。
むしろ、それがあるからこそ、彼女は心を失わなかったのだ。
 
だから…それを守るのは自分の役目だ。
009は漠然と思っていた。
 
彼女が心の奥に秘めた、とても繊細で壊れやすくて…儚い、砂糖菓子のような何か。
それは、守ってやらなければ…いつか粉々に砕けてしまう。
それは、彼女が自分では守れない何かで。
 
もし、スフィンクスがそれを知っていれば…いや、知っているに違いない。
必ず、そこを狙ってくる。
彼女の一番脆い部分。繊細で、壊れやすい部分。
そこに甘い蜜を流し込み、籠絡しようとするはずだ。
 
そんなことはさせない。
 
彼女は、僕が守る。
それが、僕の役目なのだから。
 
「僕が、スフィンクスの誘惑から、003を守ります!」
 
009は決然と言い放った。
 
 
 
むせかえるほどのバラの香り。
うっとりと夢見るような色合いの空に、ゆらめく光。
 
「僕といれば、君の夢を叶えてあげるよ」
 
心に染みこんでくる、甘い囁き。
 
009は懸命に走った。
 
赤い戦闘服。黄色いマフラー。
殺気を帯びて走る自分が、この世界にとって明らかに異質な者であることを、009はひしひしと感じていた。
彼女を助け出す…ということは、この世界を破壊する、ということだ。
 
「いやよ…!邪魔しないで!」
 
悲痛な叫びが蘇る。
あの日…パリの町で、彼女は叫んだ。
 
「邪魔しないで!…踊りたい…まだ、踊っていたい…!」
 
ブラックゴーストは僕たちの敵だった。
どんな甘い誘いでも…それは、最後には僕たちを滅ぼすものでしかなかった。
でも…でも、もしかしたら、この世界は。
スフィンクス…いや、カール・エッカーマンは本当に…
君を…愛して…?
 
「僕といれば、君の夢を叶えてあげるよ」
 
遠い囁き。
碧の瞳が、彼を見つめている。
 
「おいで…フランソワーズ」
 
僕が、君の夢を叶えてあげる。
君を幸せにしてあげる。
君の望みなら、なんでも叶えてあげる。
現実…現実だって…?
 
それが、どんなに残酷なものか、君は知り抜いているはずじゃないか。
どんなに理不尽で、悲しいものか。
そうだろう、優しいフランソワーズ?
 
もう、悪夢は終った。
君が現実だと思っていた地獄絵…それこそが夢だったんだ。
 
「違う…!違う、003…!そっちに行ったら、ダメだ…!」
 
009は必死で叫んだ。
 
惑わされてはダメだ…!
この世界は美しい。
君が、心の奥深くに秘めていた世界。
 
それを捨てろと言っているんじゃないんだ。
そうじゃない、むしろ捨てないでほしい。
決して…捨ててはいけない。
 
でも、君はここにいてはいけない…いけないんだ!
 
大丈夫だから。
ここを離れても、君は大丈夫だから。
僕が、必ず守るから…この美しい世界は、僕が、守る…!
 
「003ーっ!!」
 
君が最も忌み嫌う、君のもう一つの名前。
でも、背を向けないで。
振り向いて。
 
君は、003なんだ。
それが君の現実。
それでも、だからこそ、君はこんなにきれいで、優しくて…
僕たちを…僕を、照らしてくれる。
 
お願いだから、あいつの誘いに耳を貸さないで。
僕に背を向けないで。
君を必ず守るから。
 
僕から、去らないでくれ…003…!
 
 
 
003が弾かれたように振り返った。
009は夢中で叫んだ。
 
「003、こっちにくるんだ…!」
「009?!」
「行くなっ!」
 
凄まじい衝撃が身を包んだ。
倒れながら、009は自分の前に立ちはだかり、自分を庇おうとする003の背中を見た。
 
世界が…壊れる。
 
落下しながら、009は目を閉じ、呟いた。
 
世界が…壊れる。
君が、壊してくれた。
 
ありがとう…003。
 
バラの香りに、ふと目を開いた。
頭上には、夢のような光がゆらめいている。
そっと横を見ると…同じように横たわった003が、ぼんやり空を見ていた。
 
ありがとう、003。
…帰ろう。
 
009は懸命に手を伸ばし、彼女の手を探り当てた。
 
なんて…小さい手なんだろう。
この手に…銃を握らせて、戦場へ引き戻そうとしている…僕は。
それでも。
 
君の心は僕が守る。
君の一番きれいで…壊れやすくて、繊細で…儚い…
 
誰にも触れさせない。
君の心は、君だけのものだから。
 
誰にも…触れさせないよ。
 
 
 
夕陽の中で遠ざかっていくコンピュートピアを、003は黙って見つめていた。
 
愛だけが…プログラミングされていなかった街。
そう、愛は…プログラムできるものじゃない。
与えられるものでもない。
 
そして、たぶん…私もあの街と同じ。
 
もし、あの人の…カールの言葉に身を委ねていたら…どうなっていたのかしら。
私は、二度と目覚めることなく…あの街で生涯を終えたのかしら。
あの…美しい夢の中で。
 
もしかしたら、そうした方が…よかったのかもしれない。
たとえ、いつわりの世界でも…幻でも。
私をほしいと言ってくれる人の傍にいた方がよかったのかもしれない。
 
全てを無くし、兵器となった私でも、誰かのために生きることができたのかもしれない。
それが、たとえいつわりの愛でも。
 
「…003」
 
ためらいがちにかけられた声に、003はハッと振り向いた。
赤褐色の目が心配そうに見つめている。
 
「後悔…しているのかい…?」
 
消え入るような声。
003は大きく目を見開いた。
 
「後悔って…何を…?」
「……」
「そう…だわ、助けてくれてありがとう…009。私、まだお礼を言ってなかったわね」
「…お礼…なんて。僕は、ただ…」
「いくじなしよね…女の子って」
 
驚いたように顔を上げる009に、003は優しく微笑した。
 
「私も、強くなりたい…あなたのように」
「…そんな…こと」
「あなたが来てくれなかったら…私、きっと…スフィンクスに心を明け渡していたわ」
「…003」
「あなたが来てくれて…よかった…少し、恥ずかしいけど」
「え…?」
「あなたも…見たでしょう?…私の…夢」
 
馬鹿みたいよね、とつぶやく003の肩を、009は咄嗟に強く掴んだ。
 
「馬鹿みたいじゃない…!きれいだった…とても」
「009…?」
「…きれいだった」
 
まじまじと009を見つめていた003は、やがてふんわり微笑んだ。
 
「そう…」
「……」
「ね…私、少しだけなら…夢見ていても…いいのかしら」
「…うん」
 
真顔でうなずく009に、003はくすっと笑った。
 
「ありがとう…優しいのね」
 
頬にそっと素早いキスを残し、立ち去る彼女の後ろ姿を009はぼんやり見送っていた。
説明しようとしても言葉にならない。
泣きたくなるような、甘い痛み。
 
君の心は、君だけのものだ。
 
僕は、君の心に触れたりしない。
だから…どうか僕をここにいさせてほしい、フランソワーズ。
君の傍に。
 
僕は、君の心に触れたりしない。
そして…
誰も君には触れさせない。
 
君の心は、君だけのものだから。


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