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二周目


  3   闇夜(原作)
 
 
違う!
 
体中がそう叫んでいる。
おぞましいものが背中を駆け抜ける。
 
違う、やめろ!
 
叫びは声にならず、ジョーは自分の震える拳を呆然と見下ろしていた。
闇の底から、低い声が聞こえる。
…聞くな、その声は。
 
ソノ、女ダ
 
違う。
 
ソノ、女ガオマエヲ
 
違う。
 
ソノ、女ガオマエヲ生ンダ
ソノ、女ガオマエヲ捨テタ
 
違う。
そんな…はずは。
 
ソノ、女ガオマエヲ捨テタ
 
違う…違う!
どうして、このひとが、そんなことを…?
 
ジョーは震えながら彼女を見つめた。
そんなはずない。
 
亜麻色の柔らかい髪。
汚れない雪白の肌。
青く澄んだ瞳には、いつも春の日差しが踊っている。
 
そんな、はず…ない。
このひとは…このひとは、ぼくの。
 
ソノ、女がオマエヲ捨テタ
 
違う…っ!
 
ナラバ、見ルガイイ!
 
 
 
「ア…っ!」
 
何が起きたのか、わからなかった。
背中をジェロニモの強い腕に支えられ、フランソワーズはようやく我に返った。
 
全身ぼろぼろになったジョーが、うつろな目で見つめている。
頬が…燃えるように熱い。
 
私…殴られ…たの…?
ジョーに…?
 
「やめるんだ、ジョー…!」
 
低い、ジェロニモの声。
不意に、栗色の瞳に灼熱の光が宿った。
 
「きさま、その、汚い手を…離せ!」
 
ジェロニモは前に進み出ると、ジョーの体当たりを受けた。
あっけなく彼を捕まえ、高く放り投げる。
フランソワーズが、思わず悲鳴を上げた。
 
「おかしい…」
 
ジェロニモがジョーを見下ろし、つぶやいた。
フランソワーズも、懸命に彼の表情を追った。
 
泣いている。
怒りでも…憎しみでも、悲しみでもなく。
ただ、泣いている。
 
「マ…ママ…ママ…!」
 
立ち上がることも忘れたように、ジョーは叩き付けられた岩場に転がり、うめいていた。
 
「おかしい、ジョー…戦い方…自分の力を…忘れている」
「…いいえ」
 
フランソワーズはゆっくりジョーに歩み寄った。
 
「フランソワーズ」
「…大丈夫よ」
 
大丈夫ではない…としても。
あなたの心の痛みを分かつことはできないとしても。
それでも…
 
「ママ…ママ…!」
「…ジョー」
 
フランソワーズはそっとジョーの傍らに膝をつき、震える肩を優しく抱き寄せた。
 
「ママは…ママは、あばずれなんかじゃない…!そんな…そんな女じゃない…!」
 
見えない誰かに向かって、血を吐くように叫ぶ。
フランソワーズの手に、力がこもった。
 
「戦い方…だけじゃないわ…ジョーは、今の自分も…」
「違う…!」
「小さい子供に…戻ってる…?!」
 
煤で汚れた頬に、とめどなく涙が伝わる。
ジョーは弾かれたようにふり向き、がむしゃらにフランソワーズにしがみつくと、叫び続けた。
 
「違う…!違う…!!違う…!!!」
 
 
 
あの夜の夢を時々見る。
 
うなされて、目を開けると…傍らにはいつも亜麻色の髪が柔らかく広がっている。
そっと手を伸ばし、触れて、確かめる。
彼女が、そこにいる。
 
…でも。
いつか、きみは僕を捨てるかもしれない。
 
そのときは、きみを罵らないような僕でありたい。
どんな闇に沈んでも。
どんな恐ろしい夜に落とされても。
 
きみを罵らない僕でありたい。
 
今なら、わかる。
あなたは僕を捨てた。でも。
泣き叫ぶ僕を抱きしめたのも、あなただった。
 
「ジョー…?」
 
起こしてしまうだろうと、心のどこかで思っていた。
ジョーは髪をもてあそんでいた指を止めて、恋人をのぞき込んだ。
 
「また…夢を見たの…?」
「うん…」
「悲しい…夢…?」
 
ジョーは笑顔を作った。
 
「大丈夫だよ…そんな顔しないで。子供じゃ…ないんだし」
 
フランソワーズもつられるように微笑んだ。
慕わしさに思わず身を寄せようとしたとき。
青い瞳がふと深い光を宿した。
 
「子供よ。あなたは」
「え…?」
 
体が動かない。
フランソワーズの細い指が、ゆっくり頬を撫で上げていく。
 
「おやすみなさい…ジョー」
「……」
 
おかあさん。
 
「大丈夫。私…ここにいるわ。ずっと。」
 
おかあさん。
僕の。
 
「でも、もし、そうできなくなる日がきたら…」
 
おかあさん。
誰より優しい、誰より残酷なひと。
もし、あなたが僕を捨てるなら…
 
「……て、いいのよ」
「フランソワーズ…?」
 
聞こえなかった。
聞こえなくていい。
 
だって、きみは…あなたは。
 
誰より憎い、誰より愛しいひと。
闇の底に住むひと。
もし、あなたが僕を捨てるなら…
 
 
フランソワーズはジョーの手を優しく取り、か細く白い、自分の喉の上にそっと導いた。
 
もし、私があなたを捨てたなら…そのときは。
 
殺して、いいのよ。
 
闇の中で。泣きながら。
あの夜のように。


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