1
違う!
体中がそう叫んでいる。
おぞましいものが背中を駆け抜ける。
違う、やめろ!
叫びは声にならず、ジョーは自分の震える拳を呆然と見下ろしていた。
闇の底から、低い声が聞こえる。
…聞くな、その声は。
ソノ、女ダ
違う。
ソノ、女ガオマエヲ
違う。
ソノ、女ガオマエヲ生ンダ
ソノ、女ガオマエヲ捨テタ
違う。
そんな…はずは。
ソノ、女ガオマエヲ捨テタ
違う…違う!
どうして、このひとが、そんなことを…?
ジョーは震えながら彼女を見つめた。
そんなはずない。
亜麻色の柔らかい髪。
汚れない雪白の肌。
青く澄んだ瞳には、いつも春の日差しが踊っている。
そんな、はず…ない。
このひとは…このひとは、ぼくの。
ソノ、女がオマエヲ捨テタ
違う…っ!
ナラバ、見ルガイイ!
2
「ア…っ!」
何が起きたのか、わからなかった。
背中をジェロニモの強い腕に支えられ、フランソワーズはようやく我に返った。
全身ぼろぼろになったジョーが、うつろな目で見つめている。
頬が…燃えるように熱い。
私…殴られ…たの…?
ジョーに…?
「やめるんだ、ジョー…!」
低い、ジェロニモの声。
不意に、栗色の瞳に灼熱の光が宿った。
「きさま、その、汚い手を…離せ!」
ジェロニモは前に進み出ると、ジョーの体当たりを受けた。
あっけなく彼を捕まえ、高く放り投げる。
フランソワーズが、思わず悲鳴を上げた。
「おかしい…」
ジェロニモがジョーを見下ろし、つぶやいた。
フランソワーズも、懸命に彼の表情を追った。
泣いている。
怒りでも…憎しみでも、悲しみでもなく。
ただ、泣いている。
「マ…ママ…ママ…!」
立ち上がることも忘れたように、ジョーは叩き付けられた岩場に転がり、うめいていた。
「おかしい、ジョー…戦い方…自分の力を…忘れている」
「…いいえ」
フランソワーズはゆっくりジョーに歩み寄った。
「フランソワーズ」
「…大丈夫よ」
大丈夫ではない…としても。
あなたの心の痛みを分かつことはできないとしても。
それでも…
「ママ…ママ…!」
「…ジョー」
フランソワーズはそっとジョーの傍らに膝をつき、震える肩を優しく抱き寄せた。
「ママは…ママは、あばずれなんかじゃない…!そんな…そんな女じゃない…!」
見えない誰かに向かって、血を吐くように叫ぶ。
フランソワーズの手に、力がこもった。
「戦い方…だけじゃないわ…ジョーは、今の自分も…」
「違う…!」
「小さい子供に…戻ってる…?!」
煤で汚れた頬に、とめどなく涙が伝わる。
ジョーは弾かれたようにふり向き、がむしゃらにフランソワーズにしがみつくと、叫び続けた。
「違う…!違う…!!違う…!!!」
3
あの夜の夢を時々見る。
うなされて、目を開けると…傍らにはいつも亜麻色の髪が柔らかく広がっている。
そっと手を伸ばし、触れて、確かめる。
彼女が、そこにいる。
…でも。
いつか、きみは僕を捨てるかもしれない。
そのときは、きみを罵らないような僕でありたい。
どんな闇に沈んでも。
どんな恐ろしい夜に落とされても。
きみを罵らない僕でありたい。
今なら、わかる。
あなたは僕を捨てた。でも。
泣き叫ぶ僕を抱きしめたのも、あなただった。
「ジョー…?」
起こしてしまうだろうと、心のどこかで思っていた。
ジョーは髪をもてあそんでいた指を止めて、恋人をのぞき込んだ。
「また…夢を見たの…?」
「うん…」
「悲しい…夢…?」
ジョーは笑顔を作った。
「大丈夫だよ…そんな顔しないで。子供じゃ…ないんだし」
フランソワーズもつられるように微笑んだ。
慕わしさに思わず身を寄せようとしたとき。
青い瞳がふと深い光を宿した。
「子供よ。あなたは」
「え…?」
体が動かない。
フランソワーズの細い指が、ゆっくり頬を撫で上げていく。
「おやすみなさい…ジョー」
「……」
おかあさん。
「大丈夫。私…ここにいるわ。ずっと。」
おかあさん。
僕の。
「でも、もし、そうできなくなる日がきたら…」
おかあさん。
誰より優しい、誰より残酷なひと。
もし、あなたが僕を捨てるなら…
「……て、いいのよ」
「フランソワーズ…?」
聞こえなかった。
聞こえなくていい。
だって、きみは…あなたは。
誰より憎い、誰より愛しいひと。
闇の底に住むひと。
もし、あなたが僕を捨てるなら…
フランソワーズはジョーの手を優しく取り、か細く白い、自分の喉の上にそっと導いた。
もし、私があなたを捨てたなら…そのときは。
殺して、いいのよ。
闇の中で。泣きながら。
あの夜のように。
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