1
どうしてその店に入ろうと思ったのか、後から考えてもフランソワーズにはわからなかった。
なんとなくショーウィンドウをながめているうちに、手にとってみたくなった…としか言いようがない。
紳士小物の店だった。
入ってみると、店内は案外すいていた。
クリスマスの買い物で街はごった返しているのに…と、少し拍子抜けがする。
見回しても、どこに何が置いてあるか、咄嗟にはわからない。
戸惑っているフランソワーズに初老の店員が声をかけた。
「何を、お探しですか、マドモワゼル?」
「あ、あの…マフラーを見たくて…ウィンドウの」
店員は、ああ、と気軽にうなずいて、奥に入り、深い茶色のマフラーを出してきた。
「どうぞ…お手にとって」
「ありがとう」
うけとると、感触はふんわり優しく、暖かかった。
「カシミア…かしら?」
「ああ。まあ、混ぜモノはあるが…それなりの意味のある混ぜモノだよ、上等のね」
「軽くて、暖かいわ…いい色…」
「お気に召しましたか。クリスマスプレゼントにはうってつけの品です…どなたに?」
はっ、とフランソワーズは顔を上げた。
「はい…あ、あの……兄に」
ほう、と店員はうなずきながらまた店の奥に入り、濃紺のマフラーを出してきた。
「お兄さんの目の色は、あなたと同じかな…?だったらこっちの方が映える」
「……」
「…だが、茶色の目なら、それでぴったりだ」
数分後、フランソワーズは軽い紙包みを抱え、店を後にしていた。
馬鹿なことをしてしまったような気がする。
ジョーに逢う約束はしていない。
約束どころか、もう一年以上電話すらしていないと思う。
クリスマスカードと一緒に送ればいいと咄嗟に思ったのだけれど…考えてみたら、彼の住所も知らない自分なのだ。
カードは研究所に送るつもりだった。仲間みんなに。
ということは。
それにプレゼントを添えるなら、彼にだけ…というわけにはいかない。
悪いけど、兄さんにあげることにしよう。
色が気に入らないって言われたら、とりかえてもらえばいいわ。
やっぱり紺の方にしてください…って。
肩をすくめてくすっと笑ったとき。
短く、鋭いシグナル音が、一瞬耳を貫いた。
フランソワーズは硬直した。
今の…!
はっと顔を上げると、誰もいなかった散歩道に、青年がぽつんと立っている。
まさか。
どうして。
…また、なの…?
青年がゆっくり近づき、立ちすくむフランソワーズの前で足を止めた。
深い茶色の瞳が寂しそうな光を浮かべ、微笑する。
「久しぶり…フランソワーズ…いや、003」
2
呆然としていたのは数秒だった。
フランソワーズはきゅっと唇を結び、気持ちを切り替えようとつとめた。
「久しぶり…元気そうね、009」
「…うん」
「あなたのレース、見ていたわ…テレビだったけれど…」
「ありがとう」
「ごめんなさい、あまり準備はしていないの…少し待たせてしまうわ」
「え…?」
「夜まで待ってくれる…?そうしたら…」
「い、いや」
ジョーは慌てたようにフランソワーズを遮った。
「そんなに急がなくていい…来週、そう、クリスマスが終わってからでも」
「…でも」
「少しは猶予がある。いや、もう君のクリスマスは台無しになってしまったね…すまない。楽しい気持ちのままで過ごさせてあげたいとも…思った…でも」
「もし、少しだけ猶予があるなら…クリスマスはみんなと過ごしたいわ」
「…フランソワーズ」
「みんな、もう集まっているんでしょう?張々湖大人のディナーを食べ損ねるのは残念だわ」
「…すまない。本当に」
フランソワーズは注意深くジョーをのぞいた…が、彼の目から真意をくみ取ることはできなかった。
猶予がある、というのはきっと嘘ではない。
でも、たぶん、早ければ早いほどいいのだろう。
本当にいいんだね、と念押ししながら、ジョーは空港近くのホテルの名前を口にした。
「飛行機のチケットは、僕が手配しておく。明日の朝9時にホテルのロビーに来てくれ」
「明日…9時…?それでいいの?」
首をかしげるフランソワーズに、ジョーはうなずいた。
「それ…今日のうちに…渡せるかい?」
「え…?」
フランソワーズは彼の視線を追い、抱えている紙包みに目を落とした。
クリスマスらしい包装に、赤いリボン。
これは、別に……と、うろたえながら言い訳しようとして、彼と視線がぶつかった。
フランソワーズは小さく息をのんだ。
変わっていない。この人は。
なんて、寂しそうな目をしているのかしら。
ジョーがレーサーとして活躍しているのを、フランソワーズは幸福な気持ちで見守っていた。
が、一方で、だんだん彼が遠い人になっていくような思いもあった。
最強の戦士でありながら、時に頼りない子供のようにも見えた009。
いつもどこか寂しそうだった009。
ひとりでぽつんと立っているとき、そっと声をかけると、はにかむような笑みを浮かべた009。
報道されるトップレーサー・島村ジョーの晴れやかな笑顔には、そんな影はみじんも感じられなかった。
この人は、大人になったんだわ。
こんなに幸せそうで、自信にあふれて。
…そう、思っていたのに。
不意に、フランソワーズの脳裏に、立ちすくむジョーの姿が浮かんだ。
花束をかかえ、シャンパンと賞賛を浴びて…そして。
そして、彼はやっぱりひとりだったのかもしれない。
この街で、私が…そうだったように。
3
紙包みに目を落とし、少し頬を染めたフランソワーズを、ジョーは美しいと思った。
変わっていない。きみは。
戦いに私情を交えてはいけないと、そう自分に言い聞かせて、ここまできた。
…でも。
彼女に来て欲しいというこの気持ちこそが、私情ではなかったのか。
やっぱり、声をかけるべきではなかったのかもしれない。
物思いに沈みかけたジョーは、ぱっと顔を上げたフランソワーズに思わずどきまぎした。
澄んだ青い目がまっすぐに自分を見つめ、微笑んでいる。
「コレは…ふふっ、あなたへのプレゼントよ」
「……え」
咄嗟に何を言われたのか、わからなかった。
あっけにとられているうちに、紙包みを押しつけるように手渡され、ジョーは慌てた。
「僕に…って、その」
「開けてみて」
「フランソワーズ」
「茶色の目なら、それでぴったり…ですって」
「……」
ジョーはとまどいながらも、紙包みをひらいた。
ひらいたものの、ぼんやりそれを見つめているだけのジョーの手からマフラーを取り、フランソワーズはそれを彼の首にふわっと巻き付けた。
「…やっぱり。似合うわ」
「フランソワーズ」
「暖かいでしょう?」
何と言えばいいのか、わからない。
黙ってうつむくジョーに、フランソワーズはまた微笑した。
「お願いだから、僕は寒さを感じない、なんて言わないでね」
「そういう…わけじゃ」
「渡すことができるなんて…思わなかった」
「……」
「運がいいわね、私…ねえジョー、チケット、今日の夜ではとれないの?空港で会いましょう…それから一緒に夕ご飯をどう?」
4
始めてみると、荷造りはあっけないほど簡単だった。
心のどこかで、自分がこの日を待っていたということが改めて感じられ、フランソワーズはひっそり苦笑した。
約束の時間よりかなり早くついた…にもかかわらず、ジョーは既に待ち合わせの場所に来ていた。
「早かったね…大丈夫?」
「ええ…あなたこそ…チケットは?」
「うん…意外に簡単にとれた…レストランの予約もね」
「…まあ」
彼の笑顔はさっきと別人のように明るい。
フランソワーズはほっと息をついた。
レストランはクリスマスらしい飾り付けがほどこされ、幸せそうなカップルや家族連れでいっぱいになっていた。
手際よく注文をすませ、運ばれてきたワインを手にちょっと戸惑っているジョーに、フランソワーズは優しく言った。
「乾杯しましょう…そうね、再会を祝して」
「…ああ」
祝福することなど、何もない…というのが本当なのかもしれない。
でも…。
二人は、軽くグラスを合わせた。
でも、懐かしい人に会えるのは…幸せなことだわ。
ジョーも…そう思っていてくれればいい。
私の思いと…それは違っているのだとしても。
これから、戦いに赴こうとしているとはとても信じられないような、穏やかな時間だった。
二人はそれについての話題を徹底的に避けた。
どのみち、あと数時間で、話すことはそればかりになるのだ。
デザートが運ばれてきたときだった。
ジョーが何となく落ち着かない様子になった…かと思うと、上着のポケットを探り、リボンのかかった小さい包みを取り出した。
「…はい」
「え…?私に…?」
包みを開けると、星のような光が瞬いた。
銀色の鎖の先に、小さいダイヤモンドが輝いている。
「あんまり、芸はないけど」
「…ジョー」
「少し早いけど、クリスマスプレゼント」
気を遣わなくて、よかったのに…と言いかけた言葉を、フランソワーズは懸命に呑み込み、微笑した。
「ありがとう…嬉しい」
「…つけてみてくれるかい?」
「ええ」
フランソワーズが嬉しそうにネックレスを首に巻き付けるのを、ジョーはじっと見つめていた。
「…どう?似合う?」
「ああ。とても」
「本当に…ありがとう、ジョー…」
ジョーははにかむように笑った。
コーヒーを運んできたボーイは、少女の胸に、さっきまでなかった星の輝きをみとめ、思わず微笑した。
彼女の前では東洋系の少年が幸福そうに恋人を見つめている。
絵のような眺めだった。
彼は、うやうやしくお辞儀をすると、二人のカップに丁寧にコーヒーを注いだ。
この美しい恋人たちに幸多きことを祈りながら。
5
ふと身じろぐ気配がした。
目を開けたジョーは、隣で眠るフランソワーズの毛布がずれかかっているのをそっと直し、溜息をついた。
夢の時間は、終わった。
ぼんやりともる機内の灯りを見つめながら、ジョーは心でつぶやいた。
目覚めたとき、きみは003だ。
そして…僕は。
レストランを出てから、フランソワーズがなんとなく辺りを見回すのに、ジョーは気付いていた。
きっと、彼がネックレスを買った店はどこなんだろう…と不思議に思っていたのだろう。
箱に書かれていたのは、彼女になじみのないブランド名だっただろう。
「渡すことができるなんて…思わなかった」
それは、僕のセリフだよ、フランソワーズ。
ずっと…渡せずにいた。
渡してしまってよかったのか…とも思っているけれど。
こんな形で、渡したくはなかったのかもしれない。
…でも。
ありがとう、フランソワーズ。
たぶん…僕も運がいい。
こんな形でも、渡せただけよかったんだ。
きみの胸に…僕の思いが輝くのを見ることができたのだから。
そうだ。
これでいい。
いつか、きみに渡したいと思っていた。
かなわないことだと…望んではいけないことだと思っていながら、やっぱり僕はそう願っていた。
フランソワーズ、ありがとう。
もう、願ってはいけないことだと、思うのはやめにする。
いつかかなうように、そう願うのはいけないことじゃない。きっと。
こんな風に願いがかなうことだってあるのだから。
それも、こんなときに。
全ての望みを奪う闇に包まれたときに。
これも、クリスマスの奇跡だと、きみなら言うのだろうか。
僕たちには、僕たちらしい奇跡がある。きっとある。
だから、僕はもうひとつ願いをかけてみるよ。
途方もない願いだけれど。
いつか、この腕に、きみを抱きしめたい。
009としてではなく、ひとりの男として。
003ではないきみを。
途方もない願いだ。
わかってる。
でも。
かなわなくてもいい。
それがかなうとき…僕たちを今よりもっと暗い闇が包むかもしれないのなら。
きみにはいつも光の中にいてほしい。
それも、僕の願いだ。
そうか。
そうだった。
今日、僕の願いをかなえてくれたのは、奇跡なんかじゃない、きみだったじゃないか。
きみが僕に勇気をくれた。
やっぱり、きみは僕の光だ。
僕の…フランソワーズ。
僕がきみをひそかにそう呼ぶことを、どうか許してほしい。
いつか。
いつかまた、きみは僕の途方もない願いをかなえてくれるのかもしれないね。
今よりずっと暗い闇の中で。
そんなときは来ない方がいい。
でも。
ああ、でももしそのときが来たら…
僕は、きみを守るだろう。
ひとときの夢を心にしまって、きみを守り続けよう。
どんな敵にも、負けはしない。
僕は009。
最強のサイボーグ、009なのだから。
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