1
足音が止まっている。
ざぶざぶ海に入りかけていたジョーは振り返り、首を傾げた。
「どうしたんだ、フランソワーズ?」
フランソワーズはそうっとつま先を濡れた砂に押しつけ、すぐにびくっと引っ込めた。そのまま途方に暮れたように、波打ち際を見つめている。
「何か、いるのかい…?」
…カニとか。
ゆっくり引き返してくるジョーを、フランソワーズははっと見上げ、小さく首を振った。
どうにかなると思って…とにかくどうにかしなければと思って…それに弱みを見せたくない気持ちもあって、ここまで来たのだ。一生懸命、自分を叱ってみる。が、無駄だった。
「フランソワーズ…っ?」
へなへなとその場に座り込んでしまったフランソワーズに、ジョーは慌てて駆け寄った。助け起こそうと伸ばした手がびくっと宙で止まる。
…ど、ドコつかんだらいいんだろう。
「それは、002が悪い」
話を聞いたアルベルトはあっさりとそう決めつけた。
「だが、お前もお前だ、003。腰が抜けるほど恥ずかしいモノなら、はじめから着なければいいだけのことだろう」
「……」
「まあ、たぶんアイツのことだから、年寄りには無理だとかなんとか、そういうことを言ってお前をあおったんだろうが」
さすがだなー、とジョーはキッチンでコーヒーをつぎ分けながらつぶやいた。
そのとおりだったのだ。
でも…。
一緒にいたのが僕だったから、こんなことになったのかもしれない。
むしろ、ジェットだったら、口げんかしながら上手に彼女の気持ちをほぐしてあげて…結局、楽しく遊べたかもしれないな。
ジョーはなんとなくため息をついた。
2
数日前。
メンテナンスのため研究所を訪れていたジェットは、ちょっと街に出てくる、と外出し、戻ってくるなり、フランソワーズに「いいもん買ってきてやったぜ!」とソレを投げつけたのだった。
何やらしゃれた袋に入っていたのは、ペール・ブルーのビキニの水着。
ジョーは目を丸くし、フランソワーズは激怒した。
「002!やっていい冗談とそうじゃないのがあるわ!」
「あーっ、何しやがるっ!ソレ、結構高かったんだぜ!新作とかなんとかいって、店員もイチ押しの…」
「高ければいいってモノじゃないでしょう、失礼よ!」
「…ンだよ、かわいくねーなー!せっかく海岸に住んでるんだ、水着の一枚ぐらい持っててもいいだろうって、人がせっかく親切に……」
「……水着?…これが?ファンデーションじゃないの?」
何度も瞬きするフランソワーズを横目に、ジョーはそうっとソファから立ち上がった。そのままこっそり居間を出て行こうとした…が。
「ジョー!」
「え、え…?」
「ホントなの…?これ、水着…?」
フランソワーズがおっかなびっくりつまみ上げているソレを、見るともなく見ながら、ジョーは曖昧にうなずいた。
「た…ぶん」
「…信じられない。これじゃまるで……」
ジェットが、ふん、と鼻で笑った。
「まぁ、大昔とは事情が違うわな…おい、009、教えてやれよ!この時代のやり方ってやつを」
「…そんなこと、言ったって…僕は別に」
口ごもるジョーを、ジェットはじろりと睨んでから、馬鹿にしきったように口笛を吹いてみせた。
「なーにが別に、だよ?…お前、昨日、こーゆーカッコした姉ちゃんたちとソコでちゃらちゃら遊んでたじゃねえか」
「ちょ、ちょっと待てよ、何言ってるんだ、002!」
「言い逃れする気か?…俺様は見たんだぜ、なんかよ、こんなでっかいバルーン持って……」
「あ、あれは…!あれは、散歩していたら、ビーチボールが転がってきて、拾ってくれって言われて…」
ジョーは慌てた。
本当に、拾ってあげただけ…のつもりだったのだが、いつの間にか女性たちに囲まれ、あっという間に質問攻めにされてしまったのだった。
もちろん、早々に逃げ出したのだから、別にやましいところは何もないのだが。
まさかその一部始終をジェットに見られていたとは思いもよらなかった。
「いいっていいって…!何も言い訳するこたぁねえ、お前だって去年の夏まではそーやってぱーっと遊ぶこともあったんだろ?」
「あのね、002、僕は…!」
「お前も気の毒だよなー、サイボーグなんかにされちまった上に時代錯誤のバアさんにつきあわされて…」
「何を…いいかげんにしないと怒るぞ!」
「たしかにバアさんにこんなモノ着こなせってのが酷だったな」
真っ赤になっているフランソワーズから、ジェットがひょいっとつまみ上げた水着を、ジョーはひったくるように奪い取り、叫んだ。
「誰がバアさんだ!フランソワーズに謝れっ!」
「…るせーな、ムキになるんじゃねーよ、ガキが」
「君こそ、この時代のことなんか何もわかっちゃいないだろう…!フランソワーズがコレを着たら、あんな女の子たちより、ずーっと!」
……あ。
ジョーははっと我に返り、口を噤んだ。
同時にフランソワーズが立ち上がり、両手で顔を覆うと、居間を駆け出していった。
「…見ろ、泣かせちまった」
「だ、誰がだよっ?」
ジェットはその翌日、ニューヨークへと発ち。
さらに数日たって今度はアルベルトが訪れ。
そして、フランソワーズはためらいがちにジョーに頼んだのだった。
海岸で遊んでみたいのだけど、一緒に来てくれないか…と。
3
一応、いろんなモノを用意しておいた。
鮮やかなビーチボールとか、浮き輪とか、念のため砂遊びの道具も。
ジョー自身、実は海で遊んだ経験などあまりなかったし、ましてフランソワーズがどんな遊びをイメージしているのか…となるとさらに見当がつかない。
でも、彼女が「遊びに行きたい」と言い出すのは本当に珍しいことだったのだ。
せっかくだから、とても楽しかった、と思ってもらいたい。
落ち着いて色々考えてみると、ジェットが水着を買ってきた気持ちもなんとなくわかるような気がする。
ジョーだって、あのとき…水着姿の女の子たちに囲まれてしまったとき、ちらっと彼女もこの子達と同じ年頃なんだ…と思わないでもなかったのだ。だからこそ、ついよけいなことまで口に出してしまったともいえる。
フランソワーズは、誘拐されたとき19才だったのだという。自分よりたった一つ年上なだけだ。
が、彼女はどう見ても、そうは思えないほど大人っぽく、物腰も落ち着いている。正直、彼女が水着姿ではしゃいでいるところなんて、想像もできない。
できないけど……そういうことがあってもいいじゃないか、ともジョーは思うのだった。
戦いが終わり、一緒に暮らしているうちに、ジョーはフランソワーズの思いがけないほど無邪気な笑顔や、愛らしい仕草に気付くようになった。彼女は、自分とそんなに年の変わらない女の子なんだと……そう、実感することもよくある。
…だから。
が、その日。
羽織っていたTシャツをテラスで脱ぎ、ビキニ姿になったフランソワーズは、そこから目と鼻の先の波打ち際までおっかなびっくり歩いていくのがやっとで、ついには、両手で胸を隠すようにしてしゃがみこんでしまったのだった。
ジョーは慌ててテラスへ駆け戻り、自分のパーカーを持ってくると、そうっとそれを彼女の肩にかけてやった。
フランソワーズは小さく震える声で、ごめんなさい、とつぶやいた。
4
日が暮れてから、薄暗い部屋の中で、フランソワーズはこっそりあの水着に着替えてみた。胸元を隠していた両手をおそるおそるはずし、思い切って鏡をのぞき込んでみる……が、反射的に目をそらしてしまう。
チャイナドレスも恥ずかしかったけれど、コレの比ではない。どんなバレエの衣装だって、ここまでもの凄くはなかった。第一、コレは舞台衣装ではないのだ。
このまま、まぶしい真夏の太陽の下に出なければいけないわけで…!
手早くシャツとジーンズを身につけ、ほてった両頬を押さえると、フランソワーズはベッドに腰掛けて、雑誌の水着特集ページを開いた。
002には申し訳ないけれど、もっと違うのを…買ってみようかしら。
コレなら…なんとか着られるかもしれないわ。
こっちも…フツウの服に見えなくも…ないし。
口が悪く短気だけれど、ジェットが心優しい青年であることを、フランソワーズはよくわかっていた。
選び方は少々極端というか、多分に彼の趣味だけで突っ走ってしまった感があるものの、水着を買ってきた彼の真意は、フランソワーズに、この時代のフツウの娘として幸せに生きてほしいという願い…ただそこだけにあるのだと思う。
それは、きっとジョーも同じ。
昨日から、がちゃがちゃと玩具のようなものを一生懸命用意していた彼の姿を思い出し、フランソワーズはふんわり温かいものを胸に感じていた。
優しいわ……二人とも。
…でも。
どうしようもなかった。
どーしてもどーしても恥ずかしい。
ただ、恥ずかしいだけではない。
こんな心細い格好で、あのざぶざぶ打ち寄せる波の中に入っていくのかと思うと、気が遠くなりそうだった。
仮に水に入らないとしても、ジョーが用意した大きな風船のようなもので遊んだり、かがみ込んだりする……だけで、何かが起きてしまいそうな怖さがある。
子供の頃、海で遊んだことはなかった。それがまた、戸惑いになるのかもしれない。小さい時から自然に遊んでいれば、水着のことなんてそれほど気にならずに……
「そうだわ!」
フランソワーズは思わず手を打って飛び上がった。
そうよ…!
どうして思いつかなかったのかしら。
イワンが、いるじゃない…!
5
さあっと勢いよく波が押し寄せる。
フランソワーズは立て膝のまま、じたばたするイワンを少しだけ持ち上げてやった。
「ツメタイヨー!」
「ふふっ、でも気持ちいいでしょう?」
「…ウン」
「ちょっとこわかった?」
「…ベツニ」
くすくす笑いながら、フランソワーズは振り返った。ジョーがテラスから飛び降りるようにして走ってくる。
「よかったわね、イワン…ジョーがお水持ってきてくれたわ」
「ヤレヤレ、助カッタ…コンナ暑イトキニ赤ン坊ヲ外デ遊バセルンダッタラ、モットチャントシタ用意ヲシテホシイネ」
「…まあ!」
「フランソワーズ!イワン、大丈夫かい?こっちで飲ませる?」
「ええ、そうするわ…ありがとう、ジョー」
ぽたぽた水滴を垂らしながらイワンを抱いたフランソワーズが波打ち際から戻ってくるのを、ジョーは感心して眺めた。
こんな水着があるんだ……
ちょっと見ただけでは、フツウのタンクトップとショートパンツにしか見えない。おまけにいつものようにイワンの世話をしている彼女の様子はごく自然で、この間の緊張した雰囲気など、どこにもない。
「もう帰った方がいいかしら……」
「セッカクダカラ、モウ少シ遊ビタイナ」
「…でもイワン、日焼け……」
パラソルの下で、哺乳びんから湯冷ましを飲み終えると、イワンはぽん、とジョーの膝の上に日焼け止めクリームを飛ばした。
「モウ一度塗リ直シテヨ…ボクモ君ガモッテキタおもちゃデ遊ビタイ」
「…わかったよ、イワン」
懸命に笑いをこらえ、ジョーはうなずいた。
6
「ああーっ!」
3人は一斉に声を上げた。
ひときわ大きな波が押し寄せ、築き上げた砂山の半分をえぐってしまう。
「せっかく作ったのに…!」
「コウナルコトハ、ワカリキッテタケド」
「そうさ、だから面白いんだよ…さ、もう一度…わっ!」
「きゃっ!」
立て続けにもうひとつ大きな波が寄せてくる。
フランソワーズは慌ててイワンを持ち上げ、小さく悲鳴を上げた。
ぺったり座り込んでいたジョーも、素早く立ち上がろう…として、手にしたシャベルを放り出してしまった。
「シャベル、流されちゃうわ…!」
「僕が、取ってくる!」
波にさらわれ、あっという間に見えなくなった小さい赤いシャベルを追いかけて、ジョーは一目散に海へ駆け込んでいった。
「大丈夫カナ……ふらんそわーず、見テアゲタラ?」
「…たぶん…大丈夫よ、ジョーだもの」
フランソワーズが言い終わらないうちに、少し離れた波間から茶色の頭がのぞいた。ややあって、高々と上げた手には、赤いシャベルがしっかり握られている。
「サスガ、009」
「ほんとね…」
「マア、タトエバ004ダッタラ、ハジメカラ落トシタリシナインダロウケド」
「…イワンったら…!」
ゆったりと泳いでくるジョーを見るともなく見ながら、フランソワーズはつぶやいた。
「ありがとう、イワン…」
「…ナニガ?」
「私と、遊んでくれて」
「……」
「海でこうやって遊ぶなんて…思いつきもしなかったわ…」
「ボクモサ…結構、タノシイモノダネ」
「…まあ」
軽く赤ん坊の頬をつつき、フランソワーズは微笑した。
「009にも…002にも、お礼…言わなくちゃ…ね」
「ソンナノ、イイサ、ベツニ…ダッテ、彼ラモ……」
え?とのぞきこむフランソワーズの視線から隠れるように、イワンは彼女の胸にぎゅっとしがみつき、小さい頭を埋めるようにした。
7
なんだかむやみに厚い封筒を開くと、手紙の間から、数枚の写真がばらばらと落ちてきた。
大儀そうにそれを拾い上げ、ジェットは、目を見開いた。
「…なんだ、こりゃ?」
手紙を広げる。
ギルモアから二枚。ジョーから一枚。フランソワーズから三枚…の便せんが折り畳まれていた。
ギルモアの手紙には、メンテナンス後の注意点を中心に、細かい指示がびっしりと書き込まれている。思わず苦笑しながら適当に読み飛ばし、次にジョーの几帳面な字を追い、ふん、と鼻をならす。
最後に、フランソワーズの端正な筆記体に目を走らせ……長いことジェットはそのままの姿勢でじっと動かなかった。
やがて、ジェットはのろのろと手紙を手から落とし、代わりに同封されていた写真を拾い上げた。
コズミ博士が写したのだというその写真には、ギルモアとジョー、フランソワーズとイワンが収まっていた。何やら華やかに見えるランチボックスを囲んで、幸せそうに笑っている。背景には青い海があった。
「俺様に、ココに混ざれってか…?ふざけやがって」
芸風が違いすぎるぜ、とつぶやき、ジェットは写真をテーブルの隅に伏せて重ねた。
とりあえず今のところはなんでもいいさ、バアさん。
とにかく遊べるようになったんなら…遊ぶってことを思い出したんなら、な。
ま、始めはこんなもんか。
軽く準備運動…ってとこだろう。
だが。
来年の夏はアレを着ろよ。
俺様がもっとスゴイことを教えてやるぜ。
…るせーな、009。
こんなトコロに混ざれっか。
だから、芸風が違うんだよ、てめーとは。
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