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四周目


  8   戯言(新ゼロ)
 
 
「ミナは、本当に素晴らしいバレリーナよ。誰だって夢中になるわ」
「そうだね。僕も彼女のファンだ……君の、次にね」
 
さらっと言い切る言葉に思わず盗み見た彼の横顔は、あくまで端正で優しい。
穏やかに微笑したまま前方を見つめ、ハンドルを握っている彼に、フランソワーズはほうっと息をつき、微かに頬を染めた。
 
びっくりした。
いつの間にこんなこと言うようになったのかしら、この人。
 
レーサーとして認められ、世界的に活躍してきた、というのは、こういうことでもあるんだわ…とフランソワーズはこっそり思った。
あの、無口で無愛想で、不器用だった少年……初めて出会ったころの009とは別人のようだった。
 
嘘つきね。
バレエなんて見たことないくせに。
 
そう言いかけて、口をつぐんだ。
 
この人は、大人になったんだわ。
だったら、私もこれぐらいの冗談、軽く受け流すことができるようにならなくちゃだめね。
 
 
 
自分の「003」としての役割は、もちろん索敵とナビゲーター。
そして、もう一つある、とフランソワーズは思っている。
唯一の女性メンバーとして、仲間たちの気持ちを和ませること。
 
それって、男女差別じゃない?と、パリの友人たちなら言いそうだ。
でも、仕方がない…かもしれない。
どう考えても、自分には他にできることがないのだから。
仲間達に差別する気があろうとなかろうと、003の戦闘力が極端に低く、彼らと同じように動くわけにはいかないことは明白なのだ。
 
仕方ないわ。
できることをするしかないのよ。
 
疑問が浮かんだときは、そんな風に自分をなだめた。
そもそも、仲間達は皆慕わしく、彼らのために自分ができることがあるなら、どんなことであろうと惜しむ気持ちにはならない。
もちろん、彼らは極めて紳士的でもあるから、003を女性と意識した上でのちょっとした冗談を言いかけられることがあっても、そこから厭な感じを受けることはほとんどない。
たまーに、007の言葉にむっとしてしまうことがあるにはあるけれど……
 
「003」は彼らにとって、「女性」の象徴のようなものでもあるのだろう。
そんなモノになりきるのは無理だとしても、自分がそうあることを求められている…ということは自覚しておくべきだと、フランソワーズは思う。
 
仲間達のプライバシーに踏み入ることはほとんどない。
まして戦いを離れている時、彼らがどう暮らしているのか、など、知るよしもない。
が、彼らがそれぞれの故郷に恋人を残してきている…とは何となく思えないのだった。
心惹かれる女性を前にして、自分がサイボーグであるということを彼らが忘れるはずはなく、忘れられない以上、特定の異性とそういうつきあい方をすることもないように思う。
一番生身に近い自分でもそうなのだから。
 
だから……とフランソワーズは思う。
自分は、戦いの中で彼らが安心して手に入れることのできる安らぎでありたい。それも「003」の役目であるはずだから。
 
仲間の中で、一番不器用なのは009だった。
他の仲間達が、それぞれ自分なりのやり方で「003」を受け入れていたのに対し、彼だけはあくまで頑なだった。
出会って間もないころなどは、彼を気遣うたび、いかにも不快そうに睨みつけられていたものだ。
が、そんな彼の態度に困惑しながらも、フランソワーズはどこかでほっとしていた…ような気もする。
 
どうしてそんな真似をする?
それが本当のオマエなのか?
 
そう糺されているように思えた。
嫌われていると感じるのは辛かったが、彼の鋭い眼差しは美しく澄んでもいて、この人に見てもらっていれば大丈夫、という気持ちになれた。
そういう少年だからこそ、009は年少であるにも関わらず、いつの間にか仲間のリーダーになっていたのかもしれない。
 
 
 
003は、誰にでも優しい。
 
ジョーがそう気付くのに、多くの時間は必要なかった。
 
誰にでも優しくあろうとする者に、ジョーは何度も会ったことがある。
とにかく、自分に手を差し伸べるのはみなそういう者だったのだ。
 
それならそれで、うまくやってくれさえすればよかったのかもしれない。
が、最後までその芝居をやりとおせる者などなく、彼らは必ずいつかボロを出した。
彼らには本当に大切な者があり、心から優しくできる者があり、そして、それは決してジョーではなかったのだ。
 
003は不思議な少女だった。
どんなに意地悪い視線で観察しても、彼女はいつも誰にでも優しい。
そうとしか見えなかった。
 
彼女の家族はパリにいるのだという。
ある日、そう語った003は、慕わしく切ない思いを美しい青い目いっぱいに浮かべ、そしてそのままジョーをまっすぐに見つめた。
思わずたじろぎ、その視線を断ち切ろうと、ジョーは精一杯の冷たい声で彼女に報いた。彼女の心を思いやるゆとりなどなかった。
 
彼女を試そうとしたわけではない。
ただ、恐ろしかった。
彼女の優しさに身をゆだねてしまったら…その甘さを知ってしまったら。
だから、ジョーは003のあらゆる好意をはねつけることにした。
そうしていれば、彼女はいつかきっとあきらめてくれるだろうと思ったから。
 
やがて、ジョーはそんな自分を深く恥じることになる。
003はあきらめなかった。
どんな仕打ちを受けても、彼女はあくまで優しかったのだ。
そして、その優しさは、変わらずわけへだてなく仲間全てに与えられていて。
 
こんな人がいるのか。
本当に、誰にでも優しくできる人が。
 
ジョーは恐れと憧れの入り交じった思いで003を見つめるようになった。
この人の優しさがほしい、と心から思った。
それでも、自分が思うままに求めてしまったら、彼女を壊してしまうかもしれない。
 
ジョーは他の仲間達をじっと観察した。彼らが、どのように003を受け入れているか。
彼女を壊さないように、そして時には彼女に何かを与えることができるように。
 
それが、それまで誰もジョーに教えてくれなかった、他者を受け入れること…につながると、自覚していたわけではない。
が、水が砂地にしみこむように、彼はそれを身につけていった。
 
気付けば、いつも心から離れることのなかった渇きが消えていた。
少なくとも、それを強く意識することはなくなっていたのだ。
 
 
 
「それじゃ、僕たちはここで。久しぶりの友達だろ?ゆっくりしてくるといいよ」
 
それだけ言うと、009はくるりと背を向け、不満げな007を引きずるようにして去っていった。
思わず微笑しながら、フランソワーズは微かな胸の痛みを感じていた。
 
いつか…こんな日がくるのね。
この戦いが、終わったら。
 
久しぶりに再会した仲間達の中で、一番変わったのは009だと、フランソワーズは思う。
身なりや動き方がどこか洗練された感じになり、控えめではあるけれど、誰とでも気さくに話をするようになった。
いつも生真面目に引き結ばれていた唇は柔らかく綻び、時にはさっきのような軽口も言う。
彼と話すことが楽しいと思うなんて…以前なら想像すらできなかったかもしれない。
 
それでも、ふと懐かしく思うことがある。
あの、気むずかしい…全身で他者を拒んでいた009が。
 
私は、もう二度と…あんなあの人を見ることはないのかもしれない。
本当の…あの人。
 
そして、いつかこんな風に笑って別れていくのね。
ああ、そんな平和な日が早く…早く来ればいいのに。
 
 
…本当に?
 
 
呼び鈴を鳴らす前に、フランソワーズはふと振り返った。
二人の姿はもうなかった。
 
 
 
気配がした。
と思った瞬間、007が「早いな」とつぶやいた。
低い声だった。
 
 
足音が近づいてくる。
003だ。
 
帰ってこない、なんて思ってはいなかった。
でも、帰ってこなくてもしかたないかもしれない…とは思っていた。
 
重厚な大久保家の門扉。
その中に、軽い足取りで入っていったフランソワーズ。
 
子供の頃、近所に大きな屋敷があった。
その門はいつも固く閉ざされていて。
中にはどんな人が住んでいるのか…どんな暮らしをしているのか。
ふとそう思うことがあった。
 
こんな、人だったんだ。
 
ひどく合点がいった気がする。
彼女はもともと、この門の中で暮らす人だった。
 
もちろん、今の自分なら。
彼女と一緒にこの門をくぐっても許されるのかもしれない。
誰も咎めないかもしれない。
 
でも、それは本当の僕じゃない。
 
ジョーはきゅっと唇を噛み、軽く深呼吸した。
003が戻ってくる。笑顔で迎えよう。
そして……
 
「ごめんなさい、待たせてしまって…!」
 
申し訳なさそうに駆け寄る003に、007が芝居っ気たっぷりにむくれてみせた。
 
「まったくだ、いつまで待たせるんだよ?……もう戻ってこないかと思ったぜ、なあ、009?」
 
ジョーは聞こえないふりでクルマのキーを取り出した。
そうだよとも、そんなことないよ、とも言えない。
 
僕にはまだ、言えない。


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