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五周目


  4   願望(新ゼロ)
 
 
突然笑い出したジョーに、少女は始め驚き、ややあって非難の眼差しを向けた。
 
「何が、おかしいんですか、島村さん?」
「ご、ごめん…だって、そんな真剣な顔で、何を言われるんだろうと思ったから……!」
「私は、真剣にうかがってるんです」
「…そう、言われても」
「ちゃんと返事をして下さい!」
「その必要はないと思うな…今の僕を見て、わからない?」
「わかりません!」
 
まだどこか笑みの残っている栗色の瞳を、少女はきっと睨んだ。
ジョーはようやく笑いをのみこみ、息をついた。
 
「彼女は、僕の仲間の一人で……ナンバーは003。これ以上、君に話すことはないよ」
「…だって、あの人、いつもあなたの傍に……」
「仲間だからね。特に、今は作戦中だ」
「島村さん…!」
「言っただろう?これ以上、君に話すことはない」
 
立ちすくむ少女をその場に残して、ジョーはさっさと歩き出した。
さっきから、つかず離れずの距離を保ってつけてくる気配がある。
そろそろ何か言ってやろうかと思ったちょうどそのとき、タイミングを計っていたかのように、しわがれた声が語りかけてくる。
 
「で?ずいぶん楽しそうにバカ笑いしてたじゃないか。なーにが、そんなにおかしかったんだい、色男?」
 
ジョーは立ち止まった。
ウンザリしながら振り返ると、どうにもこうにもくたびれた様子の犬がだらんと舌を垂らし、見上げているのだ。
 
「君こそ、何遊んでるんだよ、ブリテン。そっちはどうだったんだ?」
「順調順調。間もなく作戦は無事終了、だな。オマエさんももう少しのんびりしていて構わないぜ?なかなかカワイイじゃないか、今の娘…フランソワーズにはナイショにしといてやるから……」
「僕をからかいたいなら、気がすむまでやれよ。でも、彼女にひと言でも余計なことを言うなら…」
「…っと、なんだよ…おっかねえ顔すんなって……笑い飛ばしといてよく言うぜ」
 
たじろぎながら、口の中でもぞもぞ文句を言う犬を、ジョーはそれこそ犬として黙殺した。
彼が何を言いたいのかは、手に取るようにわかる。さっきのジョーの態度が、フランソワーズを侮辱するものだと思っているのだろう。たしかに、そう言われても仕方がないかもしれない。
 
…仕方がない。そう、仕方がないんだ。
 
ジョーは思わず唇を噛みしめた。
 
 
 
これは、夢だとわかっている。
そうだ、夢だ。
 
だから、もういいじゃないか。
夢なんだ。だから、このまま……
 
ともすれば、ひきこまれそうになる甘い囁きに、ジョーは懸命に首を振り続けた。
ぎり、と音がするほど、堅く歯を食いしばる。
それでも、もう限界……なのかもしれない。
やがて、ジョーは声にならない声を上げていた。
 
「………っ!」
 
カッと目を見開くと、まぶしい光にさらされている。
何が起きているのかわからない。
思わず、傍らに震える手を伸ばしたとき。
 
「ジョー…ジョー、大丈夫?」
「わあっ!」
 
突然叫ぶなり飛び起きたジョーの勢いに、フランソワーズは息をのみ、僅かに身を引いた。
 
「うなされていたわ……悪い夢を見たの?」
「…夢…?」
 
そうだ。
夢だったんだ……もちろん。
 
ジョーは大きく息をつき、ぎゅっとシーツを握りしめた。
そのままなんとか呼吸を整えようとしたときだった。
ふわっとやわらかい気配に包まれた。
 
咄嗟に思い切り払いのける。
 
はっとした時は遅かった。
壁まで突き飛ばされたフランソワーズが、怯えた目でこちらを見上げている。
謝らなければと思うのに、声が出ない。
 
「…ごめんなさい…汗が……ひどかったから。はい…これ」
 
フランソワーズはなんでもなかったようにすぐ立ち上がり、呆然としているジョーに、白いタオルを手渡した。
 
「待ってくれ…!ごめん……フランソワーズ、あの…」
 
やっと言えた。
フランソワーズは振り返り、微笑んで首を振った。
 
「お水、持ってきましょうか?」
「…いや」
 
低いエンジン音に、ジョーはようやく気付いた。
そうだ、ここは、ドルフィンの仮眠室だ。
と、いうことは……
 
「交代の時間かい…?」
「いいえ、まだよ…もう少し休んでね」
「…フランソワーズ、どうして……君、ここに…?」
 
聞くのが怖い。
が、聞かずにいられない。
フランソワーズはちょっと困った顔になった。
 
「イワンのミルクを取りに行こうとしたら、あなたの声が聞こえて…とても苦しそうだったから」
「僕、何か……言ったのか?何て…?」
「何を言っているのかは、わからなかったけれど……」
「……」
 
探るように見つめられ、たじろぎながらも、フランソワーズは笑顔を作った。
ジョーが、何か苦しみを抱え込んでいるのは十分すぎるほどわかる。
そして、自分にはなすすべがないことも。
 
私には、何もできない。
もし、ここにいるのが別の女の子だったら、あなたを慰めてあげることもできるかもしれないのに。
 
いけないと思うほど、涙がでそうになる。
フランソワーズは彼の視線から逃れるようにそそくさと背を向け、足早に出て行った。
 
軽い足音が遠ざかっていく。
ジョーは大きく息を吐き、両手で頭を抱え込んだ。
 
…僕は、馬鹿だ。
 
 
 
叶う見込みのないことを願うのは、愚かにちがいない。
だから、いつも遠ざけてきた……はずだった。
 
ジョーは再び横たわり、暗い天井を見つめた。
もう、眠りたくない。またあの夢に引き込まれるなら。
そして、引き込まれることを心のどこかで願っている自分自身も、たまらなく疎ましい。
 
あの少女のせいだ、とジョーは苦々しく思い出す。
彼女の言葉が、堅く閉ざしていた心の扉を容赦なくこじ開けた。
 
彼女の瞳があんなに澄んでいなければ。
彼女の声があんなに愛らしくなければ。
彼女は…そうだ、彼女は、どこか似ていたのかもしれない。フランソワーズに。
 
会わなければよかった。
関わらなければよかったのだ。
 
彼女に?
それとも、フランソワーズに…?
 
ジョーは大きく首を振った。
こんなことで、いつまでも動揺しているわけにはいかない。
戦いは終わった。
でも、本当に終わったのではないのだから。
 
「私たち、どう見えるかしら?」
 
もうずいぶん前になる。
そんなことをフランソワーズに聞かれた。
あの少女と同じ、澄んだ瞳がこちらを見ていた。
 
あのとき、僕は……。
 
思い出すと胸が苦しい。
あのときは、さらっとかわすことができたのに。
 
そうだ、あのころ、僕たちは幸せだった。
 
彼女が、僕の胸で涙を流したあの夜でさえ。
震える彼女の肩を抱きしめながら、僕の心は彼女と同じ悲しみでいっぱいだった。
他に、入り込むものなど何一つなく。何を望むこともなく。
僕たちは、あのころ本当に幸せだったんだ。
 
「あの人は……あの、きれいな人は、島村さんの恋人なんですか?」
 
あのころの僕なら、造作もなく問い返しただろう。
「そう見えるかい?」と。
 
 
 
叶う見込みのないことを願うのは、愚かだわ。
まして、そうでなくとも足手まといの私なのに。
 
フランソワーズは何度目かの溜息をついた。
なんとか涙だけは押さえ込んだが、このまま仲間達の前に出て行くのははばかられる。
長いつきあいの彼らには何かを感じさせてしまうだろう。
それほど、心が乱れていた。
 
もう、とっくにあきらめたはずだった。
願うことすら忘れたと思っていた。
 
聞かなければよかった。
耳を澄ませていたわけではないのに……いや、もしかしたら澄ませていたのかもしれない。
 
作戦の中で出会った美しい少女。
彼女がジョーに惹かれていくのは手に取るようにわかった。
それも、いつものこと。
 
ジョーは、終始、少女に冷淡だった。
彼が彼女に向けていたのは、いつも、限りなく優しい……そして、恐ろしく冷たい視線。
それは、かつて何度となく、彼がフランソワーズに向けた視線でもあった。
 
何も起きるはずなどなかったし、起きたとしても、自分には関係のないこと。
そう思っていたのに、どうして聞いてしまったのだろう。
まして、今更傷つくなんて。
 
さすがに、笑い飛ばされるとは思っていなかったのかもしれない。
ということは、まだ心のどこかに、願いは息づいていたのかもしれない。
 
「私たち…どう見えるかしら?」
 
そう、彼に問いかけたことがあった。
もう遠い昔のような気がする。
 
あのころ、私は無邪気な少女だった。
彼を愛することに夢中で……他には何もいらなかった。
何の見返りも望まず、ただ彼を愛することができた。
 
もちろん、私の愚かな問いを、彼は優しくあっさりとあしらって…それでも、私は幸せだった。
あのころ…私たちはなんて幸せだったのかしら。
 
「あの人は……あの、きれいな人は、島村さんの恋人なんですか?」
 
そんな言葉に、彼がうなずくことなんてありえない。わかってる。
でも、私は……まだ願っていたのかしら。
心のどこかで願っていたのかしら。
きっと、そうなんだわ。
だから、信じていた。
 
彼は、曖昧な微笑をうかべて「そう見えるかい?」と問い返すはず。
優しくて冷たい……誰もよせつけない、あの微笑で。
 
笑い飛ばされるとは、思っていなかった。
 
本当に、馬鹿なフランソワーズ。
もうこんなことは終わりにしなければ……
 
 
 
あと一晩だった。
夜が明ければ、僕たちはここを離れ、それぞれの暮らしに戻るはずだった。
いつものように。
 
どうして、君は我慢できなかったんだろう。
どうして、僕の部屋を訪ねたりしたんだろう。
 
僕がうなされているなんて…君にとってはどうでもいいことじゃなかったのか。
関わっても余計な災難にあって、不愉快な思いをさせられるだけだろう?
作戦が終われば…ドルフィンを降りれば、君が僕を気遣う必要などないはずなのに。
 
いや、違う。
そうじゃない。
彼女はそういう人だったじゃないか。
どんな目に遭わされても、いつも優しく笑っていた。
いつも、僕を許してくれた。
 
それなのに……どうして、僕は。
 
ジョーは震えるフランソワーズを堅く抱きしめ直した。
 
ああ、これは…夢じゃない。
あの夢の続きでは……ないんだ。
 
「どう…して……?」
 
弾む息の間から、フランソワーズが儚く問いかける。
返事の代わりに、ジョーは深い口づけを返した。
 
どうして、なんて…わからない。
君にわからないなら、なおのこと。
 
わかっているのは…もう、君を手放せなくなったということ。
それだけだよ。
 
それだけなら…君にもわかるだろう?
 
いや、わからなくてもいい。
わかるまで…こうしているから。
僕がずっと、ずっと……気が遠くなるほど長い間閉ざし続けた、狂おしい願い。
その全てが、君に伝わるまで。
 
 
 
「私たち、どう見えるかしら?」
 
研究所からほど近い海岸を、二人でのんびり散歩している時だった。
不意に問いかけられ、ジョーは目を見開いた。
青く澄んだ瞳が心配そうに見上げている。
 
「…フランソワーズ?」
「いや、笑わないで!」
 
悲痛な声に、ジョーは首を傾げた。
そうっと両手をのばし、彼女を抱き寄せる。
 
「どうしたんだ?急に……そんなこと」
「…笑わないで」
「笑わないよ…だって、君…今にも泣きそうじゃないか」
 
そのまま堅く抱きしめ、亜麻色の髪に頬を寄せながら、囁いた。
 
「笑いそうになったのは…そうだな、たとえば君は、どう思うんだい?今の僕たちが、どう見えると思ってるの?…こんなこと、しているのにさ……」
「…ジョー!」
 
途端に胸の中で、真っ赤になった顔がジョーをにらみつけた。
 
「意地悪…!」
「本当におかしなことを気にするんだなあ、女の子って」
「女の子に詳しいのよね、ジョーは」
「…え」
 
突き飛ばすようにしてフランソワーズが離れていく。
ジョーは少し慌てた。
 
「待てよ…!女の子に詳しくても、僕、君にはそれほど詳しくないんだけどな…」
「どういうこと…?」
「いいから、待てってば…!」
「いやよ!ジョーなんて、嫌い!」
 
あっという間に駆け去っていく彼女の背中を、ジョーは何ともいえない幸福感の中で見送っていた。
 
どこまで走っても、僕から逃げることなどできないのに。
でも、すぐに追いかけよう。
ちゃんと捕まえておかないと、もしもってことがあるからね。
もうあんな思いは……ごめんだ。
 
君を追いかける。必ず手に入れる。
手に入らない願いなんて、ないから。
 
ジョーは深呼吸すると、軽く砂を蹴った。
 
 
人が、僕たちをどう名付けようと、もうそんなことはどうでもいい。
そうだろう、フランソワーズ?
僕たちは、僕たちのままなんだから。
 
いつも同じ願いで結ばれていた。
果てしなく遠く、叶うことなどない願いに思えたけれど。
でも、そんなときでさえ、僕たちは同じ願いを持ち続けていたんだ。
 
今、溢れた願いが重なりあって、僕たちはここにいる。
いつまでこんな時間が許されるのかはわからない。
それでも、僕たちは僕たちのままだよ、フランソワーズ。
 
出会ったあのときから……これからも、ずっと。
 


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