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五周目


  7   溜息(超銀)
 
 
気配がした。
どこか、覚えのある気配だった。
遠い、記憶の底の……
 
「よかった、気がついたのね」
 
明るい声。
明るい光。
咄嗟に目を細めた。
 
「まだ動いてはダメよ、009……どこか、苦しいところはある?」
 
また、この女か。
 
舌打ちしそうになるのをとりあえず押さえ込み、彼は無言のまま目を閉じた。
 
放っておいてくれ。
 
そう言うのも煩わしい。
こうやってつきまとわれるのが一番消耗する。
本当に僕のためを思っているというのなら、とにかく出て行ってほしい。
 
ふくれあがり、飛び出しそうになる言葉を押さえつけ、代わりに深い溜息をつく。
心配そうに見下ろしていた青い瞳が、微かに揺れた。
 
「ギルモア博士を呼んでくるわね…」
 
この女はいつも微笑んでいる。
たしかに、美しい笑顔だ。美しい女だ。
でも、それに惑わされ、踊らされるほど僕はお人好しじゃない。
まして、こんなわけのわからない極限状態の中で……
 
立ち上がり、静かに部屋を出て行く彼女を見ないように、その気配も感じ取らないようにと、彼は堅く目を閉じ、五感を閉ざした。
だから、ドアが締まる瞬間、彼女がふと漏らした溜息にも、彼は気付かなかった。
 
 
 
見ないようにしていたのは、見ずにいられなかったからだ。
遠ざけようとしていたのは、近づきたくてたまらなかったからだ。
 
そのことに気付いたとき、どうにもならない切なさが、彼の胸を締め付けた。
 
どうにもならない。
どこまでも清浄なこの女性に、自分が触れることなどできないのだから。
望むことすら許されない。
だから、せめて憎むしかなかったのに。
 
どんなに見つめても、こんな自分を彼女が見つめ返すことなどない。
近づこうとすれば、逃げていくだろう。
手に入らないものを求めるのは、やめたはずだったのに。
…しかし。
 
「009、あなたも行くでしょう?」
「はい、これはあなたの分よ、009」
「ダメ、帰るのよ、009!…みんなと一緒に!」
 
それは、彼の欲しいものではなかったが、欲しいものによく似ていた。
 
彼女…「003」は、彼を「009」と呼んだ。
それは、生まれ変わった彼の呼び名でもある。
そのことに気付いてから、彼の迷いは消えた。
「009」として、自分は何をすればいいのか。答えは明らかだった。
 
正しいもの、美しいものを素直に愛する「003」の望みをかなえればいい。
 
「島村ジョー」には笑止噴飯モノだろう行為も「009」としてならあっさりできた。
戦火の村から助け出した子供が「お兄ちゃん」と彼を慕えば、優しく笑い返し、抱き上げる。
「003」がそうしたとおりに。
 
そんな「009」に「003」は心から嬉しそうに微笑み、深い信頼のまなざしを向ける。
それに勝る報酬を、彼はのぞまなかった。
 
戦いの終わりは、彼女との別れでもあった。
もちろん、十分承知していたことだったから、彼は取り乱したりしなかった。
「これから、どうするの?」という彼女の問いにも自然に答えることができる。
他の仲間達と同じように。
 
「日本に行くよ。何をしたいか…僕に何ができるのかは、まだわからないけどね」
「あなたなら、どんなことでもできるわ、きっと」
 
彼女の声には、心からの敬意がこもっていた。
そのことに、彼は十分満足した。
 
手紙を書くわ、また会いましょうね、という彼女の言葉にも素直にうなずいた。
彼女ならそうするだろうとわかっていたから。
自分が「009」としての責を忠実に果たせば、「003」は必ずそれに報いてくれる。
それは、彼が初めて得た「信じる」という実感だった。
 
それじゃ、さようなら…と手を振り、彼女に背を向けた瞬間。
ありがとうと言っていないことに、ふと気付いた。
気付いたら、無性に告げたくなった。
彼は、いきなり振り返り、彼女に駆け寄ると、その細い両肩をつかんだ。
 
「…ジョー?」
 
驚いたように見開かれた青い瞳の美しさに、彼は息をのんだ。
 
そうだ。
そうだった!
 
体が震える。
あるだけの気力をふりしぼり、ともかくも「ありがとう」と言った。
 
見てはいけなかったのに。
近づいてはいけなかったのに。
どうして僕は、忘れていたんだろう。
 
彼女がふわっと笑う気配に、彼は身を硬くした。
 
見てはいけない。見ずにはいられない。
近づいてはいけない。近づかずにはいられない。
触れてはいけない。触れずには……
 
はっと両拳を握りしめ、彼はやっとの思いで彼女に笑顔を返した。
 
「さようなら。元気で」
「ええ。私も…ありがとう、ジョー。あなたのこと……忘れないわ」
「うん…僕も」
 
忘れることなどできないだろう。
どんなに忘れようとしても。
 
欲しいものは手に入らない。
欲しいものに似たものは手に入っても。
それが僕の運命だというのなら、なぜ気付いてしまったのだろう。
 
日本へ向かう飛行機の中で、彼は繰り返し重い溜息をついた。
 
それでも、君に会えてよかった。
君が教えてくれた。人を信じる術を。
それだけで、僕は生きていけるだろう。
僕は、どんなことをしても君の「仲間」で居続ける。
君に信頼され、尊敬される「009」で居続ける。
 
それは僕の欲しいものではない。
欲しいものに似たものでしかない。
それでも。
 
それでも、それを手にすることは彼にとって十分に難しいような気がした。
それはこれからの生きる目的にもなるような気がした。
 
 
 
手に入らないものをあきらめることは、それに似たものが手に入りさえすれば、比較的たやすい。
それを、彼は実感することになった。
 
繰り返される戦い。
その経験を重ねるたびに「009」は彼の中で確かな存在となった。
そして、「009」の傍らには「003」がいる。
いつの間にか、仲間達もそれを暗黙の了解とし、彼自身もその状態に満足していた。疑問を抱くことさえなくなっていたのだった。
 
だから、別れも淡々としている。
その日、戦いを終えていつものように彼女と別れ、飛行機に乗り込んだとき、たまたま彼の隣には赤毛のレーサー仲間「002」がいた。彼と同じレースに出場するためだった。
 
「…呆れるほど似てるな、オマエたちは」
 
ウェルカムドリンクを飲み干し、空いたカップを握りつぶしながら面白そうに言う「002」に、彼はちょっと瞬きした。
 
「似てる?僕が、誰と?」
「フランソワーズさ。……アイツも、朝、オマエみたいな溜息ついていたっけ」
「…溜息?」
 
溜息をついた覚えなどない。
困惑する彼を一瞥し、ったく、イライラするぜ、と「002」はつぶやいた。
 
「俺なら、さっさといただいちまうがな。てめえで手放しといて、そんな溜息つくぐらいならよ」
「……」
 
そういう方面にはうとい…といっても、さすがにその言葉の意味ぐらいはわかる。
彼は黙り込んだ。
 
「002」もまた、「009」しか知らない。
彼はぼんやりとそう思った。
それは当たり前のことだったし、彼の望むところでもあった。
 
「何に遠慮してやがるんだかしらないが……ぼやぼやしてると、そのうちどっかの気障なパリジャンにもっていかれちまうぜ」
「003が…かい?これきり、戦いがなければ、それでも問題ないじゃないか。それに、また戦いがあったとしても…ギルモア博士と001がいれば、どうにかしてくれるはずだ。情報戦での戦力低下は避けられないけれどね」
「そういう話してるわけじゃねえよ…ナメてやがるのか、オマエ?」
 
めずらしく殺気を帯びた声で「002」は唸った。
ナメているつもりなど毛頭なかったから、彼はまた黙った。
 
「このレースが、最後だ」
「…え?」
「いくら走っても、オマエにはかなわないしな」
「…ジェット」
「オマエは走れ。オマエには、目的がある……。ただ勝負のスリルを楽しみたかった俺とは違う」
「……」
 
目的。
レースで得た報酬のほとんどを孤児救済のために寄付していることを言っているのだ、とすぐにわかった。
思えば、それもまた「009」としての行為だったに違いない。
 
「島村ジョー」なら、そんなことはしない。決して。
金持ちの気まぐれな哀れみなどいるものか、と唇を噛んでいた「島村ジョー」なら。
 
「僕は……」
 
ふとつぶやく彼を「002」はけげんそうに振り向いた。
 
「…どうした?」
「君がいなくなったら、僕はますますわからなくなるんだろうな…」
「…ジョー?」
 
僕は、誰なんだろう?
 
 
 
夕焼けが美しい。
そっとしておけば、世界はいつまでもこのままなのではないか、と思うほどに。
この星を狙う異星人の脅威…など、絵空事のようだ。
しかし。
 
「001」の予言は絶対だ。
破滅の日が近づいている。
たとえ、コマダー星の超文明を手にしたからといって、勝ち目のある戦いとは思えない。
 
ようやく…終わるのだろうか?
 
彼は、ふと思った。
 
これまで、死ぬ、ということは、考えたことがなかったような気がする。
覚悟はいつも決めていたと思うのに。
 
僕は、死ぬのかもしれない。
今度こそ、本当に。
そうすれば「009」は…消える。
永久に。
 
それは、自分にふさわしい最期のような気がした。
「009」の運命が死ねというのなら、それが自分の死なのだろう。
それでいい。
 
できれば、異星人の脅威をとりのぞき、この夕焼けを守って死にたい。
どんな戦いになっても。
「009」が命を落とすような熾烈な戦いになるのなら、他の仲間も無事ではないのかもしれない。
それでも……
 
それで…も…?
 
彼ははっと目を見開いた。
呆然と水平線を見つめる。
が、その目にはもう何も写っていなかった。
 
そうだ。
もし、そうなら…「009」が死ぬのなら、「003」は?
「003」も…死ぬ、のか?
 
もちろん、そうだ。
 
「003」が生きて戦っているかぎり「009」は死なない。
彼女を守るために。
その「009」が死ぬ、ということは……!
 
彼は思わず両手で口元を押さえ、かがみ込んだ。
すさまじい嘔吐感がこみ上げる。
 
落ち着け、よく考えろ…!
そんなことがあるはずない。
そんなことが、あっていいはずない…!
 
浅い呼吸を繰り返し、やがて彼は深い溜息をついて立ち上がった。
 
そんなことがあってはならない。
どうすれば…!
 
まだ混乱している思考を断ち切ったのは、澄んだ優しい声だった。
 
「ジョー…また、考え事ね」
「…!」
「何を…考えているの?」
 
彼はゆっくり振り返った。
彼女が心配そうに見つめている。
あの、青い瞳が。
 
不意に、答が見つかった。
そうだ。
それが「009」の答だ。
 
だから、ゆとりをもって微笑することができたのだ。
いつものように。
 
「フランソワーズ……わからないかい?」
 
 
 
「ジョー、何を考えているの?」
 
細い声に、我に返った。
腕の中で、彼女が心配そうに見上げている。
覚えず、微笑した。
 
「いろんなこと…さ。君と初めて会ってからのことを、ずっとね」
「……」
「僕は、夢を見ているのかもしれない」
「ジョー…?」
「君を地球に残して、ゾアと戦って、さし違えて…死ぬところなのかもしれないな。そして命の最期に、こんな優しい夢を見ている…本当に欲しかったものを手に入れることができた夢…」
「ジョー、何を…!」
「嘘だよ、フランソワーズ…でも、君がこんなに温かくなかったら、本当にそう思ってしまうかもしれない」
「……」
「また、僕をぶつかい?」
「…ジョー」
 
彼女がぎゅっと胸に頬を押しつけてくる。
やがて、あたたかいものが彼の胸を濡らしていく。
 
また、泣かせてしまった。
 
彼はぼんやり思う。
彼女の髪をそっと撫でながら。
 
僕はやっぱり…君に触れてはいけなかったんだ。
君はあれから泣いてばかりだ。
あの星でも…宇宙の果てでも…今も。
そして、きっとこれからも。
 
「私…あなたに触れてはいけなかったんだわ」
「…フランソワーズ?」
「わかっていたの…私は、あなたを苦しめるだけだって」
「フランソワーズ…何を」
 
彼女は顔を上げた。
涙がとめどなく頬に流れていく。
拭おうとそっと伸ばした指を、彼女は静かに押しやった。
 
「あなたは、本当は私を嫌いだった」
「フランソワーズ!」
「でも、仲間だから…我慢してくれていたわ。本当の自分を殺して。00ナンバーのリーダーとして。わかっていたの。だから…言ってはいけないって…思って、ずっと…」
「……」
「それなのに、あなたが好き…止められないの!あのとき、あの海岸で、もう二度とあなたに会えないかもしれないと思ったら、我慢ができなかった……ごめんなさい…ごめんなさい、ジョー…!」
 
彼は、黙って彼女を強く抱き寄せた。
喉が詰まって何も言えない。
ただ、彼女を抱きしめ続けた。
 
「君の言うとおり…僕は、君が嫌いだった。今でも、嫌いだ」
 
やがて、彼が絞り出した声に、彼女は身を硬くした。
彼は震える唇を何度も噛みしめ、懸命に息を整えながら、続ける。
 
「初めて会ったときから、君は…僕に思い出させるんだ。僕が欲しかったものを…手に入れられなかったものを…今でも、こんなに…!」
「…ジョー…?」
 
僕の遠い記憶。
優しい、温かい手。
最後に僕を抱きしめて…そして、溜息をついた。
 
「君が嫌いだ…!嫌いなのに……」
「……」
「僕から…離れないで。僕を見捨てないでくれ、フランソワーズ」
「…ジョー」
「君が望むことなら何でもする。何でもできる。だから…!」
 
そうだ。
「009」にだってなれたんだ。
誰よりも強く、慈悲深く、勇敢な愛の戦士。
君が望むなら、僕は何にでもなれる。
だから、フランソワーズ…!
 
彼女は答えなかった。
ただ、彼を強く抱き返し……微かな溜息をついた。
 
 
 
ジェットが彼に言ったことがあるのだという。
私たちはよく似ていると……
 
そうなのかもしれない。
 
似ているから…似すぎているから。
だから、こんな遠回りをしている。
今でも。
 
私があなたを手放そうと苦しんでいたとき、あなたも同じように苦しんでいたのね。
私があなたに焦がれていたときは、きっとあなたも。
 
何もかもわかりあえた今でも、その苦しみにかわりはない。
それでもあなたを愛しているということも。
 
今、どこにいるの、ジョー?
 
彼女は静かに目を閉じ、溜息をもらした。
すると、たしかに聞こえるのだ。
 
「ジョー…あなたも?」
 
思わずつぶやいた。
風の中に、苦しげな溜息が聞こえる。
たしかに聞こえた。
 
彼女は海へ背を向け、古い洋館へと歩き始めた。
予感がしていた。
もうすぐ、電話が鳴るだろう。
すまなそうな、切なそうな彼の声がはっきり聞こえた気がして、彼女は思わず微笑した。
 
またダメだったわね、ジョー。
私たちは…やっぱり離れられない。
何度試しても。
どんな風に試しても。
 
今度も、また回り道をするのかしら。
今度は、どうやって試したらいいかしら。
 
 
愛しているわ、ジョー。
あなたを、誰よりも……私自身よりも。


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