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019ジョーくん私論 終章
 
終章  
流れ星の行方
 
コレで終わりだっ!一周忌記念♪←やめれ(汗)
 
繰り返しになるけれど、そして言い訳するわけではないけれど(言い訳?)私は、019まではジョーくん眼中になし、だった。
 
019とそれまでのジョーくんと何が違うか。
いろいろ考えてみると、違うところも共通するところもあるように思う。
で、こうやって、019が終了し、完結編序章も一応(笑)完成してみて、あと残っている大きな問題で思いつくのは…
 
復活
 
なのだった。
 
019ジョーくんは流れ星になった。しみじみ
でもって、考えてみると、流れ星になる前のジョーくんは、原作初期のジョーくんと019ジョーくんだけだったりするのだ。
 
旧ゼロはちょっと異質だったりする。ラストで流れ星未遂があるけど、ジョーくんは死なない。
旧ゼロは、ジョーくんが死なないことによって、流れ星から切り離された独自の物語になっていると思う。
が、他のジョーくんは、後でも述べるが、流れ星体験後であることが暗黙のうちに(あくまで暗黙のうちに)了解された状態で、存在しているのだった。
 
思えば、私にとって、ジョーくんは復活後の人だったのだ。長い長い間。
そして、そのジョーくんは、眼中になかった。
原作初期も…中学生の私にとっては、あまりに絵柄が古すぎて、当時感情移入できなかったので、ちょっと考えにいれにくい。むしろオトナになってからその魅力に気づいた…というのがホントのところだった。
 
一方、019ジョーくんは明確に復活前の人で。
 
その辺が鍵なのかもな〜と思ったりする。
 
 
第一節
奇跡なき復活
 
ヨミ篇ラストで、ジョーくんは1人敵中に送り込まれ、戦い、悪と刺しちがえて果てる。
…が。
そのとき、彼は「仲間が後を片づけてくれる!」と言いきる。
 
ジョーくんの後ろには仲間がいる。
もちろん、その後ろには人類がいる。
ある意味、ジョーくんは人類を代表するような形で犠牲となるのだった。
 
それは、単に自分の身を滅ぼして何かを守る、という自己犠牲ではない。
人間の善として悪と戦い、善の勝利を信じて果てるわけで…
 
軽々しく言うのは何だけど、これって、宗教っぽい雰囲気がないわけではない。
もちろん、咄嗟に思い浮かぶのはイエス・キリストだったりする(しみじみ)
 
実際、流れ星になったジョーくんに、人類は平和を祈るのだ。
 
キリスト教に限らない…と思うのだけど、宗教を宗教たらしめるひとつの要因は「奇跡」だと思う。
「奇跡」がなければ、宗教は宗教というよりむしろ思想だったりする。
 
人間の悪と戦うジョーくん。
それはただの正義のジョーくんなのだった。
そして、悪との戦いに殉じ、残された者に希望を託し、また投げかける。
それは偉人としてのジョーくんの最期の姿だと思う。
 
しかし。
ジョーくんは復活する。
 
キリストの場合は問答無用の奇跡で復活するわけだけど、ジョーくんは一応米袋とギルモアの力で復活する…から、厳密にいえば「奇跡」ではない。そうなのだ。
 
ジョーくんの復活については以前からそりゃもう賛否両論あるけれど、私は、断然復活支持者…というか。
復活を否定するなら「009」はヨミ篇で終わり!テレビシリーズも後の原作も(もちろん完結編も)認めない!というしかないと思う。でもって、そういう人もいると思う。
私の場合はむしろヨミ篇以降の作品を楽しんでいるので、復活支持者でないとおかしい…という意味での復活支持者。運命みたいなものかも。
 
…でも。
実は、復活支持者であるものの、コレだけはやだな…ってことが、ひとつある。
言ってみれば、ソレを石森さんがなぜかギリギリやらなかったおかげで、私は009を読むことができたのかもしれないのだった。
 
それは、「復活の詳細な説明」「復活の記憶の再生」といったようなこと。
 
009たちが復活した!
それについて語られているのは、原作では、その説明のために費やされた場面一カ所しかない。
しかも、それにまつわる絵はほとんどない。全ては島村君の語りで処理されているのだ。
 
さらに、この後の展開の中で、「あのときのこと」が仲間の間でも、ジョーくんの中にも、浮上することは二度とない。
ついでに言うと、新ゼロでもその話は一切出ない。ヨミ篇後の設定…にもかかわらず、誰の回想にも出てこない。誕生についてのジョーくんの回想を始め、過去の回想はそれぞれ色々あることを思うと、ちょっと面白い。
 
米袋とギルモアが二人を助けた…という説明は、それはそれで辻褄が合わないわけじゃないのだ。
米袋について言えば、もっと無茶なことだってしてるわけだし。
009たちの復活は、あの物語の設定からそうはみ出るコトではない。あり得ないこと、荒唐無稽なことではない。
 
だったら、なぜ009たちはそのことをフツウに思い出し、語ろうとしないのか。
あるいは、私たちはなぜ、復活に違和感を感じるのか。人によっては腹を立てたりするのか。
理屈としては十分あり得ることなのに。
 
それは、もう、言うまでもなく物語の型の問題なのだろう。
 
人類の善を懸けて悪との戦いに殉じる。
009は流れ星になる前、自分をそう位置づけた。
 
こういう人が生還すると、神さまになってしまう。
 
この展開は、教祖さまがついに神さまとなる奇跡譚の前半部分の型によく似ているのだ。
奇跡が起こり、それによって後半部分が始まり、復活劇は完成する。
 
ヨミ篇ラストが、ある意味完璧な最終回である…にもかかわらず、続篇が可能だった…というか、ファンがそれを求め、作者がそれを描いてしまったのは、この辺に原因があると思う。
キリストが十字架にかかって、それで話が終ってしまったら…その(汗)
なんかそれは違う!というヒトが出てきてもおかしくない。
 
話の型が、宗教的な復活劇(の前半)と重なるために、私たちは自動的に無意識ながらこう読んでしまう。
あそこから復活するなら、009はその後、神さまになるのだ…と。
 
もちろん009は009であって、神さまではない。
第一、彼らはサイボーグだから、「奇跡」じゃなくても復活できる。してしまった。
 
…でも。
くどいけど、あのラストのあとに復活するものがいたら、それは神さまなのだ。私たちにはそうとしか見えない。
それなのに、ジョーくんは神さまじゃなくてただのジョーくんで……。
ついでに言うと、復活が入ることによって、ヨミ篇ラストは最終回ではなくなり、始まりの物語となった。
もちろん、神さま・ジョーくんの誕生物語…ってことで。
でも、だからその、ジョーくんは神さまじゃないのだっ!
 
その混乱…というか違和感が不快感となり、復活は興ざめとして非難されるのだと思う。
そして、ヨミ以降の009はそれまでの009と明らかに質の違う物語になる。
 
だから、後期のジョーくんたちは、その後復活について語らない。思い出しもしない…のだと思う。
彼らは、復活前とは完全に切り離された存在なのだ。もちろん、同一人物なのだけど。
復活を語ることは、二つの異質な世界をつなげることになってしまう。
 
宗教話なら、その間を「奇跡」でつなげるのだけど、建前として「009」に奇跡はない。だから、奇跡を認めてしまうことは、「009」というSF作品の根幹を揺るがすことになりかねない。ソコに触れるようなことはしない方がいい。
 
それでも、復活劇を知る読者にとって、ジョーくんは、そうとハッキリ見えるわけではないけど、初期のジョーくんとは全く違う人物になっている。彼は神さまなのだ。
 
神さまの時間は動かない。
ジョーくんたちはいつも同じように戦い、悩み、悲しみ、笑い、生きていく。
それが新ゼロであり、超銀であり、原作後期だと思う。
 
私たちは、彼が奇跡を経た神さまだとココロの奥で認識し、でもそれを表面に出すことなくジョーくんをただのジョーくんとして見ようとする。
そのいかがわしさに耐え切れなければ、009はヨミ篇で終る、と思うしかない。
 
ただ、むしろそのいかがわしさを一種神秘的な香りとしてぼんやり楽しむこともできる。
私にとって、009はそういう物語でもあるのかもしれない。
 
サイボーグというオブラートに復活の奇跡を包み隠し、009はしたたかに私たちの前にいた。
神さまでもなく、でもフツウの少年でもなく。
もちろん、フツウのサイボーグでもなかったのだけど、それを見抜くのは難しかったと思う。
 
復活してから、ジョーくんは神さまと位置づけられることもなく、もとのジョーくんに戻ることも決してなく、この上なく優しく強い佳き者として私たちの前に静かに立っていた。
そして、だからこそ彼の居場所は、この世にはなく、神の世にもなかった。
私にとっては、そういうジョーくんこそが009だったと思う。
 
そして、それは…あまりにも漠然とした存在だったから。
だから、私はジョーくん眼中になかったのかも。
そんなふうに思うのだった。
 
 
第二節
完結篇と019
 
019ジョーくんは、前にも触れたとおり、生まれたままのジョーくんだった。
私にとっては初めて出逢うただの少年ジョーくんで。
 
もし私が原作初期ジョーくんを熱烈に好きだったら、この明確に「もう1人の島村ジョー」である019ジョーくんを受け入れるのはちょっと難しかったかもしれない。
そして、私が原作後期や新ゼロのジョーくんを熱烈に好きだったら、「ただのヒト島村ジョー」をである019ジョーくんを受け入れるのは、これまたちょっと難しかったかもしれないな〜と思う。
 
019は流れ星で終わり!
019の作り手はそう言っているようだし、それは至極もっともだと思う。
そして、この019ラストが009という作品の完結エピソードにはならない、ということも明らかだ。
原作からのファンにとっては、これでやっと振り出しに戻った…のだ。
 
ここから、新ゼロなり、原作後期なりの世界が始まる…可能性はある。というか、それが自然な流れでもある。
でも、もしソレをやったら、前節で述べたとおり、ジョーくんはまた曖昧な神さまになってしまう。時間は止まる。
019をやった意味がなくなってしまうというかなんというか。
 
完結篇序章を、ヨミ篇ラストの翌週に、唐突に始めたのは、見事だったと思う。
もちろん、009たちの復活の説明なんてなし。
それどころか、完結篇は「もうひとつの009」と銘打たれて登場。ホントに見事…というか、そうかそういう手があったかっ!という感じだと思う。
 
とにかく、ヨミの後を続けたら、どーやってもジョーくんは神さまになってしまって、時間は止まってしまうのだ。
そして、「完結篇」を望んでいるファンは、おそらくジョーくんが神さまであることを受け入れているファンのみ。
それがイヤなファンにとって、009は原作ヨミ篇で終っている。完結篇など必要ない。
 
だから、神さまの時間をどう動かすか。それが、完結篇最大の問題だったと思う。
少なくとも、神さまとして始動し、活躍を始めてしまった原作後期のジョーくんたちを動かすことは、石森さんが一生かけてもできなかった。
これからできるかどうかも怪しいけど、でも、神さまとして時間を止める前に…その物語が始まってしまう前に、彼らの進むべき別の道を示し、彼らとファンをそちらに誘導する。そうすれば、一縷の望みはあるのではないか。
完結篇序章には、そういう意味があると思う。
 
完結篇に「神」が出てくるのは唐突なようでいて、でも当然だと思う。神さまたちを動かせるのは、やはり神さましかいないだろうから。
そこで戦うジョーくんたちが「サイボーグ超戦士」になる、というのも、唐突なようだけど、ジョーくんたちは確かにサイボーグを超えた戦士なのだ。神さまなんだから。
 
「サイボーグ超戦士」というのも、面白いのだった。
ジョーくんが復活できたのは、実際には奇跡ではなく、サイボーグであったから。
でも、私たちの感覚としては復活には奇跡が必要で…ってか、復活=奇跡なのであって。
 
その辺りをうまく取り込んでるよな、と思う。
サイボーグ超戦士…ってのは、ようするに超能力者じゃないのか…?って疑問もあるのだけど、彼らはサイボーグでなければならないのだ。
だって、彼らが復活できたのは、まさにサイボーグであったからで。
奇跡じゃないんだけど、奇跡のような現象をもたらしたその原点は「サイボーグ」なのだ。
 
完結篇は、今までの009とは切り離されている。
同じように、019とも見かけでは切り離されている。もちろん。
 
でも、完全に切り離してしまったら、019も完結篇も成立できないと思う。
この二つは微妙な関係を保っているのだ。
物語の流れとして脈絡がなくてても、019のないところに完結篇はない。
そして、完結篇がなければ、019も終らない。
 
完結篇は、言ってみれば復活劇の後半部分と言ってよい。
ジョーくんたちは再生し、サイボーグ超戦士となる。
もちろん神さまじゃないけど、神さまと戦う存在になるのだった。
 
原作では、流れ星の後、ギルモアがジョーくんたちをより強く再改造した…ということがちらっと出てくる。
でも、人間が科学で…というか、理性によってなすことのできるワザでは、真の再生にはならない。
復活を完成させるためには、ジョーくんたちは一種の奇跡を取り込んだ上で強くならなければならない。
 
それが、サイボーグ超戦士であり、ヨミ後のジョーくんたちの、本来あるべき姿だと思う。
 
完結篇序章で、ジョーくんたちは一旦能力を失い、敗北する。
時間の関係もあって、この敗北にはイマイチ実感がないというか凄みがたりないというか…
 
でも、それは描き方の問題だと思う。
進化とはすなわち復活であり、復活の前には死がある。
そもそも、流れ星→復活を受け入れたファンは、「進化」を受け入れる準備ができている…と思うのだった。
もちろん、意識できないくらい深い所で…にすぎないのだけど。
その準備された受け入れ態勢をうまく誘導できる場面が作れれば、「サイボーグ超戦士」はごく自然に誕生すると思う。難しいけど。
 
どうも、石森さんが残した完結篇の概要だと、起承転結のが、この超戦士誕生だということのようだが、それもごもっとも…と思う。
ここまでの展開は時間と手間をかけ、慎重にも慎重を期すべきところだと思うのだった。
 
ニワトリが先か、タマゴが先か…みたいになってしまうのだけど、そういういきさつ上、完結篇をやるためには流れ星をもう一度はじめからやり直ししなければならない。
 
ジョーくんが完結篇で神さまと戦う羽目になった(?)のは、流れ星を経て彼が微妙に変質したためだった。だから、完結篇をするためには、その変質を前提としなければ、先に進まない。
流れ星を経て、ジョーくんは初めて完結篇で「使える」ジョーくんになるのだと思う。
 
そしてその中で、私は期せずして、初めて復活前の、ただの少年ジョーくんを見ることができたのだった。
これが、私にとっての019の一番大きな意味だと思う。
 
 
第三節
019をどう見るか
 
いろいろ考えてみると、私が019を好きでいられて、019ジョーくんにたぶらかされているのは、少なくとも以下の条件に合うからなのだった。
 
第一に、私は原作初期(ヨミ篇まで)にそれほど執着していなかった。
第二に、私は後期原作・新ゼロなどのお嬢さんに執着していたのであって、ジョーくんは眼中になかった。
 
逆に言うと、上の条件に当てはまらなければ、019を楽しく見るためには、それなりに割り切りが不可欠だと思う。
だって。
 
原作初期が大好き!なら…それは言うまでもなくヨミ篇で終っている。
アレが最終回であって、続きなどあり得ない…というか、続きを受け入れる気持ちになれないからこそ、アレが最終回であると思うわけで。
019はたしかにヨミ篇までの物語なんだけど、完結篇が存在することを前提として作られている。それが、純粋な原作ヨミ篇までのファンにとっては、微妙な違和感になると思う。
 
原作後期や新ゼロジョーくんが大好き!なら、話はもっと深刻だと思う。
もしかしたら、019にはガマンならないかもしれない。
前者のジョーくんが神さまなのに、019のジョーくんはただの男の子なのだ。
が違いすぎる。
 
おなじことは、ジョー&フランソワーズのカップルとしての姿が好き!という場合にも当てはまる。
あれは、神さまの恋なのだ。人間にその真似はできないし、その美しさもなんというか根本的に、フツウの恋物語とは異質…という感じがする。
 
019を、ヨミ篇までの原作に忠実な現代版009だ!と期待して見ると、裏切られる。
それは、019が完結篇を目指しているからであって、その意味では、原作ヨミ篇とは拠って立つところが全く違う。
 
そして、原作後期・新ゼロファンもまた、019に裏切られる。
原作後期の続きには、完結篇など存在し得ない。
それらを全て置き去りにして、やり直した先に完結篇はあるのであって、019はその始まりの物語なのだ。
 
009は原作ヨミ篇で終った…と感じているファンは、やはり009は原作ヨミ篇で終ったのだとしみじみ再認識することになったのかもしれない。
一方、原作後期や新ゼロを楽しんできたファンには、二つの並行する道が示されたと思う。
 
ひとつは、完結篇。
もうひとつは、019ラストから、再び暗黙のうちに復活し、再び曖昧な神さまとなった009たちの物語。
 
前者の製作をする、という意向は既に公表されてるわけだけど、私はできれば後者もアニメーション作品として作ってほしいな〜と思う。
それは、原作後期・新ゼロとかなり近い世界になると思う。
 
前者は青い服で。後者は赤い服で。
それで、いいと思う。
私たちはどちらを選ぶこともできるわけで…そうなったら、かなりおいしいと思うのだった。
 
完結篇では、そうか、石森さんってこんなこと考えてるヒトだったのか〜!と驚かせてもらえれば、それでいいな〜と思う。
今まで「009」という作品に感じていた魅力みたいなモノは、できたら完結篇とは別の「009」の中で見てみたい。
 
019は、完結篇の前提として、そして、新しい時代に新しく009を知る人たちのための物語としてかなりよくできていると、私は思う。
 
原作初期が好きで、009はヨミ篇で終わりだ!と思うのなら、019は、その物語を新しいファンのために作り直したもの…と見ればいい。
そんなリメイクは必要ない、という意見もあると思うけど、でもあの原作の絵柄はやっぱり古い。
原作が廃刊になるわけではないのだから、019を通して009を好きになる人がいるのなら、それでいいよな〜と思う。
古いファンでも、私みたいなのもいるわけだし。
 
原作後期が好きなら、019はそれ以前の、神さまになる前のジョーくんたちの物語である…ということを前提にして見るといいと思う。
そして、完結篇は原作後期の続きでは断じてない。
むしろ、それではどーしても続かないからこそ、019が作られたのだ。
 
ただ。
019で困るよな、これ…と思うことがひとつある。
ある程度無理もないことなんだけど、019は時々古いファンに気を遣うのだった。たぶん(笑)
 
で、それが全部見事に空振りする…というか、逆にファンの逆鱗に触れる結果になりがちで。
 
当り前だと思う。なんというか、今まで述べたように、019はある意味では、これまでの009を捨てたところにその出発点があるのだから。
 
お嬢さんが絡む方が私にはわかりやすいので、その例を「未来都市」に見てみようと思う。
 
さっき、少し触れたけれど、原作後期のジョー&フランソワーズは、神さまなのだった。
 
神さまの恋は、安心感…がその魅力の大半であって。
二人の、ただよりそう姿を見ているだけで、私たちは安心できる。
そこにドラマは必要ない。
 
一方、019のジョー&フランソワーズは、当然なのだけど、フツウの男の子と女の子だ。
 
原作の二人は、「僕たち手も握ったことありません」って顔していて、そう振る舞っていても、恋人同士に見える
019ではそうではない。
それは、それでいいのだ。
 
「未来都市」はフツウの男の子と女の子である二人をかなりうまく描いていたと思う。
互いに惹かれ合っているとわかってるのかわかってないのかよくわからない二人。
ジェットにも思いっきり否定される恋人関係。
 
でも、お嬢さんのコピーロボットはジョーくんを庇うし。
そして、ジョーくんは逆上してつい「誘惑」とか口走ってしまうし。
で、誰にも…本人たちにもわからないことが、スーパーこんぴーたーにはむしろわかっているらしいし♪
 
この辺、かなりおいしい。
私もおいしく見ていた…のだけど。
困ったのは、ラスト近くの、説教なのだった。
 
あれは、神さまの言うことだっ!!!!!
 
いや、神さまなら、言わなくてもコト足りるのだ。
原作「未来都市」で、ジョーくんはスフィンクス(またはカール)に何も語らない。
お嬢さんも、スフィンクスの愛がホントの愛かどうかについては言及しない。一応否定するようなことを言ってるけど、それに対してのスフィンクスの反論を、「…そうだしても」と受け、決定的な否定はしない。
 
実はスフィンクスとの議論など必要ない。フランソワーズはただ「私はあなたを愛していない」と断言するだけでいいのだ。
神さまにそう言われたら、それはもう、スフィンクスの「愛」の存在そのものが根底から否定されたのと同じコトなのだから。
 
でも、019の二人がそれをやったらマズイ。愛について、若造の分際で他人を諭すことができるのは、原作の二人がフツウじゃないからで。
フツウの人である019のジョー&フランソワーズが「それは愛じゃない」とか言っても、ちょっと説得力がないのだった。
 
バラとオーロラもそれはそれで困るんだけど、それは趣味の問題であって、それほど大きなことではないと思う。
でも、説教は困る。
 
もちろん、説教のひとつもしないと、ジョー&フランソワーズをただの恋愛未満少年少女で終らせることになるわけで、それはそれでファンには寂しいのだけど…
でも、019はそういう物語なのだから、仕方ないのだと思う。
 
…なんて、困ったところもあるけど、019は全体として、非常によくできている、と私は思う。
旧来のファンにとって、受け入れがたい所も、原則として作品の出来不出来とは関係ない。
それらはむしろ、019という作品の存在意義の段階で、既に避けられないことなのだ。
 
私自身の好悪はどうなのか、と考えると…
019まで、私はジョーくんというか、主人公に興味がなくて、ストーリーにも主題にも興味がなくて…
ただ、ひたすらお嬢さんだけが好きだというヘンなファンだった。
 
そして、そのお嬢さん好きも、多分に私の個人的な問題…というか、思春期特有の妙なナニかに関係していたのだと思う。
その情熱そのものはもう、思春期の終わりと同時に失われて久しい。
それでも、その失われたナニかを懸命に探しながら、でも見つけられず…私は「009」を読み、お嬢さんを偏愛してきた。
 
「019」からは、私が失ったナニか…の気配すら感じられなかった。それでも、面白いと思った。
そして、私は初めて、主人公島村ジョーくんをまじまじと見た…のだった。
だったら、私にとっての「009」は、019から始まった、と言ってもいいのかもしれない。
 
ホント。
019さえなければ、私は平穏な隠れ003ファンで、ジョーくんなんて眼中になくて。
ココロ安らかだったのにな〜。
 
…と思わなくもないのだった。
更新日時:
2003.09.14 Sun.
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Last updated: 2015/11/23