8月15日になると、なんだかなー(悩)といつも思うのが靖国参拝の話なのだった。
最近では特に、この問題が愛国心・戦没者を悼む気持ちvs中国・韓国との友好関係という図式で語られているので、話がますますヘンな方向に行っていると思うのだった。
実際、高校の授業でマトモに古典を勉強していればわかることでもマトモに勉強する生徒はほとんどいない!(踊)なのだけど、かつて、天皇や中宮といった人たちは、退位したり死を意識したりすると、出家した。
特に、斎宮のように「神」に近い立場にいた人は、生涯、出家を意識することになる。
というのは、死後、西方浄土に行くためには仏教に帰依していなければならず、そのとき、自分は神であるという立場(=皇族)でいる(いた)ことは傲慢であり、仏罰となるからなのだった。
じゃ、天神様の菅原道真は?というと。
あれはもともと現世(皇室)への怨念を燃やすおそるべき怨霊だったから、神としてまつることによってその魂を鎮めたわけで。だから、道真は極楽に行っていないはず(しみじみ)
だから何か、というと。
死後、靖国神社にまつられる、ということは、神としてまつられる、ということなのだ。
ってことは、それは罪深いこと、極楽(天国)に行けなくなるから勘弁してほしい(涙)と切実に切実に思い絶望する仏教徒やキリスト教徒が絶対にいるはずなのだった。
そんなわけで、現存するひとつの宗教団体にすぎない「神社」が、全戦没者に対してソレをさらっとやっちゃうっていうのは無邪気すぎるというか、無神経というか、さすがにマズイ。
もちろん、宗教というのは「我々が宇宙・我々が正義!」と主張するモノだから、靖国神社を信仰する人がそう主張するのは何もおかしくない。
おかしいのは「日本人なら参拝して当然」とか言ってしまうことであって、政治家の参拝があれこれと取りざたされるのも、要するにその観点から、と考えるべきなのだった。
神道は日本人全てが信仰している特別な宗教だ!と主張する人もいるかもしれないけれど、少なくとも日本人のお葬式にはたいてい坊さんがくる(倒)
一方で、お宮参りとか七五三とか結婚式とか、そういった儀式は神道の方がしっくりくるのが日本人(笑)
すごーくおおざっぱな感覚としては、生に関わることは神道、死に関わることは仏教ということになる。
で、だからようするにそういうことなのかな。とも思うのだった。
そもそも、死者は何も語らない。
結局、生き残った者たちが、自分たちのために自分たちの思うように死者の思いを作るのだ、といってもいい。
死者はモノを言わないし、死者に近い遺族も高齢化している。
それはもう、近い将来、カクジツに、戦没者の死に対して個人的な思いを持つ人は一人もいなくなるのだった。
そうなったとき。
宗教をもたず、戦争体験ももたない現代の多くの日本人にとって、コドモの頃からなんとなく馴染んでいた「おまいり」をすれば、今の世を築くために非業の死を遂げた人たちの鎮魂ができた気分になるということなのであれば、それでいいじゃないか、ということなのかもしれない。
「鎮魂」は厳密に言えば、死者のためにするものではない。
現世に生きる者が、死者に対して「私たちに祟らないでね(涙)」とお願いする、生者のための行為なのだった。
だったら「生」を司る神社がソレを行う、ということに違和感を感じない人が多いことにもうなずける。
肉親や友人の死は個人的なものだ。
その死を悼んで祈るなら、フツーは個人のお墓なり仏壇なり祭壇なりに向かって祈る。
一方で、現代に生きる私たちにとって、戦没者の死はそれと異なる。
死は個人的なモノであると同時に、社会的なモノでもある。
私たちは、自分の現在の幸福の礎…というか、犠牲になった過去の死者達に対して祈らなければならないという気持ちになる。どうしてもそうなる。
それは、乱暴に言えば他界への畏れ・不安からくる気持ちだといってもよい。
自分の不安を解消するために祈るのであれば、そのためにはただ漠然と慰霊碑の前で祈るより、何らかの物語を持つ、由緒ありげで力のありそうなモノを用いた方が効果的だ。
それがよくない、ということではない。
でも、特に立派なことでもない。
コドモの幸福を祈って心をこめて七五三をやることとそれほど変わらないし、だとしたら少なくとも、政治家が「私はそれをやりました!」と胸を張るようなことではないと思うのだった(しみじみ)
……ってことで!
靖国神社の五段活用っ!それムリだろう(汗)
旧ゼロ:戦後20数年、まだ記憶が生々しいときにあまり大胆なことは言えません(しみじみ)
新ゼロ:あまり頓着しないかもしれないし、そもそも二礼二拍手がわかってないかも(悩)
超銀:というか、コイツ自身が教祖?(汗)ボルテックス教♪<え(汗)
原作:そりゃーもう、鳥居を前に突っ立ってる島村の絵に重なるのは文字ばっかりです文字ばっかり(しみじみ)がんばって読みましょう!(涙)
平ゼロ:神さまは一人一人の心の中にいるもの、というのが21世紀かもしれないです(悩)それじゃすまないことも多いんですが(しみじみじみ)
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