1 
  
「どうぞ」と澄んだ声がする。 
すぐ飛び込もうとする007を押さえ、一呼吸おいてから、009はドアを開けた。 
  
「こんにちは、ジョー、グレート」 
「気分はどうだい、フランソワーズ?」 
「ずいぶんいいわ、おかげさまで」 
  
すましかえったやりとりに、思わず吹き出しそうになるのを懸命にこらえ、007はうやうやしく果物籠を差し出した。 
  
「ありがとう。気をつかわなくてもよかったのに…おいしそうだわ。それに、とてもきれい」 
「オイラは花がいいって思ったんだけど、兄貴が、こっちにしろって言うから…」 
「そうそう。花より団子、さ」 
「まあ…!失礼ね!」 
「アルヌールさん、お熱をはかりますよ…あら、今日はにぎやかですね…お友達?」 
  
ゆったり微笑する看護婦に、003は申し訳なさそうに会釈した。 
  
「ごめんなさい、いつもお騒がせして」 
「いいえ、そんなこと…お若いんですもの、たまには陽気にされたほうが、治りも早いものですよ」 
  
いたずらっぽくウィンクする彼女に、003は曖昧な微笑を返し、009も黙ってうなずいてみせた。 
  
  
2 
  
「で、今日も手がかりなし…か」 
「そのようだね」 
「やっぱり、デマだったんじゃないの?…いくら大きい病院でもさ、結局はフツウの場所だろ?サイボーグ研究の情報戦が進んでるなんてこと、あるのかなあ…」 
「うむ。003がここまで何もつかめない…っていうのは、たしかに、妙だな」 
「…だよねえ」 
「まあ、ちょっと種を蒔いてみてもいいか。そろそろ潮時だろう」 
「種…って?」 
  
009はそれきり口を結び、あとは黙々とハンドルを切り続けた。 
こういうとき彼に何を言っても無駄だ、ということはわかっているので、007も口を噤んだ。 
  
ギルモアの知り合いであるツヤマ博士が、自分の経営する病院で不穏な動きがある、と相談に来たのは、1ヶ月前のことだった。 
  
確かな証拠はないのだが、最近、どうもさまざまな…というより、病院に保管されているありとあらゆるデータがこっそり持ち出され、また戻されたような形跡がある。 
それらは、あまりに多岐にわたっていて、何のために持ち出されたのか、はじめは目的がまったくつかめなかった。 
…しかし。 
  
「この前学会であなたにお会いして、もしかしたら、と思い当たったのだ。これだけ雑多なあらゆるデータを必要とする研究があるとするなら、それは…」 
「…サイボーグ、かね?」 
  
鋭く問うギルモアに、ツヤマ博士は緊張した面持ちでうなずいた。 
  
「こんな平凡な病院で、そんな大それた研究が直接できるはずはない。だが、もし、何かが起き始めていて、何者かが私たちのデータを利用しようとしているのなら…」 
「…もちろん、私利私欲のためにサイボーグ技術を開発しようとする者を、僕たちは許すわけにいきません。絶対に」 
  
009は厳しく言い、早速調査を始めることにしたのだった。 
ツヤマ博士のはからいで、003が入院患者として潜入し、さらに007は小動物や虫に変身して病院中を駆け回った。 
が、そうして、もう数週間が過ぎていたのに、手がかりはつかめなかったのだ。 
  
健康そのものの003が入院患者のふりをするのも、長期間となれば、さすがに無理があった。 
主治医はツヤマ博士自らがつとめ、看護婦も事情を知る者が専属としてついていた。それでも、入院患者として過ごしていれば、他のスタッフや患者たちにちょっとしたことから不自然に思われ、不審の目を向けられることも重なっていく。 
そろそろ限界、だったのだ。 
  
  
3 
  
翌日、予定外の時間…というか、ほとんど真夜中に、009はこっそり003の病室を訪れた。 
  
「009…これ…って?」 
  
彼がポケットから取り出したモノに、003は目を丸くした。それは、少し大きめの宝石がはめこまれた、可愛らしい感じの指輪だった。 
  
「これを、右手にはめていたまえ。ここからレーザービームが発射できるようになっている。かなりの威力があるから、気をつけろよ」 
「…どういう、こと?」 
「まあ、念のため…ってことさ」 
「…009」 
「気になる動きがある。でも、まだ証拠がつかめているわけじゃないんだ。はっきりしたら全部話すから。とにかく、用心したまえ」 
「……」 
  
003は小さくうなずいた。 
彼の言う「気になる動き」とは何なのか。文字通り一日中病院にいて、しかも目と耳をフル稼働させている自分に、その気配すら見当がつかない…というのが気にならないわけではなかったが。 
でも、彼…009がこういうことで何かを間違う…とは思えなかった。 
  
「009。例えば、どんなことに用心したらいいのかしら…聞いてはだめ?」 
  
控えめに尋ねた言葉に、009はただ無言で首を振るだけだった。 
003はそれ以上尋ねることを諦めた。 
  
  
4 
  
少し、疲れていませんか?と看護婦に心配そうに尋ねられ、003ははっとうつむいた。 
  
夜が明けてから、いつもにもまして慎重に周囲を探り続けていたのだけれど、やはり何も感じ取れない。 
もうすぐ009が訪れる時間なのに…… 
  
「もうすぐ、お友達が来られる時間ですね…今日は面会をお断りしましょうか?」 
「い、いいえ…」 
  
003は慌てて首を振った。 
が、看護婦はやはり心配そうに見つめるのだった。 
  
「でも、お顔の色がよくないわ…かえって心配をかけてしまうかもしれませんよ」 
「そ…うかしら」 
「また、栄養剤の注射でもしましょうか?すぐに効きますから」 
  
003が曖昧にうなずくと、看護婦は手際よく注射器の用意を始めた。 
これまでもごくフツウの入院患者を装うために、時折していたことだった。 
  
数分後。 
二人の男が、ストレッチャーを静かに病室に運び込んだ。待ちかまえていた看護婦は、まず腕時計にちらっと目を落とし、それからベッドでぐっすり眠っている003をのぞきこんだ。 
  
やがて、手術衣に着替えさせられた003を男たちが注意深く抱き上げ、ストレッチャーに横たえた…そのとき。 
看護婦は小さくあ、とつぶやき、003の右手に光る指輪を抜き取った。 
  
「それは…?」 
「昨夜、009が置いていったものよ。説明している時間はないわ。早くしないと、そろそろ彼が来てしまう」 
  
男たちはうなずき、素早く003を乗せたストレッチャーを病室から運び出していった。 
  
  
5 
  
「どうぞ」と澄んだ声がする。 
一呼吸おいてからドアを開け、病室に入ると、009はそのまま立ち止まり、何度か瞬きした。 
  
「こんにちは、ジョー。グレートは?」 
「うん。用事があるとかなんとか言って、今日は来なかったんだ。気分はどうだい、フランソワーズ?」 
「変わりないわ…ありがとう」 
  
微笑を返し、いつものスツールに腰掛けようとする009を、彼女は目で押しとどめた。 
  
「ジョー。あの」 
「…なんだい?」 
「ごめんなさい、でも…昨夜のお話、やっぱり気になってしまって。もうなにか、証拠はつかめたの?」 
「…いや」 
「気になること…って、例えば、なあに?」 
「…例えば?そうだな、例えば…」 
  
不意に顔を上げ、まっすぐ見つめてくる009の視線の冷たさ、鋭さに、彼女は思わず息をのんだ。 
凍った刃そのもの…の視線。 
  
身を堅くする彼女からその視線を外すことなく、009は淡々と続けた。 
  
「とりあえず、今気になっているのは…君が誰か、ということだよ」 
「……」 
「いや。ちょっと違うか…君が誰なのかはわかっている。…彼女は、どこだ?」 
  
彼女は、きっと唇を噛むと、目にもとまらぬ速さで右手を翻し、指輪を009の額にまっすぐ向けた。 
…が。 
  
「無駄だ。その指輪には何も仕込んじゃいないからね」 
「…だましたのね!」 
「だましたのはそっちだろう。…003は、どこだ?」 
  
彼女の額に銃口を押しつけながら、009は片手でそのマスクをはぎ取った。 
あの、いつもの看護婦だった。 
  
  
6 
  
白い天井がぼんやりと見える。 
頭の芯がぼうっとしている…ような気がするのは、いったい… 
  
003ははっと目を見開き、飛び起きようとした。 
  
「おいおい、大丈夫か?まだ急に動いたりしない方がいいぜ?」 
「…ジョー!」 
  
叫んだ途端、軽いめまいに襲われ、起こした上半身が大きく揺らいだ…と思う間もなく、009に抱き留められている。 
003は何度も瞬きした。 
  
「終わったよ、大体は」 
「…終わった…って」 
「相当強い薬を使ったらしいな、あの看護婦。君がサイボーグだから…なんだろうけど」 
「…薬。あの、注射ね…!ああ、ごめんなさい、009…用心しろって言われていたのに…」 
  
申し訳なさそうにうつむく003に、009はちょっと苦笑した。 
  
「いや。それでよかったのさ…そこが狙いだったんだから。思ったよりうまくいった」 
「…え」 
「黒幕は、ツヤマ博士自身だったんだ。そして、ターゲットは、君」 
「…私?」 
「君が何もつかめない…ってことは、何もないってことだろう?つまり、ツヤマ博士はウソを言っていた…ってことになる。…なら、彼はなんのためにギルモア博士に近づいて、そんなウソを言ったんだと思う?」 
「…あ!」 
  
大きく目を見開く003を注意深くベッドに寝かせ直し、009は微笑した。 
  
「おそらく、まずは君を…そして、できれば007や僕も捕まえて、研究材料にするつもりだったのさ。サイボーグの研究をするなら、それが一番手っ取り早いやり方だ」 
「…そんな」 
「君を入院させて、あの看護婦に観察させた…君になりすまし、僕たちを騙すためにね。もちろん、そんな変装、すぐにバレるに決まってる…でも、ごく短い時間でもかまわない、僕たちを騙し、油断させることができればそれで成功だったのさ。君がやられた、あの注射…サイボーグ用の強力なモノだったんだけど…それを僕たちの、そうだな、首にでも打ち込めば終わり、だからね」 
  
003は無言のまま009を見つめていた…が、やがて、溜息をついた。 
  
「それじゃ…昨夜のアレ…は」 
「ちょっと仕掛けたんだ。どうせ病室は監視されているだろうと思ったから。僕が何かに気づいている…ように見せかけて、彼らを焦らせた。焦れば、彼らはきっとあわてて君を襲うだろうと思ったんだ」 
「つまり、私はオトリにされた…ってこと?それで、あなたはこの指輪を…」 
「ああ。でも、それはニセモノだよ」 
「…え?」 
「ただの指輪さ…これも狙いどおりいった。これに頼って、彼女は僕の前に出るのに武器を用意しなかったからね。まあ、僕に武器を見つけられるリスクを思えば当然かな」 
「……」 
「彼女が銃のひとつやふたつ持っていても、怖くはないけれど…一応病院だからね、あんまり危ないマネはしたくなかったんだ」 
「……」 
  
009の足元から、ネズミがちょろっと顔を出し、あっという間に007へと姿を変えた。 
  
「ねえ、003…?」 
「……」 
「怒ったかい、やっぱり?」 
「……」 
「オイラ、一応兄貴に反対は…したんだけど。でも、その」 
「007、行くぞ」 
  
いきなり立ち上がった009を、007も003もしばし呆然と眺めた。 
  
「もう退院してもいいんだろうけど…一応予定は明後日だったからね。いい機会だ、少しここでゆっくり休むといいよ。もう君を狙うヤツはいないから」 
「…ジョー」 
「じゃ、お大事に…ああそうだ、仕事が入ったから、明日と…明後日の退院のときも、ちょっと来られないと思う」 
「…そう」 
「ちょ、ちょっと、兄貴!それって…」 
「ほら、早くしろ007…置いていくぞ!後始末もいろいろあるんだから…」 
「兄貴〜!あのさ、あんまりじゃない?そういう態度って…これじゃ003が」 
「そうね、後始末、してきてちょうだい…お手伝いできるといいんだけど…ごめんなさい、ちょっとまだふらふらするの」 
「うん…無理はしない方がいい。後は僕たちに任せたまえ」 
  
にっこり笑うと、009は007を引きずるようにして病室を出て行った。 
  
  
7 
  
助手席で、007はぶつぶつと009を非難し続けていた。 
  
「大体、兄貴は女心がわかっちゃいないよ!…怖い目にあった後って、心細いだろう?そこについていてやるのが男ってもんじゃない?違う?」 
「いつまでもぐずぐずうるさいヤツだなあ…それより、いいのか、007?退院祝いの用意をしておかなくて?」 
「退院祝い…?003の?だって、別に病気じゃなかったのに…」 
「まあ、そうだな。でも…一応忠告しておくよ。何か用意しておいた方が、きっと後悔しないですむぜ?」 
「へ?どういうこと?なんで?」 
「なんで…って言われるとなあ…勘、かな」 
「…勘」 
  
よくわからない。 
が、009の勘なら、とりあえず信じていた方がいいのかもしれない。 
  
「あーっ!」 
「…どうした?」 
「それで、指輪だったのか、兄貴!卑怯者〜!」 
「卑怯者って、なんだよ、ソレ?」 
「卑怯者は卑怯者だい!」 
  
笑いをかみ殺しながら、009はハンドルを握り直した。 
まあ、007の言うことは、当たらずも遠からず…というところかもしれない。 
だが… 
  
003の病室をノックすると、いつも微かな音と気配がしていた。 
なんだろう?と、注意しているうちに、わかった。 
  
どうやら、彼女は紙袋のようなモノを、ベッドの下にあわてて隠している…そのときの音らしい。 
…それは、たぶん。 
  
勘だった。 
が、外れてはいないだろう。 
  
入院前、彼女はよく編み物の本を熱心に見ていた。 
それに、彼女の枕近くには、よーく見ると、ごくごく細かい水色の繊維屑が舞っていたりしたのだ。 
  
彼女は日に日に焦っているようだった。 
紙袋の隠し方に余裕がなくなってきたのだ。おそらく、ぎりぎりまで手を止めたくなかったのだろう。 
  
あの看護婦が003と入れ替わった…と確信したのも、ソレだった。 
ノックして一呼吸おいても、部屋の中で紙袋を隠している気配が全くなかったのだ。 
  
  
8 
  
今日はちょっと気分が悪くて休んだとしても、明日と明後日と、集中してできれば…なんとか完成するんじゃないか? 
  
セーターか、マフラーか、手袋か。 
手こずっているところを見ると、やっぱりセーターなのかもしれない。 
009のモノだけ編む、ということは彼女の場合しないだろうから、おそらく007の分も…もしかしたらギルモアの分もあるかもしれない。 
  
まったく。 
苦労性なんだよな、君は。 
こんなときぐらいゆっくり休めばいいのにさ。 
  
彼女が編んでいるのがセーターなのだとしたら、やっぱりそれに対して指輪…だけではもの足りない感じがするのだった。 
  
それに、007が贈り物をするのに僕が手ぶらってわけにもいかないしなあ… 
  
入院って、いろいろ面倒なモノなんだよな…と、とりあえず最寄りのデパートに車を向けながら、009は思ったりするのだった。 
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