診察室

3      新ゼロ
 
 
37度3分。
微妙な体温だ。
しばらく考えてから、彼はゆっくり立ち上がった。
 
「あら、ジョー…出かけるの?」
「…うん」
「熱は?…大丈夫?」
「大したことない」
「大したことない…だなんて。来週は大事な…」
「わかってるよ…ああそうだ、今日からあっちに泊まることにした。そろそろ…いろいろ、詰めておきたいし」
「そう……無理しないでね」
 
不安そうに見つめる彼女から、彼はなんとなく目をそらした。
そろそろ、潮時だと思っている。
そして、たぶんその思いは彼女にも伝わっているだろう。
 
「さようなら、キャサリン」
「…さようなら」
 
彼女の声は微かに震えていた。
が、彼は振り向かなかった。
 
 
 
「島村さん、どうぞ」
 
診察券を出し、待合室に座るか座らないかのうちに、看護士なのか事務員なのかよくわからないいつもの青年が彼の名を呼んだ。
 
どういうわけか、いつも閑散としている診療所なのだった。
そして、ジョーとしてはまさにそこが一番気に入っているわけで。
 
「島村さん…ですね。今日はどうされましたか?」
 
亜麻色の髪をふんわり肩に垂らした若い女医が微かに首を傾げるようにして、柔らかく問いかけてくる。
 
「微熱が…そうだな、3日ぐらい前から」
「3日ぐらい前から…ですか。お仕事は?」
「続けています。休むわけにはいかないので」
「そう、でしょうね…ちょっと失礼します」
 
ごく生真面目な表情で、女医は聴診器を取り上げ、ごく生真面目に診察を始めた。
この人は一体何歳なんだろうな、と、ジョーはいつも思う。
 
「息を吸ってみてください…はい。止めて。ゆっくり吐いて…」
 
少女のような澄んだ声に、ジョーは素直に従った。
やがて、聴診器を外し、彼女は生真面目な表情をまったく崩すことなくカルテになにやら書き込んでいる。
 
「風邪…かしら。少し、疲れているのかもしれませんね。お薬、出しましょうか?」
「…そう、ですね…」
「お仕事の方は大丈夫ですか?」
「…え?」
「車の運転や機械を扱うお仕事だと、差し障りが出ることがありますから」
「…あ、ああ」
 
ジョーはちょっと口ごもった。
やっぱり、この人は何も気づいていないらしい。
いや、それでいいのだけれど。
 
感冒薬らしいものを数種類処方され、ジョーは診療所を後にした。
薬局には寄らず、駐車場に向かう。
来週に控えたレースのことを思えば、今、薬を飲むのはやめておいた方がいいだろう。
 
車に乗り込みながら、ちらっとアルヌール医院、とある小さい看板を振り返ると、診療所の扉がいきなり開き、看護士だか事務員だかよくわからないあの青年が出てきた。
片手に箒を持っているところを見ると、玄関の掃除でもするつもりなのかもしれない。
特にそこが汚れているようには見えなかったが。
 
几帳面らしいその銀髪の青年も、ジョーが初めてここを訪れたときから変わらない。
もしかしたら、あの女医のきょうだいとか、親類とか…いや、夫なのかもしれない。
 
エンジンをかけ、時計を確かめる。
思ったとおり、チームの打ち合わせには十分間に合う時刻だった。
 
 
 
天才F1レーサー、島村ジョーの名を知らない者はそういない…ということらしい。
あまり意識したことはなかったが、実際、町を歩いていると、遠慮がちだったり無遠慮だったりする視線をうんざりするほど感じるのだった。
殊に、劇的な連続優勝を決め、鳴り物入りで帰国した直後…ともなれば。
 
キャサリンからの連絡は途絶えていた。
聡明な彼女のこと、もう気持ちの整理はつけた…ということなのだろう。
なんとなく寒気を感じた気がして、ジョーはのろのろと引き出しをかき回し、物憂げに体温計を取り出した。
 
 
受付の窓が開き、例の看護士だか事務員だかよくわからない銀髪の青年が顔を出した。
診察券を差し出しながら、ジョーは初めて彼の白衣に名札がついているのに気づいた。
 
アルベルト・ハインリヒ。
 
…ということは、彼らは夫婦というわけではないらしい。
いや、名前だけでは何ともいえないだろうけれど。
 
ぼんやり考え込んでいる間もなく、診察室に呼ばれる。
柔らかく微笑する亜麻色の髪の少女に、ジョーは軽く会釈した。
 
いつものように診察を終え、処方箋を受け取り、駐車場に向かう。
車に乗り込もうとしたときだった。
 
「…薬は?」
 
低い、硬質の声。
ゆっくり振り返ると、銀髪の青年が鋭い眼差しを向けている。
 
「どうして、薬を受け取らない?」
「……」
「そういえば、島村ジョーは神経質なドライバーだと聞いたことがある。むやみにその辺の感冒薬を飲んだりはしない…ってことか」
 
沈黙するジョーに皮肉な笑みを投げ、アルベルト・ハインリヒは微かに唇をゆがめた。
 
「超一流F1レーサーが、主治医に不自由しているとは思えないが…こんなちっぽけな診療所に、何が目的で通う?」
「……」
「…彼女か?」
「……」
「一応警告しておこう。あまりナメたマネしやがると、怪我する羽目になるかもしれないぜ、王子サマ」
「…それが、患者に言うことなのかい?」
「ああ、そうだ。生憎だが、ここは王子サマがお出ましになるような上品な場所じゃないからな」
「そして、彼女も…下品な偽王子ごときには触れることすら叶わない人だ…そういうことだろう?心配するなよ、わかっているさ、それぐらい」
「……」
「僕はここが気に入っている。彼女も。そして、自分の身の程というものもよくわかっているつもりだ。で、一年にほんの何日か、くだらない風邪を引いたときに来たからといって、それがどうだっていうんだい?」
「……」
「…失礼する」
 
ジョーは小さく息をつき、車に乗り込むと、アルベルト・ハインリヒが診療所に戻るのを見届けてから、エンジンをかけた。
 
 
 
その冬、ジョーがいつになく足繁くその診療所に通ったのは、アルベルト・ハインリヒへの当てつけというわけではなく、本当に、どういうわけか、頻繁に風邪を引き続けていたからだった。
 
アルベルト・ハインリヒはあれきりジョーに話しかけようとはしなかった。
かといって特にジョーに冷たく当たるというわけでもなく、要するに何事もなかったかのように、彼は淡々と仕事をこなしているのだった。
 
少女のようなアルヌール医師も、いつも変わらない笑顔をジョーに向け、生真面目に診察を繰り返していた……の、だったが。
 
ある日、聴診器を外すと、彼女はひどく難しい顔つきでじっとジョーを見つめるのだった。
 
「肺炎を起こしかけていると思います」
「…え?」
 
思わず目を丸くしたジョーに、彼女は静かに告げた。
 
「この診療所では十分な治療ができませんから…急いで主治医の先生に相談された方がいいですわ」
「主治医…って」
「…いらっしゃるのでしょう?」
 
どこか儚く微笑する少女に、ジョーは言葉を失った。
 
「…きみ、は…僕のことを…知って…?」
「あまり、知りません。はっきりわかっているのは…あなたが肺炎になりかけているということだけで、でも、私にはそれで十分ですわ」
「……」
「今なら、きっと軽くすみます。次のレースにも十分間に合うと思いますわ……どうぞ、お大事に」
「…ありがとう」
 
ジョーはつぶやくように言うと、ゆっくり立ち上がった。
体の奥にいやな熱がこもっている…そんな気がした。
 
処方箋は渡されなかった。
のろのろと会計を済ませ、立ち去るジョーを、アルベルト・ハインリヒは黙って見つめていた。
 
 
 
彼女の言葉どおりだった。
肺炎になりかけている、とジョーの主治医は言い、更に、今なら軽くすむ、次のレースにも差し障りはないだろう、と続けた。
 
それから春が過ぎ、梅雨の季節になったころ。
どういうわけか微熱を出したジョーは、またあの診療所へと向かっていた。
 
アルベルト・ハインリヒは相変わらずそっけなく、しかし丁重にジョーを迎え。
そして、アルヌール医師もまた、以前と変わらぬ柔らかな笑顔を向けるのだった。
 
つまり、そういうことなんだろう。
と、ジョーはぼんやり思った。
 
この人たちは、僕がただ僕であることをよくわかっているんだ。
たぶん、僕自身よりも…ずっと。
 
いつまでもトップ・レーサーでいられるものでもないだろう、と、最近のジョーは思い始めている。
早いか遅いかはわからないが、とにかく、引退の日は必ず来る。
 
その日が来たら、風邪など引いていなくても構わない、診療所に行ってみよう、とジョーはひそかに心に決めている。
 
アルベルト・ハインリヒも、アルヌール医師も、それまでと何も変わることはないだろう。
そして、たぶん…僕も。
 
その日が来たら。
…ということと関係があるのかそうでないのか、実のところジョー自身にもわかってはいないのだが、彼はつい先日、青い貴石のついた指輪を買い求めていた。
 
その日がいつになるのかはわからない。
が、いつになるのだとしても、彼女はやはり少女のままだろうという気がするから。
もし、そうなら。
 
我ながら、どこかもの狂いのような気もしながら、とりあえずジョーはぼんやりそんなことを考えては時折風邪を引き、診療所を訪れているのだった。
 

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