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九もたまに困る

林檎
君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ   北原白秋
 
 
 
今朝の雪は、軽い。
 
一心にスコップを動かしているフランソワーズを窓から眺め、ジョーはふとそう思った。
それはもちろん錯覚で、彼女の軽やかで無駄のない身のこなしがそう思わせるだけなのだろうけれど。
 
玄関の寒暖計は氷点下を指していた。
外にでると、また雪が舞っている。
 
「フランソワーズ、もういいよ…どうせまた積っちゃうぞ」
 
真っ赤な上着が振り返る。
フランソワーズは息を弾ませながら、微笑だけを返した。
 
「ほら…中に入ろう」
 
3歩で歩み寄り、スコップを取り上げ、有無を言わせず抱き寄せた。
上着も指先も亜麻色の髪も冷たい。
 
「…でも、ジョー」
「少しぐらい積もっても大丈夫だよ」
 
誰も来ない。
この家には。
 
 
 
そのつもりはなかった…はずだった。
冷え切った彼女をすぐ居間に入れて、一緒にあたたかい飲み物を飲もうと思っていたはずだった。
…けれど。
 
玄関で彼女にまとわりついた雪をはらい落とし、真っ赤な上着を脱がせてやったとき、何かが胸の中で弾けたような気がした。
衝動に逆らえなかった。
そのまま彼女を抱き上げて、寝室に運んで、そして。
 
彼女は抗議したはずだ。
かなり抵抗もした…ような跡も、改めて部屋を見回すと残っている。
でも、あまりよく覚えていない。
 
ふっと不安になって、閉じた瞼にそうっと唇を寄せてみると、瞼はゆっくり上がって、透き通った青い目がジョーを柔らかく見つめた。
 
「怒ってる…?」
「…少し」
「…ゴメン」
 
フランソワーズはしかたないわね、と力無く微笑み、毛布を体に巻き付けるようにしながら起きあがった。
 
「…寒い」
「うん…ゴメン、ヒーター入れるよ」
「ううん…このままシャワーを浴びるわ…朝ご飯の用意もしなくちゃ」
「急いで浴びると、風邪をひくよ」
「大丈夫…ゆっくりするから」
 
信用できないよ、とジョーはつぶやき、ベッドから先に降りると、毛布ごとフランソワーズを抱き上げた。
 
「ジョー…?」
「一緒に入る」
「え?…やだ、何言ってるの…ちょっと、ジョーったら…!」
 
 
 
2人がこの貸別荘に来て2週間になる。
そもそも、フランソワーズが、不意に「雪が見たいわ」とつぶやいたから…と、ジョーは言う。
そう言われてみれば、そんなことを思ったかもしれない…けど…と、フランソワーズは戸惑った。
本当のことを言うと、覚えがない。
どちらにしても、彼と2人きりになるのは本当に久しぶりだったのだ。
 
ここに来てから、もともと物静かなジョーはますます無口になっていた。
それは決して気詰まりな沈黙ではなかったけれども、恋人同士らしい甘い雰囲気からはほど遠い静けさだった。
 
それでもいいと、フランソワーズは思った。
むしろ、彼と過ごす穏やかな時間を大切にしたいと。
それなのに。
 
長いつきあいで、彼の気まぐれにはずいぶん慣れたと思う。
それでも、今日はなんだかおかしい。
 
何か、あったの…?
 
フランソワーズは何度もジョーに問いかけようとしては、それを呑み込んだ。
何かあったには違いない。
でも。
ここで、何が起こりうるというのだろう。
フランソワーズにはどうしてもわからなかった。
 
 
 
「妬くなよ」
 
と、グレートは前置きしていた。
 
話を聞いたときは、どうしてそれが妬くようなことなのか、と正直あきれた。
また、彼一流のハッタリが始まった、と思ったのだけれど。
彼は、恐ろしいほど正しかった。
 
あまりの苦しさに、季節はずれのところを知人に無理を言って、貸別荘の手配をしてもらった。
人が来そうもないところを選んだ。
彼女と二人きりになりたかった。
本当に二人きりに。
 
…でも。
 
ジョーは後悔していた。
うっかりしていたのだ。
ここは、有名なリンゴの産地だったではないか。
 
案の定、昨日の買い出しで、フランソワーズは積み上げられた見事なリンゴに感嘆し、嬉しそうにその一つを両手で抱いた。
もちろん、そんな彼女の表情を見ることは喜び以外の何ものでもない。
ソレを木箱で買って、地下室に置きたい、という彼女の無邪気な願いをかなえることも、ジョーにとっては無上の幸福と呼んで差し支えないものだった。
つまりそれは、そのリンゴが尽きるまで、彼と二人きり、この地で暮らすことを、彼女が望んでくれたということでもあるわけだし。
 
…でも。
 
「ねえ、ジョー…ほら、ひんやりしているわ…」
 
いきなり冷たい真っ赤な実を頬に当てられ、ジョーはどきまぎした。
まるで雪でできているような、堅い冷たさ。
しかし、その冷たい芯からは、どこまでも甘く清浄な芳香がしみ出てくる。
 
グレートの声が微かに耳の奥で鳴る。
 
「我々の意見はたちまち一致した…それはもう、一瞬でだ」
 
甘く、清浄な芳香。
やがてそれは上質の酒のような魅惑的な香りに変わる。
 
「『フランソワーズ』さ…いや、没になったんだがね」
 
 
 
そうだ、この香りだ。
 
昨日買ってきたリンゴを手の中でもてあそび、ジョーは息をついた。
 
彼女に敬意をこめて、とグレートから渡された香水のサンプルを、ジョーはまだフランソワーズに見せていなかった。
その新しい香りを調合したという男を、ジョーは知らない。
張々湖飯店の常連だというのだけれど。
 
その男がフランソワーズを見たことも、またないはずだった。
彼女は、ときどき張々湖飯店を訪れるし、忙しいときにはウェイトレスをすることもある。
でも、最近の彼女はバレエに忙しく、そんな時間などない。
 
なにより、「フランソワーズ」という名を没にした…というのが、彼が彼女をしらない証拠のように思われた。
もし、知っていたら。
 
その男もプロだというのだから…私的な感情にまかせて、大事な新作の名を決めたりすることはないだろうけれど…
芸術家というのは何を言い出すかわからないし、とジョーは漠然とだが、思う。
 
とにかく、没にしてくれてよかった。
助かった。
 
その新しい香りはまもなく売り出されるらしい。
どういう規模でどのように売り出されるのか、ジョーには見当もつかなかったけれど…
そうなれば少なからぬ女性たちがそれを身にまとうのだろうし。
そうなれば少なからぬ男たちが彼女たちを抱き、それを感じる…ということにもなる。
 
そう思わずにいられないほど、その香りはフランソワーズを思わせた。
リンゴに似た、清浄な香りだった。
 
「そうやって考えてみると、彼女のイメージってのは、花じゃないんだな〜」
 
グレートはしみじみ言ったものだ。
 
「彼女には言うなよ…どうせ花とは程遠いですっ、て叱られちまうからな」
 
笑いながら、彼はジョーにウィンクしてみせた。
 
「だが…お前もそう思うだろう、ジョー?」
 
よくよく考えれば、妬くなというのがそもそも無理な話だったのではないだろうか。
ジョーは苦々しく思い返した。
 
 
 
だめだ。
やっぱり我慢できない。
だって……
 
外には雪が降り積もっているはずだった。
音もなく、冷たく、白く。
 
それでいい。
それでいいんだ。
もっと降れ。
 
なにもかも、隠してくれ。
誰も、ここに近づけるな。
 
重ねた唇から、かすかに果実の香りがする。
ジョーはうめくような声をもらし、フランソワーズを抱きしめたまま床に押し倒した。
 
だって……
 
きみが、変わっていくんだ。
ほら、こんなに熱く…優しく。
 
きみはどんどん変わっていく。
きみの奥から甘い蜜があふれ出す。
 
濃い、金色の…香り。
 
ひどいよ、フランソワーズ。
やめられるわけないだろう。
 
泣かないで。
そんな顔で僕を責めないでくれ。
 
きみが、悪いんじゃないか……!
 
誰も知らない。
知る必要はない。
 
きみの奥に…蕩けそうに甘い芯があること。
清らかな優しい少女のきみが、こんな蜜を隠していること。
 
僕だけが知っていればいい。
誰にも気づかせない。
…だから。
 
もっと…もっと。
きみの蜜が一滴も残らなくなるまで。
たとえ一滴でも残っていたら、きっと…気づかれてしまう。
 
だから、それまで…帰れないよ。
きみを、離せない。
 
泣かないで。
ひどいことしてるのはわかってる。
でも…泣かないで。
 
 
 
ジョーはぐったり横たわるフランソワーズを抱き寄せ、汗ばんだ額に口ずけた。
…が、反応はない。
 
眠ってしまったのか、それとも…
ささやかな、抗議なのか。
 
ジョーは彼女をそっと抱き上げた。
たしかに、無理をさせすぎたと思う。
 
白い裸体をベッドに横たえ、そのまま覆い被さりたくなるのを堪え、毛布を念入りにかけてやった。
ため息をつき、後ずさりする。
今夜は客間で寝ようと思った。
この部屋にいたら、また自分がどうなるかわからない。
 
のろのろ居間に戻り、散らかした衣服をとり片付けながら、ジョーは甘い香りにふと振り返った。
テーブルの皿に、リンゴのかけらがひとつ残っていた。
 
フランソワーズが地下室から持ってきたとき、それは、真っ赤に輝いていた。
その皮をむいて皿に出されたときは真っ白で、みずみずしい香気を放ち。
…けれど。
 
ジョーは茶色に変色したそれを、物憂げにつまみ上げ、口に入れた。
暖房の効いた部屋でそれはぬるく温まり、少しやわらかくなっていた。
むせ返るほど甘くなった香りを洗い流そうとするように、ジョーは勢いよく水道の蛇口をひねり、冷たい水をのどに流し込んだ。
 
「やめて、お願い…!」
 
彼女の悲痛な声が耳の奥に残る。
 
僕は、きみを壊そうとしているのかもしれない。
もし、そうなら…
そうなら、僕は。
 
どうして、美しいきみを美しいままにしておけないのだろう。
きみを暴き、きみを汚して、きみを僕だけのものに…したつもりになるなんて。
 
僕は、馬鹿だ。
馬鹿で…醜悪だ。
 
誰の目にとまってもいいはずだ。
誰にでも愛される、清らかで優しい果実。
それがきみなのだから。
 
そして、きみの奥には金色の蜜があって、その香気がきみをますます美しくする。
そんなことは、誰もがわかることだ。
きみを一目見れば、誰でも。
 
きみは、優しく体をひらいて、僕にその蜜をくれた。
それだけで…僕は満足しなければならないのに。
なのに、僕は君を貪った。壊してしまった。
 
許してくれ、と祈るのも…たぶんきみのためではない。
もう一度きみを抱くことを許してほしいだけだ。
いや…許されなくても、僕は…きっと。
 
フランソワーズ。
僕は、どうしたら…いい?
 
 
 
ジョーが朝の光に気づいたとき、時計はいつも起きる時間をとうに過ぎていた。
外で、軽いスコップの音がするのに気づき、彼は飛び起きた。
急いで着替え、階段を駆け下りる。
 
まぶしい光の中で、フランソワーズが赤い上着を着込み、スコップを動かしていた。
雪は大方片付けられている。
 
「お…はよう、フランソワーズ…すごく…積もったね」
 
雪の反射に目を細めているジョーに、フランソワーズは笑った。
 
「だからちゃんと雪かきしなくちゃいけないのよ…もう、ジョーも手伝って」
「…う、うん」
 
道具をとりにいこうとして、ジョーはふと振り返った。
フランソワーズがどれだけ掘っても、雪はあくまで白い。
…けれど。
 
ガツ、とスコップが石に摺れる音がした。
ジョーははっと息をのんだ。
やっと地面が見えようとしている。
 
…ということは。
 
やめてくれ、と言いかけた言葉がのどにつかえる。
それ以上掘ると、汚れた雪が現れる。
 
彼女のスコップはもちろん躊躇することなどない。
勢いよく最後の雪をどかせた下に、黒々とぬれた敷石が見えた。
 
思わず目をつぶりそうになるのを、とっさに抑え、ジョーは軽やかに翻ったスコップと、そこから飛び出すように投げ出された雪の塊を見つめた。
そして、目を見張った。
 
雪は、どこまでも白かった。
 
 
 
「…ジョー?」
 
足音に怪訝そうに振り返ったフランソワーズは、いきなり抱きしめられて、身を硬くした。
が、彼の腕は優しく、彼はそのまま動かなかった。
フランソワーズはスコップを放し、両手でそうっと彼の背中を抱いた。
 
「どうしたの、ジョー?」
「…ウン」
 
短い声に、涙が混じっているように聞こえ、驚いて顔を上げると。
ジョーは、微笑していた。
 
「…あ」
「昨日は…ゴメン」
「ジョー」
「もう、しないから」
 
しないって……つまり。
 
真っ赤になったフランソワーズをもう一度愛しげに抱きしめ、ジョーはその耳にささやいた。
 
「きみに、渡すものがあるんだ」
「…え?」
「と言っても、僕からのプレゼントじゃなくて…グレートから。いや、それもやっぱりもらい物なんだけど」
「まあ…何、それ?」
「とても、いいものだよ…きみにぴったりの」
 
それ以上の質問を封じるように軽く口づけすると、ジョーはフランソワーズを離した。
 
「今日は、僕が朝ごはん作るよ」
「…できるの?」
「馬鹿にするなよ…トーストに、半熟卵に、コーヒー」
「それだけ?」
「え?」
 
フランソワーズはくすくす笑いながら言った。
 
「いいわ、許してあげる…リンゴもまだたくさんあるし」
「そうだね」
「買いすぎちゃったかもしれないわね…冬中もつわ、きっと」
 
ジョーも楽しそうに笑った。
 
「みんなを呼んだら、すぐになくなるよ」
 
 
 
でも、その前に…もう一度雪が降るといい。
もう一度、きみと二人で、見ることができるように。
 
 
更新日時:
2004.09.28 Tue.
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Last updated: 2013/8/15