よもすがらきみとねむりて
きみときくやみのしたたり
よもすがらきみとねむりて
しづかなるとこのともしび
きみときくやみのしたたり
おとなくおつるそのしたたり
なにゆゑのあしたのいのち
山村暮鳥「幸福」(『黒鳥集』)
1
彼が一瞬拍子抜けしたような顔をしたのを、グレートは見逃さなかった。
「へへっ、そういうこと…お二人さんは仲良く旅行中さ…悪く思うなよ。」
「別に……」
言いかけて、アルベルトは、この中年男が、愉しくてたまらないと言わんばかりの表情をしていることに気づき、唇をゆがめた。
「オマエさん、相変わらず…いい根性だな。」
「オマエも相変わらず…素直じゃないねえ。俺なら素直に言うがなぁ…遠路はるばる駆けつけてきたのに、我が麗しの姫君があらせられないとは…なんたる…なんったることか…!」
「…ふん。我が麗しの姫君…ね…009の前で言う度胸がある…ってんなら、ちっとは見直してやってもいいが。」
冷ややかな一瞥に、グレートは大げさに肩をすくめてみせた。
「ご冗談を…!芸術に命をかけることはやぶさかでないが…たかが余興の茶番でそっんな危ない真似するつもりはありません…ってな。」
「どうでもいいが、003と009がいなくて、俺のメンテナンスができるのか?001は寝てるんじゃないか?」
「助手なら拙者がやることになっているが…」
007はちらっと004を覗いた。
反応がない。
「何か…不服でも?」
「…言っても仕方あるまい。」
2
「静かねえ…」
「…ホント?」
フランソワーズは首を傾げた。
ジョーはごく生真面目にこちらを見ている。
「ホント…って?」
「あ…うん、ホントに静かなら、いいな…って思ったんだ。」
だって、そのために来たようなものなんだから…とつぶやく彼に、フランソワーズは苦笑した。
「アルベルトのメンテナンス…大丈夫よね?」
「うん…博士も大丈夫って言ってくれたし…グレートもいるし。」
「…私たちだけ、こんなワガママして…申し訳ないみたい。」
「たまには…いいよ。たまにしかないんだから。」
次があるかどうかだってわからない。
いや、今、この瞬間だって…
研究所からの連絡1つで、僕たちは戦場へ走る。
「やっぱり動きにくいなァ…パジャマにしちゃおうかしら?」
洗面台へ歩きながら、フランソワーズはつぶやいた。
女性用にわざわざ用意されていた花模様のゆかたを着たものの、腕がどうにも動きにくくて、思うように髪を梳くことができない。
ぎこちなくカチューシャを外し、ゆっくりブラッシングをはじめたとき。
後ろに気配がした。
「…ジョー?」
「もう、寝よう…」
背中から抱きすくめられ、フランソワーズはくすっと笑った。
「だから、準備してるのよ…もう少し待って」
「どれくらい?」
「そうね…10分くらいかな?…ジョー?」
「そんなに待てないよ…!」
ジョーはさっとフランソワーズを抱き上げ、布団に運んだ。
「ジョー?…ちょっと、ジョーったら…寝るんでしょう…?待って…」
「…そうしたいけど…眠れない、このままじゃ…」
「…っ!」
灯りを消して…と言いかけた言葉は唇で塞がれた。
3
「嘘つき……」
小さなつぶやきに、ジョーは重くなりかけた瞼を開いた。
フランソワーズは目を閉じたままだった。
「嘘…つき…?僕が…?」
「眠りたい…って…言ったくせに……」
「…嘘じゃ…ないよ…眠ろう」
「ただ、静かなところで、ぐっすり眠りたい…って、言ったじゃない…それだけで、いい…って。」
「…うん」
「……」
「…怒ってる…の?」
「…怒ってないわ…でも…」
「はじめから、こうできたら…いいのにな…」
「…え?」
フランソワーズも薄く目を開けた。
赤褐色の澄んだ瞳が優しく見つめている。
「はじめから…こうしたい…こうやって…君に包まれて、ただ静かに眠りたい…いつも、そう思ってる…」
だけど、駄目なんだ…と、ジョーは小さくため息をついた。
君の肌に触れると…僕の血はざわめき始める。
眠るどころではなくなってしまう。
君を抱いて、苛んで、奪って…そうせずにいられなくなる。
嵐のような時間が過ぎて…やっと眠れる。
こうして…君の胸の中で。
「イワンが…うらやましいよ。」
「…おかしな人…そんな言い方ってある…?」
「怒ってる…?」
「怒ってないわ…」
吐息まじりに微笑するフランソワーズの胸に、ジョーはそっと顔を埋めた。
ああ、眠ってしまう。
こんなに…幸せなのに。
4
「よ、お帰り…お二人さん。」
「ただいま…お帰りなさい、アルベルト…調子はどう?」
「ああ、なんともない…007の助手も、意外に危なげなかったぜ。」
「ハハハ…見かけで人を判断しちゃいかんぞ」
笑うギルモアに、グレートが憮然と抗議する。
「見かけでって…そりゃ博士、全然フォローになってませんって。」
にぎやかな笑い声の中、ジョーは嬉しそうに紙袋を持ち上げてみせた。
「これ、お土産…おいしそうだったんだ…みんなで食べようよ」
「ほう…?」
「お茶、入れてきましょうね、博士…」
「ああ、いいから座りなさい、フランソワーズ…疲れておるじゃろうに…お茶ならワシが…」
アルベルトはギルモアを押さえ、ジョーの手から紙袋を取った。
「申し訳ありませんが、博士のお茶は遠慮させてもらいたいな…俺が入れてきますよ」
「な、な、なんじゃとぉ〜、し、失礼な…!」
憤慨するギルモアに、また笑い声が起きた。
「そうか…いいところじゃったか…」
「ええ、とっても。静かで…感じのいいところでした。景色もきれいで…」
「君は、博物館が気にいってたよね。」
「ええ…宿のゴハンもおいしかったわ。」
無邪気に微笑み合う二人に、グレートは何となく瞬きした。
「その様子じゃぁ、アテにはならないけどな…愛し合う恋人同士、お互いに夢中で景色なんざ見てるヒマなかった…んじゃないの…?」
「グレート…!」
途端にフランソワーズが真っ赤になる。
アルベルトは思わず苦笑した。
この状況でからかうな、というのは無理かもしれないが…あまり苛めるのも大人げないだろう。
なお言いつのろうとするグレートをたしなめようとしたとき。
「やめてくれよ…僕たちは、そんなんじゃないんだから。」
思わず振り返って、まじまじとジョーを見てしまった。
赤褐色の目はいつもと同じようにごく静かに澄み切って、僅かに困惑の色を浮かべている。
「…そう、か?だが…」
「アルベルト…!」
フランソワーズが懇願するように遮る。
アルベルトは肩をすくめ、口を噤んだ。
5
「『そんなんじゃない』…かぁ…」
低い呟きを、ジョーは聞き逃さなかった。
「フランソワーズ…?」
「あ…!ごめんなさい…起きてたの…?」
「……怒ってる?」
「ううん…」
フランソワーズは優しく彼の腕をほどき、ベッドから起き上がると、窓辺へ歩いた。
白い裸身にローブを重ね、そっとカーテンを開ける。
「月が…きれいよ、ジョー」
「…ここに…いてよ、フランソワーズ…僕、眠いんだ…」
「もう少し…月を見てから…ね」
「……」
振り返ったら駄目。
フランソワーズは心でつぶやき、月を見上げた。
振り返って、あの目をみたら…私は…
「あのね…ジョー…」
「…うん」
「一度だけ…聞いてみたかったの…本当のこと、言ってね…?」
微かに身じろぐ気配を背中に感じる。
フランソワーズは深呼吸して、できるだけ優しく言った。
「…ほんとうは…誰でも…よかったの?」
「フランソワーズ…?」
「私でなくても…よかったのよ…ね…?」
「…やっぱり…怒ってる」
「怒ってないわ…だって…もしそうでも、かまわないもの…」
不意に後ろから抱きしめられ、フランソワーズは息がとまりそうになった。
なんの気配も前触れもなかった。
「…ジョ…?」
「怒ってるじゃないか…!」
「答えて、ジョー…一度だけでいいの…もう二度ときかないわ。」
「なんて…答えれば、いい?」
「…ジョー。」
フランソワーズは思わず顔を上げ、窓ガラスに映った赤褐色の瞳を見つめた。
「なんて答えれば…許してくれる…?何でも言う…君の望むとおりに…だから。」
「そうじゃないのよ…ジョー、私…ただ……」
「…教えてよ…!」
折れるほど抱きしめられ、フランソワーズは堅く目を閉じた。
「…それじゃ…こう言って。『君でなければ駄目だ』…って。」
「君で…なければ…!」
ジョーは無造作にフランソワーズを抱き上げ、突き飛ばすようにベッドに押し倒した。
ローブを引きはがし、露わになった胸に顔を埋め、口づける。
「君でなければ…駄目だ、フランソワーズ…!君で…なければ…!」
「…ジョー。」
彼女の堅く閉ざされた瞼から涙がにじんでいる。
それをそっと唇で拭いながら、ジョーは血を吐くように繰り返した。
「君でなければ駄目だ…君でなければ…駄目だ、フランソワーズ…!」
6
月の光で、彼の頬は少し青白く見えた。
柔らかい茶色の前髪は、汗と涙で湿っている。
その髪を優しく指で梳きながら、フランソワーズは囁くように言った。
「ごめんなさい…ジョー…」
答はない。
あの荒々しさが嘘のように、満ち足りた表情で、彼は眠りについていた。
子供のような無邪気な寝顔。
彼がこんな顔をするなんて、思いもしなかった。
いつも穏やかで、寂しそうな009。
誰にでも優しくて、誰も近づけようとしない009。
そういう人なのだと思っていた。
あのときまでは。
控えめなノックに、思わず「目」を使ってしまった。
仲間とはいえ、男ばかりの中に女は自分一人。それなりに気は張っている。
あの夜でなければ、透視するまでもなく、夜中のノックなど黙殺していただろうし…
透視さえしなければ、ドアを開けることもなかっただろう。
あの夜。
イワンのもとへミルクを持っていこうとしていたとき。
バルコニーから、獣のような咆吼が聞こえた。
危うく哺乳瓶を取り落としそうになった。
009の声だとすぐわかった。
彼は、メンテナンスが終ったばかりで、地下にいると思っていたのに。
いったい、何が…?
バルコニーに出ると、009は叫ぶのをやめ、ゆっくり振り向いた。
幽霊のように生気のないその顔に、驚いた次の瞬間。
堅く、抱きしめられていた。
その後、彼は何も語らなかった。
いつものように「おやすみ」と優しく微笑んで…部屋に向かった。
今でも…あのとき、何があったのか、彼は語ろうとしない。
その、夜更けだった。
フランソワーズの寝室の扉を、彼はごく控えめにノックした。
透視したフランソワーズの目に映ったのは、あの、幽霊のようにたたずむ009の姿だった。
思わず、駆け寄って、ドアを開けてしまった。
彼は微かに震えていた。
何を聞いても、力無く首を振り、「眠れない」と繰り返すだけで。
怖い夢を見たんだわ…と思った。
子供のように。
そして、彼が教会で育った孤児であることをふと思い出した。
子供の頃。
怖い夢を見ると、泣きながら母のベッドに潜り込んだ。
優しく抱き寄せられると、それだけで嘘のように恐怖は消え去り、温かい眠りに包まれることができた。
彼の母親になろうと思ったわけではない。
ただ…震えて立ちつくすばかりの彼が可哀想で、愛しくて。
何の考えもなく、ごく自然に、フランソワーズは彼をそっと抱きしめ、部屋に引き入れ…ベッドに座らせていた。
なんて、無防備だったんだろう…と、今考えてもおかしくなる。
でも、あのときは…そうするのが当たり前のように感じていた。
そうしなければいけない気がしていた。
求められたのか、求めたのか…それすらわからない初めての夜は、破瓜の痛みと、初めて見る彼の安らかな寝顔とを彼女の心に刻みつけ、静かに明けた。
あれから…何度、こうして夜を過ごしているのだろう。
昼間の彼は今までと少しも変らない。
仲間達も、気づいているのか、いないのか…たぶん、気づいていない。
二人で旅行に出たい、とジョーが言い出したときは、さすがに一瞬奇妙な空気がリビングに流れたけれど。
でも、二人をいつも温かく見守っているギルモアでさえ、既に彼らが男女の関係になって久しい、とまでは思っていないのではないか…。
フランソワーズは、そう思う。
彼は相変わらず穏やかで寂しそうで…
誰にでも優しくて、誰も近づけようとしない。
…そう、私のことも。
フランソワーズはため息をのみこみ、白い額に優しく口づけして、目を閉じた。
7
「…え?」
鳩が豆鉄砲食らったような風情のジョーに、アルベルトは繰り返した。
「そんなんじゃないとはどういうことなんだ、と聞いてるんだよ。」
「どういう…って。」
改まって話がある…っていうから何かと思ったら、と珍しくやや憤然とするジョーに、アルベルトは苦笑した。
「たしかに…おせっかいだがな…だが、相手が003となったら、話は別なんだ。悪いな。」
「…アルベルト」
「オマエさんも知ってるとおり、俺たちは第一世代だ…彼女のことは、ただ仲間というのともちがう…そうだな…まあ、兄貴のような気持ちでいるのかもしれない。」
「…ジェットも、かい?」
「…あいつは…さあ?…どうなんだろうな」
少し考え込むアルベルトを、ジョーは探るように見つめ、やがてそっけなく口を開いた。
「そんなんじゃない…っていうのは…そんなんじゃない…だよ。君たちが考えているような間柄じゃない。」
「一緒に旅行に行って…今日はまた起き抜けにそんなトコロにそんな跡くっつけといてか?よく言うぜ。」
「…え?!」
思わず首筋に手をやり、ジョーはハッと唇を噛んだ。
アルベルトは吹き出した。
「ざまァねえな、オマエ…少しは…」
「からかってるだけなら、話は終わりにさせてもらうよ!」
「…まあ、待てよ、ジョー。」
立ち去ろうとするジョーの肩を引き、アルベルトは真顔になった。
「俺はオマエに文句を言おう…ってんじゃない…もちろん、からかってもいない。ただ…もし、オマエが彼女をこの世でただ一人の女だと思っているわけじゃない…というのなら…」
軽く右手を構える。
「すぐに手を引け。そう言いたかっただけだ。」
「…どういう…こと?」
「そういうこと…さ。あいつは、もう十分すぎるほどツライ思いをしてきた…今まで、どうにかもってるのが不思議なくらいにな…強そうに見えるが、あいつは…」
「…わかってる、そんなこと。」
「そんなこと…だと?」
アルベルトは右手の銃口をジョーの額に突きつけた。
「女が欲しいなら他で探せ。一生愛し抜く覚悟がないなら、あいつに触れるな。それが、オマエが『009』としてここにいるための最低のルールだ。チームワーク以前の問題としてな。」
「女が…欲しい、だって?」
赤褐色の目に、烈しい光がよぎった。
「だから、そんなんじゃない…って言ってるじゃないか!あんたたちの下世話な欲望と一緒にするなっ!」
「なん、だと…?」
拳を震わせるジョーをアルベルトは鋭く一瞥した。
「大きく出たな、ジョー。下世話な欲望か…で、オマエのそれは違う、と言いたいわけか?」
「…あんたには…わからない。僕にとって、彼女が、どんなに…」
「やれやれ…誰でもそう思うもんなんだよ、ぼうや。熱にうかされている間はな。だが、それはいつまでも続くわけじゃない…だから、いろいろと手続きが必要なんだ。」
「…手続き?」
「いきなり結婚しろ、と言ってるわけじゃない…ただ…本当に一生愛していこうと思うなら、周囲の力も必要だということだ…自分たちは恋人同士だ、と博士や俺たち仲間にさえ言えないようでどうする?」
「だから…っ!恋人同士なんかじゃ、ないって言ってるだろう?!」
「待て、ジョー!」
顔色を変えたアルベルトに、ジョーはハッと振り返った。
フランソワーズが、立っていた。
「アルベルト…博士が…チェックしたい部品があるから来てくれって…」
「…フランソワーズ。」
アルベルトは舌打ちし、砂を蹴って研究所へ向かった。
ゆっくり彼の後を追って歩き出すフランソワーズを、ジョーは鋭く呼んだ。
「フランソワーズ!」
「…ごめんなさい、ジョー。」
フランソワーズは、振り向かなかった。
「今…アナタの顔、見られない…ごめんね。」
8
空港へ向かうクルマの中で、アルベルトはぽつりと言った。
「…悪かったな。」
何が、と明るく聞き返そうとして、フランソワーズはふと口を噤んだ。
隠すことはないのだと、思った。
「いいえ…気にしないで…あれで、よかったのよ。」
「あれから…009は?」
「…フツウよ…前に戻った…っていうのかしら…彼、少し不安定だったのかもしれないわね。」
「だからってオマエが…!」
気色ばむアルベルトに、フランソワーズは微笑んで首を振ってみせた。
「…大丈夫よ…アナタが止めてくれたし。」
「大丈夫なもんか…もっと、自分を大切にしてくれ。」
「わかってる。ありがとう、アルベルト。」
「いいか、ガマンするな。何かあったら、俺がいる。ジェットもいる。」
「ジェット…?」
「まあ、あれで結構頼りになるかもしれないからな…いざというときは。」
フランソワーズはくすくす笑った。
「ジョーにも…頼れる人がいればいいのにね…」
「…オマエに頼ろうとしてるんじゃないか、アイツは。」
「ううん…私では駄目…覚えてるでしょう…あの、黄金のピラミッドのとき…」
もちろん、覚えている。
だからこそ…アイツの真意を糺したかった。
「でもね、アルベルト…あなた、彼のこと誤解してるわ…ジョーは、恋人が…女の人が欲しいわけじゃないんだと思うの。」
「…どういうことだ?」
「わからないわ…でも、あの人、ときどきそう言ってた…ただ眠りたい…私のこと、抱かなくてもすめばいいのに…って。」
「…なんだ、それは?」
「男の人ならわかるのかしら…って思ってたんだけど。」
「わかるか、そんなこと。」
「そう?…そうなの。」
それきり口を噤み、フランソワーズは軽くアクセルを踏んだ。
9
眠れない。
こんなに疲れ切っているのに。
あのとき…彼が、不意に姿を消したときから、自分の中で、何かが大きく崩れかけているのを、フランソワーズは感じていた。
彼の行方は、すぐにわかった。
未来へ…飛ばされたと。
そして、苦しい戦いが終わり…平穏が戻ってきたというのに…。
眠りにつくと、あのときの夢を見る。
彼が姿を消した浜辺。
夢だと確かめたくて、大きく叫び、目を覚ます…その繰り返し。
もう過ぎたことだと、何度自分に言い聞かせても、体の震えは止まらなかった。
悪夢の未来。
それを変えるために、自分たちは戻ってきた。
その戦いは、きっともう…始まっている。
フランソワーズは両手で顔を覆い、小さく呻いた。
やがて、そっと顔を上げ、ベッドを降りる。
ふらふらと長い廊下を歩く。
階段を下り、また歩いていけば…突き当たりが、彼の部屋だった。
アルベルトが帰国した、あの日…ジョーはギルモアに頼んで、部屋を1階に移した。
彼女の部屋から、一番離れた場所に。
自分が何をしようとしているのか、フランソワーズには分からなかった。
ただ…彼の部屋に向かって歩いていた。
もし、途中で…怖くなったら。
もし、途中で…誰かに見つかったら。
そっと彼の部屋をノックして…返事がなかったら。
そうしたら、戻ろう。
祈るように歩いた。
何を祈っているのか…わからなかったけれど。
息を詰めて廊下を歩ききり、階段を降りようとして、フランソワーズはあっと息を呑んだ。
階段の下に、人影が動いた。
それなら…これで、終わり。
深呼吸して、戻ろうとしたとき。
「…フランソワーズ…?」
震える声が届いた。
思わず手すりにすがりつくようにつかまり、おそるおそる振り返ると…
赤褐色の瞳が見上げていた。
ジョー、と呼んだつもりの声が、喉にからまる。
降りたのか、落ちたのか…どうしてそこまで行ったのか、わからない。
気づいたときには、階段の途中で、彼と堅く抱き合っていた。
10
「フランソワーズ…?」
微かな声に、うっすらと目を開いた。
体中に甘い余韻が蘇る…が、心は穏やかだった。
「…何が…見える?」
ささやくような声。
フランソワーズは、赤褐色の瞳をぼんやり見つめた。
「あなたの…目よ。」
「…僕も。」
ジョーは満ち足りた吐息をもらし、優しく彼女の裸身を抱きしめた。
耳元にそっと唇をあて、またささやく。
「…何が…聞こえる?」
「あなた…が。」
碧の瞳に、ふっと涙が溢れる。
その涙を唇で受け止めながら、ジョーは呻くように言った。
「…僕も。」
これで…眠れるね…
独り言のように、ジョーがつぶやく。
フランソワーズも小さくうなずいた。
眠れる…わ。
こんな…満ち足りた眠りを……
このまま、目覚めなくてもいい。
ずっとこうしていたい。
遠のきかけた意識を懸命に引き寄せ、フランソワーズはジョーの胸に顔を埋めた。
「この…ことだったの…?眠りたい…って」
ジョーは黙ったまま亜麻色の髪に深く口づけし、そっとうなずいた。
「わかって…くれたんだね…」
だったら…離さない。
もう、二度と。
11
ごく静かな足音がゆっくりと部屋の前を通り過ぎ、階段に向かい…
…そして、それきり戻ってこない。
開いた窓から、風が流れ込んでくる。
明け方の光を含んだ風。
あの口下手な少年は、彼女に伝えることができたのだろうか。
どんなやり方でもいい、伝えてほしい…とアルベルトは思った。
自分もかつて、口下手な少年だった。
口だけではない。
愛情を行動で表わすことすら、何一つできなかったような気がする。
彼女はなぜ、自分についてきてくれたのか。
どうやって、いつ…この思いを受け入れてくれたのか。
今となっては何もわからない。
しかし…
あの、最後の晩。
満ち足りた彼女の寝息と…鼓動。
それだけが、世界の全てだった。
それだけに包まれて眠った…あれが、俺の最後の眠り。
何十年もの歳月が過ぎた今、鋼鉄の体にそれを蘇らせ、俺はかろうじて眠りにつく。
…ヒルダ。
たぶん、妄想でなく。錯覚でもなく。
君はそこにいる。
俺を包み、満たしている。
既に破られたはずの誓いがこの手に残り、この心を守ろうとする。
もし、それをオマエが知っているなら、ジョー。
伝えてやってくれ。
これまで十分苦しんできた…そして、これからまた一層苦しまねばならないさだめの彼女に、伝えてやってくれ。
束の間でもいい。
人の世で一番深く静かな幸せを。
何にも妨げられることのない、優しい眠りを。
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