1
いつか、こんなことがあったような気がした。
それとも。
いつか、こうなる気がしていたのかもしれない。
彼が私を見つめ、そして。
引き金を、引いた。
2
「フランソワーズ…フランソワーズ?」
思い切り両肩を揺さぶられ、彼女は静かに目を開いた。
心配そうに赤褐色の目が覗き込んでいる。
「ごめん…遅くなって…寒かった?」
「……」
無言のまま見つめ返す彼女に、彼はますますうろたえた。
「本当に…ごめん…ちゃんとした店で待ち合わせすればよかったよね…」
碧の目が慌ただしく瞬きする。
「やだ…居眠りしてたの?私…」
「フランソワーズ…?」
「ごめんなさい…行きましょう…あ。久しぶりね、ジョー…」
「う、うん…」
ベンチからさっと立上がり、そのまますたすた歩き出すフランソワーズを、ジョーは慌てて追いかけた。
3
包みを広げたフランソワーズは思わず息を呑んだ。
柔らかい絹のスカーフ。
「どう…して…?」
声が震える。
ジョーは照れくさそうにうつむいたまま言った。
「ナリタで、飛行機を待ってるときに見つけたんだ…きみに似合うんじゃないかと思って…」
…反応がない。
「…フランソワーズ?」
そっと顔を上げると…フランソワーズは放心したように膝の上のスカーフを見つめている。
頬は蒼白になっていた。
「どう…したんだ?」
思わず両肩をつかみ、強く揺さぶると、彼女はハッとジョーを見上げた。
わかった。
スカーフ…スカーフだったんだわ…!
「あの人」は、このスカーフをしていた。
私は…していなかった。
だから、「彼」は、それを見て…私を撃った。
「どうした…真っ青だよ、フランソワーズ…?気分が悪いのか?」
「…い、いいえ…」
ジョーはぼんやりと彼女の視線を追い…スカーフに目を落とし、僅かに表情を曇らせた。
「…少し、休んだ方が。」
さりげなく彼女の膝からスカーフを取り、サイドテーブルに置く。
…何か、失敗してしまったようだ。
ジョーは胸を締め付けられるような思いに責められていた。
そのスカーフは、ブランドに疎い彼でも聞いたことがある、フランスの老舗の品だった。
ごくオーソドックスで、どんな世代の女性にも愛される柄…という、店員の言葉を頼りにもとめた。
彼女の好みなんて、見当もつかなかったし…でも、よく似合うだろうと思った。
…だからこそ。
彼女の傷に触れてしまったのかもしれない。
もしかしたら、これと同じモノを、かつて彼女はこの街のどこかで…
それ以上考えることに耐えきれず、ジョーはそっとフランソワーズを抱きしめた。
「…ごめん」
ビクン、とフランソワーズが身を堅くした。
やっぱり…とジョーは唇を噛んだ。
でも、これから僕がいるから…ずっと側にいるから。
そう決めたんだ。
きみのそばにいる。もう離さない。
…だから、笑って。
言葉にはならなかった。
ジョーはやみくもに彼女を抱きしめ、体を重ねていった。
「…イヤっ!」
不意に、思い切り胸を押し戻された。
驚くジョーを、フランソワーズは怯えきった目で見つめた。
4
「二つの世界が、衝突する!」
誰かが叫んでいる。
絶望の叫び。
「早く…っ!」
彼が私を見ている。
なんて…苦しそうに。
いつか、こんなことがあったような気がした。
それとも。
いつか、こうなる気がしていたのかもしれない。
…そうよ。
こうなるってわかってた、私は…ずっと前から。
迷わないで、ジョー。
あなたは、あなたのしなければならないことをするのよ。
私は…それでいい。
…いいえ。
それが、それこそが私の望みなの!
「フランソワーズ!」
耳元に叫ぶような声がした。
はっと目を開いた。
「…ジョー…?」
「どうした…?ひどく、うなされていたよ…」
…夢?
体が微かに震えている。
なんでもないわ、と言おうとするのに、声が出ない。
そんな彼女をじっと見つめていたジョーが、声を絞り出すようにして言った。
「…一緒に、暮らそう」
フランソワーズはぼんやりジョーを見た。
まだ、夢の続きなのかもしれない。
「帰っておいで…日本に。いや、僕がフランスで暮らしてもいい…もう、これ以上きみと離れていたくない」
「ジョー…」
無言のまま瞼を落としかけたフランソワーズを、ジョーは慌てて揺さぶった。
「フランソワーズ…聞いてくれ、僕は…」
「ダメ…眠らせて…明日…聞くから…」
「フランソワーズ…!」
すうすう寝息を立て始めた恋人に、ジョーは深いため息をついた。
5
まるで、捨てられた子犬みたい。
そんな目をしないで、ジョー。
「私…あなたのこと、好きよ、ジョー…一緒に暮らしていたとき、本当に幸せだった。あなたの言うとおりに…そうできたら…素敵だと思う。でも…」
「…でも?」
「私たち…あまり近くにいない方がいいのよ。」
「どうして?」
フランソワーズは黙って首を振った。
「…フランソワーズ、僕は…」
「ありがとう…嬉しいわ…本当に嬉しいの…ね、見て…」
差し出された白い手が細かく震えている。
「おかしいでしょう…?さっきから…こんなに震えて…止まらないの。あなたに…そんな風に言ってもらえるなんて…思ってもみなかった。夢みたい。」
「夢なんかじゃない…!一緒に暮らそう、フランソワーズ…僕は、もう…」
「ジョー…誰か…好きなヒトはいないの…?」
「…え?」
ジョーはぼんやりフランソワーズを見返した。
「好きなヒト…って…だから、僕は…」
「私の他に……いるでしょう?」
「フランソワーズ?!何言ってるんだよ?…僕の言ったこと、わかってる?」
「わかってる…わ」
「嘘だ…いいよ、それならハッキリ言う…何度でも言うから。きみが好きだ…愛してる、誰よりも…もう、離れていたくない!」
フランソワーズはうつむいたまま沈黙している。
ジョーは、体中の血が冷たくなるような感覚に襲われていた。
「それなら…せめて教えてくれ、フランソワーズ…どうしてなんだ…?どうして…」
「…ジョー」
フランソワーズは途方にくれて、ジョーを見つめた。
どうしてこんなことになってしまったのか…わからない。
やっと、心を決めたのに…
1人でパリに帰ってからひたすら考え続けた。
考えて、考えて…出した結論だった。
彼も、きっと同意するだろうと思っていた。
「…僕たちが、サイボーグだから…?」
苦しげな声。
フランソワーズは小さく首を振った。
そんな顔をしないで、ジョー。
理由は…言えない。
言えば、もっともっとあなたを苦しめてしまう。
「私たちはサイボーグで…どんなに離れていても、この世に9人しかいない仲間同士…それだけで、もう十分な絆じゃないかしら…?」
「…フランソワーズ」
「私は…いつも、あなたとつながっているわ…この心は…どんなときも、どこにいても」
「わかってる…わかってるよ、でも…それだけじゃ足りない…もっときみを感じたい…もっと近くにいたい」
そんなふうにして。
愛した分だけ苦しみは増えていくんだわ。
いつかあなたはそれを1人で背負わなければならないのに…
フランソワーズの脳裏に、あの夢がよぎった。
苦悩に歪んだ彼の表情。
銃口が閃き…そして。
「私ね、ジョー…好きな人がいるの」
「…え?」
フランソワーズは立上がり、彼に背を向けた。
「無駄だって…わかってる…だって、私は…サイボーグだし…ホントはおばあちゃんだし…だから、どうにもならないし…どうするつもりもないわ。でも…でもね」
呆然としている彼を振り返り、フランソワーズは静かに言った。
「…思い続けるだけなら…私にもできる…それでも…愛したことになると…思うの」
6
彼に初めてついた嘘。
その代償は大きかったのか、小さかったのか。
ジョーからの連絡は完全に途絶えた。
やがて、彼が研究所を出たという報せが入った。
行き先は、ギルモアにもわからないという。
わかったところで、連絡する気はなかった。
それでも、事が起これば、彼は研究所に戻るだろう。
もちろん、そのときは自分も。
それで十分だと、フランソワーズは自分に言い聞かせた。
「よく似合ってる」
「…え?」
彼の青い目が人なつこく瞬いた。
「そのスカーフ…君にぴったりだよ…買ったの?」
「いいえ…前に貰ったものなの…ずっとしまっておいたのだけど…」
「前にって…フフ、恋人にかい?」
「…どうだったかしら?…少なくとも、あなたに貰った覚えはないわね、ポール」
おどけるフランソワーズの額を、彼は軽く舌打ちしながら小突いた。
「痛ァい…!」
「まったく…可愛げがないよなぁ…!行こうか、ちょっとノンビリしすぎたね…午後のレッスンに遅れたら大変だ」
さりげなく差し出された腕にさりげなくつかまって、フランソワーズはふと青く高い空を見上げた。
…そのとき。
「危ない…!」
鋭い声に、ハッと振り返った。
咄嗟に彼を突き飛ばし、地面に転がる。
脇腹をかすめて、一条の光線が枯葉を焦がし、次の瞬間、視界が大きく歪んだ。
「フランソワーズ…っ!」
…あの声は。
振り向くより早く、何かに押さえつけられるような感覚が全身を襲った。
息ができなくなり、視界が大きく歪む。
フランソワーズは懸命にもがいた。
「…ジョー…?!」
我を忘れて叫ぶのと同時に、ふっと身が軽くなった。
途端に足元がぐらつき、地面に叩き付けられる。
呻きながら身を起こし、顔を上げると…
ジョーが、立っていた。
途方に暮れたように呆然と…銃を掴んで。
「…ジョー?」
すぐ後ろに異様な気配があった。
さっと振り返ると…
「…っ!」
大きく見開かれた碧の瞳が震えている。
フランソワーズは呆然と、もう1人の自分を見つめた。
これ…は…これは、あのときの…夢?
7
「急げ…!二つの世界が、衝突する…っ!」
血を吐くような叫びが降った。
ジョーは弾かれたように顔を上げ、二人のフランソワーズを見つめ…銃を構えた。
「…ジョー?」
震える声。
自分の声なのか、彼女の声なのか…わからない。
…そうよ。
こうなることを、私は知っていた。
フランソワーズはまっすぐ顔を上げ、ジョーを見つめた。
大丈夫…わかっているから。
迷わないで、ジョー。
あなたはこの世界を守らなければならない。
あなたの力を必要とする人達を守らなければならない。
私の心は…いつもあなたと同じなのよ。
だから、ジョー。
迷わないで。
あなたが命を惜しまないように…私も、惜しみはしない。
私を、信じて…!
いつか、こんなことがあったような気がした。
それとも。
いつか、こうなる気がしていたのかもしれない。
彼が私を見つめ、そして。
…引き金を、引いた。
かしゃん、と地面に何かが落ちる音がした。
ジョーが、銃を取り落とし、立ちつくしている。
もう1人の自分は…消えていた。
「…ジョー…!」
夢中で駆け寄り、彼の肩を抱いた。
彼は蒼白になり、激しく震えていた。
「…フランソワーズ…」
氷のように冷たくなった手で彼女を抱きしめ、ジョーは呻いた。
8
スカーフの柄が違ったから…と、ジョーは説明した。
あの出来事の後、すぐ日本に渡った。
始まったのは、未来人との時空を超えた戦い…だが、悲壮な覚悟をもって臨んだ割に、それはあっさりと決着した。
長年にわたり、あらゆる辛酸を嘗め尽くした彼らはサイボーグたち以上に戦いに倦んでいた。
戦わずにすむ方法が見つかるや、そのリスクを省みることなく、彼らは去った。
フランソワーズが狙われたのは、彼女が彼らにとって何らかの鍵を握る人物の祖先だったから…なのだという。
首を傾げる彼女に、ジョーは「詳しいことはわからない。でも、彼らはきみを狙っているし、僕はきみを守ろうと思っている」と言うだけだった。
あのもうひとりの彼女は、並行世界の自分だったのだという。
ジョーの構えていた銃は、彼女を本来の世界に戻すためのもので…
「それじゃ…あの人は…あなたが撃ったもう一人の私は、元の世界に無事に戻れたの…?」
たぶん、とジョーは答えた。
理論上ではそういうことになるらしい。
「もし…間違えていたら?」
「…どうなったかは…わからない。もちろん、きみは助からないし…その間違いがきっかけで、この世界が崩壊したかもしれない…ってサンジェルマンは言ってたけど。実際はそんなこと、誰もやってみたことがないから、わからない…ってことらしいな」
「そんな…」
そんなことをあなたは…選ばなければならなかったのね。
どうして…いつもあなただけがそんなに苦しまなければならないの?
ぼんやり考え始めた彼女の表情に気づき、ジョーは素早く言った。
「でも、間違いないと思った。きみが…きみだと、僕は思った」
「…ジョー?」
「スカーフを見たから」
「…スカーフ…?」
あ、とフランソワーズは小さく声を上げた。
あのとき、彼に贈られたスカーフを首に巻いていた。たしかに。
「もうひとりの君もスカーフをしていたけど…柄が違ったんだ」
「…それだけ…?」
「え…?」
「それだけで…選んだの?」
ジョーはぎゅっと口を結び、うつむいた。
…それだけ、だったらしい。
短い沈黙の後、ジョーはつぶやくように言った。
「フランスへ…いつ、帰る?」
「…そう…ね。これで終ったのなら…来週ぐらい…かしら?イワンの目が覚めるのを待っていたい気もするし」
「目が覚めたって…すぐにさよならじゃ、イワンが可哀想だよ」
「そう…かしら」
「あの人が…きみの好きな人?」
「え?」
唐突な問いに、フランソワーズは思わずジョーをまじまじと見つめた。
赤褐色の目が、射るように見つめている。
…あの人。
襲われたとき、一緒にいたのは…バレエ仲間の一人だった。
彼が自分に好意を持ってくれているのは知っている。
でも…
「…答えられないわ」
「どうして?」
「だって…そんな怖い顔するんですもの」
フランソワーズは微笑んだ。
9
見たことのある風景。
黄色く染まる木々。
パリの散歩道。
彼女と彼女と……彼。
僕のしらない青年。
二人のきみのうち、どっちがきみなのか…本当に、僕にはわからなかった。
でも、きみは…あのスカーフをしていた。
だから…だから、僕はきみを選んだ。
他の道はなかった。
僕を忘れて、僕の知らない愛を纏って、僕の知らない人と抱き合うきみ。
それが、この世界だというのか。
僕が受け入れなければならない唯一の世界だというのか。
…それなら。
僕は決断し、引き金を引いた。
そして。
世界は、壊れなかった。
きみが…残った。
あのスカーフを纏ったきみが。
「…009」
暗がりから覚えのある声がする。
ジョーはゆっくり振り返った。
「…もう、会うことはないと思っていたけれど…まさか、何か…」
「いや…今のところ順調だ。きみと会うのも、これが最後だろう、009」
サンジェルマンは皮肉な笑みを投げた。
「最後に…見届けておきたかったのさ…私たちの、未来を」
「…未来は変る。そう信じたのはあなた達じゃなかったのかい?あなたの知っている未来は…もう、この世界の未来ではないのに」
「そうかもしれないな…だが」
部屋の隅に転がしてある、荷造りのすんだスーツケースをちらっと見やり、サンジェルマンはまた笑い…ふと表情をひきしめた。
「…行くのか」
「ああ」
「そうか。それは、よかった」
「…どうかな?僕は、あなたたちの未来をぶちこわしに…とどめを刺しに行くのかもしれない」
「そうだとしても、立ち止まって動けずいるよりはマシだろう…安心したよ、009……003に、よろしく」
忍び笑いの気配が少しずつ薄れていき…消えた。
ジョーは小さく息をつき、静かに窓を開けた。
青白く丸い月。
フランソワーズ。
明日、僕はこの空を行く。きみのもとへ。
きみの嘘を終らせるため。
僕の嘘も。
世界は壊れなかった。
きみが残った。
だから…
もう一度、僕は賭ける。
あの…はかない薄い布きれ一枚に。
同じくらいはかない、僕の想いに。
どんなにはかなくても、信じられるのはそれだけだから。
他には何もないのだから。
きみの嘘を終らせよう。
僕の嘘も。
どんなにはかなくても、もう怖れない。
信じられるものはそれしかないから、僕は信じる。
だから…きみも信じて。
怖れないで。
もうすぐだ。
次に月を見るときは、きみと一緒だ。
僕が選んだ世界の月を、僕が選んだきみと見上げよう。
フランソワーズ。
もう、きみを逃がさない。
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