1
モスクワは…雪。
「ジョー…」
「…ごめん」
いいのよ…と、何度言っても彼の目から、悲しい色は消えない。
どう言えば…わかってもらえるのかしら…
私が…今、幸せだということを。
この運命を背負ってからずっと、私が安らげる場所は、あなたの腕の中だけだったのに。
やっと…やっとたどりついたわ。
2年間…私はあなただけを待っていた。
待っているということにも気づかないほど。
「それじゃ…明日、空港で」
さっきと同じ台詞。もう3度目だ。
思わず微笑みながら…フランソワーズは彼の茶色の瞳を見上げた。
離れたくない。
私の部屋にきて。
今夜は。
心でつぶやくだけで、頬が燃えるように熱くなる。
やっぱり、言えない。
でも、もし彼が…来いと言ってくれたら。
明日、旅立てば…もうそこは、戻るあてのない戦場だから。
しかし、ジョーはそっと彼女を離した。
遠ざかる彼の背中を、フランソワーズはいつまでも見送っていた。
2
シャワーを浴び、ベッドに腰掛けて、きちんと出来上がった荷物に目をやった。
早く…眠らなくては…
今夜はいろいろなことが一度に起きすぎた。神経が高ぶっているのは仕方ないかもしれない。
舞台の千秋楽…アズナブールの求婚…ジョーとの再会…そして。
明日、私は戦場に戻る。
ノックの音に、フランソワーズはハッと顔を上げた。胸が高鳴る。
…ジョー…?
「目」で確かめる余裕もなく、ドアに駆け寄り、勢いよく開いた。
「…ア?」
立っていたのは、青白い顔のアズナブールだった。
彼は、呆然としているフランソワーズの両肩をいきなりつかんだ。
「先…生……?」
ベッドに突き飛ばされ、両手首を押さえつけられて、フランソワーズは初めて自分がネグリジェしか纏っていないことに気づいた。
「い、いや…!何を…!!」
懸命にもがき、彼を押しのける。
ネグリジェが悲鳴のような音とともに、大きく裂けた。
忘れかけていた戦士の勘が、彼女を助けた。
フランソワーズは、アズナブールを床に突き倒し、露わになりかけた胸元をしっかり押えた。
「何を…なさるんですか…?」
怒りのこもった、強い光が青い瞳に宿る。
うめきながら起きあがったアズナブールは唇を噛んだ。
「…すまない…」
「出ていってください」
「フランソワーズ、私は…」
「出ていって!」
「君に話があるんだ…!」
「今は…」
「今でなければ話せない…!明日になれば、君は…!」
フランソワーズはハッとアズナブールを見つめた。
「…どうして…それを…?」
「…ムッシュウ・島村に…会ってきた」
「…え…?」
彼の言葉をぼんやりと反芻し、フランソワーズは立ちすくんだ。
…ジョーに…会って…きた…?
3
「頼む…私の話を…」
「…ここでは…嫌です」
「もうあんな真似はしない…誓う…!」
アズナブールが燃えるようなまなざしを向ける。
じっと彼を見つめたまま、フランソワーズはガウンを羽織り、ソファに腰を下ろした。
「フランソワーズ、君に本当に必要なのは…君にとって大切なものは…何だ…?よく…考えてくれ…彼は…立派な男だ…それはよくわかった。君が…彼を愛しているということも」
「…先生…」
「わかってる、君は…僕のこんな言葉で揺らぎはしない…だが…!」
アズナブールは深く息を吸い、吐いた。
「…彼は…君に応える気があるのか?」
「……」
「君を愛している男が、どうして君からバレエを奪うんだ?…君を本当に愛している男が…なぜ…私に、君のもとに行くことを…君を説得することを許す?」
さっと顔を上げたフランソワーズの目を、アズナブールはじっと見つめた。
「そうだ、彼は言った……私を選ぶのも、彼を選ぶのも、すべて君の自由だと」
沈黙。
やがて、静かな声がアズナブールに届いた。
冷ややかな声。
「私も、そのとおりだと思います…違うんですか、先生?」
アズナブールは軽く唇を噛んだ。
目を閉じ、静かに首を振る。
「そんな言い方をするな……君らしくない」
「先生は…本当の私をご存じないんです…私は…ジョーと行きます」
「フランソワーズ!」
「ジョーは…私を愛してなんかいません…でも、私は……!」
さっと口を塞がれ、フランソワーズは息を呑んだ。
が、アズナブールのまなざしは穏やかだった。
「…そんな言い方をするな…と言っただろう…?私が…間違っていた」
「……先生」
「君の言うとおりだ…彼が君を愛そうが愛すまいが、君は彼を愛している…私が君を愛するのと…同じように」
フランソワーズはふとうつむいた。
震える両肩に静かに手を置き、アズナブールはごく自然に…舞台の上でそうするように、彼女を抱き寄せた。
2度、3度と、宥めるように優しくキスを繰り返し、アズナブールは抱きしめる腕に力を込めた。
「…やめて…ください…」
細い少女の声。
愛しくてたまらない。
「私とでは…幸せになれないか…?」
つぶやく。
フランソワーズは小さく首を振った。
「行かせない…彼は君を幸せにできない…君がどんなに私を嫌っても、私は…君を不幸にしたくないんだ…!」
抱き上げられ、フランソワーズは身を硬くした。
「いや…!約束が…!」
「…君が嫌だと言うのなら…すぐにやめるよ…本当に…私を拒むのなら」
ずっと…ずっと長い間、見守っていてくれた、温かい瞳。
フランソワーズの体から、力が抜けた。
アズナブールは、深く彼女の唇を求めながら、胸元の破れ目に手を差し入れ、開いた。
やがて…肩から、ガウンが滑り落ちる。
二人はベッドに倒れ込んだ。
…ジョー…どうして…?
閉じた瞼から、涙が零れた。
その雫を、アズナブールの唇がそっとぬぐう。
いたわるように、彼は優しい愛撫を繰り返した。
あなたは…こうなってもいいと…思っていたの…?
自由…すべて、私の自由……だから、あなたは平気なの?
いいえ…いいえ、違う。
ずるいわ、あなたのせいにするなんて。
そうよ、私は…いつも、自由なのに。
あなたが…それを守ってくれるから!
フランソワーズは目を開け、そっとアズナブールの胸を両手で押し戻した。
「いやです…先生。離してください」
「…フランソワーズ」
青い瞳の奥に、氷のような鋭い光が閃く。
息を呑み、アズナブールは彼女を離した。
「…どうしても…?」
フランソワーズは沈黙で答えた。
4
背中でドアが閉った。
足音が遠ざかる。
一人、ベッドに座っていたフランソワーズは、忍び寄る冷気に思わず両肩を抱いた。
「…ジョー…!」
言葉にならない。
押えきれない嗚咽。
後悔しているんじゃない、違う…これでいいの。
あなたの傍にいたい。それだけが、私の願い。
あなたが…私を愛していなくても。
わかっている…あなたは…私を愛してなんかいない。
もしそうなら、わかるはずだもの。
あなたの一言で…私が…どんなに楽になれるか。
一度でいい…嘘でもいいから。
幸せでも自由でもなく。
私が本当にただ一つ望んでいるもの。
わかっている…
それは…決して手に入らない…今度も。
涙を拭い、懸命に呼吸を整えながら、フランソワーズは床に落ちたガウンを拾い上げた。
…眠らなくちゃ。
自分に言い聞かせる。
明日…私は、戦場に戻る。
5
フランソワーズは、ぐんぐん遠ざかるモスクワの街を眺めていた。
まだ、ジョーと目を合わせていない。
彼は、搭乗口へとまっすぐ歩いていた。
駆けつける足音が聞えていたはずなのに…振り向きもしなかった。
彼の前に置かれていた鏡の中で…一瞬二人の視線は絡み合い、すぐにほどけた。
息を弾ませ、追いついたフランソワーズはジョーの背中に言った。
「ごめんなさい…」
彼は返事をしなかった。
私が…来ないと思っていたのね…
ふっと息をつく。
…あなたらしいわ…ジョー。
もしかしたら…来ない方がいいと…思っていたのかもしれない。
それが…私の幸せだと…
「…アズナブール先生は?」
低い声。
フランソワーズはハッと身を硬くした。
昨夜の彼の愛撫が…肌に蘇る。
震えそうな声を懸命に抑えた。
「今日の夕方…パリへ発つそうよ…」
不意に、膝の上で手を握られ、フランソワーズは思わず声を上げそうになった。
熱く、優しく…愛おしむように、ジョーは彼女の小さな手を握りしめる。
眠れなかった。
君が…あの人に奪われるのだと…その思いに夜通しつきまとわれて。
君を信じていたのに…いや、違う。
信じるしかなかっただけだ。
…何一つ、手出しすることを許されていない僕だから。
ようやくたどりついた夢の中で…君は彼に抱かれていた。
幸せそうに彼の背中を抱いて…彼の愛撫に応えていた。
そして…約束の時間…来なかった君。
正気でいられたのは、戦いの前だったからだ。
長く苦しむことはない。
烈しい戦いがすぐに、僕の命を絶ってくれるはずだから。
君の笑顔を胸の底に抱きしめて…永遠の休息につく。
それは…いつでも、僕の望むところだ。
なのに、僕は…君を手放せない。
君は、僕たちを見捨てない。
僕たちは何度も君の命を救った。
君を故郷に帰すために、命をかけた。
そのことを忘れる君ではない。
君は…全てを捨てて駆けつける。
僕が君を呼びさえすれば。
僕は…わかっているんだ。
だから、君を呼びに行く。君を待つ。
そんなやり方は卑怯だと…それも、わかっている。
全部わかっているのに…どうすることもできない。
僕は…どこまでも君を苦しめる。
フランソワーズの頬に、涙が零れた。
刺すような痛みが、ジョーの胸を抉った。
6
不思議な夕焼けだ。何度見ても、慣れることはない。
ジョーはぼんやりと廃墟の街を見下ろしていた。
軽い足音に振り返る。
「タマラ…」
王女は微笑んだ。
「やっぱり、ここにいたのですね…009」
「なんだ…お見通し…だったのかい?」
「ええ…だって、毎日ですもの…あなたは…いつも何をそんなに見ているの?」
無邪気な笑顔。
ジョーは苦笑した。
「何を…ってことはないんだけど…やっぱり変かな」
タマラは黙って首を振った。
「どうしても…残ってはいただけませんか…?」
ぽつりとつぶやく。
ジョーは目を伏せた。
考える余地すらない。これは僕の宿命だ。
戦いを…手放すわけにはいかない。
何があろうとも。
「君が女王でなければならないのと同じように…僕は、戦わなくてはならないんだ」
「平和のために…?それなら、この星の王として…違う戦いをしていただくわけにはいきませんか?」
「それは…僕の戦いじゃない…ごめん…タマラ」
タマラはふと地平線を見やった。
「嘘…」
「…え?」
「あなたは…嘘をついているわ…」
「嘘って…何が…?」
「あなたが…ここに残ってくださらない本当の理由を…私は知っています」
「…本当の…理由…?」
首を傾げるジョーに、タマラは寂しく笑った。
「…おわかりに…ならないのね、あなたは……不思議な…残酷な人…」
予感がした。
なじみのある…不吉な、予感。
それを振り払おうと、ジョーはタマラをじっと見つめた。
彼の視線に引かれるように、タマラは彼の胸にすがりついた。
そっと肩を抱きしめる。
僕を…愛していると言ってくれた女性。
こんな僕を、まっすぐに見つめて…
応えられないのなら、せめて守りたい。
この…力の全てをかけて。
でも。
不吉な予感は…いつも当たる。
硝煙の立ちこめる中、瓦礫をかき分け、タマラの亡骸を葬った。
涙が止まらない。
僕は…何もできなかった。
また…守れなかった。
この力…僕の力が…僕に近付く人に災いを呼ぶ。
なのに、それを払う力は…僕にない。
そして。
うなだれる僕を…震えるこの背中を優しく包む視線があるのを、僕は知っている。
でも。僕は振り返れない。
振り返れば…見つめれば、君も彼女と同じ運命をたどることになってしまうから。
フランソワーズ。
あの海辺で…初めて君を抱きしめた。
初めてで…多分最後。
それでいい。
僕の暗い運命が君を殺す前に、僕の命が尽きることを。
今、祈ることは…それだけだ。
7
これが、あなたの鼓動。
ここで倒れてはダメ。
今倒れたら、何もかも終ってしまう。
でも。
「しっかししろ!…あと、少しだ…っ!」
張りつめた、アルベルトの声。
そして…振り返る、茶色の瞳。
心配そうに……たぶん。
もう、何も見えない。
ここで…終わりなのかもしれない。
手放すなら、一瞬でやり遂げなくては。
倒れるなら、一瞬で。
あなたが…向こうを向いた、そのとき。
銃を抜き、こめかみを撃ちぬいて。
それで…終わりにできる。
「…フランソワーズ!」
…ううん。
嘘よ。
嘘だから。
だから…そんな顔をしないで。
これが…あなたの鼓動。
あなたとともに生きる本当の意味を、私は知ってる。
私だけが知っている。
この、体で。
まだ…倒れてはいけない。
「…大丈夫よ……ごめんなさい」
8
彼が消えた虚空を見つめ、彼の形見を握りしめ、ジョーは立ちつくしていた。
歯を食いしばり、慟哭するジェット。
ジェット、君なら…もしかしたら、彼を止められたのかもしれない。
僕は、止めなかった。
…最後まで戦うために。
進まなくては。
僕たちの戦いの全てが無駄になる。
全て無駄に。
でも。
僕たちは…何のために戦っているんだ?
誰のために?
彼が消えても、宇宙は静かにここにある。
何も変わらず。
恐ろしい悪魔と、僕たちとを…ともに包んで。
こうして一人ずつ…失っていくんだ。
こんなに苦しんで、悲しんで…僕たちは。
いつかこうして別れるのなら。
あの懐かしい故郷で穏やかに暮していればよかった。
その幸福の果てに、地獄が口を開けていたとしても。
いつか、こうして別れるのなら…
どうして、こんな惨い別れ方をしなければならないんだ?
手を取り合い、故郷の星の上で業火に焼かれ、燃え尽きる。
そんな最期をのぞむのは…許されないのか?
ジョーはゆっくり顔を上げた。
その目に…取り戻したイワンを抱きしめ、うつむいているフランソワーズが映る。
ああ…でも。
僕はもう…ここまで来てしまった。
君を…ここまで連れてきてしまったんだ。
そして…今、彼を永遠の闇へ置き去りにして。
もう…引き返せない。
だったら。
操縦桿を握る。
スターメイズを目指して。
フランソワーズ。
僕は守れなかった。
一つの命も…守れたことがない。
今、とうとう、仲間まで。
だけど…それでも、僕は誓う。
君を守る。
何度裏切っても…君の眼差しは変わらなかった。
だから…もう一度。
もう一度だけ、僕を見て。
僕は君を守る。
もう誰も死なせない。
わかってる。
この崩れかけた船で。
このちっぽけな僕に何ができるだろう。
こんな誓いに意味なんかないんだ。
でも、僕は戦う。
何度でも誓う。
君が、信じてくれるから。
9
輝く夕陽の中で、海風に吹かれながら、フランソワーズは小さく息をついた。
これから…どうしよう。
帰れるとは…思っていなかった。
パリで、舞台の予定がはいっている。
地球では…ほんの数日しか過ぎていないことをギルモアから聞き、とまどっていた。
どのみち、舞台に出られるはずもない。
そう思って、パリに正式なキャンセルの電話を入れた。
アズナブールに怒鳴られた。
今から、代役をたてろというのか?
すぐ戻ってこい。舞台を台無しにするつもりがないのなら。
厳しい言葉と裏腹に、その声は温かい。
いつもそうだった。
帰ろう。
戦いは…終ったのだから。
私は…自由なのだから。
あなたが…それを守ってくれたから。
誰かに、きいてみたい。
兄さんに…それとも、アズナブール先生に…ううん、まさか…ね。
あんな…愛の告白って、あるかしら?
…って。
「フランソワーズ…後は、頼んだぞ」
私は動けなかった。
ただ、あの人の目を見つめて…うなずくしか。
あなたに置き去りにされるのは…何度目かしら。
あなたはいつもあっけなく行ってしまう。
そのたびに、泣いて…泣いて。
でも。
あのとき…涙はでなかった。
勘違いしてるだけかもしれない。
でも、いいわ。
あなたは…私にあなたの運命を被せてくれた。
あなたが背負っている…暗い運命を。
初めて…本当に、初めて。
あなたは、私に手をさしのべてくれた。
だから、涙は出なかった。
帰ろう、パリへ。
あなたがくれた自由を生きるために。
あなたが託してくれた運命を…越えるために。
10
誰にも言わないつもりだった。
この胸の…暗いところに沈めておこうと思っていた。
僕の心の闇。
それが…またほんの少し重くなるだけなのだから。
でも、君は…僕に聞いた。
「どうして…タマラのことを考えなかったの?生き返って欲しいって…」
ゆっくり…深く息を吐く。
答えたら…だめだ。
聞こえないふりをしなければ。
君は気づいてはいけないんだ。
僕は、アルベルトの生を望んだ。彼は蘇った。
僕には、そうする力があのときあった。
なのに…僕はタマラを。
君を汚したくない。その体も、心も。
君だけは、いつまでも……
でも、もう…引き返せない。
僕は、答えた。
「わからない…僕には」
君は黙っていた。
何も聞く必要はなかったから。
君はただ、僕の闇を受け取ろうとしただけだ。
この…重い闇を。
そして今、僕はそれを君に渡してしまった。
ここは、もう戦場ではないのに。
「これから、どうするの…?」
僕は、足下の小石を拾った。
思い切り投げる。海へ向かって。
その質問は、これで最後だ、フランソワーズ。
僕の行き先は…君が知っている。
僕たちは、もう二度と離れない。
駆け寄る君を抱きしめたとき。
苦しい顔をしているつもりだったのに…
あとで、君は僕が笑っていた…と言った。
本当?
だとしたら…君はやっぱり逃げた方がいいのかもしれない。
僕は、いつか後悔するかもしれない。
11
部屋に入ると…君は暗い窓を見つめていた。
あの、パリの嵐の夜のように。
あのとき…泣きじゃくる君をただ抱きしめることしかできなかった。
君の哀しみを払うことなんてできなかった。
今だって、僕は。
君は、足音に振り返った。
少しだけ怯えて、それでも微笑んで。
僕は君を抱き寄せて…唇を重ねた。
いつか…後悔するかもしれない。
こうして、君を闇に引き込んだことを。
…でも。
君を抱き上げ、そっと寝かせた。
淡く光る君の体に、僕を重ねた。
月の光を覆う、雲のように。
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