ジョーが病室に入ると、ちょうど医師が出ていこうとしているところだった。
「やあ、ジョー君…バイトは終わったのかい?」
「はい」
「あまり根をつめるなよ、母上にかえって心配をかけるからな」
「…大丈夫です…あの」
「あぁ、検査の結果、何も問題なし…それじゃ、フランソワーズさん、明日、予定通り手術ということで…今夜はゆっくりお休みください」
「はい…よろしくお願いします、グレート先生」
「心配はいりませんぞ。この名医、グレート・ブリテンが執刀するわけですからな」
「ええ、わかっていますわ……ジョー?」
「…え」
「明日の手術、午前中になるんですって…お昼に、病院からジェロニモさんに経過を連絡していただくわね」
「……うん」
うつむくジョーの肩を励ますように叩くと、グレート医師は病室を出て行った。
同時に、ジョーはもどかしげにベッドへ駆け寄った。
「大丈夫よ…ごめんね、あなたには心配ばかりかけて…」
「そんなことない…!僕の方こそ…今までずっと自分のことばかりで、母さんに…甘えて…」
「…ジョー」
「でも、これからは違う…このまま真面目にバイトを続けたら…卒業してから、ちゃんとした正社員にしてくれるかもしれないんだ…ジェロニモさんはとてもいい人だろ?できたらそうしたいと思ってるんだ。俺、うんと働いて、母さんの病気を必ず……」
「ジョー…さっき、ピュンマ君に電話をしたのよ」
「……母さん?」
フランソワーズはそっと息子の髪に片手を押し当てた。
「イシノモリ高校が、勝ったわ…知っていた?」
「……うん」
「ピュンマくんも、あなたに是非戻ってほしいと…」
「母さん」
ジョーはぴしゃっと母親の言葉を遮った。
優しく、しかしきっぱりとした強い意志をもってその細い手を取り、握りしめる。
「僕は、もうやめたんだ」
「ジョー」
「どうせ、こんな体格じゃ、プロで通用するはずもないし……それに、イシノモリ高校にはもうイワンがいる。僕がいなくたって、みんな、ちゃんと闘える」
フランソワーズは憂わしげに息子の澄んだ目をじっと見つめ……囁くように言った。
「ジョー。母さん…知っているのよ」
「……何…を?」
「あなたが、野球をやめた……本当の理由」
「……」
「この間、グレート先生にうかがったの……ごめんね…つらかったでしょう」
「母…さん…?」
フランソワーズはジョーの大きな手を優しく握りしめた。
「私の病気……ガンだったのね」
「…母さん!何を、馬鹿な!」
「だから、あなたは……残り少ない時間を、少しでも私と一緒にすごしてくれようとして…」
ジョーは思い切り母親の手をふりほどき、高い笑い声を上げた。
「やめてくれよ…!まいったな、そんな、安物の映画みたいな話……」
「野球部に戻りなさい、ジョー」
「…母さん!」
澄んだ厳しい光を帯びた青い目が、ジョーにまっすぐ向けられた。
「私は、死なない。約束します」
「…だから…それは!」
「あなたはあなたの闘いに戻りなさい。あなたを待っている仲間の信頼に応えなさい」
「……だって」
「私も、病気と闘うわ…あなたの姿を見ながら、あなたと一緒に。絶対に、負けないから」
「…でも!」
ジョーはいきなり母親の胸に抱きつくようにすがった。ぎゅっと唇をかみしめ、涙をこらえようとしたが、無駄だった。
「もし……もし、転移していたら…?いやだ、いやだよ…!野球なんてどうでもいい、僕は、母さんがいなくなったら、一人になってしまうんだ…甲子園で優勝して、それが何になるんだよ?…誰も、本当に喜んでくれる人が…母さんがいなくなってしまったら、僕は……!」
「……ジョー」
フランソワーズは声を殺して泣く息子を堅く抱きしめた。
この心優しい頑固な少年が、これまで誰にも打ちあけられず押し隠してきた苦しみを思うと、あまりにいじらしかった。
この子が、こうして私の胸で最後に泣いたのは……いつだったのだろう。
ジョーは父親の顔を知らない。母一人子一人で寄り添い合うようにして生きてきたのだった。
いつの間にかたくましく成長し、すっかり大人びた息子が、急に小さい子供にかえったような錯覚を覚えて、フランソワーズはいっそう優しく泣きじゃくるジョーの背をなでてやった。
「……野球部に、戻りなさい」
「…母さん」
「ピュンマ君が、迎えにきてくれるわ……明日」
「……」
「支度もできています…いい?」
「……わかったよ、母さん……でも」
涙を押し拭い、ジョーはまっすぐフランソワーズを見つめた。
「もし……もし、明日の手術で、病気がよくないってことがわかったら…そのときは」
「……」
フランソワーズは黙ってうなずき、涙に濡れた茶色い前髪をそっと指で梳いてやった。
「わかったわ……大丈夫よ、ジョー。母さんを信じて」
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