ミーティング後、ハインリヒはピュンマを呼び止め、小声で尋ねた。
「…イワンの様子は?」
「消耗しきっています…決勝で、本当に限界まで力を使い果たしました」
「…そうか」
「今後のことを考えれば、2週間は休養が必要です。甲子園で投げるのは…とても」
「そうか。やっぱり……な」
ハインリヒは息をついた。
「そうすると、ピッチャーは……その、あまり考えたくないが」
「ジェットしかいません。ワンポイントで張々湖を使えるかもしれませんが」
「お前のリードだけが頼り…ってことか」
「…いえ」
ピュンマは微笑した。
「ジェットをリードするのは不可能です…いや、リードは不要、といった方がいいかもしれない」
「ったく。こんなときによく笑えるな、お前ってやつは……!」
苦笑するハインリヒの目をまっすぐに見上げ、ピュンマは短く言った。
「監督。明日の夜、俺に外出許可をください。ジョーを迎えにいきます」
「…な…に?」
「必ず……連れて帰ります」
ハインリヒはじっとピュンマを見つめ返した。
長い沈黙の後、彼はふと笑った。
「……そうか。頼む」
病院の門の前で、二人はじっと見つめ合っていた。
やがて、ジョーがつぶやくように言った。
「…すまなかった、ピュンマ」
ピュンマは微笑し、ジョーの両肩を抱きながら、小声で尋ねた。
「お袋さんの具合は……?」
「うん。今日、手術だったんだけど……転移はしていなかった。腫瘍は全部取り除くことができたって…」
「そうか、よかった…!さすが、グレート先生だ!」
「ありがとう、ピュンマ…君の親父さんがこの病院を紹介してくれなかったら…」
「礼なんていいさ…あの変わり者の親父がお前の役に立てたんなら、こんな嬉しいことはない…本当によかったな!」
「…ああ」
「それじゃ、今度は……お前の番だな…あと10日しかない」
「…覚悟はしているよ」
「バイトは、どうしたんだ?」
「今日限りでやめてきた…みんな、いい人だったから名残惜しかったよ」
「…そうか」
歩きだそうとしたピュンマは、いきなり立ちふさがった大男に思わず声を上げそうになった。
「…ジェロニモさん……!」
「しっかり、やってこい…俺たちみんな、応援する」
赤銅色の大きな右手を差し出し、ジェロニモは笑った。
ジョーはその手をしっかりと握り返し、うなずいた。
「これは…記念だ。俺たちみんなで用意した」
ジェロニモはバッグを探り、真新しいスパイクを取り出すと、押しつけるようにジョーに渡し、くるっと背を向けた。
「…ジェロニモさん…あ、ありがとう…!」
振り向かずに軽く片手を上げ、遠ざかるジェロニモを、二人は黙って見送った。
やがて、ピュンマがぽつり、と言った。
「本当に…いい人だな、ジョー」
「…うん。俺は…幸せだと…思う」
ジョーもつぶやくように言った。
「……ピュンマっ?」
「ダメだ、もう十球!」
「…わかったよ…!」
バシッ!と直球がピュンマのミットに吸い込まれる。
「おお、いい球アル〜!さすがジョーね!」
「けっ、4月から練習してないヤツにいい球が投げられるかってんだ」
「…アンタよりはマシと思うアルけど」
「…ンだと?」
「まだだ、ジョー!真面目に投げろ!」
厳しい声に、張々湖は思わず首をすくめ、ジェットはふん、と鼻で笑った。
「ほーら見ろ、さすが名捕手ピュンマ君…いいピッチャーとそうでないピッチャーをちゃーんと見分けられるのさ…」
「…だから、ジェット先輩の投球練習は必要ない…ってことになるわけだよね」
「イワン?…もういいアルのか、練習して?」
「まさか15日間寝てるわけにもいかないだろ?ピッチャーは無理だけど、内野でいけるんじゃないかって、ハインリヒ監督が……」
「なるほどね〜!ファーストなんてどうアルか?」
「な、なんだとぉーーっ???このジェットさまがいるのを忘れたか、ボケがっ!」
イワンはくすくす笑った。
「そうだよ、もちろんジェット先輩がファーストにつくのが一番さ、張々湖先輩」
「…そうアルか?」
「まぁ、本来はピッチャーの俺さまだが、チームのことを考えれば、コイツやジョー坊やにも、ちっとは経験積ませてやらにゃならんし……」
「うん、だってファーストはさ、一番ボールを投げないですむポジションでしょ?悪送球の危険を最小限にできるんだ」
「あ、なるほどアル〜!さっすがイワン!」
「おお、わかってるじゃねえか……って、ん?何だと、今何言いやがった、この一年坊主!」
イワンにつかみかかろうとしたジェットは、突然響き渡った鋭い怒気を帯びたジョーの声に一瞬ひるんだ。3人は目を丸くして投球練習をしているジョーとピュンマを振り返った。
「俺は、真面目に投げてる!どこが悪いっていうんだ!」
「自分で考えろ!教えたんじゃ意味がない!」
「…くっそぉ!」
力任せに投げつけたボールは、煙をあげそうな勢いでピュンマのミットに飛び込んだ。
そのすさまじい音に、張々湖は思わず首をすくめた……が。
「まだだっ!」
「…ピュンマ、いいかげんに…!」
「あと十球!思い出せ、ジョー!」
「ああ、わかったよ!お前の気がすむまで投げてやる…!」
イワンがほうっと溜息をついた。
張々湖も首を傾げた。
「いい球だと思うけどなあ…」
「でもピュンマは嘘ついたり無駄なことしたりはしないアル…何か足りないんやろなあ…」
「だ、か、ら…!無理なんだよ始めから…!」
負けず嫌いは相変わらずだ…と、ピュンマはマスクの下でひっそり笑った。
これだけ理由も言わずにただダメだと言い続ければ、どんな根気強い投手でも腹を立てるだろう。実際、ジョーも腹を立てている。
それでも、彼は何度でも全力で向かってくるのだ。決してふてくされたり投げやりになったりしない。
「やっぱりお前しかいないんだ…ジョー」
しかし。
やはり、この数ヶ月練習から遠ざかっていたのは痛い。
幸い、バイトが厳しい肉体労働だったので、筋肉が落ちている様子はない。
が、投球のテクニックとなると話は別だった。
ジョーは…もともと、豪腕ピッチャーではない。
イワンほど繊細ではないけれど、基本的にはコントロールの良さを活かして、打たせて取る投球がその持ち味だった。
だからこそ、微妙なフォームの乱れが怖い。
「楽をしようとするな、ジョー!」
「…だから!俺は、全力で投げてる!」
「いや、まだだ!」
ジョーは既に肩で息をしている。
このまま練習を続けさせると、むやみに疲労させることになりかねない…が、このまま終わらせてしまったら、彼の闘志がそがれることにもなりそうだった。
どうしようか…と唇を噛んだときだった。
突然、ジェットの大声が耳に飛び込んできた。
どうやら、ラジオのニュースを聞いていたらしい。
「おお!やっぱりヨミ高校がきやがったぜ!」
「…アポロンたち、勝ち抜いたアルか〜!」
ピュンマはハッとジョーを振り返り、叫んだ。
「何してる、ジョー!来いっ!」
ジョーはキッと唇を結び、大きく深呼吸すると、高々と足を上げた。
思わずピュンマが息をのんだ次の瞬間、鋭い直球がミットに吸い込まれた。
「……」
「…ピュンマ…?」
ピュンマはマスクを投げ捨て、立ち上がった。
…破顔一笑。
「よし!…今のを忘れるな、ジョー!」
「…え?」
あっけにとられているジョーに駆け寄り、力強く肩を叩くと、ピュンマはさっさと引き上げていった。
「…どういうこと…だろう?今のと、さっきので…何が違うんだ?」
ぽかん、としているジョーを、ジェットが笑った。
「馬鹿だな…!ピュンマは、お前を励まして練習を終わるために適当なことを言ったんだよ…まあ、気楽にやれや、ジョー。いざとなったら俺さまにまかせればいいんだからな!」
ジョーはジェットを見上げ、ふと懐かしそうに微笑した。
「うん……本当にそうだね、ジェット…ありがとう」
黙々とグラウンド整備をしながら、ピュンマは胸を熱くしていた。
ジョーの最後の一球。
あの、闘志がそのまま形をとったような、彼本来の美しい投球フォーム。
「…すごいヤツだ、やっぱり」
宿敵、ヨミ高校。
その不動のエース、アポロン。
ジョーがこの一年、一時も忘れたことのないはずの、ライバル。
その名を聞いた瞬間、彼の投球はいきなり変貌を遂げたのだ。
まるで、魔法のようだった。
「お前は、本当に……生まれながらの闘士だな、ジョー」
いける。
また、闘える。
すっかり日が落ちたグラウンドを振り返り、ピュンマは目を閉じた。
また、始まるのだ。あの、厳しい闘いの日々が。
でも……俺たちは、誰にも負けない。
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