今日はこれで終わり……か。
甲子園出場が決まってから、目の回るような忙しさが続いている。
練習の後、学校へ戻り、残っていた仕事をどうにか終えたハインリヒは、宿舎への道を急いでいた。
長いはずの日がもうすっかり落ちている。
監督の仕事は、もちろん好きでやっていることだ。
が、選手の頃とは比べものにならない仕事量に…それなりのストレス。
前任監督であり、恩師でもあるコズミはいつも飄々として、仕事をしている様子などまるで見せていなかったものだが。
やはり、底しれない人だ、とハインリヒは思う。
常勝イシノモリ高校野球部。
それが始まったのは、二年前…ハインリヒが二年生のときだった。
※※※
天才捕手・強打者ピュンマ。
七色の変化球を持つ投手ジョー。
奇跡の一年生バッテリーの入部が、イシノモリ高校を大きく変えた。
そして、彼らを追うように入部したジェットに、張々湖。
みんな、それぞれ癖のある…そして、野球への情熱を燃やす男達だった。
苦しい戦いを重ね、つかんだ夏の甲子園優勝。
続いて、翌春の選抜優勝。
向かうところ敵なしのチームとなったイシノモリ高校を、三年生になったハインリヒはキャプテンとして率いていった。
そして、昨年。
あの…運命の、夏。
あれからまだ1年しかたっていないのが、信じられない。
突然現れた、自称神々の軍団・ヨミ高校。
すさまじいまでの運動能力と、冷酷な勝利至上主義を掲げ、彼らは圧倒的な強さで勝ち進み、イシノモリ高校の前に立ちはだかった。
死闘、と表現するのもすさまじい決勝戦で、辛くも勝利したのは、ハインリヒたちだった。
しかし、烈しい戦いを投げ抜いたジョーは倒れ、球場からそのまま病院へ運ばれていった。
ほどなく退院できたものの、限界を遙かに超えた右肘は、最早再起不能と診断され、あの芸術的ですらあった変化球の数々が、彼の手から放たれることは、二度とないだろうと、誰もが思った。
そして。
ハインリヒ自身も、人生の大きな岐路に立っていた。
家に、学校に、プロ野球のスカウトが入れ替わり立ち替わりやってくる。
…ドラフト会議。
マスコミは、夏の甲子園で死闘をくりひろげたイシノモリ高校のキャプテン、ハインリヒと、ヨミ高校のキャプテン、ボグートに注目を集めていた。
一位で指名されるのはどちらか。
どこが、彼らを指名するのか。
そして、彼らは……。
先に決断したのは、一位指名を受けたハインリヒだった。
彼は、並み居る記者達に、まず謝辞を述べ、それから宣言した。
「今の私にとって最高のチームとは、イシノモリ高校野球部です。私は、イシノモリ高校の監督になります」
どよめく記者たちは、それ以上のコメントをハインリヒからも、その傍らで微笑するコズミからも得ることができなかった。
衝撃のニュースは全国を走り、ほどなくヨミ高校のボグートにも伝えられた。
彼は不敵な笑みを浮かべつつ、立ち上がったという。
「面白い!…ならば、俺もヨミの監督となろう。そして、ヤツらを倒す!」
※※※
そのころ、再起不能と言われたジョーの右肘は、ピュンマの父親である鍼灸師ウラノスと、コズミの友人だという医師ギルモアの治療により、奇跡的な回復を遂げつつあった。
もちろん、ジョー自身の驚異的な闘志と努力があってのことではあるが。
復帰したとはいえ、とても本調子とはいえないエースを擁しての戦いは苦しかった。
とにかく全員が必死でぶつかり、勝ち取った春の選抜代表。
しかし、そこにヨミ高校はいなかった。
部員の不祥事が発覚し、出場停止処分を受けていたのだった。
ライバルなき戦いは、どこかむなしい。
それでも、彼らは戦い続け、ついに連覇を果たした。
そして、4月。
ジョーの突然の退部で、野球部は大きく揺れた。
入れ替わりに入部した天才一年生投手イワン・ウィスキーの活躍で、かろうじて代表はつかんだのだが……
戻ってきたジョーの力は、まだ未知数だといえる。
ピュンマの話では、ほぼ復調している、と考えていいようだが……
これで、ヤツらと…ボグートと戦えるのだろうか?
いや。
元々、身体能力は向こうが遙かに上だ。
俺たちの持つ最大の武器は、チームワークと…勝利への執念。
その象徴のような男がジョーだ。
アイツが戻れば、チームは変わる。確実に変わる。
「…アルベルト」
ためらいがちにかけられた少女の声に、ハインリヒは振り向き、そのまま立ち止まった。
うすい街灯に照らされ、カールした短い金髪が淡く光っている。
「…お久しぶり」
「……」
「なによ、そんなにコワイ顔しなくてもいいでしょう?」
「どっちだ、オマエは」
「ビーナよ」
ハインリヒの眉間に皺が寄っていくのを、少女は面白そうにのぞきこんだ。
「変わらないわねえ、あなたって」
「…何の用だ?俺たちを探っても何もいいことはないと、思い知ったんじゃなかったのか?」
「思い知ったわよ…何よ、いつまでも……それに、結局勝ったのはあなたたちだったじゃない」
「だが、ジョーをあそこまで追い詰めたのは…いや、もういい。兄貴に伝えておけ。俺たちは何も隠さない、と。去年のようにな」
「だから!…兄さんは関係ないのよ。どっちかというと姉さんかな」
「……」
「ちょっと、待って…!ねえ、ジョーが戻ってきたって、ホント?」
「……」
「アルベルト!…私、ジョーに会いたいの…話があるのよ!」
「話?…オマエにあってもアイツにはないだろう。部外者を宿舎には入れん」
「もう!相変わらず頑固な人ね!…いいわ、それじゃコレをジョーに渡してくれる?怪しいモノじゃないから、大丈夫…姉さんから預かってきたの」
ビーナが差し出した小さい包みに、ハインリヒは首を傾げた。
「オマエに大丈夫と言われてもな……」
「結構よ…何とでも言えばいいわ。それだけのことを私たちはしたんだもの……でも、今は違う。少なくとも、姉さんは…ヘレンは、この1年間、本当に苦しんできたのよ」
「…ジョーと同じくらい、とでも言うつもりか?」
「ええ。でも言わないわ。信じてもらえるわけないし」
「…わかった。これを渡せばいいんだな?」
ハインリヒは素っ気なく包みを受け取り、背を向けた。
「あ、ハインリヒ!」
「用がすんだのならさっさと帰れ」
「ちょっと、待って!」
大儀そうに振り返ったハインリヒをビーナはまっすぐ見つめた。
「たしかに、兄さんは相変わらずよ…でも、信じてほしいの。選手のみんなは違う。みんな、本当に野球が好きで、強くなりたくて…そして、あなたたちと戦うのを楽しみにしているわ!」
「……」
「ねえ、信じて、ハインリヒ!」
「何をそんなにいきり立つのかわからんな」
ハインリヒは息をつき、再びビーナに背を向けた。
が、うつむいた彼女の耳に、次の瞬間、思いがけないほど柔らかい声が届いた。
「オマエにそうキンキン言われなくとも、よくわかっている。死力を尽くして戦った相手だ」
「…ハインリヒ」
「俺たちも、彼らと戦うのを楽しみにしている。そう伝えてくれ」
「……」
広い背中が遠ざかっていく。
それをしばらく呆然と見つめていたビーナは、はっと我に返り、叫んだ。
「わかったわ!ハインリヒ…必ず、伝えるから!」
ハインリヒはもう振り返らなかった。
が、それでいいのだと、ビーナは思った。
※※※
「なんだい、それは…?」
「ああ…さっき、監督からもらった。ビーナが来ていたそうだよ」
「ビーナ?…ってまさかあの、ボグートの妹か?」
「…うん」
何と言えばいいかと迷いながら、ピュンマはどこか嬉しそうなジョーをのぞいた。
「で…ビーナが、ソレをオマエに?」
「いや…ヘレンだって」
「……」
「気にしていたのなら…気の毒なことをしたな。あの子のせいじゃないのに」
「…そうか…ちょっと見せてもらってもいいかい?」
「ああ。なんだろう、コレ…お守り?…女の子って、面白いな」
「まったくだ……ジョー?どうした?」
ピュンマははっとジョーを振り返った。
泣き笑いのように唇をゆがめ、ジョーは懸命に拳を握りしめていた。
「お守りでも…なんでもいい。今の僕は…頼れるモノなら何にでも頼りたい」
「…ジョー」
「このガラスの肘が砕けることなんか、少しも惜しくないはずなのに…それなのに、僕は、それを恐れて、全力を出せないかもしれないんだ。そう思うと……こわいよ、ピュンマ」
「…うん」
「あとはどうなってもいい。あのときみたいに…そんな気持ちで戦えれば、僕はもう……」
「わかるよ、ジョー…だが」
ピュンマは大きく息をついてみせた。
ジョーがふと顔を上げる。
「縁起でもないことを言わないで欲しいね…親父のメンツもギルモア先生のメンツも潰すつもりかい?」
「…あ。そういう、わけじゃ…!」
「明日、お袋さんに会いにいかないか?もう退院の日取りも決まったんだって?」
「…え?」
「俺も挨拶したいし……そういえば、ジェットもそんなこと言ってたっけな」
「…ジェットが?」
ジョーは思わず目を丸くしていた。
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