「おにい、ちゃーん!」
病院を出るなり、勢いよく飛びついてきた妹を、ピュンマは苦笑しながら抱き上げた。
「なんだ…もう先に父さんと帰れって言っただろう、アリス?…俺たちについてきたって、宿舎は、部外者立ち入り禁止なんだぜ…おまえを入れるわけにはいかない」
「わかってるもん。そうじゃなくて……おにいちゃんたち、帰る前にお風呂に行くんでしょう?私も一緒に行くわ!」
「一緒に?でもオマエ、もうオトナになったから、絶対男湯には入らないってこの前……」
「ね、ジョーも行く?」
「え?…ああ」
「だったら、行くわ!これが最後よ…ジョー、お背中流してあげるわね」
「ありがとう。…ふふっ、でもいいのかい、アリス?」
「もちろんよ…早く行きましょう!」
ジョーの腕に巻き付くようにしてぶらさがると、アリスはふとけげんそうに兄を振り返った。
「…なんだい、アリス?」
「おにいちゃん…アイツ、どうかしたの?」
「アイツって……?」
妹の視線を追い、ピュンマは瞬きした。
ジェットが難しい表情でうつむいている。
そういえば、さっき…病室に入った辺りから口数が極端に少ない…ようだった。
「ねーえ、鼻!」
「こらっ、アリス!」
「どうしたの、シケた顔してるじゃーん?」
「アリス!それが女の子の言葉遣いかっ?」
「だって、おにいちゃん…全然聞こえてないみたいよ、アイツ」
「…ジェット?」
ジョーも首を傾げた。
アリスはジョーの腕を放し、軽い足取りでジェットに駆け寄ると、無遠慮にその顔をのぞきこもうとした。
「どうしたんだよ、鼻!」
「…うるせえぞ、チビ」
「まあああっ!」
ジェットは憂鬱そうにアリスを押しやり、先に立って歩き始めた。
残された3人は思わず顔を見合わせ、無言のまま彼の後を追った。
※※※
野球選手としてはかなり小柄なジョーだが、小学1年生のアリスを膝にのせるぐらいは悠々できる。
そんなわけで、アリスはジョーの膝にちょこんと腰掛け、湯船につかっていた。
「ジョー、気持ちよかった?」
「うん…上手なんだな、アリスは…いつもピュンマの背中を流してあげてるのかい?」
「そうよ…父さんのも」
「そうか、エライな…じゃ、上がったら、今度は僕がアリスの背中を流してあげようね」
「ええっ……」
不意にうつむいたアリスを、ジョーは怪訝そうにのぞき込んだ。
「…どうしたの?」
「イヤよ…恥ずかしいもの」
「…え?」
思わず瞬きするジョーをにっこり見上げ、アリスは囁くように言った。
「ねえ、ジョーは恋人いるの?」
「へっ?」
「…いない、わよねえ…?」
「う…うん」
「そうよね…野球ばっかりしていたら、恋人とおつきあいする時間なんてないわよね…」
「そ、そうだね」
「ねえ、だから、私が、恋人になってあげるわ!…野球ばっかりしている人はおにいちゃんで慣れてるもの…淋しくても平気よ!」
「あ…アリス?…でも、でもさ…君がオトナになるころ、僕はきっとスゴイおじさんになってるぜ…そんなの、イヤだろう?」
「イヤじゃないわ。私、ジョーのお嫁さんになるんだもん…年の差なんて、関係ないの。大好きよ、ジョー!」
ぴと、と胸に頬を寄せるアリスにうろたえまくり、ジョーは助けを求めるようにピュンマを振り返った。
しょうがないなあ…と、腰を上げかけたピュンマは、しかし、傍らから聞こえた重い溜息に、思わず座り直していた。
「…ジェット?」
「ったく、ノンキなもんだぜ、ガキはよ……」
「あの…さ。ホントに、どうしたんだ、オマエ…」
「悪ぃな、大したことじゃない…放っておいてくれ」
ざ、と立ち上がり、片手でぞんざいにアリスをジョーから引きはがすと、ジェットは湯船を出て行った。
「な、なにするの?なによーっ、あの鼻っ!待ちなさいっ!」
「こら、アリスっ!」
憤然として、後を追いかけていこうとする妹を、ピュンマは慌てて押さえた。
※※※
「それは、恋、アルな…」
「恋…?ジェットが?誰に?」
「ワテに聞かれてもわからないアル…でも、心配いらないね、あの人今日もゴハンきれいに食べてたアルからして…大した悩みじゃないコトよ」
「それは、今日の炊事当番が張大人だったから…だと思うけどな…オマエはどう思う、ピュンマ?」
「…うーん」
ジョーに尋ねられ、ピュンマはうなった。もちろん心当たりなど何もない。
が、いつも明るく強気な突撃隊長、有言実行の男、それがジェットだ。
気の毒だが、この大切な時に恋の悩みで沈みこまれるのは…ちょっと困る。
「とにかく…できたら、話を聞いてみよう。話して楽になる…ってこともあるかもしれないし」
「まあ、ピュンマもジョーもあまり心配しないコトよ……たぶん、馬鹿をみるアルね」
「そ、そうかな…?」
でも…と、つぶやくジョーにふと目をやり、ピュンマはあ、と時計を見上げた。
「そろそろ時間だな…すまない、忘れかけていたよ……はじめるか、ジョー」
「うん…ありがとう」
うつぶせになったジョーの腕をとり、ピュンマは慎重にマッサージを始めた。
父から教わったメニューをひとつひとつこなしていく。
「何かおかしいと思ったらすぐ言ってくれよ?」
「ああ…大丈夫。オマエの腕はその辺のプロよりも確かだよ」
「…だったら、いいんだけどな」
「…そういえば」
ジョーはくす、と思い出し笑いをした。
「さっき、アリスがマッサージの練習を始めた…って言ってたっけ」
「…え!」
ピュンマははっと手を止め、鋭くジョーを見下ろした。
「まさか!…まさか、アイツ、オマエの腕に…?」
「違うよ、ピュンマ…!アリスはそんなことしない。ちゃんとわかってるから、あの子は…頭も気だてもいい子だな…さすが、オマエの妹だ」
「…ほんと、アイツ、危なっかしくてさ……だが、気を付けてくれよ。オマエの腕は芸術品なんだ、ジョー。本当をいうと、俺だってこうして触るのはコワイ。少しでも間違ったら…」
「間違わないさ」
「…ジョー」
「この腕については、どうするのが本当に正しいのか、わからない…って、ギルモア先生も言っていた。だったら、僕はオマエを信じる。オマエの腕じゃなくて……オマエを信じているんだ、ピュンマ」
「…ありがとう」
「アリス、いい整体師になるんじゃないかな…まだ小さいけど、一生懸命だよ、あの子。僕の腕のことも、本当に心配してくれて…オトナになったら、きっと私が治してあげる…だって」
「生意気なヤツだ…すまんな、ジョー…俺も親父も、アイツのことはつい…その、甘やかしてしまってる。わかってるんだが……」
突然、獣のようなうなり声が部屋をゆるがした。
思わず飛び起きたピュンマとジョーは、部屋の入口で両拳を握りしめ、震えているジェットをあっけにとられて見上げた。
「そうか…そうか、そうだ…!そうだった!ああ、そうだとも、オマエは正しいぞ、チビ!!!」
「ジェ……ット?」
「俺は…医者になる!絶対に、なるっ!」
「…は?」
二人はきょとん、と顔を見合わせた。
ジェットは、大病院の一人息子…跡取りとして生まれ、育てられた。
が、医者になることを…というか、そのための勉強をすることを心の底から嫌い、両親とことごとく対立し、勘当同然の身で野球部に入り……という男なのだ。
「医者に…って、本気なのか、ジェット?」
「もちろん!」
「ど、どうして…イキナリ」
「それが俺の運命だったってことよ……俺は今まで運命に逆らって生きてきた。だが、これからは違う!俺は医者になる…そして、命の全てをかけて、あの人を…」
「…あの人?」
う、とジェットは口を噤んだ。
「あの…ジェット。何か、悩みがあるなら……その、もし僕たちでよければ話を…」
「…ジョーよ」
「え…?」
「オマエは、いいヤツだ」
「…そ、そう…かな」
「そして、幸せなヤツだ」
「……」
「そうだろうっ?」
「う、うん…うん、幸せだよ」
ジョーはとりあえず何度もうなずいた。
ジェットはそんな彼を一瞬切なそうに見やると、また拳を握りしめ、高々と突き上げた。
「俺は、やる!死ぬほど勉強して医学部に入る!」
「…ジェット。それ…って、まさか、これで野球部をやめる…とかって話なんじゃ」
「何を言う、ピュンマ!」
「……」
「その前に、まずは甲子園だ!勝つぞ!勝って、勝って勝ちまくる!いいか、ジョー!」
「う、うん」
「うん、じゃねえ!相変わらず軟弱なヤツだっ!オマエがそんなだから、あの人はいつまでも……」
「…?」
「いや、それはどうでもいい。とにかく、優勝だ!今の俺があの人のためにまずできることはそれのみ!…やるぞーーっ!」
ジェットは一人うなずき、大股にずんずんと去っていった。
何かがちゃがちゃと音がしている。
「素振り…始める気だな」
「…うん」
やがて、うおおおおおおっ、とすさまじい声が庭に響き渡った。
思わず両耳を塞ぐ二人に、張々湖がのんびりと言った。
「なるほど…そういうコトだったアルか」
「…そういう…コト…って?」
「なんだ、二人ともわからないネ?」
きょとん、と見返す二人を憐れむように眺めると、張々湖はよっこらしょ、と腰を上げた。
「まあ、結果がよければなんでもいいアル…ジェットがはりきる、チームにはなによりアルからして…」
「張大人、君も素振りかい?」
「まさか…!明日の朝ご飯、仕込みアルよ〜!」
※※※
とことこ廊下を歩きながら、張々湖はひそかに首を傾げていた。
「ホントに…わからなかったアルのか?あの二人…?」
どうしてわからないのか、わからない。
試合になると、敵の心理を裏の裏まで見抜く天才バッテリー。
その鋭さに、味方でありながら肝が冷える思いをしたことも、一度や二度ではない。
それが、どうして……
「まあ、わかりたくない…のかもしれないアルね…特にジョーは」
そうでなくても女難の気がある人ネ。
敵の女スパイに、小学生。
その上、大事な大事な母上にコレ……じゃ、ホント気の毒アル。
しばらくそうっとしておいてあげるのがヨロシ。
張々湖はひとり肩をすくめた。
|