10      五月の旅
 
空港に降りると、明るい青空の下だった。
風も爽やかで。
そうよね、五月だもの。
 
今年の修学旅行は準備段階から波乱含みだった。
何といってもスゴかったのは、スカール校長が旅行会社と謎の大げんかをしたことで。
結局彼の高笑いとともに、旅行会社変更…計画は一からやりなおし…ってことになってしまった。
 
その後のどたばたについては、もう思い出したくない。
 
とにかく、いつもは五月末に出発する修学旅行なのだが…今年はそれが二週間早まったのだった。
中間考査は旅行後、代休明けに繰り下げ。
そんなことしたら、旅行中ガイドさんをシカトして勉強するヤツとかがでるんじゃないかと私は危惧していたけど…
 
グレート先生は落着いたものだった。
そんな殊勝なヤツ、いるわけない、と。
 
クラス自体は一年からの持ち上がりだし、旅行の準備だって前年度からしている…から、生徒達は日程変更にもそれほど動揺していなかったけど…
今年、謎の人事でイキナリこの学年に入った私にしてみたら…もお何もかも怒濤の日々。
 
もたくた歩いている生徒達をせかしながら、バス乗り場にたどり着く。
とりあえず乗せて…わいわいしている車内で赤毛の生徒を捜した。
 
「ジェット!…点呼とって…!」
「おっけー…!お〜い、集まった班〜っ!」
 
口々に班長が叫ぶ。
 
「一班!」「五班!」「八班!」……
 
ジェットはうんうんとうなずきながら、両手の指を器用に折り曲げていった。
でも。班は12個あるんだけどな。
…やがて。
 
「せ・ん・せ・え〜っ!ひとり、いないぞ〜っ!」
「いないって…誰っ?!」
 
早速お菓子やらトランプやらを取り出して大騒ぎを始めた生徒達の向こうから、赤毛の学級委員長は両手をメガホンにして怒鳴った。
 
「し・ま・む・ら〜っ!!」
 
…もう迷子かっ!ジョーっ?!
 
 
あたふたバスを飛び出した。
さっきトイレに行かせたとき…あの子も動いてたかもしれない。
…でも、トイレに誰もいないのをアルベルト先生が確認してから出発したはずなのに…
 
「あ…先生、誰かいないんですか?」
 
澄んだ声に、へ?と振り返ると。
ガイドさんが心配そうに立っていた。
 
…すっごい…綺麗な人…
 
しばし呆然とする。
 
「E組のお世話をさせていただきます、フランソワーズ・アルヌールです」
「あ…よ、よろしくお願いします…!」
 
慌てて頭を下げた。
…えっと。
それで…ジョーだっ!
 
「一人、足りないんです…ロビーに置いて来ちゃったみたいで…いや、他のバスに乗ってるのかな〜?」
「他の車は全員そろったそうですから、間違って乗ったわけじゃないと思います…先生は車内で待っていてください…私、捜してきます」
「え…でも」
「制服でわかります…生徒さんが迷いそうなところ、慣れてますし」
 
にこっと笑うと、彼女はあっという間に駆け出していった。
あんな細い脚で…ヒールを鳴らして。
 
アルベルト先生が、窓から私を見下ろした。
 
「早速…迷子ですか?」
「え、ええ…」
「島村か…」
 
どうしてわかるんだろう。
…いや、たしかに他にそんな間抜けはいないかもしれないんだけど。
 
数分後。
アルヌールさんの後ろを、茶色の髪の生徒が走ってきた。
…島村ジョー。
 
とりあえず、私と一緒に待ちかまえていた学年主任のグレート先生が一喝する。
 
「何やってた、島村っ!」
「……」
「あ…あの…よくわからないけど、気付いたら迷ってたみたい…だそうです」
 
アルヌールさんがおずおず口をはさんだ。
私は思わず額に手を当てて呻いた。
 
「よくわからない…じゃ困るのよ〜!」
「…とにかく…早く乗れ!お前一人のために、出発が遅れたんだぞ」
「……」
 
黙って乗り込むジョーを見届けてから、私はグレート先生に頭を下げた。
 
「申し訳ありません…もう、あの子…ごめんなさいも言えないんだからっ!」
「それは気長に指導ってことで…まずは出発…あ。そうだ」
 
グレート先生はにやっと笑った。
 
「綺麗なお姉さんに優しく声かけられたからって、ふらふらついていくんじゃない…ってのも指導しといた方がいいかもな」
 
 
発車して間もなく。
アルヌールさんが立ち上がり、丁寧に一礼した。
 
「みなさん、はじめまして」
 
がやがやしていた車内が、水を打ったように静かになる。
…そりゃそうだろう。
 
亜麻色の髪、大きな青い目。
透き通るように白い肌に…
間近で見ると、ほんとに、とんでもなく綺麗な人だ。
声だって、優しくてよく通って…耳に心地よい。
 
アルヌールさんは自己紹介と運転手の紹介と車内での注意事項をすらすらこなし、またお辞儀をした。
 
「それでは、短い間ですが、みなさん、仲良くしましょうね」
 
ぱんぱんぱんぱんぱんっ!!!…と、派手な拍手。
振り返るまでもない。
…ジェットだ。
 
「ありがとう…お名前、教えてもらえますか?」
「ジェット・リンクっ!学級委員長ですっ!」
「…まあ」
 
アルヌールさんはにっこり笑った。
 
「それじゃ、いろいろお世話になりますね…どうぞよろしく」
「ジェットって呼んでいいぞっ!」
 
…爆笑。
アルヌールさんも明るい笑い声を上げた。
 
「わかりました…よろしくね、ジェット」
 
マイクを置き、アルヌールさんは私にこっそり耳打ちした。
 
「申し訳ありません…生徒さんの名簿…ちょっと見せていただけますか?」
 
 
バスは高速に入った。
いよいよ本校名物、バス乗り倒し耐久旅行の始まりなのだ。
誰もが聞いて呆れる長距離移動連続の謎スケジュールなんだけど…でも、毎年、終ってみると生徒の反応はそれほど悪くない。
というのは…バスガイドさんにいい人が多いのだった。
さんざんどたばたしまくった旅行準備だったけど、グレート先生は、このバス会社の利用だけは譲れないと頑張った。
それは…もちろん、ガイドさんのあたりはずれ…ってのもないわけじゃないけれど。
今年は大当たりの予感がするわ。
 
アルヌールさんの説明は簡にして要を得ていた。
ただ見学地の説明をするだけじゃなく、窓外のちょっとした景色や、町の様子をとらえて、その土地柄をわかりやすく教えてくれる。
 
そうっと振り返ってみると…生徒たちはめずらしく顔を上げ、アルヌールさんを見て話を聞いていた。
たしかに…つい見てしまうよな〜
 
紺の制服制帽に白い手袋。
きりっと結んだ赤いスカーフ。
これは…帰ったら、「私、バスガイドさんになりたいっ!」とか言い出す女子続出だな。
ウチの子たちは単純だ。
 
「間もなく到着します…貴重品は身につけて降りてください…集合時間は、解散のときに先生がおっしゃるということですので、よく聞いてくださいね…何か質問はありますか?」
「はいっ!アルヌールさんは、年幾つですかっ?!」
「失礼なこと聞くなっ!!」
 
ジェットの喝が飛び、車内は爆笑に包まれた。
アルヌールさんは笑いながら、それはあとのお楽しみです、とだけ言った。
 
「それでは気を付けて降りてください…私についてきてくださいね…迷子にならないように…いいですか、島村くん?」
 
くすくす笑いがおきかけたが…すぐ静まる。
私は思わずアルヌールさんをのぞいた。
アルヌールさんは、怪訝そうに瞬きした。
 
E組の旗を高くあげて先頭を行くアルヌールさんを、生徒達はいそいそと追いかけていた。
まず女子があっという間に彼女を取り囲み、楽しそうになにやら質問している。
男子はそのまわりをやや遠巻きにしている感じ。
いや…これは楽だ。これなら、誰もはぐれないだろう。
一人だけ、注意してればいい。
 
いわずとしれた、島村ジョー。
 
彼は、ぽつん、と集団から離れてのろのろ歩いていた。
私は、少し距離を置いてその後ろを行く。
 
扱いが難しい生徒だった。
 
彼には両親も身よりもない。
教会が経営している施設から通っている特待生で。したがって成績は優秀。
彼の保護者をつとめているのはその教会の神父さまで…これがまた立派な人なのだ。
彼自身も、特に何か問題を起こすわけではない。
…が。
 
彼は、あまり人と話をしない。
それだけではなく…私は、彼が笑うところを見たことがない。
 
修学旅行の班決めのときも、彼は自分の席でぼーっとしていた。
どこにも混ざれないのでは…と焦る私に、ジェットは落ち着き払って、あいつは俺と一緒ってことになってるので大丈夫です、と説明した。
実際、ジェットはよく彼の世話をやいてくれる。
お調子者で、何かと困ることもある委員長だけど、この気の良さが取り柄で…ずいぶん助けられている。
 
コースの見学が終わり、自由時間になった。
思い思いに散らばる生徒達の中から、ジェットが走ってきて、ジョーに何か話しかけ…二人は連れだって歩き始めた。
 
いいやつだな〜、ジェット…アルヌールさんと話したくてうずうずしていたみたいだったのに。
友情が先ってことか…いや、友達なのかどうかはしらないけど。
 
 
ホテルに着いて、生徒達を部屋に押し込み…夕食前にミーティングをした。
D組担任のアルベルト先生の様子が何かおかしい。
 
もともと愛想のいい人じゃないけど…それにしても、今にも爆発しそうな表情で。
…何があったんだろう。
D組の生徒も心なしか怯えているっぽい。
でも、生徒が何かした…ってわけでもないらしい。
 
「…で、何か問題…ありますかな?」
 
ミーティングの終わりに、グレート先生がのんびり尋ねると…アルベルト先生がおもむろに口を開いた。
 
「問題というわけではないですが…今年のバスガイドは、ちょっと」
 
アルベルト先生はそれきり口を噤み、ミーティングは終った。
どうも腑に落ちない。
通りがかったD組の生徒をつかまえて何かあったのか聞いてみると…
 
アルベルト先生は、バスガイドさんと大げんかしたらしい。
生徒の目の前で。
 
「…何をそんなにケンカしたの…?」
「さあ…方針の不一致…ってことかもしれません」
 
方針の不一致…って。
バスに乗って見学地を回るのに方針とか、何かあるわけ?
 
「アルベルト先生には、信念がありますから」
 
生徒はあきらめ顔で肩をすくめた。
…いや。これは…大変かも。
しかし、アルベルト先生とケンカするなんて、ずいぶん根性のすわったガイドさんもいるもんだ。
 
部屋に戻って、さっき配られたバス会社スタッフの名簿を広げてみた。
D組担当のガイドさんは…ビーナ・プワワーク…20才。
ちなみに…アルヌールさんは19才。
 
ジェットに教えてやったら喜ぶかもしれない。教えないけど。
 
 
二日目。
とにかく移動ばかりの日程なのだ。
バスは何の変哲もない山の中の自動車道を突き進んだ。
 
アルヌールさんは元気にお話している。
ちらっと見え隠れする遠くの連峰の名前を教えてくれたり…市境を越えるたびに、その市の案内をしたり…
そして、このバス会社の特徴なんだけど…歌う。ひたすら歌う。
 
アルヌールさんの声は優しくて気持ちいい。
社歌から民謡から昔のはやり歌から外国語の歌まで。
ときどき「一緒に歌いましょう」と生徒たちに声をかけるけど…
聞こえるのはジェットの声だけで。
それでも、彼女は辛抱強く生徒に話しかけた。
 
「それじゃ、みんながよく知ってる歌を…みんなの校歌はどんな歌なんですか?聞かせてください」
 
それにはさすがのジェットも反応しなかった。
そりゃ…そうだな。
ちょっと無理があるかも。アルヌールさん。
 
それにしても。
疲れるよな〜、何時間も休みもしないで…
つい自分に置き換えて考えてしまう。
1時間目から3時間目までぶっ通しでしゃべっていることになるわけだ…こんな不安定なバスの中で、立って。
すごい〜。
 
見学地に着くと、アルヌールさんは背筋を伸ばした綺麗な歩き方で生徒達を誘導した。
女子はもうすっかり彼女に懐いている。
男子も…勇気のあるのがぽつぽつ女子の中に割り込み始めて…
うん、いい感じ。
 
説明が一通り終って、自由行動になったとき。背中で鋭い声がした。
 
「15分では無理ですっ!!」
 
驚いて振り返ると…短くカールした金髪のガイドさんが、アルベルト先生を睨み付けている。
…あ。もしかして。
 
「出発時間を考えたらそれ以上はとれない」
「出発時間なら、調整できます。それは、私たちが相談して…」
「生徒に時間を守らせることの方が大事なんだ」
「そんな…なんのための旅行なんですか?たったそれだけの時間で、この庭園のすばらしさがわかるわけないわ!」
「君たちは、あの子らが大人になったとき、またココに来たいと思わせるのが仕事だからな…だが、修学旅行の目的はそれとは違う」
 
…うわ。
 
案の定、ビーナさんは顔色を変えた。
 
「馬鹿にしないで!あなたは、私たちが会社の利益のためだけに仕事をしていると思ってるの?!」
「…あの子らのためだと言うのなら、余計なコトはしないでもらおう」
 
アルベルト先生はぴしゃっと言い放ち、遠巻きにしているD組の生徒達を振り返った。
生徒達はぱぁっと蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
先生の厳しい横顔に、ため息が出た。
…そうなのよね。
 
準備段階で、アルベルト先生は、このスケジュールに思い切り意義を唱えた。
そりゃそうだ、こんな…過密スケジュール。
でも、スカール校長に押し切られ。
 
ビーナさんに言われるまでもなく、これじゃ何のための旅行か…って、一番思っているのはたぶんアルベルト先生なのだ。
先生はマジメだから…
見学にさほど意味を見いだせないなら、せめて集団生活の訓練を徹底させよう、と考えたに違いない。
 
「う〜ん、次はDを先頭に出発するか…先に着いた方が少しは時間がとれるし」
 
グレート先生がいつの間にか隣にいた。
でも、それはあまりに露骨なのでは…と言いかけた私に、先生は笑った。
 
「なに…プレッシャー、プレッシャー…こんなケンカされたんじゃ、生徒たちだってたまらないからね…移動中に頭を冷やしてもらいましょ」
 
 
長い一日が終わりかけていた。夕陽の中をバスはホテルへ向かっている。
今日の宿は…山の中の温泉地。
もちろん、大浴場も天然温泉で、ゆったりできる。
修学旅行で、お風呂の設備がいいと…ほっとするのよね〜。
 
うとうとしていた私たちに、アルヌールさんはひときわ明るい声で言った。
 
「お疲れさまでした…今日は温泉でゆっくり休んでください…それから」
 
アルヌールさんは、マイクを置き、かがんで何やらごそごそ紙袋を探り…小さな包みを取り出した。
 
「この中に、今日、誕生日の人がいます…みんな、知ってますか?」
 
…へ?誕生日?
ぱっと目が覚めた。
どういうこと…?
生徒達も不思議そうにがやがやし始めた。
 
…あ!
私は声をあげそうになり、アルヌールさんを見上げた。
目が合うと、アルヌールさんはいたずらっぽくにっこりした。
 
あのときちょっと渡した…生徒の名簿…だ。
うわ〜、あんな短い時間で、誕生日に気付いたの…?!
やっぱりプロだわ…すごい。
 
ところで…誰なんだろう。誕生日。
生徒達のがやがやは大きくなっていったが…わからないようだ。
アルヌールさんは満面の笑顔で呼んだ。
 
「島村ジョーくん…!」
 
えええええええっ?!
 
あちこちから口々に驚きの声が上がった。
 
「皆さん、拍手してください…!」
 
ジェットが、チクショウこの野郎とかなんとか叫び、生徒達はどっと笑った。
大きな拍手。
…でも。
私は身を堅くしていた。
 
どうして…よりによって。
 
しかし。
足音が…近づいてくる。
よ…よかった。ひとまず安心。
ちょっとくらい愛想がなくても、ありがとうが言えなくても、シカトするよりはマシだ。
 
私の席の脇で立ち止まったジョーに、アルヌールさんはリボンのかかった包みを渡した。
 
「誕生日、おめでとう…島村くん…でも、大したモノじゃないのよ…よかったら使ってね」
 
やっぱりジョーはありがとうも言わないし、ニコリともしない。
大歓声と拍手の中、彼は静かに席に戻っていった。
 
…やれやれ。
と、ほっとしかけたとき。
 
悲鳴とジェットの罵声が飛んだ。
 
「何しやがる、ジョーっ?!」
 
えっ?!と飛び上がり、後ろを見た。
何…?
 
ジョーが自分の席のところで立ったまま振り返った。
凄まじい目つきで、まっすぐアルヌールさんを睨み付けている。
窓が、全開になっていた。
 
…まさ…か?
 
アルヌールさんは大きく目を見開き、蒼白になっている。
 
「嘘…捨てたの?」
「窓から?」
 
後ろの女子が早口でひそひそ囁き合った。
 
バスが大きくカーブし、アルヌールさんはよろけた。
私は咄嗟にマイクをとって立ち上がった。
 
「もうすぐ到着します。忘れ物のないように…ゴミは持って出ること。班長はすぐロビーに集まりなさい、連絡があります。班長の荷物は、班員の誰かが部屋に運びなさい…アルヌールさん、降りたら、今日はバスに戻れないですよね?」
 
アルヌールさんはハッと顔を上げ、うなずいた。
 
「降りたら、バスには戻れません…荷物は必ず持って出るように…何か質問は?」
 
生徒達は静まりかえっていた。
ほどなく、バスはホテルの駐車場に止まった。
 
最後に降りようとした委員長を私は引き留めた。
 
「ジェット…ジョーに、私のところに来るように伝えて」
「何時?」
「…う〜ん…5時45分。時間厳守!」
「了解…と、先生?」
「…何?」
「その…あいつも、いろいろあるから」
「わかってるわよ」
 
 
ジョーは時間厳守でやってきた…けど、当然というかなんというか…何も言おうとしない。
私は手短に、車からモノを路上に投げることの非道徳性と危険性について究極の幼児教育を始めた。
 
アルヌールさんを傷つけた…ことについては何も言わなかった。
そのつもりでやったんだろうし。
ジョーにしてみれば、自分はそれ以上に傷つけられた…って言いたいところなんだろう。
 
「気にいらないんだったら、受け取ってすぐ床にたたきつけて踏むとかすれば、まだ安全だったのに」
 
吐き捨てるように言ってしまった。私もいらだっていた。
ジョーがふっと目を上げる。
 
「もちろん、後の始末はあんたがするのよ」
 
夕食の時間が迫っている。
罰として風呂の脱衣場掃除を言い付け、最後に言った。
 
「悪いと思ってても思ってなくても…アルヌールさんに謝りなさい」
 
返事はない。
部屋を出て行くジョーの背中に私は更に呼びかけた。
 
「後で後悔するから。アルヌールさんとは、二度と会えないのよ!」
 
 
夕食がすんで…しばしの休息時間。
といっても、生徒がなんだかんだとやってくる。
こつこつ、とまたノックの音がした。
やれやれ。
 
「開いてるわよ…入りなさい」
 
声だけかけ、ベッドの上に救急箱を引っ張り出す。
どうせ腹痛とか頭痛とか…
 
「あの…先生」
 
え…?と振り向いた。
私服のアルヌールさんが立っていた。
…そっか。
 
部屋に鍵をかけ、ベッドに腰掛けてもらって…私はアルヌールさんに説明した。
島村ジョーの「事情」を。
 
ジョーは赤ん坊のとき、教会の前に置き去りにされていた。
産着に付けられていた紙切れに、「島村ジョー」とだけ、走り書きされていたのだという。
もちろん…誕生日など、不明。
 
ジョーの誕生日は…その、教会に保護された日。
つまり、親に捨てられた日…ということになるのだった。
 
アルヌールさんは息を呑み…うつむいた。
 
「ごめんなさい…私…島村くんに…ひどいことを」
「そんなこと…予想できなくて当然だもの。気にしないでください」
「先生に…相談すればよかった…私…島村くんを驚かそうと思って…それしか考えてなくて…」
 
ぽた、と涙が固く組み合わせた手の上に落ちた。
 
「いいのよ…誕生日おめでとうって言われるたびに、いちいち傷ついてたんじゃ、マトモな大人になれっこないわ…ホントに、気にしないでください…アルヌールさん、よくやって下さってる…生徒だってあんなに懐いて」
「いいえ…!」
「う〜ん…その、変なヤツって…どこにでもいるわけだし…ジョーはああいう子だから…」
「どんな子でも、傷つけられたら、つらいです…そんなこと、しちゃいけなかったのに…私、どうしたら…」
 
…あ。
 
黙っている私に、アルヌールさんはハッと顔を上げ、すみませんとつぶやき…涙を拭った。
彼女が出て行った後。
私はベッドに仰向けに倒れて、ぼうっと天井を眺めた。
 
どんな子でも…傷つけられたら。
…そうか。そうよね。
 
しかたない、しかたない…って私が考えるたびに…あの子を諦めるたびに。
そうやって片づけられちゃったあの子はますます一人になって。
 
だから、どうしたらいいのか…って言われても…わからないけど。
でも、どんな子でも…
どんな子でも、傷つけられたら…つらい、か。
そりゃそうだ。
 
…参ったな。
 
 
三日目も移動が多いんだけど…なけなしの半日自由研修と、夜には平和教育の講演会が組まれていた。
講演会は、ウチの修学旅行の伝統になっていて…
そんなものいらないだろうと、スカール校長は毎年言うけど、どの学年主任もこれだけは、と死守している。
 
さすがに疲れてきた。
アルヌールさんは相変わらず元気で明るくて…優しい。
そして。
今日は、一日中、ジョーに話しかけようとしていたみたい。
 
昼ご飯のあと、こっそり彼女に言った。
無理しないで、と。
彼女は、昨日の涙が嘘のような明るい笑顔で答えた。
 
「大丈夫です…私たちガイドには、後がないから…後悔したくなくて。でも、わかってます、無理はしません…できるだけのことをしておきたいだけなんです」
 
そうだわ、先生…ちょっと伺ってもいいですか?
…と、アルヌールさんは楽しそうにメモを取り出した。
首を傾げる私に、笑って言った。
 
「最後のお楽しみの準備なんですけど…ご協力いただけると助かります」
 
 
講演会の講師は、ここ数年、同じ人がしてくれている。
ジェロニモさんという人。
ものすごい巨漢で、まず生徒はそれに驚き、びびり、引付けられる。
 
話し始めると、その語りは饒舌とは言い難く…むしろ訥々としているのだけど。
話の内容も、自分の戦争体験を淡々と語るだけ。
なのに…目を離せないし、何か、胸に迫るものがあるのだ。
 
拍手に包まれ、花束を受け取るジェロニモさんを見て…ああ、そろそろ旅行も終わりだ…と思う。
明日は一日自由研修で生徒は「放し飼い」だし、明後日はもう帰りの飛行機に乗るのだ。
 
「先生〜」
 
講演会の会場からぞろぞろ出て行ったとき。
クラスの生徒が私に話しかけた。
 
「先生…ウチはクラスレク、やらないんですか〜?」
「クラスレク?…いつ?」
「明日の夜〜!最後だから」
「…そんなの予定してなかったじゃない」
「でも!D組はやるんです〜!」
「そんな話、聞いてないなぁ」
「だから…!D組も、急に話が出て」
「ふーん…?別にやってもかまわないけど」
「ホントですかっ?!」
「計画立てて持ってきなさい…できそうだったら許可するから」
「…そんな、今からじゃ無理です〜!D組は委員長の他に、アルベルト先生とガイドさんが進めてくれてるんですよ〜!」
 
アルベルト先生と…ガイドさんって、ビーナさん?
…わけがわからない。
でも、とにかく…アルベルト先生と一緒にされても困る。
 
「悪いけど、私はアルベルト先生ほど優秀じゃないから無理です…委員長だってウチのはD組ほど優秀じゃなさそうだしね〜無理じゃない?」
 
生徒はぶつぶつ言いながらも引き下がった。
そうだよな〜、アルベルト先生だからできるんだもんな〜とかなんとか言いながら。
 
就寝点呼前の打ち合わせのとき、D組クラスレクの話が出た。
生徒が言ったとおり、アルベルト先生とビーナさんが中心になって企画したらしい。
 
「しかし…優秀だね、先生のところのガイドさんは」
 
可笑しそうに言うグレート先生を、アルベルト先生は一瞥し、ため息をついた。
 
「優秀だかなんだか…勢いだけって感じだな…あれじゃ生徒がもう一人いるのと一緒だ」
 
10
 
四日目。
生徒達が楽しみにしていた、一日自由研修。
小さい街だし、アブナイ場所もないし…チェックポイントは最小限でいいですよ、というグレート先生の方針にしたがって、チェックは昼の一回だけ。
少ない気もするけど…グレート先生は、それで十分だと笑う。
…先生、サボりたいのかも。とちょっと思ったりして。
 
そして、そのチェックポイント。
生徒達が次々にやってくる。
…あと一班。
ジェットの班だけだ。やっぱり一番遅かったか〜!
 
時間に遅れること15分。
息せき切って駆けつけたジェットの班だったが…一人足りない。
 
「ジョーは…?」
 
ジェットたちは困ったように顔を見合わせた。
 
「行方不明です」
「ええ〜〜っ???」
 
私は思わず天を仰いだ。
 
「迷子?それとも、サボり?」
「うう〜ん…ついさっき…その辺までは一緒だったんだけど…気が付いたら消えてて」
 
困惑しきった彼らに、私はため息をついた。
 
「とにかく…しばらく捜しなさい。そうね、見つからなかったら、次の見学先に行った方がいいわ。そっちに先回りしてるかもしれないし…とにかく、合流できたら連絡をいれてちょうだい。事故じゃないと思うけど…」
 
と言いながら、胸が騒いでいた。
事故のはずないけど。でも。
…ああもうっ!!!!
そんなはずないけど…無事な姿をひと目見ないうちは落ち着かないわっ!!!
 
ジェットたちを見送り、私は闇雲に歩き始めた。
数分後。
 
地図も持たずに適当に路地を歩き回っているうち、私まで迷子になってしまったらしい。
ジョーを捜すより前に、ともかくここから脱出しなければ…と、足早に角を曲がったとき。
べったり座り込んでいる少年に蹴つまづきそうになった。
 
「…ジョー…?!」
 
呆気にとられて見下ろし…次の瞬間。
思わず大声で叫んでいた。
 
「どうしたのよ、あんた?!」
 
服は埃まみれ…袖が今にもちぎれそうな感じで、ほころびている。
目の周りは黒ずんで腫れ上がり、唇にも、頬に貼られた真新しい絆創膏にも、血が滲んでいた。
 
ジョーは、小さく舌打ちして私をちらっと見上げ…物憂げに立ち上がった。
 
「ジョー…」
「…今、どこにいる?」
「は?」
「うちの班のやつら…」
 
私はあ…と声を上げ、携帯を取り出した。
ジェットに連絡をとる。
 
「駅前にいるそうよ」
「……」
 
わざとらしく息をつき、ジョーはさっさと歩き出した。
 
「ちょっと待ちなさいっ!一体、どうしたの、その傷?!」
「…転んだ」
「はぁっ?!」
 
ジョーはぴたっと立ち止まり、振り返った。
 
「転んだって言ってるんだよっ!!」
 
物凄い目つきだった。
思わずカッとして怒鳴り返そうとしたとき。
その視線が微妙に私からズレているのに気付いた。
突き刺すような視線を追って、ぱっと振り返ると。
 
アルヌールさんが泣きそうな顔で立っていた。
 
11
 
アルヌールさんに気をとられた隙に、ジョーは駆け去ってしまった。
やがて、ジェットからジョーと合流したという連絡が入り。
電話を切ると…アルヌールさんがぽつんと言った。
 
「…ごめんなさい」
「……」
 
何と言ったらいいのか…
わけがわからず、私はアルヌールさんを見つめた。
 
「…どうしたの、あの子?アルヌールさん、何か知って…」
 
アルヌールさんは何度も瞬きして涙を払い…首を振った。
 
「ごめんなさい…先生」
 
ごめんなさい、と言われても。
 
「…まあ…いいか。大した怪我じゃなさそうだったし…それより…実は私、迷子になっちゃったの…アルヌールさん、道…わかる?」
 
アルヌールさんは驚いたように顔を上げ、僅かに微笑んで…うなずいた。
 
「この辺は…よく知られてないんですけど、あまり治安がよくないんです…ホントに、この一角だけなんですけど…でも、もう迷い込む生徒さん…いなそうですね」
 
昼間だし、大丈夫…と思ったものの、ちょっと心配だったから、ガイドさんたちが交替で、アブナイ場所の入口に立ち、生徒達を追い返してくれていたのだという。
もちろん、見学場所なんてこの付近にはないから…迷子にならない限り、生徒は近寄らない。
 
「そっか…じゃ…ジョー、やっぱり迷子になって…」
「いいえ、ちがいます…!」
 
え…?と私は目を見開いた。
アルヌールさんはうろたえながらも、はっきり首を振り、きゅっと唇を噛んだ。
 
短い沈黙。
私はつとめて元気よく言った。
 
「あの…ね、アルヌールさんって、ココが地元の人でしょう?…ちょっと、相談したいんだけど…」
「え…?」
「私、校長の奥さんにお土産買う係なのよ〜!何かいい物あります?」
 
アルヌールさんはふっと微笑み、うなずいた。
 
「わかりました…先生、お時間どれくらいありますか?」
「あとはホテルに帰るだけ…だから3時間はあります」
「…それだけあったら十分です…どこか他に見学なさりたいところがおありでしたら、ご案内しますけど…」
 
私は肩をすくめて首を振った。
 
「ううん…買い物すんだらさっさとホテルに帰って昼寝しちゃおうと思ってるの…今晩に備えて」
「今晩…?」
「最後の夜だもの…連中、気合い入れるに違いないのよ〜!」
 
アルヌールさんは一瞬目を見張り…くすくす笑い出した。
 
12
 
最終日。
最後の見学地に降りたとき、ジェットが私をつかまえた。
 
「先生…俺たち、アルヌールさんになんかあげたいんだけど」
「…なんか?」
「D組は、色紙に寄せ書きして、花束あげるんだって〜!ビーナさんに。」
 
ほ〜お。
 
「でもジェット…今から色紙なんて…」
「そりゃ色紙は無理だけどさ…でも、なんかしたいじゃねえか!」
 
…なんか…と言ったって。
 
「別れ際に校歌でも歌ったら?あんたたち、ずーっとだぁれもアルヌールさんと一緒に歌ってあげてなかったんだから…きっと喜ぶわよ」
「そうじゃなくて…!なんか…こお、記念にプレゼントを…」
 
…と言ってもだな。
ココには有名な神社があるだけで。
土産物はいくらもあるけど…アルヌールさんは地元の人だ。
 
「昨日ならなんとかなったのに…トロイわね〜」
「だって…!D組のことも今日になって初めて聞いたから…チクショウ、ピュンマのヤツ…!」
 
ジェットはD組の学級委員長が計画を内緒にしていた、と言って憤慨した。
そりゃまあ…この子に教えちゃったら、内緒もへったくれもなくなるかもしれない。
さすが…学年でも名高い敏腕学級委員長、ピュンマ少年。
 
「そうね…花だけなら何とかなるかな?」
「ホントかっ、先生?」
「うん…たしか三年前、花屋さんがあった」
「じゃ…俺、行ってくる!」
 
私はジェットをこづいた。
 
「ダメ…見学サボったら…私が買っておくわ…予算は?」
「2000円…!」
 
…けち。
しかたないか…足りないのは私が補うことにして…
 
「アルヌールさんに絶対バレないようにしてくれよな、先生…!」
 
…う〜ん。
調子いい奴。
 
グレート先生に事情を話して、私は一人、おぼろげな記憶を頼りに花屋を探した。
…が。
花屋は…なくなっていた。
 
ぼーぜん。
 
代わりに、小さいスーパーマーケットがあった。
中に入って聞いてみると…近くに花屋はないという。
 
「一応…あそこに花はあるけどネェ…」
 
ころころ太った気のよさそうなオジさんが店の入口付近を指さす。
…お墓参り用の花だ。
うううううう〜〜ん……。
 
もう時間がない。
花を眺めている私に、オジさんは言った。
 
「好きなの選んで、一つにまとめるといいネ!ワイ、花束は作れないアルけど、リボンはあるからして…アンタはんが使うならタダであげるアルよ!」
 
…やるしか…ないか。
私だって、花束なんか作ったことないけど。
 
白いトルコ桔梗の束を数本引き抜いてみた。
紫のもあったけど…白の方がいいような気がした。
そこにあったトルコ桔梗を全部合わせると、白一色ながら、ふわふわの花嫁みたいな花束になりそうだった。
 
「ウン、それすごく綺麗アルねえ…!リボン、赤と緑とあるアルよ!…やっぱり赤かね?」
 
オジさんはレジに並び始めたお客さんにちょっと待っててネ、とのんきに言って、花鋏とリボンとセロファンを取りに奥に入った。
文句を言うお客さんもいない。
 
オジさんに手伝ってもらいながら、大急ぎで花束を作り、支払いをして領収書ももらって…
私は何度もオジさんに頭をさげた…が。
オジさんはもう知らん顔で、待たせていたお客さんのためにレジを打っていた。
 
13
 
遅くなってしまった。
駐車場に駆けつけると…バスの入口にはアルヌールさんが立っていて、笑顔で生徒達を迎えている。
…しまった。
 
私の背中を、ジェットが素早く叩き、花束をひったくるように取った。
 
「先生…遅いっ!」
 
…面目ない。
 
ジェットは物陰に隠れ、慌ただしく周りの生徒たちと相談を始めた。
それによると。
 
まず、ジェットたち2、3人が何気なくバスに乗り込む。
花束は、アルヌールさんに見つからないよう、バスの反対側へ持っていく。
乗り込んだジェットたちが、アルヌールさんを見張りながら、隙を見て窓から花束を受け取る。
 
…なるほど。
…でも。
 
窓…高いぞ。
 
私は、少し離れたところから首尾を眺めていた。
…やっぱりね。
 
ジェットが懸命に窓から顔を出したり引っ込めたりしながら、手を伸ばしている。
下で、数人の生徒が花束を持ち上げるが…なかなか届かない。
乱暴にやると…花がくしゃくしゃになるしな〜
…これは、無理かも。
 
しかたない。
ちょっと向こう側に行って、アルヌールさんを呼び出して、隙を作ってやろう…と、声をかけようとしたとき。
風が私の傍らを吹き抜けた。
 
茶色の髪の少年が足音もたてずにバスの窓下に駆け寄り、花束を片手に取ると、とん、と地面を蹴った。
 
ふわっと花束が揺れる。
少年のもう片方の手が難なくバスの窓枠にかかった。
そのまま、しなやかに体を躍らせ、ジョーはジェットに花束を渡すと、猫のように柔らかく地面に降り立った。
 
所要時間…7秒。
 
思わず拍手しようとした周囲の生徒たちを、ジェットが素早く抑えた。
そうそう。
ここで騒いだら何にもならないわな。
 
私も拍手しそうになった手を辛うじて止めた。
 
14
 
空港まであと…15分といったところか。
車内は異様な盛り上がりを見せていた。
 
最後のお楽しみ、は…アルヌールさんが用意した勝ち抜きクイズだった。
問題は…最初の日から今日までアルヌールさんが説明してくれたことの総復習。
それに加えて、教員や学校のこと。
アルヌールさんと私で、相談しながら作ったものだ。
 
○×クイズで、1個でも間違った生徒は失格。
最後に残った数人は、立ち上がり、友人たちの声援を受けていた。
優勝者には…アルヌールさんが他のガイドさんたちと一緒に、夜なべして作ったプレゼントがあるという。
 
「正解は…○です!」
 
歓声と悲鳴。
 
「あ…?いよいよ、あと二人ですね!」
 
アルヌールさんの弾んだ声に伸び上がって振り返ると…残っているのは、ジェットと…
島村ジョー…?!
 
「これが最後になるかしら?…では、問題!…私、フランソワーズ・アルヌールは未成年です…○か×か?!」
 
爆笑。
私も思わず笑った。
アルヌールさんはいたずらっぽく言った。
 
「これはみんなに内緒にしてきたことよね…勘で答えてください」
 
おおっ…と声が上がる。
ジョーとジェットの答が分かれたらしい。
 
「正解は…○!」
 
うわあああああああっ!!!!!
頓狂な声と爆笑が起こった。
 
「島村くんの優勝です…!」
 
アルヌールさんは笑顔のまま、紙袋を探り始めた。
 
「島村くん…前に来てください」
 
割れるような大騒ぎが…不意に静まった。
私も、思わずうつむき、目を閉じていた。
 
足音が…近づき…止まる。
かさかさかさ…と音がした。
 
「ありがとう…島村くん」
 
囁くような声。
私は目を開け、そっとアルヌールさんを見上げた。
綺麗に澄んだ青い目が、僅かに揺れている。
 
ジョーは…その目を挑むように食い入るように…見つめていた。
あの、突き刺すような視線で。
 
ありがとう…って…言えっ、大馬鹿者っ!!!!
 
私は唇を噛みしめた。
 
プレゼントは…色とりどりのキャンディで作られたレイだった。
アルヌールさんが、大事そうにそれをジョーの首にかける。
もちろん、ここは…爆笑しつつ拍手するべきところなのだが。
誰も…コトリとも音を立てない。
 
やがて。
ジョーはくるっと振り返り…黙って席に戻って行った。
 
不意に、奇妙な笑いが起きた。
飛び上がって振り返ると…
ジェットがバスの窓をしっかり片手で押え、もう片方の手でジョーの頭をシートに押さえつけている。
 
「アルヌールさんの愛のプレゼント、捨てるんなら、俺にくれェッ!!!」
 
大爆笑。
ジェット…馬鹿すぎ。
 
苦しそうに笑いをこらえながら、アルヌールさんが何か言おうとマイクを取ったとき。
女子の数名が声を合わせて言った。
 
「アルヌールさん、ありがとう!」
 
それを合図に、副委員長の女子が花束を抱えて、前に進み出る。
同時に全員が立ち上がり、一斉に拍手した。
アルヌールさんが半ば呆然と花束を受け取ったとき。
感極まったように、ジェットが声を張り上げた。
 
「よしっ、校歌、歌うぞっ!」
 
え…?と思う間もなく、ジェットは調子はずれの大声で歌い始めた。
一瞬のどよめきの後。
バスは怒鳴るような叫ぶような大合唱に包まれた。
 
…馬鹿。
 
アルヌールさんは、背筋を伸ばし、身じろぎもせず、立っていた。
白い花束を抱え、まっすぐ生徒達を見つめて。
その頬に涙が転がるのを見た瞬間。
私は唇を噛んで、窓の外に目を逸らした。
 
降りる前に、最後の…空港での注意をしなくちゃいけないのだ。
私は、ちゃんと、しゃべらないと。
 
ぽろぽろ涙がこぼれる。
懸命に深呼吸を繰り返した。
 
バスが、空港に滑り込んでいく。
 
15
 
空港は混み合っていた。
 
私たちのバスは二番目に到着した。
もたもたしていると、後が詰まってしまうので、ガイドさんと別れを惜しませるわけにはいかない。
私は泣きじゃくる女子を追い立て、先を急がせた。
 
ようやくロビーにたどり着き…点呼。
 
「あれ…?」
 
ジェットが首を傾げた。
ジョーが…いない。
 
その場に座り込みそうな脱力感に襲われ、私はのろのろ荷物を床に置いた。
 
「アルベルト先生…荷物、見ていていただけますか…ちょっと一走りして探してきます」
「…ああ。少し厳しく言った方がいいな」
 
アルベルト先生は険しい表情だった。
なぜか、首にキャンディのレイをかけている。
…なんて、気にしている場合ではない。
 
私は次々歩いてくる他クラスの生徒達をかき分け、バスの降車場に向かって走った。
 
…いない。
 
バスの降車場では、今まさに、生徒達を降ろしたバスが出発しようとしているところだった。
私は立ち止まり、呼吸を整えながら、途方に暮れて辺りを見回した。
 
ここじゃないってことは…トイレ…かな…?
ホントに…ふらふらした子なんだから…!
 
もしかしたら、ジョーは最後にアルヌールさんに何か言おうと…謝るとか…して、ここに残っているかも、と咄嗟に思ったんだけど。
私の勘はアテにならない。
 
最初にD組のバスが発車した。
両手で顔を覆っているビーナさんと、花束がちらっと見える。
続いて、ウチのクラスのバスがゆっくり発車し…スピードを上げていった。
 
私の前を通りすぎる瞬間。
バスの乗車口がいきなり全開した。
アルヌールさんが立っている。
 
…え?!
 
アルヌールさんは片手で手すりを握り、大きく身を乗り出した。
遠くに向かってもう片方の手を精一杯伸ばして烈しく振り、何か叫ぶ。
亜麻色の髪が風に煽られ、ばらばらに吹き散らされた。
 
私の前を、次々バスが横切り、あっという間にアルヌールさんは見えなくなった。
そのとき。
離陸した飛行機の轟音に混じり、少年の悲痛な叫び声が聞こえたような気がして、私は思わず振り向いた。
 
…誰も、いなかった。
 
16
 
三年ぶりに、その空港に降りたとき、空はどんより曇っていた。
…まあ、梅雨だもんね。
 
グレート先生は教頭になってから、スカール校長と結構やり合ってくれている。
修学旅行もかなり改善されたのだが…時期だけはどうにもならない。
秋に…ってのが、進路指導部の猛反対で却下されてしまうと、一学期の中間考査が終ってから…という選択肢しかないわけで。
そうすると、どうしても梅雨期と重なってしまうのだ。
 
「お久しぶりです!」
 
明るい声に、私は思わず微笑んだ。
ビーナさんがにこにこしながらお辞儀をしている。
アルベルト先生は進み出て、右手を差し出した。
 
「今度は…君がチーフなんだってな」
「アルベルト先生も…学年主任でいらっしゃるそうですね」
 
二人は握手しながら、お互いを探るように見つめ合い…やがてこらえきれず、吹き出した。
 
「今度はかなりマシな日程になってるはずだ…満足してるだろう?」
「…ええ…本当に。よろしくお願いしますね」
 
きょろきょろしている私に、ビーナさんは笑った。
 
「あ…アルヌールですか?」
「え、ええ…いらっしゃらないのね…もう…辞められたんですか?」
 
ここのガイドさんは結婚が早い、と聞いたことがある。
まして、あれだけ素敵な人だったから…
でも、ビーナさんは微笑んで首を振った。
 
「いいえ、まだ勤めているんですけど…今日は別の仕事に回っています…みなさんにくれぐれもよろしく、と言っていました」
「そう…ですか…残念」
「あのすばらしい学校の生徒さんたちと、また過ごしたい…って、彼女、いつも言ってたんですけど…恋人が反対したんだと思いますわ…この修学旅行の仕事は、彼女が危ない目に遭うかもしれないって思いこんじゃってるみたいで。もうそんなことないのに」
「…は…あ」
「でも、ホントのところ、彼はただ生徒さんたちにヤキモチ妬いてるだけなんじゃないかと思ってるんですけど…そう言うと、アルヌールは違うって頑張るんです…もう、彼の言いなりなの…私、いつもあてられっぱなしなんですよ」
 
ビーナさんはくすくす笑っている。
う〜ん…?こんな人だったっけ…?
同僚のプライバシーをぺらぺらしゃべるような人じゃなかったと思うんだけど…
 
こっそりアルベルト先生をのぞくと…
先生も、面白そうに笑っている。
 
こういう噂話は大嫌いな人だったんじゃ?
いや、中間管理職たる者、そんなお堅いコトじゃいけないと悟られたのか。
それとも…年取って、ただのオジサンになった…ってことかも。
なんか、やだな。
 
…このとき。
私が、その在学中、最後の最後まで振り回されっぱなしだった、一人の卒業生の名を全然思い出さなかった…ことを、アルベルト先生は後々まで、ずいぶん笑った。
でも、思い出す方がどうかしてるわよ。
 
それは…たしかに、高三で担任したときは、どうして彼がそんな地方の国立大学に進学したいのか、どーしてもわからなくて、さんざんぶつぶつ言ったけど…それとアルヌールさんを結びつけて考えるなんて突拍子もなさすぎるじゃない。
まして、あんな…口をきかない子。
 
その後、何度行っても、修学旅行は曇天の下だった。
旅行中、ずっと天気がよかったのは…後にも先にもあのときだけ。
 
二人から毎年届くようになった年賀状の写真は、彼の誕生日に撮影しているのだという。
背景には、あのときと同じ青い空が広がっている。
 
この空を見たければ、もう二週間早く出発すればいい…というのは、よくわかってるのだけど。
…ただ、そのためには、中間考査をずらさなくちゃいけないのよね。
 
 
 

PAST INDEX FUTURE



Last updated: 2011/8/3