12      秋風
 
 
 張々湖がこっそり指さしたのは、小学生の女の子を前にして穏やかに笑う青年だった。白いシャツにジーンズの姿は、学生のようにも見えたが、彼は或る大手の電気機器メーカーに勤めるエンジニアなのだという。
「あの人が…フランソワーズを?」
「そうネ!ワタシの目に狂いはないアルよ。」
「…ホントかなぁ…?」
 首を傾げるジョーの背中を、張々湖はじれったそうに叩いた。
「いてっ!な、何するんだよ〜!」
「アンタ、もう少ししっかりするヨロシ!」
「しっかりって…何を?」
 不思議そうに見返す澄んだ目に、張々湖は深々とため息をついた。
「まぁ、いいアル…とにかく、あの人に頼まれたアル、フランソワーズと、私と…グレート。」
「グレートも?」
「人数多い方が何かといいアルからねえ…」
「そんなもんかな…?」
「アンタも来るヨロシ!」
「え、えぇっ?なんで、僕がっ?」
「なんでもヘチマもないアルっ!気にならないアルのか、フランソワーズのこと?」
「気にならないかって…これって、僕が気にするようなこと?」
「なんて薄情なこと言うアル!大事な仲間の一大事に…」
「だって、要するに、あの人の妹さんの運動会なんだろ?」
 張々湖はじーっとジョーを見つめた…が。彼の表情に困惑以外の色を見つけることはどうしてもできなかった。
「とにかく、アンタも来るネ!」
「い、いやだよ…そんな、知らない人の…」
「これから知り合いになるアル!」
「うわっ、張々湖!…は、離せよ!」
 張々湖はジョーを引きずるようにして青年と女の子に近づいていった。いつものように、張々湖飯店店長の笑顔を満面に浮かべながら。
 
 
 張々湖飯店でウェイトレスをするようになってから、フランソワーズへの電話が増えた。休日に出かけることも多い。頼まれれば、ジョーが駅までの送り迎えをするけれど、彼女は大抵一人で出かけ、一人で帰ってきた。帰ってくると、その日会った友達のことや、出かけた街のことを楽しそうに話し、おみやげのお菓子を広げ、お茶をいれてくれる。
 きっと本来の彼女は、こんなふうに朗らかで、誰にでも好かれて、友達もたくさんいる女の子だったんだろう…。彼女の屈託のない笑顔を見るたび、ジョーはそう感じた。
 そういう女の子は、どこにでも必ずいる…ともジョーは思う。かつて通った学校にも、もちろんいた。そして、そういう子と話をすることなど自分にはほとんどなかったわけで。
「何が、不思議なの…?」
 ハッと顔をあげると、碧の瞳が覗いている。
「え…えと、僕、何か言った?」
「言ったわよ…『不思議だなぁ』って、なんだかしみじみ。」
「……。」
 それきり黙り込んだ彼の気持ちを自分なりに解釈し、彼女は少し不機嫌そうに言った。
「『力』は使ってませんから。」
「わ、わかってるよ…」
 慌てるジョーに少し肩をすくめ、フランソワーズはソファから立ち上がり…ふと振り返った。
「そうだわ…ジョー、あなたも行くんですって、運動会?」
「……うん。」
 だって、張々湖にそういうことにされてしまったから…と、心でつぶやく。ため息をつきかけたとき、思いがけず明るい声が降った。
「よかった!ホントはね、頼んでみようかな…って思ってたの。でも、あなたも、日曜日はやりたいことがあるかもしれないし…それに、きっと困ると思って。」
「フランソワーズ…?」
「迷惑じゃなかった?」
 慌てて首を振る。
 ぱっと花がひらいたような笑顔で、フランソワーズは「ありがとう」と言い残し、キッチンへ向かった。
 
 
 興奮して眠れなかった…というわけでもないのだろうけど、あまりよく寝付けないまま、その朝が来た。
「おはよう、ジョー…早いのね」
「おはよう。凄いな……」
 テーブルを見るなり目を丸くしたジョーに、フランソワーズは少々不安そうに尋ねた。
「おかしい…?真帆ちゃんに恥ずかしい思いをさせたら、かわいそうよね…日本の常識と何か違ってる?」
「日本の常識って…別に、そんなのないよ。運動会のお弁当は、立派なら立派なほど、いいと思う。」
「…これ、立派、かしら?」
「立派だよ〜」
 目がくらむほど華やかなオープンサンド。数種類のサラダとチキンが積み上げられたランチボックス。彼女の手の中で魔法のようにくるくる皮をむかれ、水を張ったボールの中に次々飛びこんでいくリンゴの切れ端は、赤いウサギの耳をつけていた。
「これに、張々湖大人も中華弁当作ってくれるんだろう?何人分?」
「私たちが四人…真帆ちゃんと直樹さん…で、一応六人分だけど…あら。やっぱり多かったかしら?」
「少ないよりはいいよ、ずうっと。」
「そう?」
「何か、手伝おうか?」
 人なつこく尋ねるジョーに、フランソワーズはくすっと笑って言った。「それじゃ、このサンドイッチをラップで包んでちょうだい…ちゃんと手を洗ってからね。」
「了解…ね、そのウサギ、きみ、やり方前から知ってたの?」
「ううん…張々湖大人に教わったのよ…可愛いでしょ?他にも、ニワトリとか竜とか…ね。でも、それは難しすぎたから。」
 ニワトリとか…竜?
 しばし呆然としていたジョーは、気をとりなおし、手を丁寧に洗った。 張々湖大人、どういうお弁当もってくるつもりなのかな?
 見たいような、見たくないような。
 
4      
 
直樹、というその青年は、所在なさげに小学校の校門前に立っていた。フランソワーズが大きく手を振ると、彼は安堵したように笑った。
「おはようございます…すみません、せっかくのお休みなのに、ヘンな頼み事をしてしまって。」
「いいえ。楽しみにしてきましたわ。今日はどうぞよろしく。」
 彼は微笑で答えると、隣のジョーに会釈し、張々湖とグレートにも丁寧に一礼して、よいしょ、と足元の荷物を持ち上げた。
「それ…」
「カメラとビデオと、三脚…です。ふふ、今年は参戦しようと思って。」
 
「参戦…って…撮影のことだったのね…」
 すごいわねえ、とあちこちでカメラをセッティングしている両親たちを眺め、フランソワーズは嘆息した。
「うん…コレ、結構大事なことなんだ、運動会ではね。」
「だから直樹はん、誰かに来てほしかったアルのか。」
「そうね…これじゃ、お弁当の場所取りとか荷物番とか、絶対に必要よ。大変なのねえ…運動会って。」
「お?なんだなんだ、アルコールOKなのか、ここって。」
 不意にグレートが辺りを見回しながら言った。たしかに、あちらこちらで缶ビールを片手に座っている人がいる。それじゃ、ちょっと外の酒屋に…と立ち上ろうとした彼を、フランソワーズが思い切り引っ張った。
「駄目よ!お昼には真帆ちゃんがここにくるんだから!お父さんならともかく、酔っぱらいのオジサンが陣取ってたら、可哀想じゃない。」
「そうそう!あの子に嫌われたら、ウチのお得意さん、一人なくすことになるアル!喉乾いたならお茶飲むヨロシ。」
 一気に両側からまくしたてられ、グレートは憮然として腰を下ろした。「はい、お茶。グレート。」
 無邪気に水筒を差し出すジョーに、グレートは噛みつくように言った。「ぬぁにが『はい、お茶』だ、この野郎。ったく、誰のためにこんなクソ面倒なことに付き合ってると……痛ェっ!」
「ホイ、アンタうるさいアル!見るネ、なんか始まったアルよ!」
「わあ…見て!」
 フランソワーズの歓声に、ジョーは軽く背を伸ばした。懸命に走る子供たちの姿を確認し、プログラムに目を落とす。
「一年生のかけっこだ…可愛いね。」
「あ、転んじゃった!」
「よ〜し、がんばれ、泣くなよ坊主!」
 いつの間にか、グレートも応援に熱中している。
 
「真帆ちゃんは紅組かい?それとも白組?」
 一年生が元気に走って退場し、ひとしきり騒ぎ終えると、グレートはフランソワーズに尋ねた。
「紅組…って聞いてたと思うけど…違ったかしら。」
「直樹さん、戻ったら聞いてみるアルね。」
「あ!ううん、紅組よ…ほら張々湖大人、ゼッケン作ってあげたじゃない…あれ、赤い布だったわ。」
「ゼッケン?」
 怪訝そうなジョーに、フランソワーズは説明した。
 ある日、いつものように張々湖飯店に来た直樹が、ひどくムズカシイ顔で一枚の紙を見ていた。フランソワーズが聞いてみると、運動会のために、体操服につけるゼッケンを作らなくてはならないのだという。
「見せてもらったら…なんてことないの。ただ、寸法通りに縁を縫ってあげればいいだけで…でも、それを四枚用意しなくちゃいけないって…あんまり困ってるようだから、作ってあげたのよ…お店の休み時間に。」
「結構、あれで図々しいよな、直樹クン…そう思わんか、ジョー?」
「そうかな…僕だって、そんなの作れって言われたら困るよ。いいことしてあげたね、フランソワーズ」
「ええ。」
 微笑み合う二人に、グレートは軽く肩をすくめた。
 
 
 プログラムを指で追っていたジョーが、フランソワーズに尋ねた。
「真帆ちゃんって、四年生って言ってたよね?」
「ええ、そうよ。」
「だったら、次の競技に出るよ…応援しなくちゃ。」
「ホント?直樹さん、カメラの場所…ちゃんととれたかしら?」
「全然戻ってこないとこみると、大丈夫なんだろうよ…で、どんな競技なんだ、ジョー?」
「借り物・借り人競争…だって」
「何、それ?」
 ええとね、と説明しようとしたとき、第一走者がスタートした。
「僕が説明するより、見てる方が早いと思うなあ。」
 
「割り箸!割り箸持ってる人いませんかーっ?」
「コバヤシさん、いませんかーっ?」
 子供たちが必死の表情で駆け回り、観客に訴える。
「な、なるほど…こりゃ面白えや」
「ええっ、女子高生の人…ですって。いないわよねえ…かわいそう!」 足が速くても妙な条件を引き当てると、大きく遅れてしまう。笑ったり気の毒がったりしていたフランソワーズが、あ、と声を上げた。
「真帆ちゃんだわ!次の組にいる!」
「ん?どこアルか〜?」
「あそこ!あの、赤い帽子で、お下げにしてる女の子よ。」
「おお、確かに。よ〜し、気合い入れて応援せねば!」 
「そうそう、お得意さんアルからねえ!」
「張大人ったら…えっ?」
 いきなり軽い足音が間近に飛び込んできた。腕をつかまれ、仰天するフランソワーズを、白い帽子をかぶった男の子が懸命な顔で、モノも言わずぐいぐい引っ張ろうとする。
「え?あの、私?…ええっ?」
 ひたすらうろたえるフランソワーズに、ジョーは笑った。
「早く、行ってあげないと!」
 あ、とトラックを見ると、先頭切って走ってきたらしいその子の後ろで、何かを観客席からひっつかんだ、別の男の子が飛び出していくところだった。フランソワーズは唇を噛んで立ち上がった。
「おぉ〜、さすが003…速い速いアルねえ!」
「あの子、引きずられてるぜ…ったく、程度がわからねえ女。」
「やった!一着だ!」
「ま、引きずられてる…っちゃあ、コイツも同じ…ってか。」 
 グレートはこっそりつぶやき、立ち上がってフランソワーズに両手を振っているジョーを見やった。 
 
「あ!来た来たネ!真帆ちゃん〜!」
 張々湖の頓狂な声に、ジョーとグレートはトラックに目を向けた。お下げ髪の少女が散らばった紙の一枚をすばしこく拾い、広げているところだった…が。次の瞬間、少女の顔には困惑の色が浮かんだ。
「あの、あの…!おたま…おたま、持っている人いませんかーっ?」
 3人は思わず顔を見合わせた。
「オタマってあの…」
「台所で使う、アレか?」
「そんなの、持ってきてる人いるわけないネ!」
「そうだそうだっ!なんっちゅーインチキな条件だ!」
 少女は必死に観客の前を駆け回り、訴えている…が、反応はない。
「ああ〜、かわいそうアル〜、真帆ちゃん〜!」
「そうだ!」
 不意にジョーが大声を上げた。
「用具係のところだ、真帆ちゃん!」
 しかし、彼の声は彼女に届いていないらしい。張々湖が首を傾げた。
「用具係?それ、何アル?」
「このあと、おたまにボールを乗せて走る競技があるんだ。小学校の借り物競走で、見つからないモノが紙に書いてあるはずない。」
「な、なるほど…!でも、用具係って…どこにいるアル?」
「ええと…そこまでは…でも真帆ちゃんなら、わかってるかも。」
 ジョーは再び思い切り大声を上げ、立ち上がった。
「真帆ちゃん!」
 お下げ髪が振り向いたとき。肩がいきなり、ずん、と重くなった。
「え…?」
「ま・ほ・ちゃ〜んっ!見るアル〜っ!」
 ジョーの肩に飛び乗り、張々湖が高々と振り上げたその片手には、ぴかぴかのおたまが握られていた。
「こっち、こっちアルよお〜っ!」
「張おじさん!」
 目を輝かせ、駆け寄る少女にほいっ、とおたまを投げる。
「ありがとう!」
「急ぐアル、まだ追い越せるアル〜!」
 うなずき、踵を返して駆け出した真帆は、先頭を行く少女にぐんぐん近づき…ゴール直前で追い抜いた。
「やったァ!一着アル、凄いアル〜!」
「張大人、降りてよ〜あれ…?」
 ジョーは辺りを見回した。グレートがいない。
「あ!ま、まさか…あのおたま…!」
「ふ、ふ、ふ。たまには役に立つアルな、あの能力も」
「それ、ズルいよ、張大人!」
「あんなイジワルなモノ書いとく方がずっとズルいアル。これ、正当防衛、いや正義アルねえ!」
「そんな…むちゃくちゃだよ〜」
 
 
 ややあって、息を弾ませたフランソワーズと、変身を解いたグレートが戻ってきた。
「お疲れさま!」
「見て、ジョー。こんなのもらっちゃった!」 
 フランソワーズは得意そうに胸の青いリボンを見せた。
「お前…ガキじゃないんだから、そんなもんで喜ぶなよ…」
 まぜっかえすグレートに、フランソワーズは思い切りアカンベをしてみせる。ジョーは思わず吹き出した。
「何よ…ジョーまで。」
「ご、ごめんごめん…だって。」
 あんまり可愛いから…という言葉を、かろうじて呑み込む。少しむくれたフランソワーズに、張々湖がのんびり尋ねた。
「そういえばアンタ、どうして連れていかれたアルか?」
「え?あら、そう…ね、どうしてだったのかしら?確かめなかったわ。」
「『生意気なフランス女』とか書いてあったんじゃないか?」
「そんなこと、あるわけないでしょ!」
「『金髪の女の子』かな?」
「それ、見つかるとは限らないアルよ、ジョー。さっきアンタ言ったネ。」
「あ。そうか……」
 四人がなんとなく考え込んでいたとき。
「あ、あの……」
 遠慮がちな声がかかった。さっきの少年が立っている。
「あら…あなた?」
「あの、写真…僕と一緒に写真、とってもらえませんか?」
「…私?」
「は、はい!」
 いいわよ、と微笑んでフランソワーズは少年と並び、少年が持っていた使い捨てカメラをジョーに渡した。
「あ、ありがとうございました!」
 シャッターを切り、少年にカメラを返すと、彼は真っ赤になってぺこっとお辞儀をした。駆け去る少年の後ろ姿を見送り、グレートがぽんっと手を打った。
「そうか!『キレイなおねえさん』だ!」
「え?」
 困惑するフランソワーズの頬が僅かに染まっているのを、ジョーはちらっと見やり、口の中でつぶやいた。
「なんだよ…コドモのくせに。」 
 
 
 カメラがセッティングされている場所に行ってみると、二台の三脚それぞれにビデオとカメラがとりつけられていた。高級品ではないものの、使い込まれた感じの機材に、ジョーは感心した。
 昼休みも半ばを過ぎた。そろそろ昼食自体は終わりなのだろう。小さい子供達が駆け回り始めている。
 運動会の昼休みは、苦手だ。
 
 教会では、それなりに気を遣ってくれていた。運動会には、特別なお弁当が用意され、ボランティアの学生たちが応援にきてくれる。写真もとってもらえたし、昼食の席も彼らによって確保され、結構にぎやかだった。その明るさを慕ってわざわざ覗きに来る級友もいた。
 日曜日に神父が教会を空けるわけにはどうしてもいかない。そんなことは、子供たちにもわかりきったことで。だから寂しいとかつらいとか、ハッキリ意識したことはなかったと思う。それでも…と、ジョーはぼんやり思った。それでも、寂しかったのかもしれない。
 
 全身から嬉しさを発散させて、兄に一着のリボンを見せる真帆の姿が、あの頃の級友たちと重なった。妹の笑顔を優しく受け止める直樹。そして、そんな二人を包みこむ碧のまなざし。
 フランソワーズの胸に青いリボンを見つけ、真帆は「お揃い」とはしゃいだ。自分は運動音痴だったからそういうのには縁がなかった、と直樹がぼやき、また明るい笑いがおこる。同時に、「あなたは?」と尋ねられたような気がして、ジョーはふっと胸苦しくなっていた。
 運動は得意だった。特に、リレーが好きだった。自分の力でチームを勝利に導き、級友の歓呼を聞くのがたまらなく嬉しかった。
 でも、あのリボンを手にしたのは、たった一度。小学校一年生の運動会のときだけだ。青いリボンを手に勇んで駆け寄っても、自分には、同じ喜びで抱きとめてくれる人が誰もいないのだと気づいた、あのとき。
 二年生になってからは、個人競技ではわざと遅れて走った。くだらないことにこだわっていた、と今では思う。
 
 食事が進むにつれて、直樹が少しずつ落ち着かなくなっていくのに、フランソワーズが気づいた。彼女に問いつめられ、実は向こうでセットしたままにしてきたカメラが気になる…と彼は笑った。
「大丈夫だと思って、場所取りもかねてそのまま置いてきたんだけど…ちょっと、様子見てこようかな。」
「まあ…っ!」
 フランソワーズがきりりと眉を上げる。咄嗟にジョーは立ち上がった。
「じゃ、僕が行ってきますよ…もう食べ終わったし。」
 誰にも言葉をはさませず、ジョーは席を離れた。正直、救われたような気持ちだった。
 
「ジョー…?」
 突然声をかけられ、ぼうっとカメラを見ていたジョーは飛び上がるほど驚いた。碧の目が親しげに瞬いている。
「隣、いい?」
「うん…いいけど…どうしたの?」
「ふふ、ちょっと…ね。」 
 フランソワーズは持ってきた紙包みをかさこそ広げた。あのオープンサンドがぎっしり入っている。
「あなた、お腹いっぱい?もう少し、食べられない?」
 食べ終わった、というさっきの嘘がバレていたのかと思い、ジョーは探るようにフランソワーズをのぞいた。
「あのね、直樹さん…お握り持ってきてくれてたの。」
「お握り…?」
「ええ。遠慮しちゃったのかしら……すぐ出せばよかったのに…」
 弁当作りの打ち合わせができてなかった…ってことなのかな?と思い、首を傾げたジョーに、フランソワーズはいたずらっぽく言った。
「ホントはね、ずっと前から私が頼んで…ううん、命令してたの。ゼッタイ、作ってきなさい…作らなくちゃ駄目だって。」
「フランソワーズ…?」
「だって…真帆ちゃんが本当に食べたいお弁当はそれしかないでしょう?どんなにおいしい立派なお弁当だって、お兄さんが作ってくれたお握りより欲しいものなんて…ないはずよ。」
 ふと夢見るような目になった彼女に、ジョーははっと息をのんだ。
「彼がちゃんと持ってきてるの、私、わかってた。でも、『見えてる』なんて言えないでしょう?だから、あなたのせいにしちゃったわ。」
「僕の?」
「あなたが、遠慮してあんまり食べてなかった…ってことにして、これ、残りのサンドイッチ、全部持って来ちゃった。」
「ええ〜っ?」
 むちゃだな、きみは…と呆れるジョーに、フランソワーズは笑った。
「それでやっと観念して、お握り…出してくれたの。直樹さんったら、照れて、真っ赤になっちゃって。おかしかったわ。」
「…そうか。いい人だね。」
「ええ…ほんとに、いいお兄さん。」
 フランソワーズは微笑みながら、そっとビデオカメラに触れた。
「こうして…大事な時間をしまっておけるなんて、素敵ね…時が過ぎても、幸せだったことは色あせずに、この中に残ってくれるんだわ。」
「そうだね。でも…でもさ、無理に残すこともないかもしれないよ。」
「え…?」
「幸せだと思ったら、残そうって考えるより、その幸せをいっぱいに感じることの方が大事だと思う。テープや写真はなくしてしまうこともあるかもしれないけど、幸せな記憶は、きっとなくならない。」
「あなたは、そうしているの?」
 懐かしそうに無邪気に見上げられ、一瞬言葉につまった。
「僕、は……。」
 ジョーは少し乱暴にフランソワーズの手からオープンサンドの包みを奪い取り、最初に触った一切れを無造作に口に放り込んだ。
「まあ…!ジョー、まさかホントにちゃんと食べてなかったの?」
「だって…おいしいから。きみも食べなよ、おいしいよ。」
「私はもう、お腹いっぱいだもの。」
「いいから!ホントにおいしいんだから、食べてみなよ。」
 無理矢理一切れ手に握らされ、フランソワーズは目を丸くしてジョーを見つめた。やがて彼女は柔らかく微笑み、そっと一口だけ囓った。
「そうね…おいしいかも。」
「だろ?もっと食べなよ…ほら。」
「無理よ…どうしたの、ジョー?」
 とうとうフランソワーズはコロコロ笑い出した。耳をくすぐるその声を味わうように目を細めてから、ジョーは澄んだ青空を見上げた。
 
 
 午後の競技のメインは真帆が出場するダンスとリレー…ということらしい。真帆が応援席に、直樹がカメラの場所に戻ると、残された四人はやや呆けたような感じで、ぼうっと競技を眺めていた。
「…あ!」
 なんとなく辺りを見回していたフランソワーズが、小さな声を上げた。
「直樹さん…ビデオのバッテリーが切れちゃったみたい。」
「え…?」
 じっと前方を見つめ、耳を澄まし、フランソワーズは首を振った。
「やっぱりそう…間違って電源を入れっぱなしにしていたのよ。」
「でも、ダンスもリレーもまだ…」
「次アルよ、ダンスは…直樹はん、肝心のトコ、写せないアルのか?」
「フランソワーズ、要するにバッテリーがあればいい…んだよね?」 
 ちらっと腕時計に目を落とし、ジョーが言った。
「え、ええ。」
「買ってくる。さっき、機種は見ておいたから…たぶん間に合うよ。」
「ちょっと待って…!まさか、加速…!」
 叫びかけたフランソワーズの唇に人差し指を当て、ジョーは笑った。
「そこまでしなくても平気だよ…きみは直樹さんのところに行って。」
「ジョー…」
「大丈夫…待ってて。」
 ジョーは立ち上がり、駆けだした。
 
「あ〜あ、結構疲れるもんなんだな〜、運動会ってのはさ。」
「アンタ、張り切り過ぎたアル…それとも年アルかもね。」
「なにおうっ?」
 荷物をまとめていたジョーが呆れ顔で振り返った。
「なんだよ…またケンカしてるの、二人とも?」
 最後のリレーは紅組の勝利、優勝も紅組だった。校長が閉会式の講評をする頃には、父母席は人もまばらになっていた。
「フランソワーズはどうしたアルか、ジョー?あれからずっと直樹はんと一緒アルかね?」
「うん…心配だからって。きっと閉会式の最後まで写してるんだよ…先に荷物をクルマに運んでおこう。」
 さっさと歩き出すジョーの背中を、張々湖とグレートは憮然と眺めた。
「アレって…余裕ってことなのかね?」
「アンタ、そう思うアルのか?」
「…わからん。」
 張々湖はため息をついた。
「取り越し苦労ならいいアルけど…」
「ああ。何考えてるんだかな。少なくともアイツは、彼女に他の男が近づいてても平気らしい…ってことがわかった…わけだが。」
「そんなことわかっても仕方ないアル。」
「そりゃそうだ。」
 グレートは低く唸り、空のバスケットを持ち上げた。
 
 駐車場でしばらく待ったが、フランソワーズも直樹も姿を現さない。そのうち、下校の子供たちがぽつぽつ通り過ぎるようになった。
「遅いアルね…」
「もしかして、ココがわからない…のか?」
 ジョーはしばらく物思いにふけっていた…が、不意に歩き出した。
「ジョー?」
「ちょっと、探してくるよ…もし行き違いになったら…そうだな、五分ぐらいで戻るって言っておいて。」
「あ、ああ…」
 軽い足取りで走り去る後ろ姿が、ふっと消えた。
「加速装置…アルかっ?」
「…まさか。」
 二人は顔を見合わせた。
 
 行き違いだった。
 直樹とフランソワーズが駐車場に駆け込んできた数分後に、ジョーは姿を現した。
「ごめんなさい、ジョー…」
「本当に…最後まで手間をかけさせてしまって。」
 一生懸命謝る二人にジョーも一生懸命「大丈夫だから」と繰り返した。「それじゃ…本当に、今日はありがとうございました。」
「いやぁ、こちらこそ…楽しい思いさせてもらったよ。」
「真帆ちゃん、よく頑張ったアル…!うんと褒めてあげるヨロシ。」
 ええ、と笑い、直樹は最後にフランソワーズを振り返った。
「ありがとう…フランソワーズ。」
 フランソワーズは微笑んで、静かに首を振った。
 
 
 張々湖飯店を後にすると、もう日はすっかり沈んでいた。研究所まで続く海沿いの道に入ったとき、フランソワーズがぽつりと言った。
「今日はありがとう、ジョー。」
「僕は…何もしてないよ。きみこそ、いろいろ…」
「いろいろ気を配ってくれたじゃない。お昼も…それに、バッテリー。」
「ああいう時でないと、役に立たないからね、僕の力は。」
 フランソワーズは、思わずジョーを見つめた。穏やかな横顔はいつもと少しも変らない…けれど。
「あのね、ジョー…聞いてくれる?嬉しいことがあったの。今日、直樹さんがね…」
「後で聞くよ。」
「…ジョー?」
 ジョーは、じっと前を見据えた。隣で碧の目が驚きに見開かれているのが手に取るようにわかる。
「後で…聞くから。」
 やっとの思いで繰り返した。フランソワーズは微かにうなずいた。 
       
 殺風景な部屋の壁に、一枚だけピンで留められている写真。戦いを終えたとき、仲間たち全員で「解散記念」にと撮ったものだ。それを食い入るように見つめながら、ジョーは上着の内ポケットを探った。
 色が変りかけた写真。神父と教会の子供たち、そして幼い自分が写っている。いつも肌身離さず持っていた、人間だった頃の唯一の持ち物。
 ジョーは壁の仲間たちをじっと見つめたまま、ゆっくり、その手の中の古い写真を引き裂いた。
 懐かしい者たち。もう誰一人会うことはかなわない。自分自身にさえ。
 そして、いつかきっと…同じように、この仲間たちとも。
 
 校舎の陰で、隠れるように二人は立っていた。彼女は彼をあの真摯な碧の目で見上げ、彼の目も同じ真剣さで彼女を見つめ返していた。
二人を探し、走ってきたジョーは思わず足音を消し、咄嗟に身を隠した。見てはいけない、立ち去ろう、と思うのに、どうしてもそこから動くことができなかった。
不意に、フランソワーズの表情に抑えきれない喜びがあふれ、花が綻ぶような笑顔が広がった。次の瞬間、飛びつくように首に両腕を巻きつけてくる彼女を、直樹は堅く抱きしめた。
 
『直樹はん、フランソワーズのこと、お気に入りみたいアルね!』
『なんて薄情なこと言うアル!大事な仲間の一大事に…』
 張々湖の言葉が不意に頭をよぎる。そういう意味だなんて、思ってもみなかった。どうして思ってもみなかったのか、今となってはわからない。でも、少なくとも今までは、その言葉をいつも側にいる彼女と結びつけて実感することなどできなかった。しようとも思わなかった。
 今日、彼女がふと口にした、兄への想い。これまで頑ななまでに閉ざしていた、かなしい想いを、本当に少しだけ、そして本当に久しぶりに、彼女は言葉にした。
 あの兄妹と…いや、彼と語らううちに、彼女の傷が癒され、過去が優しい思い出に変り始めていたというのなら。それは、自分が心から願っていたことではなかったか。
 
 細かい紙くずになった写真を指の間から床に落とす。
 わかっていたはずだ。いつかはこういう日がくる。僕は、大丈夫だ。
 大丈夫だ、と心に繰り返し、ジョーは静かに部屋を出た。
 
10
 
 ノックの音に、フランソワーズはぎくりと振り返り、次に慌てて立ち上がった。飛ぶように走り、ドアを開ける。
「遅くに…ごめん。ちょっと、いい?」
 ジョーは柔らかい微笑を浮かべていた。
「きみ、さっき、何か…話そうとしてたよね?」
「あ……」
 何となく頬が熱くなった。いつもと同じ物静かな彼の声。ほっと安堵するのと同時に、恥ずかしさがこみ上げる。
 やっぱり考えすぎだった。見られていたはずはないし、もしそうだとしても、この人に限って……。
「フランソワーズ?」
「あ…ごめんなさい…あなたには、大した話じゃないかもしれないわ。」
「いいよ。話して。」
 おずおず彼を見上げる。茶色の目には優しく澄んだ光があるだけだった。いつものように。
 フランソワーズはカバーのかかったベッドに腰掛け、隣をぽんぽん、とたたいてみせた。躊躇するジョーを無理にひっぱり、座らせる。
「直樹さんがね、来月からフランスに転勤するんですって。それで…」
 あ、と声が出そうになるのを、ジョーは懸命に抑えた。
 
 ……フランス。
 
 自分の覚悟の甘さをいきなり思い知らされた。頭の中が真っ白になる。思いがけない衝撃に、彼女の声も遠のいていった。
 もし彼女が誰かを愛したとしても…そして、この研究所を出て行ったとしても、二度と会えなくなるわけではないと漠然と思っていた。思っているつもりはなかったけれど、やはり思っていた。
「…難しいことはいろいろあるって…思うけど…でも…」
 彼女は、直樹に全てを話したのだろうか。自分の体のことも…時を止められたことも。昼間の彼をふと思い出し、ジョーは唇を噛んだ。彼が、彼女と妹に向けていた温かい笑顔。あれは、全てを乗り越えた笑顔だったのかもしれない。だからこそ、彼女は……
 
「ジョー…?」
 聞いてる?と、碧の目が問いかける。我に返り、慌ただしく瞬きした。
「あ…ごめん。」
「やっぱり…疲れてるんでしょう…?気、遣わなくて…よかったのに。」
「……。」
「ごめんなさい…私、いつもあなたに心配かけてるわね。」
 そんなことない、と言おうとするのに、言葉が出てこない。それでいて、今口を開いたら、自分が何を言い出すかわからない気もした。
「でも、心配かけついでに聞いちゃおうかな…日本では、お見送りのとき、お餞別…ってするのよね?どんなものを贈ればいいかしら?」
「え…?」
「真帆ちゃんにお洋服でも…って思ってるの。そういうの、おかしい?」
 ジョーは彼女をぼんやり見返した。
 
 違う。よく聞け。そんなはずはない。諦めろ。無駄な望みは捨てろ。
 心の隅で、ひっきりなしにもう一人の自分が警告している。
 しかし、目の前では、碧の目が星のように瞬いている。ばら色の唇が動くたびに、優しい言葉が耳に流れ込み、その声がもつれた糸をゆっくりほどきはじめる。
 フランソワーズは、真帆を赴任先へ連れて行くことを逡巡していた直樹をいかにして説得したか、それがどんなに大変だったか、彼が、妹を連れて行く決心をした…と、今日になってやっと話してくれたとき、どんなに嬉しかったか…を熱心に楽しそうに話し続けた。
「どうしてわからないのかしらね…どんなところで、どんな暮らしをすることになっても…お兄さんと二人でいられるのが一番幸せなのに…」
 あなたはどう思う?と問いかけようとした目が一瞬迷い、曇る。そうか、とジョーは思った。彼女は僕に家族がいないことを思い出してる。
 初めて、唇が動いた。
「きみの考えが、正しいと思う。家族は一緒に暮らした方がいいよ。」
 フランソワーズはぱっと目を輝かせ、嬉しそうにうなずいた。
「そうよね。こんなのお節介だって…何度も思ったけど…よかったわ。」
 これで話はおしまい。ありがとう、と彼女はベッドから勢いよく立ち上がり、笑った。ジョーも微笑んで立ち上がろうとした…が。
立てない。
 どうしたの…?と心配そうにフランソワーズはジョーを覗き込んだ。
「だ、大丈夫…だよ、ええと…ちょっと緊張…したのかも。」
「緊張…?」
 ジョーはしどろもどろになりながら、何とか説明しようとした。
「ほ、ほら…女の子の部屋だから……一応。」
「一応、ですって?」
 もう…と口をとがらせた彼女は、やがて小さく笑った。
「私、直樹さんに聞いてみたことがあるの…お嫁さんもらわないんですか?って。もちろん、冗談によ…そしたら直樹さんったら、兄さんとおんなじこと言ったわ。『妹が一人前になるまでは!』ですって。」
 フランソワーズは、きょとんとしているジョーの頭をいきなり邪険に引き寄せ、抱きしめた。大慌てに慌てる彼をそのまま立ち上がらせ、胸から離し…ごく軽く唇を合わせる。
「兄さんの気持ち、少しだけわかったような気がするわ…おやすみなさい、ジョー。」
 
 数秒後。
 閉ざされた彼女の部屋の扉を背にジョーは呆然と立ちつくしていた。
 何がなんだかわからない。わからないけど。
 でも彼女は今ここにいる。そしてこれからも。それだけはわかった。
 それだけで、十分だと思った。
 
11
 
 直樹と真帆を見送り、空港を出ると、眩しい秋空が広がっていた。
「しかし…あの二人がもう店に来ないと思うと、寂しいもんだ…『ふらんすに行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し』ってな。」
「なんだい、グレート…それ?」
「おいおい…日本人の書いた詩だぜ…しっかりしてくれよ、ジョー?」
「そんなこと言われたって。」
「ほんとう。遠いわねえ…」
 ジョーはハッとフランソワーズを振り返った。彼女は風に吹き散らされた亜麻色の髪を片手で押さえ、遠くの空を見上げている。
「でも…すぐ行けるわ。行きたいと思えば、すぐ。」
「…うん。」
 そうだね、とジョーはつぶやき、彼女と並んで空を見上げた。
   
 いつか、離ればなれになっても…きみはこの空の下にいる。
 今僕と見ている、この同じ空の下に。
 いつか、会えなくなっても…きみは僕に残る。
 この幸せな記憶が、僕に残る。 
 
 ぎゅっと手を握られ、フランソワーズは驚いてジョーを見上げた。彼は頬を真っ赤にして、堅く口を結んでいる。
 くすっと笑って、彼女はその手を優しくほどき、彼の腕に絡ませた。
「え、ええっ?」
「なぁに、ジョー?」
「ちょ、ちょっと待って…それはまだ、ちょっと、フランソワーズ…」
「さ、帰りましょう…お腹すいちゃった!」
「二人とも、ワイの店に寄ってくアル!ご馳走するアルよ〜!」
 
 張々湖は勢いよくグレートを突き飛ばしながら、さっさと先を急いだ。
「ご馳走…ね、酒もあるとありがたいんだがなぁ。」
「何言うか、アンタは従業員アル。」
「ンだとぉ〜?ソレ言うならフランソワーズだって…」
 張々湖は、ぎこちなく、半ばもつれるように歩いてくる二人をこっそり振り返ると、上機嫌で空を見上げた。つぶやくように繰り返す。
「お祝い、お祝い…お祝いアルねぇ!」
「何の?」
「何だっていいヨ!」
 グレートも苦笑しながら空を見上げ、ふっと目を細めた。
 
「そりゃ…ま、何だって結構ですよ、我輩も。」
 
 
 

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Last updated: 2011/8/3