まだ知らぬ人をはじめて恋ふるかな思ふ心よ道しるべせよ
二条太皇太后宮肥後
1
無理だ。
頭ではとっくにわかっている。
が、足は動き続けた。
「二人とも、伏せろっ!」
叩き付けるような声に、002は003を庇いながら床に伏せた。
耳慣れた機械音。
数秒後、すさまじい轟音と爆風。
無駄だとわかっている。
弾は全て使い果たした。
これが、最後のミサイル。
失敗するに決まっている。距離がありすぎる。
が、これ以上は近づけない。間に合わない。
それでも、撃った。
もしそうなら、コイツも、俺と同じなんだろう。
002はぼんやり思った。
「ダメ!破れなかったわ!」
彼女の悲痛な声。
やがて、もうもうと立ちこめる煤煙の向こうから、足音が聞こえてくる。
ゲームは、終わった。
「そこまでだ、実験体諸君!」
鈍い金属音とともに004が立ち上がり、003を抱いてうずくまる002の前で両手を広げた。
そうしておきながら、彼は「死神」の名にふさわしい冷徹さをもって二人に問うた。
「さて、どうする…?」と。
「投降しましょう!」
澄んだ声が即答した。
思わずぎょっと振り返る男たちの目に、およそ場違いな、明るく澄んだ青が映りこんだ。
今日は、快晴なのだという。
きっと、この瞳のように青いのだろう。
壁の向こうにある空は。
「死神」は無表情のまま両腕を背中で組み、迫る兵士達に向き直った。
002もゆらりと立ち上がった。
なすべきことはもう何もない。
明日が来るのかどうかもわからない。
そうだ、もう何もわからない、俺たちは。
二人の男にわかっていることが何かあるとしたら、それは、この少女を守らなければならない、ということだけだった。
それだけがどうにか受け入れることができる、「生きる理由」だ。
「…003、怪我は?」
「私は、大丈夫よ」
銃口が一斉に向けられる。
庇われながら、少女は男たちを見上げ、無邪気に笑った。
2
「仲間」が一人ずつ増えていく。
彼らは、二度と「脱走」を企てようとしなかった。
…と、少なくとも「組織」は信じていた。
その根拠は、003だ。
脱走計画失敗以来、003はおそろしく組織に従順になった。
どんな実験にも素直に応じる。
ブラックゴーストの理念やら規則やらもあっという間に覚え込んだ。
そして、彼女は明るい。
自分たちを実験動物扱いする科学者や兵士たちにも輝くような笑顔を向け、人懐こく話しかける。
それでいて、媚びているわけではない。
003は教えられるまま求められるまま「ブラックゴースト万歳!」と何度でも復唱した。
それを絶対言うまいとした004が独房に押し込められると、係の隊員のトコロへ走り、許してやってくれと懇願する。
美しく澄んだ青い目に涙を浮かべ、私が彼によく話しますから、と相手の目をじいっとのぞき込むのだ。
数時間後、004はひっそり自室に戻された。
一事が万事、その調子だった。
「役者」を自称する男が新しく「仲間」に加わったとき。
彼は盛大な溜息をつきながら、そんな003をまじまじと眺めた。
「俺が一流になれなかった理由が……やっとわかった気がするぜ、お嬢さん」
彼女は、脱出を諦めてなどいなかった。
001の指示に従い、彼女はありとあらゆる役柄をこなし、命がけの芝居を続けた。
…そして。
いつの間にか、一人の科学者が彼らの「味方」となっていた。
アイザック・ギルモア。
00ナンバーサイボーグ計画の責任者だった。
3
脱走計画をどうやら実行に移せそうになったとき、00ナンバーサイボーグは8人だった。
9人目の実験体を探すため「黒い狩人」が出発した夜、ギルモアはひそかに彼らを集めた。
今、島の警戒は僅かだが薄くなっている。チャンスだ!
彼は急いでいた。
ちょうど001が「昼」に入った。
この時期を逃し、彼が眠ってしまうと、次の機会は009の完成後ということになるだろう。
諸君を目の前に言うことではないが、もうサイボーグは作りたくない。
これ以上罪を犯したくない……と、ギルモアは苦渋の声を漏らした。
脱走計画を決行すれば、成功しようが失敗しようが、島は大混乱に陥る。
「黒い狩人」は呼び戻され、009も作られないだろう。
さらに、責任者のギルモアが組織を裏切ったとなれば、00ナンバーサイボーグ計画そのものも、一旦凍結されるに違いない。
001はギルモアに反対した。
彼は、「009」を取り込めば、脱出作戦の成功率とその後の自分たちの生存率が飛躍的に上がる…と主張した。
仮に逃げおおせたとしても、必ず追っ手がくる。
ソイツらにあっけなく殺されてしまったのでは、脱走の意味がない。
「009」は我々にとって必要不可欠な戦力なのだ。
002と004と005はギルモアに賛成した。
006と007と008は001に賛成した。
…そして。
「私は、001に賛成よ」
最後に003が、澄んだ声で言った。
それで、全てが決まった。
4
明日、作戦決行。
成功するとは思えない。
ただ粗暴なだけの、身勝手な少年達が立てた「作戦」は、どう見ても穴だらけだ。
失敗するにきまっている。
馬鹿げた話だ。
それでも、ここに押し込められてじっとしているよりはずっといいような気がした。
なぜそう思うのかわからない。
ただ……もしかしたら。
格子の向こうに、細い月が見える。
…もしかしたら。
ふと浮かんだ思いを、ジョーは心で舌打ちしながら押し殺した。
いつまで僕は、あてのない夢を見続けるのか。
こんなになり果てた今でも。
子供の頃、月を見上げて思った。
虹を見つけて思った。
夕焼けに目を細めて思った。
あそこまで行けば、きっと会える。
僕の、おかあさん。
そんなことはあり得ないと思い知ってからも、月を、虹を、夕焼けを見ると、切ない予感で胸が震える。
そんなことは、あり得ない。でも…
ここから出れば。
ほんのひとときでもいい…出れば、月を見ることができるだろう。
雨上がりに虹を。まぶしい夕焼けを。
また見ることができるだろう。
だったら、今はそれだけでいいと、ジョーは思った。
どこまで走っても、あの人には会えない。
そんなことはもうわかっている。
それでも、走ってみようか。
あの人はいなくても…誰かが、いるかもしれない。
いないかもしれない。
でも…もし、いたら。
いるような、気がするから。
それなら、走ってみようか。
ジョーは横たわり、古びた毛布を引っ張り上げた。
明日の今頃……僕は走っている。
成功するとは思えない。
でも、どこかにはたどりつけるかもしれない。
あの人に会えるとは思わない。
でも、誰かには会えるかもしれない。
そんな、予感がする。
それなら、走ってみよう。
この予感ひとつ信じて。
5
「眠って、いなかったのか」
低い声に003は振り返り、微笑んだ。
大きな影が静かに近づいてくる。
「早く…休んだ方がいい」
「ええ…もう少しだけ」
それだけ言うと、また海の方へ向き直り、003は祈るようにうつむいた。
005は黙ってそんな彼女を見つめていた。
「聞こえたか?」
「…え」
「オマエを、呼ぶ声」
「00……5」
005はふと微笑した。
「俺にも、聞こえていた。誰かが、オマエを呼んでいる」
「本当、に…?本当、005?」
「…ああ」
だから大丈夫だ、もう休め……と、彼は大きな手で003の頭をくしゃっとなでてから、ゆっくり立ち去っていった。
003は思わず深呼吸した。
…不思議な人。
005だけではない。
彼女の仲間達は、みなどこか一風変わっていて…だからこそ、愛おしい。
そして、彼らは皆、彼女を汚れない者として守ってくれる。
私は、こんなに罪に汚れているのに。
たくさん嘘をついた。人をだまし続けた。
そして…
何も告げられぬまま全てを失い、代わりに得た鋼鉄の体を横たえ、今、地下深く眠っている少年。
明日、私は目ざめた彼に告げる。
未来永劫、私たちのために戦え……と。
何が本当なのか、もう私にはわからない。
わかっているのは……ただ。
003は細い月を見上げた。
わかっているのは、誰かが私を呼んでいるということだけ。
その人のところに行かなければならないということだけ。
だから、私は。
それは、自分で作り上げた幻なのかもしれない。
それでも、それだけが崩れかけた心を支えてくれる。
誰かが、私を呼んでいる。
私を待ってくれている。
だから、行かなくちゃ。
どんなに傷ついても…傷つけても。
この両手が血に染まっても。
嘘をついて、裏切って、たくさんの人を不幸にして、嘆きと恨みをこの身に浴びて。
それでも、私は生きる。
行かなくちゃ、いけないから。
その人に、会わなければいけないから。
6
眠い。
眠くてたまらない。
今は、眠ろう。
何度も繰り返した、うつろな眠り。
でも、今夜が最後だ…きっと。
目ざめれば、そのときがくる。
僕は君に出会い、僕たちは共に走るだろう。
明日、作戦決行。
成功するとは思えない。
それでも、私は立ち上がる。
全ての偽りを脱ぎ捨て、本当の私に戻って。
私はあなたに出会い、私たちは共に走るでしょう。
予感がする。
胸が震える。
ずっと待っていた。信じていた。
そのときがくる。
やっと、あなたに会える日がくる。
だから、走ろう。
どんなに暗い道でも。どこまでもまっすぐに。
この、輝く予感ひとつ信じて。
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