16      羽衣
       
 
 
 島村ジョーにとって、引っ越しは、そう珍しいことではない。
 
 サイボーグであるということを周囲に悟られそうだから…とか、トラブルに巻き込まれたから…というわけでなくても、抑えきれない衝動のようなものにかられて荷造りを始めてしまうことが、彼にはよくある。
 元からそうだったのか、それともこの体になったことがその原因なのか、はっきりとはわからなかったけれど、たぶん元からそういう性分なのだと、彼は思っていた。もし、当り前の人間として暮らしていても、自分はひとつ所に落着いて暮らすことなどできなかっただろうと。
 引っ越しするたびに、それほど多くはない荷物を更に減らしていく。何も考えずに、全部捨ててしまうことにしている。時たま、訪れる仲間に呆れられるほど、彼は物を持っていない。
 
 いつも、引っ越しは一人でする。手伝ってもらうほどの荷物はないし、その気になれば引っ越し用の軽トラックごと担ぎ上げる力のある彼に、手伝いの必要などない。でも、今回の引っ越しは違った。断っても断っても、振り切ることのできない男にかぎつけられてしまったのだった。
「オマエって、ほんっと、水くさいよなぁ…ってか、実は俺たちから隠れようとしてるんじゃないのか?」
 どこまで本気かわからない調子で笑いながらも、赤毛の友人は微かに眉を顰めた。
「隠れる…って。そんなこと、できるわけないだろう?それに、いつもみんなには…もちろん君にだって、ちゃんと新しい住所を連絡してるはずだけど」
「そうかぁ?」
 どうせ、そんな手紙を彼が保管しているはずないのだ。こっそり溜息をつきながら、ジョーはそう思う。
 
 とにかく、たまたま日本に来ていた彼に悟られてしまったのが不運だった。手伝い、などと言っているけれど、彼の目的は何でもいいから仲間と酒でも飲んで一騒ぎするところにあるのだろう。引っ越し祝いは新居でやろうか、張々湖飯店に行こうか、いっそ研究所にしようか…とやかましい。
「研究所…はダメだよ、ジェット」
「…うん?」
「まだ、博士たちには話していないから。気を遣わせるのも何だし」
「相変わらず面倒な奴だな…いいじゃねえか、気ぐらい遣わせろよ、減るもんじゃないぜ?そっか、たまにはフランの料理をつまみに酒盛りってのも、悪くないよなぁ…」
 何の邪気もないコトバに、しかしジョーはキツイ視線を向けた。ジェットは何だよ、と不愉快そうにしながら肩をすくめる。
「ほんっと、面倒くさい奴、オマエ」
「何も知らせるなよ、博士たちには」
「なんだ…やっぱり隠れるツモリだったのかよ?」
「そうじゃない…全部終って、落着いたら連絡するんだ」
「…フーン?」
 まぁいいや、おめーと議論するほど俺は暇じゃねえしな、とジェットは嘯いた。
 
 
 新しい部屋に収まったのは、ベッドに小型のデスクと椅子。それに、申し訳程度のチェスト。家具はそれだけだった。荷物も段ボール5つ。
「これで、終わりかぁ?」
 呆れたようにジェットが声を上げる。
「だから言ったじゃないか…手伝いなんかいらないんだ」
 とっておきの不機嫌な表情も、冷たい視線も、このアメリカ人にはまったく効かない。そんなことははじめからわかっているのだが。ジョーはこれみよがしに溜息をついた。もちろん、それだってジェットの前では何の意味もない。
「ま、ラクでいいよな、たしかに…それじゃ、飲むか!」
 意外なほど手際よく、ジェットは買ってきた酒やらつまみやらをデスクの上に並べた。
「どうでもいいけど、テーブルぐらい買えよなぁ…」
「必要ない。いつも食事は外でするし」
「可愛げないのな、オマエ。フランにもいつもそんなかよ?」
「…いつもって言うほど会ってないけど」
 どうせ彼女の名前がどこかで出るにきまっていると、覚悟はしていた。ジョーはごく用心深く、ごく穏やかに言った。
「やっぱり可愛げねえ」
「飲むんだろう?…って、ジェット!何するんだよ?」
 いきなり段ボールをばりばり開け始めたジェットに、ジョーは慌てた。
「飲むったって、コップはないのかよ〜?」
「いらないだろ、そんなの!」
「こんな殺風景な所で野郎と酒盛り…ってだけで十分辛気くさいんだ、コップぐらい使わせろ〜!」
 遠慮もなにもなく、段ボールから荷物を引っ張り出してはまき散らしていく。衣類の入った箱だった。しばらく呆気にとられて見ていたジョーは、彼が掴みだした白いモノに、あっと息をのんだ。
「…ねえぞーっ!」
「こっちの箱だよ、たぶん…ったく、聞いてから開けてくれよな」
 ジョーは散らばった衣類をさりげなく集め、部屋の隅に押しやってから、わずかな食器類が入っている箱を開けていった。
 大丈夫。気づかれていない。たぶん。
 
 酔いつぶれたジェットをベッドの上にずるずる引っ張り上げ、ジョーはその寝顔をじーっと観察し、寝息に耳を澄ませた。
よく眠っている…大丈夫。
 そっと足をしのばせて後ずさりし、さっき押しやった衣類の山をこっそりかき分け、白い女物のカーディガンを引っ張り出すと、ジョーはジェットから目を離さないようにしながら、慎重に立上がった。チェストに忍び足で向かい、引き出しをそーっと開けて、カーディガンを奥へと押し込む。息を殺して引き出しを閉め、ジョーはようやく息をついた。
 見つかったからといって、困ることがあるかというと…ない。でも、からかわれるのはできたら避けたいし。何より、万一フランソワーズの耳に入ったら…いや、それもまた困ることではないはずなのだが。
 ジョーは音を立てないようにデスクによりかかり、空になりかけたビール缶を何となく取り上げながら、ジェットを見下ろした。
  
 あの日。
きみもこんな風に眠っていた。そして、僕はそんなきみをこうやって見下ろしていた…はずだけど。
 やはり夢を見ていたような気がしてしまう。
 
 初めての引っ越しは、研究所からだった。小さい部屋を借りて、そこに僅かな荷物を運び込んだ。手伝いはいらないと言ったのに、フランソワーズが押しかけてきた。今のジェットのように。
 たしかに、力仕事の必要はなかったが、彼女がこまめに立ち働き、あちこちのホコリを落としたり、家具の配置を微妙に変えたりしてくれたおかげで、小さい部屋は存外住み心地のよさそうな場所になった。
 そういえば、彼女もテーブルをほしがった。必要ないんだと繰り返すたび、不満そうな顔つきになって。その顔を見るのがなんだか楽しかった…のも、テーブルを買わなかった理由だったかもしれない。
 それから引っ越しのたびに彼女は手伝いにきてくれた。あの日までは。
 
 
 あの引っ越しには、理由があった。
 ジョーに、しつこく近づく女性がいた。プレゼントを送りつけ、あちこちで待ち伏せしては話しかける。雪の降りしきる中、アパートの外で立ちつくしていたこともある。
 返事をしたり、声をかけたりしたのが絶望的にまずかったわけで、さすがのジョーでも、今ならそんなことはしない。でも、あの頃はもの慣れていなかった。寒い中彼女が立っていれば、部屋に入れることはなくてもつい声をかけてしまったし、駅まで送ってやったこともあった。プレゼントを差し出されたら、とりあえず受け取って礼を言った。それが当り前のことだと思っていたから。
 しかし、あまりにしつこかったし…異常にも思えた。ある日とうとう勇気を振るって、迷惑している、とはっきり告げても、彼女の態度は変わらない。ジョーはだんだん不安になってきた。
 もし…万一、彼女が自分に近づいたために、何かの事件に巻き込まれたりしたら。それを彼女に説明するわけにはいかなかったし、説明したところで何の解決にもならない。でも。
 あれこれ考えあぐねた末、彼は引っ越しをすることに決めた。
 もともと荷物は少ない。夜中にこっそり、屋根を伝うようにして新居へと少しずつ荷物や家具を運んだ。仲間たちには何も言わなかった。研究所や張々湖飯店に行くのもやめた。彼女がどこまで彼の行動を見張っているのか、見当がつかなかったから。 
 後で考えると、やはり仲間に…少なくとも、研究所には連絡しておくべきだったのだ。
 もし、研究所にフランソワーズがいなかったら、話はもっと単純だったのかもしれない。あそこまで事情をひた隠しにはしなかったかもしれない。そして、すべてを前もって話していれば、あんなことも起きなかったはず。後になって、ジョーはそう繰り返し考えた。
 
 その日、夕陽が差し込む彼の部屋には、もう何も残っていなかった。あとは真夜中に、彼自身がこっそりこの部屋を抜け出して、それで引っ越しは完了。仕事も既に辞めておいた。
 女性は、そのころあまり姿を現さなかった。もしかしたら、ようやく飽きてくれたのかもしれない。引っ越す必要もなかったかもしれない…と、ジョーは思いかけていた。それが気のゆるみと言えばゆるみだった。
 不意に、外で鋭い叫び声が聞こえた。あの女性の声のような気がして、慌てて窓に駆け寄り、ジョーは大きく目を見開いた。女性が何か叫びながら、紙袋を抱えた白いカーディガンの少女につかみかかっている。ジョーは、反射的に部屋を飛び出した。
 少女は、フランソワーズだった。
 
 フランソワーズは、がらんどうになった部屋に目を丸くして、あきれた、と何度もつぶやいた。
「張々湖大人が、ジョーがこのごろ全然店にこない…何食べてるんだろう、って心配していたから、様子を見にきたのよ…ちょうど、この近くの展覧会を見に来たから、ついでに、と思って…」
 破れてしまった紙袋には、食料品が入っていた。が、料理するにも鍋も皿も何もない。
「料理なんて…いいから。それより、怪我は?」
「大丈夫よ…驚いちゃった」
「…ごめん」
 消え入るような声でつぶやき、うつむくジョーを、フランソワーズは心配そうにのぞいた。
「ねえ…ジョー」
「え」
「本当に…よかったの…?あの…ひと」
 彼女が何を言おうとしているのか咄嗟にわからず、ジョーは顔を上げてまじまじとフランソワーズを見つめた。
「泣いてたわ」
「それは」
「私…よくわからないけど…あの…あのね、あなた…いろいろなこと、気にしすぎているのかもしれないんじゃない?」
「どういう…こと?」
「ジェットはね…あ、それは…彼は彼で問題だとは思うけど…でも、あんまり気にしていないみたい。彼のところに行くと、いつも女の子がいて…それも、いつも違う女の子なのよ」
「……」
 彼女が何を言おうとしているのか、やはりわからず、ジョーはむしろ、彼女がジェットの部屋をそんなに何回も訪ねたことがあるらしい…ということの方に軽い驚きをおぼえた。何の反応も返さない彼に少し肩をすくめて、フランソワーズは優しく続けた。
「私…いいと思う。好きな人ができたって。いつか、つらい思いをすることになるかもしれないけれど…でも、あなたやジェットには、少なくともその人を最初の危険から守る力があるでしょう…だったら」
「フランソワーズ…?」
 ジョーはようやく話がのみこめたように、大きく息を吸い込み、何か言おうと口を開きかけ…また閉じた。そんな彼にもう一度優しく微笑し、フランソワーズは繰り返した。
「私…いいと思うわ」
 
 
 それじゃ、と帰ろうとしたフランソワーズの表情が一瞬こわばった。
「あのひと…まだいる」
「え…?」
 電灯も取り払ってしまったから、部屋は真っ暗になっている。窓にそっと近寄り、目をこらしても、ジョーの目には何も見えなかった。フランソワーズが大きな建物を指さす。
「あの影になっているところ」
「彼女…何か、持っているか?」
 不意に厳しい声が降った。フランソワーズはびくん、とジョーを見上げた。彼の横顔は、まるで戦場にいるようにはりつめている。
「何か…って」
 フランソワーズは躊躇した。たしかに、彼女のポケットには、折りたたみ式の果物ナイフが収まっている。
「何か…というほどのものじゃないわ。大丈夫よ」
 出て行こうとするフランソワーズの手首を掴み、引き寄せた。
「009…?」
 つい、ナンバーが出てしまった。それほど、彼の力は強かった。
「出るんじゃない。君を狙っているのかもしれない」
「大丈夫よ、ジョー…もしそうだとしても気をつけるから」
「ダメだ」
「大丈夫です。私だって003…ジョー?」
 驚くフランソワーズを軽々と抱き上げ、ジョーは玄関に出て、彼女の靴を拾った。
「新しい部屋に行こう。僕につかまって」
「ちょ…ちょっと、どうするの?」
「屋根を伝っていくんだ。これだけ暗ければ大丈夫」
 
 数分後、新しい部屋に下ろされ、フランソワーズは大きく息をついた。「相変わらず、無茶なことするのねえ…」
「しかたないじゃないか」
「あら、ここは何でもそろってるわ」
 不意にフランソワーズが楽しそうな声を上げる。たしかに、台所が少し広めに作ってある部屋だった。少しずつ物を運んだので、荷ほどきもほとんど終っていた。 
「ね、引っ越し祝いしましょうよ…ジョー、荷物とってきて」
「荷物?」
「私のお買い物。置いて来ちゃったでしょ…そのままにしたら迷惑よ」
 すばやく辺りを見回し、酒屋さん見つけたわ、お酒買ってくるわね、と嬉しそうに飛び出してしまったフランソワーズの背中を、ジョーはあっけにとられて見送った。 
 
 どうしてテーブル買わないのよーと、いつもの文句を言いながら、フランソワーズはデスクに料理を並べていった。ガラスのコップが見つからないので、マグカップにワインを注ぐ。
「乾杯」
「うん…」
 なんだか変なことになったな…と思いながらも、ジョーはおとなしくフランソワーズとカップを合わせた。部屋で温かいものを食べるのは久しぶりのような気がする。
 おなかすいちゃった…と、せっせとフォークを動かしていたフランソワーズが、ふとジョーを見つめた。視線に気づき、顔を上げると、彼女は可笑しそうに笑いをかみ殺している。
「な…なんだよ、フランソワーズ?」
「ううん…あなたって、ホントに巻き込まれちゃう人なのね…大丈夫かしら。心配だわ」
「巻き込まれちゃう…って?」
「だって…なんだかあぶなっかしいわ。あなたは女の子の好意を断るってことができないんだもの。今だって、こうやっていつの間にか私を部屋に入れて、私の作ったご飯を素直に食べてしまってるでしょう?」
「それは!それは、きみが仲間だからで…!きみは、そういうのとは関係ない。フツウの女の子を部屋に入れたことなんか、一度もないよ」
 わけもなく激しくなる鼓動を押さえつけるように、強く言い放った。短い沈黙のあと、フランソワーズは微笑み、囁くように言った。
「そう…っか。そうよね、ごめんなさい」
「ちゃんとやってる…から…大丈夫。心配いらないよ」
「ええ…そうね」
 優しい声が応えた。
 
 
 かなり動揺していたのだと思う。フランソワーズがどんなピッチでワインを開けているのか、ジョーは気づかなかった。グラスではなく、マグカップで飲んでいたせいかもしれない。とにかく、気づいたら彼女はすっかり酔っぱらい、眠り込んでしまっていたのだった。
 揺り起こそうとしても、一向に目を覚まさない。ジョーは途方に暮れ、とりあえず研究所に連絡を入れた。ギルモアは少し躊躇ってから、わかった、とだけ言った。
 わかった…とはどういうことなのか。受話器をやや乱暴におき、ジョーは息をついた。僕の…009のところにいるのなら、どこよりも安全だ、とでも言いたいのか。いや。もちろん、ギルモアとしてはそう言うしかないのだ、ということはわかっていたし、自分もそう動くしかない。
 ジョーは、心なしか苦しそうな息づかいで眠っているフランソワーズを抱き起こし、カーディガンを脱がせて、ベッドに横たえた。しばらく休ませて、落着いたら研究所に送っていこう。そう思い、自分はベッドにもたれて床に座り込み、目を閉じた。
 次に気がついたときは、明け方だった。軽く伸びをしながらベッドを振り返り、ジョーは大きく目を見開いた。フランソワーズがいない。飛び上がりそうになった時、携帯が鈍い音を立て、メールの着信を告げた。
「迷惑をかけてごめんなさい。ありがとう。研究所に着きました。フランソワーズ」
 ほっとしたような寂しいような何とも言えない気分が押し寄せてくる。思わずベッドに座り込んだジョーの目に、白いかたまりが映った。昨夜慌てて脱がせて、隅に放り投げてしまった、彼女のカーディガンだった。
 
 その後、ジョーはずいぶん長いことフランソワーズに会わなかった。何度か、思い出したように彼の部屋を訪れていた彼女が、その日を最後にぱったり来なくなってしまったからだ。一方、もとより研究所にマメに顔を出しているわけではなかったジョーも、あの夜のことを思うと、ますます足が遠のいてしまうのだった。次に会ったとき、彼女がいつもと同じように笑ってくれるかどうか、無性に不安だった。
 張々湖飯店にはたまに顔を出した。人のいい店主は、ジョーの近況を細かに聞き出し、母親のように衣食の心配をしながら、最後には必ず、研究所に戻れ、と言った。
「それが一番安心アルのにねえ…」
「安心って、なんだよ、張々湖大人…僕、そんなにふらふらしてるかい?」
「そうじゃない、そうじゃないアル…まぁ、たしかにいずれ戻ることにはなるアルけどな…」
 つぶやくような彼の言葉に、ジョーは曖昧にうなずいた。そういうことだ。いずれ、彼女には会うことになる。あの、赤い服を着込んで。
 そうすれば、彼女は必ずいつもと同じ笑顔を彼に向けるだろう。もちろんそれは島村ジョーにではなく、009に対して…なのだけれど。どちらでもかまわない。同じことだ。と、ジョーは自分に言い聞かせた。
 そして、その日は来た。
 赤い服を着た彼女は、いつもと同じように、厳しく優しい眼差しで彼を見つめ、彼の言葉にうなずき、戦った。何も変わってはいなかった。
 
 
 あれから、また何度か引っ越しを重ね、そのたびに荷物は少しずつ減っていき…しかし、この白いカーディガンだけはいつも残った。
 自分のものではないのだから、勝手に捨てるわけにはいかない。いや、彼女に返すべきなのだけど、彼女が部屋にこないのだから、返すためには彼が研究所にコレを持っていくしかない。でも、彼は普段研究所にめったに行かないし、行くときは、コレのことを忘れている。
 本当に忘れているのか…というと、我ながらよくわからない、とジョーは思う。そもそも、自分はなぜ彼女に電話でもなんでもして、コレをもっている…ということを伝えようとしないのか、そこからわからない。
 はじめに言いそびれた…というのもある。彼女も何も言ってこなかった。言いづらかったのかもしれない。そう思わせる何かが、あの夜にはあった。ジョーはそう思う。
 
 目を覚ましたジェットは、いきなり袋入りのパンを投げつけられ、眉を寄せた。投げつけたジョーは、黙って床に座り込み、既にパンをかじり始めている。思わずまじまじと眺めてしまった。
「なん…だい、ジェット?」
「いや…なんだ、その…オマエ、見送りには行くんだろう?」
「見送り…?誰の?」
「アイツに決まってるじゃないか…パリに帰っちまったら、当分会えないだろ?行ってやれよな」
 ジェットは固まったジョーをしばし真面目な目で見つめ…いきなり笑い出した。
「…ジェット?」
「わっかりやすい奴…!はは、情けないツラしやがって!」
「冗談…なのか?」
 それには答えず、ジェットはげらげら笑い続けた。
「朝からうるさい奴だな、きみは…ああ、コーヒー飲むなら、自分で作ってくれよ…インスタントだけど」
「おう、それで上等だ」 
 ベッドを飛び降り、台所へ向かうジェットの後ろ姿をジョーはぼんやり見つめた。何となく溜息が落ちる。そんな彼の視線に気づいている様子もなく、がちゃがちゃと食器を鳴らしながら、ジェットはふと思い出したように言った。
「そうだ…アイツに頼まれてたんだ…忘れ物、とってきてくれってな」
「忘れ物…?」
「もうないんだったらいい…って言ってたが…セーターだかカーディガンだか…白いヤツだそうだが…心当たりあるか?」
「……」
「聞こえてるか、ジョー?」
「ああ。あるよ…出しておく」
「なんだ、ホントにそんなもんとってあるのか?オマエ、相変わらず几帳面だな…」 
「人のモノを捨てたり、なくしたりしちゃいけないのは当り前だろ?」
「へいへい…あ。まさか他の女のモンだったりしないよな?大丈夫か?」
 どこまで本気かわからない調子で覗き込むジェットに、ジョーは肩をすくめた。
「…君じゃあるまいし」
 
 
 ジョーは見送りに来なかった。電話さえよこさない。着陸にそなえてシートベルトを締めながら、フランソワーズは小さく溜息をついた。
 いきりたつジェットに、パリ行きのことはジョーに言わないでくれ、と頼んだのは自分だ。彼は一応納得し、約束した。でも、彼のことだから…本当に何も言わなかったとは思えない。
 もしかしたら、ジェットはごく遠回しにほのめかしただけなのかもしれないし…約束通り、何も言わなかったのかもしれないのだけれど。
 
 本当にめんどうなヤツらだ、オマエら二人とも。
 
 あのとき、吐き捨てるように、ジェットはつぶやいた。自分でもそうだと思う。でも…フランソワーズはぎゅっと手を握りしめた。
何も知らないのなら、ジョーが何も言ってこないのは当り前だから。せめてそれを逃げ道にしたかった。遠く離れているなら、会えないのも当り前。それでいいと思う。
 近くにいるから…会おうと思えば、いつでも会える場所にいるから、いろいろ考えてしまうのだと思った。考える必要などないのに。彼と自分とは、切っても切れない運命の鎖で堅く結び合わされている。二人の意志とは関係なく。それだけで十分すぎるほどの絆なのに。
 アナウンスがパリの気温を告げる。少し肌寒いかもしれない。フランソワーズはバッグからカーディガンを引っ張り出し、羽織った。   
 
 何年ぶりになるだろう、ふるさと。もっと早く帰るべきだった。少なくとも、彼が研究所を出た、あのときに。
 ジョーは、ときたまふらっと研究所を訪れた。出迎える彼女に、彼は笑って「ただいま」という。いつもそうだった。
 彼にしてみれば、何も考えていない言葉なのだと思う。それでも、彼女は嬉しかった。だから、研究所を出ようという気持ちにならなかったのかもしれない。
 でも、次第に、彼の訪問は間遠になった。引っ越しを繰り返し、連絡先がしばらくわからないことも続いた。そして…彼を慕う女性の影がちらほら現われ始めたとき、フランソワーズは思った。自分も、パリに帰らなければならない…と。
 一度だけ、たった一人だけ実際に会ったことのあるそうした女性は…結局のところ、彼と愛を育んでいけるような人では到底なかった。はっきり言わなかったけれど、きっと彼も辟易していたと思う。
 たしかに、自分たちが普通の相手と恋に陥ることは難しい。でも、絶対にできないというわけではないはず。全員に、その「可能性」はある。もちろん、彼にも。
 そして、彼にその機会がきたとき、自分が障害になるのはいやだった。とはいえ…自分が障害たる存在であり得るのかどうかも、フランソワーズにはわからなかったけれど。
オマエたちは、傷つくのを怖がりすぎている、ともジェットは言った。そうなのかもしれない。でも…とフランソワーズは思う。
 でも、私たちはきっと耐えられない。お互いを傷つけ合うことになってしまったら…きっと。
 軽い衝撃の後、着陸が告げられた。機内がざわめき始める。フランソワーズは窓の外を覗いた。辺りは夕闇にしずんでいる。部屋に着いたら、とりあえずシャワーを浴びて眠ろう、と思った。
 
 
 久しぶりに降り立った到着ロビーは少し様変わりしていた。きょろきょろ辺りを見回していたフランソワーズは、後ろからいきなり突き飛ばされ、荷物を取り落とした。ものも言わず駆け去っていく体格のいい男に息をつき、まさかスリだったわけでは…と、しゃがんだままハンドバッグを探ろうとしたとき。目の前で、誰かが足を止めた。
「ごめんなさい…すぐどきます…!」
 急いで立上がりながら伸ばした手より早く、大きな手が荷物をさらうように取った。驚いて顔を上げたフランソワーズは、そのまま硬直した。
「…ジョー…?」
「荷物…これだけ?」
ジョーは、フランソワーズの目を見ないまま、低く尋ねた。
「え…ええ」
「夕ご飯は?機内食かい?」
「いいえ…でも、食べなくても大丈夫だと思うわ」
「そうか。部屋まで送るよ」
 それきり口を噤み、ジョーはさっさと荷物を持って歩き始めた。慌てて後を追う。
「ジョー…ジョー、どうして…ここに?」
「…手伝いにきたんだ」
「手伝い…」
「きみの、引っ越し…今日はもう遅いから明日からだけど。僕の宿はちゃんととってあるから安心して」
 安心して…って。そういう問題じゃなくて。
 フランソワーズは何度も口を開きかけ…また閉じた。
 
 かわいい部屋だね、とジョーはぽつんと言った。フランソワーズも、実際に部屋に入るのはこれが初めてだった。
「アルベルトが、見ておいてくれたのよ…彼が大丈夫だって言ったから安心してたわ」
「そうか…だったら安心だ」
 それじゃ、明日…と部屋を出ようとするジョーを、フランソワーズは慌てて引き留めた。
「待って、ジョー…!お茶を飲んでいって…それに…どうして…」
「……。」
「ジェットが…話したのね?」
「違う…いや、そう…かな。彼は冗談だ…って言ったんだけど。何だか変だと思って。だから、張々湖大人に聞き出した」
「怒ってるの…?」
「僕に…黙っていたこと?」
 うなずくフランソワーズに、ジョーはふと表情を和らげた。
「怒ってなんかいない…君の気持ち…わかるような気がした」
「…ジョー?」
「僕も…きっと、同じことを考えていた…ずっと」
 でも…と、ジョーはフランソワーズの目を見つめた。
「きみはいつも手伝いにきてくれたから…僕もそうしようと思った」
 きょとん、としているフランソワーズに、ジョーは苦笑した。
「わからないわ…あなたの言ってること」
「わからない…か。そうかもな…本当を言うと…」
 ジョーはフランソワーズから目をつとそらし、暗い窓をみやった。
「ほかに…方法がなかった。きみが飛び立つのを…見ないですむ方法」
「…ジョー?」
 いきなり抱き寄せられ、フランソワーズは思わずもがいた。大きな手が肩から背中をなで下ろし、あっという間にカーディガンの中に滑り込む。息をのんだ瞬間、カーディガンは剥ぎ取られた。
「…あ!」
 フランソワーズが身を堅くするのと同時に、ジョーはそっと彼女を離した。やがて、彼は手の中の白いカーディガンに目を落とし、つぶやくように言った。
「これ…預かっていくから」
「ジョー…?」
「脅かしてごめん…おやすみ、フランソワーズ」
 おやすみなさい、と返す余裕など到底なかった。フランソワーズは懸命に呼吸を整えながら、遠ざかる足音を聞いていた。
 
 翌日、日が高く上がった頃、ジョーはまたやってきた。わけがわからないまま、彼の力を借りて荷物をほどき、整理し、掃除をして…全てが終ったときは、日が暮れていた。
「すごい…終った…わね…助かったわ、ジョー」
「うん…よかった」
「あなた…力もだけど…手際がいいのね…驚いたわ」
「慣れてるから、引っ越しには」
 無邪気に微笑むジョーに、フランソワーズもくすっと笑った。
「ホントはね…少し不安だった。来てくれてありがとう…」
「…うん。公演は…いつ?」
「半年後よ…明日からレッスンに行かなくちゃ」
「そうか…きみなら、大丈夫だよ…きっと」
「ありがとう…」
 ジョーは無造作にバッグを取り上げ、立上がりながら言った。
「それじゃ、春だね…そのころには、僕も研究所に戻っていると思う」
「…え?」
 そのままさっさと行こうとするジョーの背中を、フランソワーズは慌てて追いかけた。
「ま、待って、ジョー…帰っちゃうの?一緒に…夕ご飯…」
 ジョーがぴたっと足を止めた。ドアノブに手をかけたままの背中から、微かに震える声が漏れた。
「…待ってるから。研究所で…待ってる」
 それ以上、言葉にならなかった。その場に立ちすくむフランソワーズを振り返りもせず、ジョーは部屋を出た。
 
 
 日本に戻って間もなく、ジョーは身辺の整理を始めた。仕事をまとめるのに少々手こずったものの、年が明けたころには会社を辞めて、研究所へ入ることができた。
 これが最後の引っ越しになればいいアル、と張々湖は微笑み、ギルモアも嬉しそうに目を細めた。
 最後の引っ越しになる。ジョーもそう思った。ギルモアの片腕となり、研究所を守っていく。その決心がようやくついた。
 どんなに逃げても、運命からは逃げられない。僕にできることは、これしかないし…僕が住む場所もここにしかない。何があっても。もし、僕の願いは何一つ叶わなくても。
 そんなに強くなれるだろうか…と自分に問うてみても、答は返ってこない。それでも他に道がないのなら、こうするしかない。そう思った。
 パリからの音信は途絶えていた。時々、アルベルトが連絡を入れてくれる。レッスンに追われているフランソワーズを彼も心配していたはずだったが、最後にアルベルトは必ず言った。あいつなら、大丈夫だ、と。
 そして、梅がほころび始めたころ…グレートとアルベルトから興奮気味の報せが届いた。招待されたフランソワーズの舞台が、実にすばらしいものだったこと。大好評のうちに公演が終ったこと。芸術にそれぞれ造詣の深い二人は、仲間の成功に心から賛辞を送っていた。
 美しい彼女には、ロマンスの噂もぽつぽつあるようだった。次の舞台はイタリアだともロシアだとも言われている。
 
「…待ってるから」
 バルコニーに立ち、星空を見上げながら、ジョーは何度となくつぶやいた。待ってるから…と。
 きみが、僕を去ってしまうのが怖かった。遠ざかるきみの背中を思い浮かべただけで、心が凍ってしまいそうに辛くて。だから、僕は逃げた。きみの背中を見ないですむためなら…何でもした。
 でも、僕がどうあがいたって、きみはその時がくれば去ってしまうんだ。そして、それでもきみを忘れることができないのなら…僕は…待っているしかない。ただ、それだけのことだったのに。
 ジョーは、手の中の白いカーディガンを確かめるように握りしめた。
 つい先刻、ギルモアが急いで隠した雑誌のページを見てしまった。見違えるように美しくなったフランソワーズが、微笑んでいる写真。
 もし、何度か聞いた噂が本当なら。誰かが彼女を愛し、彼女もそれに応えたというのなら…自分は、耐えられるのだろうか。耐えられるはずなどない。でも…
 でも、僕は待っている、フランソワーズ。
 ジョーは、押し殺した声でもう一度つぶやいた。
 耐えられなくても…泣いてもいい。それで心が壊れてしまっても、僕には他に道がないんだ。ここで、きみを待つより他に。
 ジョーはガラス戸に寄り掛るようにして、座り込んだ。ぼんやり星空を見上げ、白いカーディガンを抱きしめながら目を閉じた。
 
 いつの間にか、うたたねしていた。ギルモアも、ジョーがバルコニーにいるのに気づかず眠ってしまったらしい。冷えた夜気の中でゆっくり体を伸ばしかけ、ジョーはハッと息をのんだ。抱きしめていたはずのカーディガンが、ない。
 慌てて立上がり、バルコニーを見まわした。手すりから身を乗り出し、外を見まわしても、何も見えない。頭の中が真っ白になった。
 夢中で手すりに足をかけ、庭に飛び降りようとしたとき、悲鳴混じりの声が背中を打った。
「何してるの、ジョー…!」
 心臓が跳ね上がった。体が動かない。
 フランソワーズは、足早に駆け寄り、背中に抱きつくようにして彼をバルコニーに引っ張り込んだ。
「もう…びっくりしたわ…寝ぼけちゃったの…?」
 おそるおそる振り返り、青い瞳を見つめる。ふと足元に目を落とすと、彼女が今持ってきたらしい、たたんだ毛布がおいてあった。 
 フランソワーズは、魂がぬけたように突っ立っているジョーに苦笑し、ごめんなさい、驚かせて。と、囁いた。
「でも…あなたにはいつも驚かされてばかりだったから…ちょっと仕返ししたくなったの…ね、成功した?」
 そのとき、自分が何を言ったか…何をしたのか。ジョーにはどうしても思い出せない。覚えているのは、堅く抱きしめた彼女が肩に羽織っていた、白いカーディガンの柔らかい手触り。それだけだった。
 
10
 
 はい、と手渡された包みに、フランソワーズは首を傾げた。
「なに…?これ?」
「開けてみて…気に入るといいんだけど」
 包みを開くと、可愛らしいクリーム色のカーディガンだった。ますます不思議そうに首を傾げている彼女に、ジョーは心配そうに尋ねた。
「…ダメ、かな?」
「いいえ…素敵。嬉しいわ、ジョー…ありがとう…でも…どうして?」
「どうしてって…その…いや、僕がこんなこと言うのは変だけど…でも、もしかしたらきみ…遠慮してるのかな、と思って」
「遠慮…?」
「それは…さ、僕たちは体型が変わらないし…それに、きみはいつもきちんと手入れしてるから、服だって長持ちするし…モノを大切にするのはいいと思うよ…でも、いくらなんでも…ソレはもうやめておいた方が…いいんじゃないかと」
 フランソワーズは目を丸くしてまじまじとジョーを見つめ、彼の視線の先に、今自分の着ている古びたカーディガンがあるのを確認した。
「それ…この間、とうとうすり切れて穴があいたの、無理になおしてたよね…しみだって…落とし切れてないし」
「……」
「いや…ええと。きみが…気に入っているのを、うるさくどうこう言うつもりはなくて…ただ、僕は…」
「そう…ね。たしかに、ものすごーく古くなってるのよね」
「…うん」
「せっかく新しいのをもらったし…捨てちゃおうかな」
「うん、そうするといい」
「いいの?」
「…え?」
 今度はジョーが目を丸くした。フランソワーズはするっとカーディガンを脱いで、手早くたたむと、ジョーに差し出した。
「…はい、どうぞ」
「へっ?」
「いらないの…?」
「僕が?コレを?…どうして?」
「どうして…って…」
 フランソワーズが額に指を押し当て、じーっと考え込んでいるのを、ジョーは息を詰めて見守っていた。何か、マズイことをしてしまったような気がする。
 やがて、フランソワーズはぱっと顔を上げ、投げつけるようにジョーにカーディガンを押し付けた。
「あげるわ!」
「いらないよ!」
「どうしていらないの?」
「どうして…って、どうして僕にコレがいるんだよ?」
「それは、こっちが聞きたいわ!」
「何言ってるのか、わからないよ、フランソワーズ!」
「ホントにわからないの?」
 あきれた、と肩をすくめ、フランソワーズは立上がった。
「とにかく…それはアナタにあげるわ。捨てたら泣かれそうだもの…あ、こんな時間…!お買い物行ってこなくちゃ…ジョー、夕ご飯、何がいい?久しぶりにカレー作りましょうか」
「ちょっと…フラン…!」
 フランソワーズがさっさと居間を出て行くのを、ジョーは途方に暮れて見送った。怒らせたらしいけど、何が気に入らなかったのかわからない。いや。たぶん、この古いカーディガンのせいなのだが。
「やっぱり…余計なこと言わなければよかった…かなぁ」
 でも、これはいくらなんでもひどすぎるよ…ずっと気になってたんだ。
 
 数分後、フランソワーズがベビーカーを押しながら庭を横切っていくのを、ジョーは自分の部屋から見下ろしていた。新しいクリーム色のカーディガンが日射しを柔らかく反射している。その肩で光と戯れる亜麻色の髪を、思わず目を細めて見やり、ジョーは満足そうにつぶやいた。
「ほら…やっぱり、そっちの方がいいよ、フランソワーズ」
 さっき押し付けられた古びたカーディガンを手にとり、ジョーはとりあえずそれを引き出しの奥に、ぞんざいに押し込んだ。
 女の子の気持ちはよくわからない。でも、こういうときは逆らわない方がいいと思う。久しぶりの彼女のお手製カレーを楽しむためにも。
 
「ねえ…起きてるんでしょう?」
 フランソワーズは、ベビーカーの中であくまで目を閉じている赤ん坊に小声で話しかけた。
「あれって、どういうことかしら。あなたはどう思う、イワン?」
《どうって…君と同じ考えだけど、僕も》
 イワンは目を閉じたまま控えめに言った。
「やっぱり…忘れてる…ってことでしょう?…信じられない!…男の人ってそういうものなのかしら?」
《いや…あれはジョーの性質だと思う。僕はちがうもん。》
「そうよね…ホントに変な人…!」
 
 赤ん坊はゆったりと小さいあくびをした。
 きみもね、なんて思ったのは、もちろん内緒だ。
 
 
 

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Last updated: 2011/8/3