17      惜別
 
  1
 
 どこか落ち着かない様子できょろきょろしているジャンを、フランソワーズは怪訝そうに見やった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「いや。オマエ、一人か?あの子は?」
 
 ……あの子?
 
 フランソワーズは小さく深呼吸してから、つん、と澄ましてみせた。
「ジョーはちょっと忙しかったの。ギルモア研究所総出のお迎えができなくてごめんなさいね」
「いや、日本は初めてだからな、お前だけでも大助かりだ」
 嫌味を言われたのだと気付いているのかいないのか、無防備な視線を返す兄に、軽く肩をすくめる
「駐車場がすごく混んでいて、車、近くに停められなかったの。ずいぶん歩くのよ、ごめんなさい……荷物貸して、お兄ちゃん」
「何で俺の荷物をオマエが持つんだ?」
「だって。疲れてるでしょう?それに私の方が力持ちだし」
「馬鹿言うな、体裁ってもんを考えろ。ったく、ヤマトナデシコの日本で暮らしてるってのに、何も変わらないんだな、このじゃじゃ馬が」
「まあ!荷物を持って上げるって言っただけで、なんでそこまで言われなくちゃいけないの?第一、ヤマトナデシコなら……」
「おい、そっちは、駐車場じゃなくて駅みたいだぞ?標示見ろよ」
「……っ、わかってるわよ!」
 
 
数えてみると、五年ぶりだった。
フランソワーズが最後にパリを後にしたときは、「ミッション」が終わるまでほんの数週間離れるだけ、のはずだった。もちろん、生きて帰れたらの話だったが。
だから、何を話したのか見当がつかないほど短かい国際電話を切るなり、せわしく荷造りを始めた妹を、そのときのジャンは黙って眺めてもいたのだ。文句を言いたいのは山々だが、言ってもどうにもならない。いつものことだ。
で、「ミッション」は無事終わって、今は日本にいる……と連絡をもらったときも、それじゃ、クリスマスも近いし、そろそろ帰ってくるんだろう、と思っていた。が、その「クリスマス」を理由に、妹は帰ってこなかったのだ。何でも、せっかく「全員」がそろっているから、日本でクリスマスを祝いたいのだ、とかなんとか。
音信不通、というわけではなかった。連絡は定期的にくる。年が明けたころ、「赤ん坊」が風邪を引いた、と言ってきた。しかたなく、妹の誕生日には、プレゼントを航空便で送った。やがて返ってきた礼状の最後に、今度は「博士」が風邪を引いた、とある。春が来ると、研究所の引っ越しをするのだと便りがきた。「逃亡」じゃないから安心して、という言葉を信じていいのかどうかはわからなかったが。
もっとも、心配する必要はなかったらしい。引っ越しは無事にすんだらしく、五月には「ジョー」の誕生日を新しい研究所で祝いたいのだ、と言ってきたのだから。六月になると、「梅雨」とかで体調をちょっと崩したらしいし、七月に入って、「夏休み」で空港が混雑している…と手紙が来たころには、なんとなく諦めがついていたかもしれない。
 
幸せに暮らしているのだろうか、と疑うこともあった。手紙でなら何とでも書ける。消印はいつも同じだったから、放浪生活をしていないことだけは確かだろうけれど。いや、幸せであろうとなかろうと、フランソワーズはもう大人なのだ。自分の信じたとおり生きたいというのなら、こっちがどうこう言うべきではない。
そして、五年。長かったような、短かったような。
そんな妹がどうして今回いきなり…というか今更、自分を日本に招いたのか、も、ジャンにはまだよくわかっていない。
 
パリで一緒に暮らしていたころ、一度だけ、妹の「仲間」が訪ねてきたことがある。島村ジョーという少年だった。
彼はほんの子供にしか見えなかったが、「仲間」のリーダーをつとめる最強のサイボーグで、妹も何度も彼に助けられたのだという。それなら、と、一応兄として改めて礼など言ってみたが、島村ジョーは、それに対してろくに返事もできず、ひたすら困惑した表情でうつむくだけだった。内気な少年……という言葉で片づけてしまってよいのか、ひょっとしたら、ちょっと足りないヤツなんじゃないかと、ジャンはふと心配になったものだ。
実は、たびたび、もしかしたら、と思うことがあった。妹が、バレエへの情熱を断ち切ってまで、サイボーグとして仲間達の元へ向かうのは、彼らの中に「思い人」がいるからではないだろうか……と。
もしそうなら、それはたぶん「ジョー」だろう、と、漠然と思ってもいたのだ。妹の話に一番よく出てくるのがその名前だったし、話しぶりから、彼女が彼に敬意と好意を抱いているのも明らかだったから。
しかし、目の前で島村ジョーと話している妹の様子から、彼女が彼を「思い人」としている……ような気配は、まったく読み取れなかった。そもそも妹は、どちらかというと気が強くて潔癖で、異性には疎いを通り越して冷淡ですらある少女だったし、島村ジョーへの態度も、それを越えるものには見えなかった。
ついでに言うなら、島村ジョーが妹に示す態度もかなり冷淡だった、とジャンは思い返す。つまり、お互い様ということで。
それでも、ともかくも、この、いかにも人見知りの内気そうな少年が、わざわざ日本からパリまで来たのだ。もちろん、妹に会うためだけに来たわけではあるまい。彼の本来の用事が何だったのか、結局ジャンにはイマイチわからなかったが、仮に何かのついでだったとしても、打ち合わせをしてまで訪ねてくるのだから、妹とはそれなりに会いたいと思い合うような仲なのだろう。たぶん。
 
旅の疲れだろうか、あまり頭がはっきりしない。ぼんやり考え事をしているうちに、車は、高速道路に入ったようだった。一応聞いてみようかと、ふと思い立ち、ジャンはフランソワーズに話しかけた。
 「……で、何があるんだ?」
 「何……って?」
 「わざわざ俺を呼ぶなんて。それも、今更」
 「……」
 「結婚でもするのか?」
 「えぇっ?結婚って、私が?……誰と?」
  飛び上がって驚く妹に、ジャンは思わず肩をすくめた。
 「オマエが知らないなら、何で俺が知ってるんだ、そんなこと」
  フランソワーズも小さく肩をすくめた。ややあって、彼女はつぶやくように言った。
 「私が結婚……したら、安心する?お兄ちゃん?」
  ジャンは、返事をしなかった。
 
   3 
 
これも、仲間なのだという中国人……張々湖が用意した夕飯は文句のつけようがなかった。彼は陽気で話上手でもあったから、ジャンもついひきこまれ、テーブルに並んだ豪勢な料理についての蘊蓄を感心して聞いていた。
「お兄ちゃん、食後のお茶もせっかくだから中国茶にしない?おいしいのがあるのよ」
不意に笑顔で尋ねられ、ジャンは軽くうなずいた…が。次の瞬間、彼はぎょっと顔を上げていた。
「ジョー、あなたもそれでいいかしら?」
そこはかとなく微笑して妹にうなずき返す少年を、思わずまじまじと眺めた。彼……「ジョー」がソコにいることを、今まで全く意識していなかった自分に気付いたのだった。
 
 「研究所」に着くと、そこには「博士」と「張大人」と眠っている「イワン」がいた。妹から話も聞いていたし、初対面の緊張感もそれほどなく、すぐに親しく語り合うことができた。
 「ジョー」は、そうだ、夕暮れ前にふらりと帰ってきた。挨拶もした。それから、彼はずーっと居間に座っていたはずだ。妹と「博士」と一緒に。普段は夕食の支度をするのだという妹も、「張大人」に台所への立ち入りを禁じられていた。気遣ってもらったのだろう。
ジョーは、口数が少なかった。パリに来たときもそうだったが、その時よりもいっそう黙りがちだったように思う。が、思う…というのは、今思い出してみると、ということであって、その時はむしろ、特にそのことを気にとめてはいなかった。気付かなかったのかもしれない。
 
単に、おとなしい少年……というわけではないような気がした。根拠はないが、ジャンは漠然とそう思った。ココは一応仮にも彼の「家」ではないか。そう思って改めてダイニングを眺め、居間の様子を思い起こしてみても、彼の存在感を匂わせるようなモノは何もないような気がする。どういうことだ。
ふと、サイボーグ009、という名が脳裏をよぎる。彼のもう一つの名。その力はジャンが所属する国軍の一個師団など、あっさり壊滅させることもできるという。それだけの力を、この少年は持っているのだ。
 
 ……本当に?
 
本当なら。それなら、この異様なまでに薄い存在感も納得できる。この少年は、そうやって今まで、この国の片隅でひっそり生きてきたのかもしれない。強すぎる力を隠し、世界に許されるためにはそう生きるしかなかったのだろう。そして、これからも……
 
「お兄ちゃん……?」
 
心配そうな声に、ぎくりとした。サイボーグ003が、違う、フランソワーズが首を傾げてこちらを見つめている。大きな青い瞳。すべてを見とおすという……いや、違う……違う。コイツは子供の頃からそうだったじゃないか。この澄んだ瞳の前で隠し事はできなかった。いや、それも違う。俺は、ただ……。
ジャンは軽く頭を振った。やっとの思いで微笑む。
「すまない…少し疲れが出たようだ」
「無理ないアル、長旅は堪えるネ。お茶飲んだら、すぐ休むのヨロシ。話は明日からでもゆっくりできるからして……」
人好きのする笑顔の中国人が、何度も何度もうなずいてみせた。
 
「ジョー……?」
足音はしない。でも、フランソワーズは振り返り、微笑んだ。つられたように曖昧に微笑しながら、ジョーは彼女の傍らに立ち、布巾を手に取ると、彼女が洗い上げた皿を拭き始めた。しばらくの間、二人は黙々と皿を洗い続け、拭き続けていた。
最後の皿を洗い上げ、ジョーに手渡しながら、フランソワーズはつぶやくように言った。
「私……間違っていた?」
ジョーは黙ったまま、慎重に皿を拭き、そっと重ねた。磁気のふれあう微かな音がキッチンに反響する。
「お兄さん、よく眠れるといいね……張大人もそう言ってたけど」
「ええ」
振り返ったジョーに、フランソワーズは、どこか泣き出しそうな目で笑いかけた。
「空港から来るとき、車の中でね……聞かれちゃったわ。どうして、今更、わざわざ呼んだのか……って」
「……うん」
「お兄ちゃんったら……私が結婚するんだと思ってたみたい」
ジョーは目を丸くした。間の抜けた声で尋ねる。
「結婚。君……が?」
「ええ」
「誰と?」
フランソワーズは、きょとん、とジョーを見返し、やがてくすくす笑い出した。心底楽しそうに。
「アナタにもわからないのに、どうして私にわかるの、そんなこと?」
笑うフランソワーズを、何がなんだかわからない、といった顔で見つめていたジョーは、やがて柔らかく微笑し、ほうっと息をついた。彼女の目から、涙の影がすっかり消えているのに気付いたのだった。
「君が、結婚したら……安心、するのかな。お兄さん」
穏やかな声で、ふと独り言のようにそんなことをつぶやく彼の肩に、そっと頭をもたせかけ、フランソワーズはまた笑った。
 
 
日本には、一週間の滞在を予定していた。せっかくだから、観光旅行にでも、というギルモアの申し出をやんわりと断り、ジャンはそれなりに研究所の日々を楽しんでいた。
話に聞いてはいたが、日本の……特にこの地方の、ということらしいが……冬は素晴らしい。抜けるような青空に、澄んだ空気。風は確かに冷たいが、陰鬱なパリの冬とは比べものにならない。
することがないというのは退屈といえば退屈だが、たとえば、午後の穏やかな日差しの中、眠るイワンを抱いて散歩に出るフランソワーズと過ごす時間などは、何にも代え難いものだった。
まるで、本当の母子……いや、本当の母子よりも、母子そのものに見える二人だ……と、ジャンはひそかに思った。サイボーグにされた妹が、自分の子供を持つ可能性があるのかどうか、聞いてみたことはなかった。聞いてもどうにもならないことだろうし。
年を取らない妹が、同じく年を取らない赤子を愛しげに抱いている姿が、切なく胸に焼き付けられた。これでいいのだと素直に納得することはやはりできなかったが、妹がこの地を去らない理由がひとつわかったような気もする。
 
ジョーは、朝食が終わるといつの間にか研究所を出、夕食の前には、これもまたいつの間にか戻っている。彼が毎日どこで何をしているのか、誰もそれについて何も言わない以上、当然のことながら、ジャンには全くわからない。たぶん、わからないまま帰国することになるのだろう。それはそれでかまわない…というか、やむをえない。
同様に、彼と妹の間柄はどうなっているのかも、実のところ、さっぱりわからない。気にならないわけではなかった。が、たとえそれを知ったところで、自分が妹にしてやれることは何もないだろう。それに、彼女も、いよいよつらくなったときはきっと自分から助けを求めてくるはずだ。何の根拠もなかったが、ジャンはそう信じていた。
ジョーが、夕食の席で不意に問わず語りを始めたのは、ジャンがそんな風に、迫る帰国の日に向けて、自分の気持ちを整理しようとし始めた頃だった。
 
「生物、兵器……?」
フランソワーズは一瞬息を呑み、ちらっと兄に視線を向けた。ジョーは、そんな彼女を気にする様子もなく、話を続けた。
「といっても、そんなに大規模な研究所じゃないし、兵器の開発だって、ごく一部の職員が興味を持ち始めている…って程度のことなんだ。まだ……今はね。でも、場所が悪い。深い私有林の中にあって、フツウの人間は簡単に立ち入りできない。ごく少人数で非合法な研究をしようと思えば、比較的楽にできてしまう場所だと思う」
「では、ジョーよ……それなら、オマエの考えでは……そのぅ、」
ギルモアも身を乗り出しながら、やや気まずそうにジャンに目をやった。
「かまいませんよ、ギルモア博士……島村くん」
ジャンは穏やかな口調とは裏腹に厳しいまなざしを向け、ジョーを促した。
「はい、博士。すぐ動く必要があります。どうやら、資金が流れ始めそうな気配が見受けられるので」
「資金…か。例えば、国際テロ組織のような……モノからかね?」
「そこまではわかりませんが」
「まさか、ブラック……」
不安そうに、その名を口にしようとした彼女を、ジョーは無造作に遮った。
「フランソワーズ、君にも来てほしい。今回のチャンスを逃したら、ちょっと面倒なことになるかもしれないし、成功させるには、君の力がどうしても必要なんだ」
「おいおい、待ちたまえ、ジョー。ということは、オマエ、明日にもすぐ出発するつもりでおるのかね?もうしばらく待てんのか?せっかくこうしてジャンが……」
「いえ、お気遣いなく、ギルモア博士。いや……そういうことなら、俺も一緒に行きましょう。足手まといにならなければの話ですが」
「お兄ちゃん?」
のんびりと言う兄に驚いて立ち上がったフランソワーズを目で押さえてから、ジョーは静かにうなずいた。
「そうしていただけますか?助かります。本当に申し訳ありませんが。せっかくの休暇に……」
「何を言うの、ジョー!」
「フランソワーズ、明日から、あの辺りは記録的な大雪に見舞われる。侵入者への警戒はほとんどないはずだ。僕の足跡も残らないだろうし。君は、離れた場所からナビゲートをしてほしい。お兄さんには、君の護衛を。作戦の目的は、取引の対象となり得る論文や資料を全て処分すること。僕ひとりでいく。破壊行為は一切しない。論文が蒸発したように思わせることができれば成功だ」
「蒸発……じゃと?」
「ええ、そうです、博士。誰かが『盗んだ』となると、別の混乱が生じる可能性があります。何が起きたのか、彼らが追及する気もなくなるぐらい、不条理に消滅させなければなりません。もともと、この研究所は、細菌を専門に扱っているわけではないんです。今回のコトに関わっている人間は、ごく僅かですから、今叩いておけば、研究をとりあえず中断させることができるはずです」
 
破壊行為をせず、侵入にも気付かせず……目的の資料を「蒸発」させる?
 
あっけにとられて聞いていたジャンが、ふと妹に目をやると、不安げな表情はいつの間にか消え、今は真剣で穏やかなまなざしを「009」に向けている。つまり、これが「003」ということか。
 
「わかったわ。それじゃ、ジョー、出発は……」
「明日の夜明け前。とりあえずフツウの旅行者のフリをして現地に近づくから……その、急だけど、そういう準備、頼めるかな?」
「ええ」
フランソワーズは、くすっと笑ってうなずいた。
 
   5
 
記録的な大雪を見込んでの作戦……の割には、行けども行けども快晴の空だった。どうも腑に落ちないが、細かいことをあまり気にしてもしかたがないだろう。ジャンはあれこれ考えるのを放棄することにした。どうせ、自分の想像や常識などはるかに飛び越えたところに妹たちはいるのだから。
ジョーは気ままに車を走らせているように見えた。観光地らしい公園があると、立ち寄ったりもする。妹に至っては、観光ガイドを広げ、あれこれと土産物の品定めなどしつつ、運転席のジョーにあそこに寄ってほしいだのこっちはどうかだのと注文をつけ続けている。
まずは、目標近くの宿にフツウの旅行者を装って入り、夜になってから作戦開始……ということのようなので、昼の間、ただの観光旅行に徹するのは別に間違いではない。それにしても、大丈夫なのかと思うほど、二人はのんびりしていた。
「いつも、こんなものよ」
小さい土産物屋のあるパーキングで車を降りて、伸びをしているところを、不意に話しかけられ、ジャンは眉を寄せた。妹が面白そうに瞬きしながらこっちを見ている。
「いつもって……なんだ?」
「ミッションの前。気持ちの切り替えって大事なの」
「切り替え、ね……まあ、言ってみれば、コレ自体がそもそもミッションの一部なんだろうしな」
「そんなことないわ。私、楽しい。いつか、こんな風にこの国をお兄ちゃんと旅してみたかった。できたら、ジョーも一緒に、三人で」
「で、コレがソレなのか?だが、フツウ、俺たちフランス人が日本を旅行する……っていうならキョウトやナラだろう」
「ふふ、それもすてきだけど……でも、私はこの国の自然が好き。山や川が好きなの……今は、そうね、冬だからわかりにくいかもしれないけど、とても静かで、優しいのよ」
静かで優しい自然。たしかにそうかもしれない。しかし、この国は一方で、ジャンには想像もつかないすさまじいエネルギーで人を圧倒することもあるという。台風、火山、地震……。
地震については、運悪くか運良くか、滞在中に一度体験した。妹に言わせると、この程度の揺れなど、日本では雑談の種にすらならない日常茶飯事だというのだが。
 
少し離れたところで、ジョーが目の前に積まれた、土産物らしいリンゴや野菜をぼーっと眺めている。何かを物色しているという感じでもない。何が楽しくてそんなモノをいつまでもみじろぎもせず見ているのか、ジャンには見当がつかない。妹にも見当がつかないらしい。案の定、どうでもよかったらしく、妹に声をかけられると、彼は我に返ったようにあっさり振り向いた。そのまま、なんだか嬉しそうにぽくぽく歩いてくる。
「あんまり、種類はないなあ、冬だから……漬け物ばっかりだ」
「そう。でも張大人なら喜ぶかもしれないわ、そういうの。何か珍しいの、あった?」
黙って首を振り、ジョーはフランソワーズとジャンをのぞいた。
「ねえ、アイスクリーム、食べようか?」
「アイスクリーム?」
「この、寒いのにか?」
思わず呆れた声を出してから、ジャンははっと息をのんだ。寒いと思っているのはもしかしたら……いや、間違いなく自分だけに違いない。咄嗟に妹をちらっと盗み見したが、彼女はおっとり首を傾げてジョーを見返しているだけだった。
「ええと。季節限定で、ここの特産の、リンゴのアイスクリームがあるんだって……中で食べれば、そんなに寒くないかも」
そう言いながら、店を振り返る彼の視線を追うと、なるほど、結構な人数の二人連れや家族連れが、分厚いコートを着込んだまま、アイスクリームらしいモノを手にしている。
まあいいか、とジャンが曖昧にうなずくと、ジョーはまたもや嬉しそうに、それじゃ、席をとっておくから、とか何とか言いながら、店へと向かっていった。
「……おい」
「なあに?」
「アイスクリームだと」
「ジョーは……私もだけど、甘いモノ、好きよ。」
「ふうん?」
フランソワーズは面白そうに兄を見上げて、囁くように言った。
「……コドモ、なのよ」
 
車は高速道路に入り、ひた走っていく。昼食もとうにすませたし、辺りを見回したところ、かなり山地に入ってきたようだ。そろそろ目的地に近いのではないかと、ひそかにジャンは思っていた。相変わらず空はあくまで晴れている……が。
「……っ!」
 うとうとしかけていたジャンは、突然変わった窓外の景色に思わず息をのんだ。滑るように車がトンネルを抜け出した瞬間、辺りがいきなり真っ白になったのだ。
「これは……」
「不思議でしょう、お兄ちゃん?……もう少しで、宿に着くわ」
「なるほど。そういえば、そんな小説があったっけな、日本に」
「小説?」
妹が日本に住むようになってから、ジャンは何となく日本のモノに注目するようになっていた。こんなことをしても意味はないと思いつつ、他にできることもなくなってからは、小説も結構読んだ。
「有名なヤツだぞ、たぶん。トンネルを抜けると、イキナリ雪国になって……そういえば、主人公の名前が彼と同じだ」
途端にフランソワーズが楽しそうな声を上げる。
「本当?ジョーっていう人なの?どんなお話?」
「いや、ジョーじゃなくて、シマムラの方だ。どんな話って……そうだなあ……」
どう説明したらいいか迷った。正直なところ、よくわからない話なのだ。要するに恋愛小説だったのだと思うが、女が二人出てきて、どっちもそのシマムラと恋人であるようなないような、三角関係であるようなないような、さらに、その終わり方も悲劇であるようなないような、とにかくはっきりせず……
 ぼうっと考え込んでいたジャンは、低い静かな声に、ぎくりと顔を上げた。
 
「フランソワーズ、見えるか?」
 
それだけだった。が、ジャンは急に息が止まるような緊張に包まれ、身動きできなくなっていた。同時に、フランソワーズが黙ったまま遠くを見るような表情になり、やがて小さくうなずく。
「ええ。でも……思ったより距離があるわ。途中の道も険しいし、谷が深いし……大丈夫?」
「うん。君が見ていてくれれば……じゃ、次で下りるよ」
妹が返事もせず、流れるような動作で通行券とカードを取り出し、彼に渡すのを、ジャンはじっと見つめていた。
 
   6
 
宿は、ジャンの予想以上ににぎやかな町の中にあった。少し離れた場所に小さいスキー場があり、それを目当てに来る客が多いので、今がオンシーズンの温泉地なのだという。
狭く急な雪の坂道を上り、信じられないような小さい駐車場に器用に車を停めると、ジョーはさっさとトランクを開け、荷物を全部担ぎ、先に立って歩き出した。宿の入口は駐車場の目の前だったが、たったそれだけの距離を歩くうちに、彼の栗色の髪はあっというまにうっすらと雪に覆われてしまった。
「もう、ジョーったら!傘ぐらいさせばいいのに……」
「荷物が持てなくなるよ」
「だから、私が半分持つ、って言ったでしょう?どうして、あなたっていつもこう……」
「まあ、お疲れ様でした!お寒かったでしょう…!」
甲高い声の、和服を着た女性が近づいてきた。ジョーにまとわりついた雪を素早く払い落とし、どうぞどうぞとフロントへと連れて行く。日本語が全くわからないので、ジャンはフランソワーズに従って靴を脱ぐと、おとなしくロビーに座り、待つことにした。
建物の手入れは行き届いている感じだった。あちこちにいかにも日本風のオブジェが飾られている。が、何となく全体が古い。黒光りする木の床も、人が歩くと微妙にきしむような音を立てた。いい宿なのか、そうでもないのかよくわからない。妹も落ち着かない表情できょろきょろしている。ついでに言うと、やがて戻ってきたジョーもまた、それほどもの慣れていないように見えるのだった。
 
部屋に案内してくれた宿の女性は、親切だった。日本の宿というのが元々そういうものなのか、それとも、どこか場違いな雰囲気に戸惑うガイジンのグループに同情したのか。両方だったのかもしれない。ごゆっくりどうぞ、とお辞儀をして、彼女が出て行くと、それまできっちり膝を揃えて座っていたジョーが、ふうー、と息をつき、あぐらに座り直した。
「なんか、緊張するなあ……」
「あら、あなたもなの、ジョー?」
「僕は、こういうトコロ……あんまり慣れていないからね」
「島村くんは、あまり旅行をしないのかい?」
「することもありますけど……一人でこういうトコロには、あまり」
言われてみれば、そうかもしれない。家具のない畳敷きの部屋は、がらんと頼りなく、ここに一人座っていても、どうにもくつろげないような気がする。
 なんとなく所在ない感じで立ち上がり、引き戸を開けてみたジャンは感心した。寝具らしいものがぎっしり入っている。
「なるほど、コレがフトンってやつだな?合理的なモンだ…どうやって使うのかはわからんが……」
「さっきの人がちゃんとしてくれますよ、たぶん」
「そうか、楽しみだ……といっても、今回コレに寝ることはなさそうだな、残念ながら」
 ジャンの言葉に、ジョーはふと顔を上げた。そのまま黙ってフランソワーズを見やると、彼女も迷うような表情をしている。
「いえ……それは。二人ともここにいてもらいます。昨夜お話したように、行くのは僕だけですから」
「な……に?」
「そうよ、お兄ちゃん……私たちがついて行ったら、足手まといになるだけだもの……私も、ココからジョーのナビゲートをするの。連絡は脳波通信機で」
「脳波通信機」
ジャンはオウム返しにつぶやいた。そんな彼を見つめるジョーの目の奥に一瞬痛ましそうな光がよぎり、消える。短い沈黙の後、ジョーは伸びをしながらゆっくり立ち上がった。
「さっきの人、ゴハンは七時に下の食堂だって言ってたけど……フランソワーズ、先にお風呂に行っておきたいかい?」
「いいえ……お先にどうぞ。ここで留守番してるわ。お兄ちゃんも、ジョーと一緒にどう?始めは落ち着かないけど、気持ちいいのよ」
「一緒に……?」
咄嗟に何を言われたのかわからなかったが、すぐに、日本の「オンセン」に誘われているのだと気付いた。
「ああ、そういうことか。島村くんがよければ、喜んで。面倒をかけて悪いが、だいたいの流儀を教えてくれると助かるな」
「もちろん。でも、流儀か……僕にちゃんとわかっているかなあ……」
ジョーはやや不安そうに天井を見上げ、それからジャンを振り返り、笑った。
 
   7
 
いくら外から目隠しされているとはいえ、申し訳程度の屋根しかない戸外にハダカで出て行き、湯につかる……などというのは、あまりといえばあまりに頓狂なやり方だ。妹が言うほど簡単に慣れるとは思えない。が、たしかに、一旦、広々とした湯船に体を沈めてしまえば、思いの外気持ちは落ち着き、いい気分になれた。
島村ジョーも、白いタオルを几帳面にたたんで頭の上にのせる……という妙な格好で、湯船の縁に身をあずけ、気持ちよさそうに目を閉じていた。そのスタイルが「オンセン」の流儀なのか、彼の変な癖なのか、彼らの他には誰もいなかったので、ジャンにはいまいち判断がつかない。とりあえずマネをするのはやめておく。
誰もいない……のは、降りしきる雪のせいかもしれない。風がそれほど強くないので、烈しく吹き込んではこないが、湯船の近くにまで雪は白く積もっていた。実のところ、出口のガラス戸を開けた瞬間、凍るような空気に、ジャンは思わず硬直していた。ジョーが平然と歩き出し、湯船に入っていかなければ、外に出ようなどとは思わなかっただろう。
 
他人の体をじろじろ見るなど、とんでもなく無礼なことであるのは、もちろん、ジャンも承知している。が、この場合は許される……いや、許されないのだとしても、そうせずにはいられない。彼は、島村ジョーがじっと目を閉じているのを確かめながら、素早く彼の全身に視線を走らせた。
東洋人らしいきめの細かい肌は、湯に温められ、ほのかに血の色を浮かび上がらせている。全体的に均整の取れた体だが、男性にしては華奢だと言ってよいかもしれない。
サイボーグ009。何度も、心で繰り返してみる。小型原子炉を内蔵した、戦闘用サイボーグ。人工心臓。人工皮膚。人工筋肉。人工骨。そして、加速装置…………。
やがて、ジャンは長く息をついた。ダメだ。とても、そういうモノには見えない。ここにいるのはやはり、繊細な体つきをした、美しい東洋の少年でしかない。
 
「よく、できているでしょう?」
 
突然の穏やかな声に、背筋が凍った。ジャンはまじまじと少年を見つめた。伏せた長い睫毛がゆっくり上がり、澄んだ茶色の目がまっすぐこちらに向けられる。何もごまかせない。咄嗟にそう思い、ジャンは重々しくうなずいた。
「ああ……で?だからアイツは、君と一緒に風呂、なんて言いやがったのか?君の全てを、俺に見せるために……?」
ジョーは無言のまま、どこか淋しそうな微笑でそれに応えた。
「なるほど……な。それなら、ついでに聞いておこう。俺をこの作戦に加えた本当の意味は、何だ?アイツは、もう……パリには帰らないつもりなのか?そういうことなのか?」
「……」
「だから、最後に見せようというのか?君たちの生活……いや、君たちの戦いを。そのために、俺を日本に呼び、必要もないのに、作戦に同行させて」
「それは、違います。本当に偶然なんです。できれば、こんなことしたくはなかった。でも、この作戦を成功させるチャンスは今しかなくて……一緒に来てもらったのも、どうしてもあなたが必要だったからです。フランソワーズを、守るためには……」
「守る?ここでか?ここで……このばかばかしく暢気な宿で何が起きるというんだ、君は。地震か?雪崩か?それとも……」
「そうじゃない。力が必要なんじゃなくて……きっと、あなたにしか、できないことだから。フランソワーズを守ってください。お願いします。もちろん、そんなことにならないように、僕も最善を尽くすつもりですが」
「……さっぱりわからん。俺に、何をしろというんだ?」
ジョーはじっとうつむいていたが、やがて顔を上げた。
「僕たちの戦いに、『絶対』はありません。いつ、何が起こるかわからない。だから、もし……もし、僕が何かヘマをして、ココに戻れなくなってしまったら……」
「……おい」
「いいえ。そういうことも考えておかなくてはいけないんです。もしそうなったら、フランソワーズを連れてすぐ研究所に帰ってください。対策はそれから、他の仲間達と一緒に……あなたがいれば、彼女はきっと……」
「後先考えず大雪の山中に突進して、単身、君を捜したりはせず、ひとまず仲間のトコロに戻る、というのか?」
「……そうです」
「甘いぞ。というか、アイツがどんな女かってのは、君の方が俺よりよく知ってるんじゃないのか?」
「でも。あなたがいれば……」
「甘いな」
あっさり切り捨てられたジョーは息をつき、次の瞬間、猛烈な勢いで迫ってきた拳に、思わずぎゅっと瞼を閉じた。ジャンはジョーの鼻先でぴたっと拳を止め、その頭にのっていたタオルをむしり取るように奪いながら、いかにも不快そうに眉をよせた。
「……あの」
「何のまじないだ、コレは?」
「え?」
「変なヤツだな、君は。日本人ってのが変なのかと思ったこともあるが、どうも違うらしい。第一、サイボーグだろうがなんだろうが、敵を前にして目をつぶっていちゃ話にならんぞ」
「敵……ですって?どうして、あなたが」
「敵だろう。違うのか?」
投げつけられたタオルを片手で受け止め、ジョーはむやみに瞬きを繰り返した。
 
  8
 
なんとなく黙りがちだった食事は、何を食べたのかもよくわからないうちに終わった。もっとも、ジャンに限って言えば、何を食べたのか、実際にわかっていなかったのだが。
部屋に戻ると、なるほど、フトンが敷き詰められている。先刻とすっかり様相の変わった部屋にジャンが感心していると、ジョーとフランソワーズはそれぞれごく自然に「作戦」の準備を始めた。地図を広げ、短く確認の言葉を交わし合い、時計を見……最後に、二人は奇妙な赤い服に身を包んた。
「これ……やっぱり、着るべきよ」
フランソワーズが大きな荷物から引っ張り出した白いスキーウェアに、ジョーは一瞬肩をすくめたが、おとなしくうなずいた。まさか、重ね着するつもりなのかと首を傾げたジャンの前で、彼はあっというまにソレを着込んでしまった。手品のようだ。
「たしかに……雪の中で、その真っ赤な服はマズイわな」
新しいタバコに火をつけながら、ジャンはひとりごちた。ジョーが微かに笑う。
 
続いてフランソワーズがためらいながら取り出し、手渡そうとした銃に、ジョーは、今度は黙って首を振った。
「でも、ジョー」
「今回、コレは使わない。いや、使えないんだ……絶対に」
「わかってるわ……でも」
「大丈夫だよ、フランソワーズ」
それでも何か言おうとする彼女を無造作に引き寄せ、その言葉を優しく唇で塞ぎながら、ジョーは囁くように言った。
「……行ってくる」
しばしあっけにとられていたジャンが我に返り、憤然と立ち上がったとき、彼の姿はもう消えていた。開け放たれた窓から雪が舞い込む。フランソワーズが慌てて駆け寄り、力任せに窓を閉めた。
「な、何よ……何よ、ジョーの、ばか!」
そのまま両手で頬を押さえ、窓辺に座り込んでしまった妹に、何をどう話しかけたものか、ジャンが迷っていたのはほんの僅かな時間にすぎなかった。ほどなく、彼女の頬からは赤味が消え、震えていた唇もきゅっと引き結ばれた。やがて、フランソワーズは立ち上がり、暗い窓をどこか夢見るようなまなざしで見つめ始めた。青い目が静かに澄み、その色を深めていく。
もう、かけるべき言葉はなかった。
 
静かだった。
フランソワーズは緊張した面持ちで窓を見つめ続けている。二人が「脳波通信機」でひっきりなしに話し合っていることは間違いないのだが、その声がジャンに聞こえるはずもない。
空軍に長年所属しているが、本格的な実戦に参加したことはない。それでも演習の経験は積んでいるから、二人の間にどういう種類の言葉が交わされているのか、ぼんやりと想像することはできた。そして、ジャンが知るそれらを遙かに超える量の情報を、とてつもないスピードで、今目の前にいる妹が処理しているであろうことも。
一切の破壊行為をせず、侵入に気付かせず、痕跡も残さず、目的の書類を全て処分する……。
島村ジョーが、そんな「作戦」をどのように実行しているのか、見当もつかない。同じように、それを助け、導いているという妹の目に今何が映っているのかも、ジャンには全くわからない。
 
不意に、空気が変わった気がした。はっと妹をのぞくと、彼女はほうっと大きく息を吐き、夢から覚めたようにジャンを見上げながら、弱々しく微笑んだ。
「終わった……のか?」
フランソワーズはうなずいた。
「ええ。成功よ。あとは、ここに戻るだけ……一番危険な場所も、今越えたところだわ。風もやんでいるし……え?」
「なんだ?」
「もう……ジョーったら」
困ったように笑いながら、彼女は兄に説明した。ジョーが、吹きだまりにはまった鹿を見つけ、助け出そうとしているのだという。
「のんきな男だな」
「ホント。でもすごいわ、ジョー。あんなトコロに鹿がいるなんて、私も気付かなかったのに……やっぱり好きな人って敏感なのね」
「鹿なんか好きなのか、アイツ?」
「鹿だけじゃない……けど……っ!」
突然、フランソワーズの顔色が変わった。悲鳴のような声をのみこみ、大きく目を見開く。
「どうした?」
「落ちちゃったわ!」
「落ちた?どこに?なんで?大丈夫なのか?」
フランソワーズは僅かに眉を寄せるようにして目を閉じ、じっと意識を集中させていた。やがて、目を開いた彼女はぼんやりと兄を見上げ、ぽつん、と言った。
「迎えに、行かなくちゃ」
「何?」
「脳波通信が……どうしたのかしら、使えないの。ジョー、ケガはしていないみたい。でも、このままじゃ、誘導できないわ。雪にすっかり埋もれてしまって、方角なんてわからないでしょうし……鹿も」
「鹿?」
「ええ。鹿を抱えたままなの、あの人」
ジャンは思わずうめき声を上げた。
「どうして鹿なんだ?……ったく、ヘマってのはこういうことかよ?」
「お兄ちゃん……?」
「ダメだ。行かせないぞ。オマエはアイツとはツクリが違うんだろう?そんな、道もない山……しかも、この雪だ。行かせられるか!」
「大丈夫よ、私だって003……」
「大丈夫でなかったら?じゃ、ココに残された俺はどうする?日本語なんてわからんぞ。帰り道もわからん」
「研究所に電話してくれればいいわ。誰かが迎えに……」
「そういう問題じゃないだろう!」
「お兄ちゃん、わかって……このままにはできないのよ」
「だったら、俺も行く。オマエが大丈夫なら俺だってどうにかなるさ」
フランソワーズは首を振った。
「ダメ。お兄ちゃんの分のスキーウェア、用意していないの」
「何だとっ?」
「ごめんなさい……心配しないで。大丈夫だから。でも、もし、私たちが帰らなかったら……」
「フランソワーズ」
「帰らなかったら、研究所に電話して、宿の人には……そうね、私たちがカケオチした……とか、説明してくれれば」
「カケオチ?説明?日本語でか?」
「ごめんなさい。あのね、ホントは……お兄ちゃんに来てもらったのは、こういうときのためだったの。でも、本当に大丈夫よ。必ず帰るわ」
「待て。待てって。話が違うじゃないか!オマエら二人して、言ってることが全然違うぞっ!」
 
フランソワーズはもう返事をしなかった。てきぱきとこれもまた手品のようにスキーウェアを着込んでいく。島村ジョーとそっくりのしなやかな仕草で窓をあけ、外へと身を乗り出す妹の背中に、ジャンは血を吐くように叫んだ。
「また、か?またなのか?また、オマエは……俺をおいていくのかっ?」
華奢な背中が、ぴくん、と動く。ゆっくり振り返る妹の目を、ジャンはすがるように見つめた。
「帰ろう、フランソワーズ……パリに、帰ろう。俺と一緒に……」
「お兄ちゃん……?」
「もう、いやだ。いつも……いつも俺は、一人であの部屋に戻り、あてもなくオマエを待つしかない。オマエが幸せに暮らしているのか、生きているのかもわからないまま、待つしかないんだぞ。いつまで?いつまで待てばいい?それさえわからない。それがどんな気持ちか、オマエにわかるか?俺は、もう、二度と……!」
フランソワーズは大きく目を見開き、震える兄を見つめ返した。唇が微かに動き、亜麻色の頭が力なく揺れ、長い睫毛がゆっくり伏せられていく。が、次の瞬間、彼女はぱっと顔を上げるや、窓枠に手をかけ、小鳥のように外へと身を躍らせていた。
「フランソワーズ!」
ジャンは絶叫した……つもりだったが、声にはなっていなかったのかもしれない。
半ばよろめくように窓辺に歩み寄り、烈しくこみ上げてくるモノを懸命にこらえ、唇を噛む。それが憤怒なのか悲しみなのか、それとも別の何かなのか……ジャンにはわからなかった。雪が舞い込んでくるのも気にかけず、彼は、窓を開け放したまま、ぼんやりと立ちつくし、ただひたすら外を見つめていた。
 
どこまでも続く、凍てついた暗闇。彼女は、そこにいる。
いつも、あの少年とともに。
 
 
窓が微かにきしんだ。ほのかに青みを帯びてきた空を背景に、二つの影が寄り添いあうようにして浮かび、ほどなく、音も立てず部屋へと滑り込む。
「まあ……お兄ちゃんったら……」
もどかしげに雪をはらいながら上着を脱ぎ、そうっと部屋へ続く障子戸を開けると、フランソワーズは唇を思い切りとがらせた。ジャンが、フトンをかぶってぐっすり寝入っていたのだった。
「何よ、あんなこと言っておいて、こんなにのんきに寝てるなんて。ほんとにいいかげんな人なんだから。信じられない……!」
「のんきなわけじゃない。どうにもならないから……だから、できることをしたんだよ、きっと……お兄さんは」
 静かなジョーの言葉に、フランソワーズは振り返り、首を傾げた。
「できる……こと?」
「うん。君のためにできること。きっと、心配で眠るどころじゃなかったはずだよ。でも、だから、すごく一生懸命がんばって、無理矢理眠ったんだ。何もできないなら……せめて、十分休養をとって、動けるときのために備えるべきだ。それしかないだろう?」
「……ジョー」
「立派な、人だ……君のお兄さんは」
「……」
フランソワーズは、眠る兄を見つめながら、愛しむように、それでいて何かを恐れるように、そっと白い指をその頬に伸ばそうとした。
「あ……ジョー……?」
「ダメだよ、フランソワーズ。こんな冷たい手で触ったら……お兄さん、目を覚ましてしまうだろう?」
ジョーは絡め取った彼女の指を胸に引き寄せ、温めるように両手で包みこんだ。
「いやね。……あなたの手だって、冷たいわ」
「……そうか」
苦笑しながら放してやると、フランソワーズはぎゅっと胸の前で両手を組み合わせ、立ち上がった。
「私、お風呂で、あたたまってくる……こんな時間なら、きっと、誰もいないわよね?」
「うん」
 フランソワーズは手早く支度を整え、戸口のトコロでなんとなく振り返ると、どこか恥ずかしそうな笑みをジョーに向けた。
 
彼女がそっと部屋を出てまもなく、背後から聞こえてきた低いうなり声に、ジョーは振り向き、思わず微笑した。
「……どうして、押し倒さなかった?」
「ここで……あなたの前で、ですか?」
「かまうものか」
「まさか」
「腰抜け野郎が。言っておくが、俺は、こういう肝心な時に、ビビって手も足も出せないような男に妹はやらんからな……絶対に、だ」
「かまいませんよ」
「……何?」
ジャンは思わずフトンをはねのけ、起きあがった。ジョーは座り込んだまま、まだ微笑している。
「かまいません。彼女は、僕なんかには、過ぎた人です」
「謙遜か?日本では美徳でも、俺たちフランス人には……」
「謙遜なんて。本当のことですから」
「……オマエ」 
「僕は」
ジョーはふと口を噤み、ジャンをまっすぐに見た。
「僕は、許されるはずのないことをしています。だから、いつか、誰かが僕に罰を下すはずです」
「……」
「それがいつなのかは、わからない。でも、きっとその時は来ます。誰かが僕を倒し、そして彼女を救うでしょう。この腕から」
「ジョー」
「でも、それは今ではない……彼女を救う人も、あなたではない」
「……」
「だからあなたは、僕を許す必要なんて……ないんです」
ジャンは身動きもできないまま、微笑むジョーを見つめていた。美しい瞳は、あまりに澄んで、底が見えない。目をそらすことができなかった。
 
10
 
ココまで来たのだから、研究所に帰る前に、どうしてもスキーをしていくのだと言い張るジャンに、二人は逆らえなかった。スキーウェアを二人分しか用意していないというフランソワーズの言葉は本当だったので、結局、ジャンとフランソワーズだけが連れ立ってゲレンデへと赴き、ジョーはロッジで留守番をする羽目になった。
ジョーに心で謝りながらも、フランソワーズはもう二度とないかもしれない、兄と二人きりで過ごす短い時間を、精一杯楽しもうと思っていた。もっとも、わざわざそんなことを思う必要もなかったのかもしれない。白い雪の中ではしゃぐうち、彼女は本当に無邪気な子供時代に戻ったような錯覚を覚えていた。
「もう一度!お兄ちゃん、もう一度だけ滑りたいわ!それで、終わりにするから……」
「もう一度ってな……オマエ、さっきもそう言ったぞ?いいかげん、島村くんも待ちくたびれてるんじゃないか?」
「でも……!」
「でも、じゃない、終わりだ!…ほら、行くぞ」
わざとそっけなく促すと、フランソワーズはしおらしくうつむきながら、ジャンの腕にもたれるようにつかまった。やはり、悪い気はしない。さっきから、賞賛と羨望のこもった視線を、ジャンはたっぷり感じ取っていた。あまり見慣れない西洋人の美しいカップルに、ひとたび目を奪われてしまえば、二人を兄妹だと見抜く余裕のある日本人などそうはいないはずなのだ。
子供じみたくだらない意地だと自覚してはいたが、コレをあの生意気なサイボーグにも見せつけ、一矢報いておきたい。ジャンは心を決め、いっそう優しくフランソワーズの肩を抱きながら、ロッジに入っていった……のだが。
その生意気なサイボーグの隣には、いつのまにか見知らぬ可愛らしい日本人の少女がちょこんと座っていて、困惑しきった彼に熱心な視線をひたと据え、しきりに何か話しかけていたりするのだった。
 
数日後。
空港の空は、来たときと同じように、やはり美しく晴れていた。別れ際、ジャンはありったけの思いでフランソワーズを抱きしめた。
楽しかったわ、と涙ぐむ妹に、素直にうなずく。何のために自分を呼び寄せたのか、彼女は何を伝えたかったのか。結局わからないことはわからないままだ。それでも、かまわないと思った。どんなに考えても、わからないことはある。言葉では伝わらないこともある。それだけのことだ。不安に思う必要などないのかもしれない。
そっと腕を放しながら、幸せにな、と言おうとして、やめた。幸せになれるかどうかなど、誰にも……妹にもわからないことだ。なろうと思ってなれるものでもないだろう。
でも、妹はここで生きる。あの少年とともに。
それが確かなことならば、もういいのだと、ジャンは思った。
 
翼が、まばゆい銀色に光る。緑の地表が、青い海が、眼下でゆっくり回り、遠ざかっていく。
あの静かな家に、妹はもう帰り着いただろうか。
扉を開け、彼女を迎え入れようとする少年の、澄んだ笑顔が見える。ついに自分が一度も見なかった……そしておそらく、妹のほかは誰も見ることがないだろう、一点の曇りもない幸福な笑顔。
 
それが確かなことなら、もういいのだと、ジャンはまた思う。
それだけが、本当に確かなことなのだから。
 
 

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Last updated: 2011/8/3