18      花開く海に
 
 
 甲板に出ると、空は抜けるように晴れ渡っている。深呼吸しながら、フランソワーズは大きく伸びをした。新しい研究所は、以前と同じように海底にあり、生活に不自由があるわけでなかったが、問題は地上部だった。
 ネオ・ブラックゴーストの目を欺き、万一のときも一般の人々を巻き込まないため…とはいえ、頼りない岩場の合間に浮かぶ難破船は、とても住居とは言い難い。以前の研究所は、人気のない断崖絶壁にあったといっても、車を十分ほど走らせれば、それなりに人々の生活の匂いのする場所に出られたのだ。ギルモアは、落ち着いたら、交替で「休暇」をとり、「外」へ出てみるとよい、と言ったが、おそらく003に「外」で単独行動させようという仲間はいないはずだ。
 第一、もし自分がいなくなったら、研究所の…特に居住区域がどうなってしまうか、ちょっと怖いような気がするフランソワーズだった。仲間達は、もちろんそれなりに自分の身の回りの始末ができる男たちばかりだったが、それでも、フランソワーズの目から見れば、十分とはいえない。特に、ギルモアやイワンが快適に過ごせるような空間を作る、となれば、それだけの気配りも家事能力も必要だ。
 この戦いが終わるまで、私はここにいるしかないわ……と、フランソワーズは空を見上げた。今朝方、ジェットがとうとうしびれを切らしたように、ちょっと行ってくるからよ、と飛び立ってしまった空だ。
辛抱強いピュンマでさえ、もう数日したら、きっと海に飛び込んでしまうだろう。そして、他の仲間達も……
「…あら?」
 フランソワーズは思わず目を見開いた。最近の彼女のささやかなお気に入りの場所……船首近くに、先客がいた。ジョーだ。
 栗色の髪をなびかせ、身じろぎもせずに立ちつくしている後ろ姿に、フランソワーズは首を傾げた。
 
――飛び込む、というわけではないわよね……
 
 飛び込んだとしても、009なら、何も問題はない。軽い水浴びぐらいのことにすぎないだろう……が、彼は普段着を身につけている。泳ぐつもりではないだろう、と思う。
 フランソワーズは、それからしばらく辛抱強くジョーの後ろに立っていた…が、彼はまるで石化してしまったかのように動かない。さすがに少し心配になってきて、そっと声を掛けてみることにした。
「…ジョー?……何を見ているの?」
「…えっ?」
 虚を衝かれ、ぎくりと振り返ったジョーの目が、まるであどけない子供のようにひどく無防備に見えた。一瞬たじろぐフランソワーズの様子に、しばしためらってから、ジョーはごく短く答えた。
「……海、さ」
「海?…って……」
「海を、見ていたんだよ」
 あっけにとられ、ジョーをじっと見つめていたフランソワーズが、不意にくすくす笑い出した。
「イヤだわ、ジョーったら……!」
「…フランソワーズ?」
「どう見ても海しかないのに、あなたが何かを一生懸命見ているようだったから、一体何を見ているのかしらって思ったのに…!」
「…え」
 ジョーは笑い続けるフランソワーズをひたすら困惑しつつ眺めていたが、やがてその頬にわずかな笑みが浮かんだ。
「そんなに、おかしいかい?」
「うふふ、ごめんなさい。そうなの…海を見ていたのね」
「でも、そういう君は、何をしにきたんだい?やっぱり海を見ようとしたんじゃないのか?」
「…そう、ねえ…そうなのかしら。そうよね、お洗濯するわけにもいかないし…」
「洗濯?……ここに干すってこと?」
「ええ。でも無理ね。白い大きなシーツを干したりしたら、救助隊が来てしまうかもしれないわ」
「…救助隊」
 わずかな間をおいて、こんどはジョーが笑い出した。
「まったく、のんきだなあ…君は。緊張して損したよ」
「緊張…?」
「ああ。昔、こうやって海を見ていたら、今みたいに後ろから声を掛けられたことがあったんだ。何を見てるのかって聞かれて、何も考えずに、海だって答えたんだけど……その後で、叱られた」
「海を見ていたことを?」
「いや、違うよ…その頃僕は、かなり荒れていたから……そのひとにもずいぶん迷惑をかけたんだ。それで、やけになるのは弱虫だって、叱られた。あなたより不幸な人はたくさんいる、勇気を出せってね」
「まあ。じゃ、私にも叱られると思ったの?」
「いや、ハッキリそう思ったわけじゃないな…ただ、なんとなく変な感じがしただけで。今、ちゃんと思い出した」
「おかしなジョー…」
 久しぶりに、フランソワーズの笑顔を見たような気がする。ジョーはそのことに満足しながら、そういえば、自分自身についても、この新しい研究所に移ってからこんなに穏やかな気持ちで笑っているのは初めてかもしれないな…と、思っていた。
 
 
 永遠に続くかのように思われた単調な生活は、数日後あっけなく終わりを告げた。サイボーグたちが、世界平和会議の護衛を依頼されたのだった。ほどなく彼らはその開催地である大都市に散り、それぞれの任務についた。003は、科学者たちが集まる会場となるホテルのロビーで、怪しい人物がいないか、監視することになった。
 人間を透視するのは、とりわけ神経を酷使することだ。そうでなくとも、まばゆいほどの色彩が渦巻く都会のただ中にいきなり放り出されたためか、作戦初日、003は想定したよりも烈しい疲労に見舞われてしまった。
 めったに泣き言を言わない彼女が、「少し休ませて」と辛そうに訴えたとき、同行していた008は焦った。今日はもういいから、と、半ば強引に彼女を宿へ戻らせることにして、同時に009に通信を飛ばした。今、一番動きやすい仲間は彼だろうと判断したのだった。
 009は単身、今回の世界平和会議の要となる、光子力エネルギーの開発者、田辺博士の身辺に危険がないかどうかを探っていた。彼はまだ生身の体だったころ、田辺邸で世話になったことがあったため、博士にとっては薄いながらも顔見知りであり、警戒心を持たれにくいと思われたからだ。
 気になる動きが全くないというわけでないが、今のところ田辺邸に、特に緊急を要するような危険は迫っていない…というのが、さっき受けたばかりの009の報告だった。それなら、ちょっとそこを離れて、ギルモアへの詳しい報告がてら、ストレンジャーで003を送ってやってほしい、と008は頼んだのだった。
 
「大丈夫か、003?」
 ちら、と気遣わしげに助手席へ視線を送る009に、003はどうにか笑顔を作り、うなずいた。とはいえ、あまり大丈夫ではないような気がする。視界は異様にまぶしいままだったし、そのせいか、普段は気にならないストレンジャーのエンジン音さえ辛かった。
「ごめんなさい。どうしちゃったのかしら…ここのところ、静かなところにいすぎたからかもしれないわ。早く慣れないと…」
「いや、無理は禁物だよ。…特に、人を透視するのは精神的にも辛いだろう?問題は体の機能だけじゃない。僕達は、たしかに人よりも強い体を持っているが、だからといって心までそうとはかぎらない。こういうことは、軽く考えない方がいい」
「…009?」
 003は、いつもよりもわずかに饒舌な009にふと違和感を覚え、考え考えゆっくり尋ねた。
「…田辺博士には、お会いできたのでしょう?」
「ああ」
「お元気そうだった?」
「そうだね。ちょっと感じが変わっていたけれど…研究でお疲れなんだろうな。…どうしたんだ、急に?」
「あ…ごめんなさい。何となく…あなたが…そうね、誰かのことをとても心配している…みたいな感じがしたものだから。だから、田辺博士に何かあったのかしら…って思ったの」
 009は驚いて003を見た。彼女は、時折、まるで彼の心の中が見えているかのような言動をとることがある。
「いや。うん、博士はお元気だったよ。ただ…そうだな、心配というほどじゃないけれど…田辺博士のお嬢さんが、今、足を怪我して入院されているそうなんだ」
「…まあ」
「たぶん、今回のこととは関係ない。誰かに襲われたとか、そういうことではないようだから…それに、彼女はとても強いひとだからね。きっと大丈夫だと思う」
「そうなの…あ!」
「なんだい、003?」
「もしかしたら、その方…って、昔あなたを叱ったひと?」
「…え」
 しばらく記憶をたどっていた009は、やがて、ああ、と唸った。
「…よく覚えていたね、あんな話」
「ふふ。だって、面白いな、と思って聞いていたんですもの」
「やれやれ…君には適わないな。たしかにそのとおり、僕は昔、彼女にさんざん叱られたんだ。気の強いひとだなーと思ったっけ。正直、ちょっと怖かった」
009の懐かしそうな遠い眼差しに、003はほっと安堵していた。仲間たちが自分の過去について語ることはめったにない。が、過去を切り捨てることを余儀なくされた彼らが、それでも思い起こさずにいられない思い出であるなら、それらは、素直に懐かしむことのできる、穏やかで幸せなものであってほしいと、003は願う。
009は、彼の昔の恋人だったという女性を助けようとして心身共に深く傷ついたことがある。うちひしがれながらも、身を挺して彼女を助けようとし続けた彼の悲壮な表情は、今も003の胸に痛みとともに思い起こされるのだった。
しかし、どんなに胸を痛めたとしても、彼の思い出に、他人である自分が手出しをすることなどできない。彼の傍にいて、彼が傷つき苦悩するさまをつぶさに見ていなければならない、ただそれしかできない…というのは正直辛かった。といって、そんな時、知らぬ顔をして彼を突き放し、一人にすることも、003にはできなかったのだ。 
「そうだわ…ジョー、お見舞いにいったらどう?」
「え?…僕が、かい?」
「ええ。そういう事情があるなら、あなたが行くのは不自然ではないでしょう?万一ということもあるわ。もし、何か変わったことがあったら……田辺博士が狙われるのなら、そのお嬢さんだって」
「そうか…そうだな。わかった。君を送り届けたら、その足で病院に行ってみるよ」
「ちゃんと、花束を持っていってね」
「えっ?」
「女の子のお見舞いに行くんですもの、当然よ?」
「…そういう…ものかな?」
「もう。駄目ねえ、ジョーったら」
しきりに首をひねっている009に、003はくすくす笑った…が、ふと、真顔になり、遠くを見つめるようにしながらつぶやいた。 
「早く調整しなくちゃ」
「何を?」
「目よ。……見なければいけないものがたくさんあるのに…こんなときに見ることができないなんて、役立たずだわ」
「…フランソワーズ。無理は禁物だって言ったばかりだろう?聞いていたのかい?」
「何もできないでただ待っている方がつらいの。どんなに大変な思いをしたとしても、自分はみんなの…誰かのために何かできるんだ…って思えるなら、それだけで勇気が出るわ。わかるでしょう?」
「それはそうだろうけど…やれやれ。これは、君をおとなしくさせておくために誰か監視をつけておかないといけないかもな」
 こんどは009が笑い出した。そんな彼を、003はひどいわ、と軽く睨むようにした。
 
 
 
最後の窓の明かりが消えた。田辺邸の庭を哨戒していたジョーはふと振り返り、暗闇にうっすら浮かび上がる館の輪郭を見上げた。
 
――どこにも行くあてがないのなら、ずっと、ここにいればよい。
 
 数年前、この庭で田辺博士はこともなげにジョーに言った。
 気に入られた、というわけではなかっただろう。ただ、田辺博士は、助手として誠実に働いたジョーを追い出す正当な理由をもっておらず、その必要も感じていなかった。おそらく、それだけのことだ。が、それだけのことであっても、「立派な人」に初めて認められたのかもしれない、という素朴な喜びを、当時のジョーは感じていた。
 もし、あのとき、博士の言葉どおり、ここに留まっていたら。少なくとも、サイボーグになることはなかっただろう。
 しかし、それを悔やむ気持ちにはならなかった。あのときは、どうしてもこの邸を出なければならなかったのだ。今の自分が当時に戻ったとしても、きっと同じことをするにちがいない、とジョーは思う。彼女――田辺ユリが、この邸にいるかぎり。
はじめは、ただの苦労知らずのお嬢様にしか見えなかった彼女を、ジョーは頭から軽蔑し、話をするのも面倒だと思ったものだった。が、ほどなく彼は気づいた。彼女の奥に、時折、はっきりと強い光のようなものが閃くことがあることに。
それが何なのか、ジョーにはわからなかった。ただ、それまでは漠然と、弱い者…力のない者、としか見ていなかった「女性」の新しい一面を、ユリはジョーに感じさせたのだ。
恋ではなかった、と思う。が、これ以上彼女に引き寄せられたら、もしかしたら離れることができないかもしれない…そう気づいたとき、ジョーは逃げた。そうしながら、こんな立派な邸に、自分のような者が長くいては迷惑をかけるのだから…と、まるで自分に言い訳をするように、何度も心に言い聞かせた。
 
――ユリ。君は、もしかしたらわかっていたのかもしれない。あのとき僕が、つまり君から逃げたかったのだということを…。僕は、君の言うとおり、弱虫だった。君に礼すら言わず、ただ自分が傷つくかもしれないことだけを恐れて逃げたんだ……。
 
 003の勧めに背中を押され、そのまま病院に行ったものの、そのときは、怪我をしてからすっかり人嫌いになってしまったというユリと面会することはできなかった。
仕方なく持ち帰った花束を見て、003が一瞬絶句し、何とも言えない表情になった…ということは、おそらく深紅のバラは見舞いに不適当なモノだったのだろう。もっとも以前のユリなら、そんな彼の失敗を明るく笑い飛ばしつつ叱っただろうから、それもまた、楽しい話題を作る小道具となったに違いないのだが。
 もともと会うつもりなどなかったのに、会えなかったとなると、一体彼女がどういう状態になってしまっているのか、気になった。そんなジョーの落ち着かない様子に、003は、当面使用禁止を命じられていた遠隔透視能力をこっそり使って、ユリが病院を抜け出している、と彼に伝えたのだ。
 003が示したポイントに急いで駆けつけたジョーは、転んで倒れたまま、松葉杖を拾うことができずにいたユリを見つけた。そして、病院は嫌、家に帰りたい…と繰り返し泣くばかりの彼女を、ジョーはとりあえず田辺邸に送り届け、彼女を病院に戻さないで欲しい、その代わり自分が邸の護衛をしながら彼女のリハビリの手助けをする、と田辺博士を説き伏せたのだった。
 それこそ咲き誇る深紅のバラのようだった、明るく気高い彼女の美しさが、見る影もなくなっていることに、ジョーは軽いショックを受けていた。自分に何ができるかと思うと心許ないが、彼女の力になりたい、という切実な願いが、心に溢れるのを抑えきれなかった。そして、もし、それが自分にできるのなら、あのとき何も告げず逃げ出したことへの、僅かながらではあるが、償いになる……少なくとも、自分自身の心の中では。ジョーはそう思った。
 リハビリ、と言っても、足自体はもう治っているのだと主治医は言っていた。だとすれば、問題は心にある。彼女の瞳に、かつてのような強い光を取り戻すためにはどうしたらいいのか。もちろん、父親である田辺博士の協力も是非欲しいところだったが、光子力エネルギーの即時完成に使命感を燃やしている今の彼にそれを求めるのは難しいことだろう。
 
――どんなに大変な思いをしたとしても、自分は誰かのために何かできるんだって思えるなら、勇気が出るわ。
 
 ふと、少女の凛とした声が胸に響いた。そうかもしれない、とジョーは思った。かつての自分に、「弱虫」と言い放ったユリは、確かに、いつも彼女自身のことよりも「誰か」のために力を尽くすことに心を砕いていた少女だったように思う。それは、父親である田辺博士も同じことで、だからこそ、彼は得体の知れない不良少年だった孤児、島村ジョーを自邸に引き取り、共に暮らしもしたのだろう。
 ユリが、父を愛し、尊敬していることは、当時のジョーにもよくわかった。それが眩しく、うらやましかったこともまた、鮮明に思い出せる。今、田辺博士が、娘を顧みない冷淡な父に見えるのも、彼がより多くの人々を救うことに、文字通り命をかけているからなのだ。その父の思いが伝われば、きっとユリも心を奮い立たせてくれるのではないか。自分の足で大地を踏みしめ、立ち上がる。それは、誰かのために力を尽くすための、第一歩になるはずなのだ。
自分のためにではない、彼女の力を求めている誰かのために、ユリは立たなければならない。それが、一番彼女らしい在り方だ、とジョーは思った。
「…誰かの、ために……」
 つぶやきながら、ジョーは、それが003の言葉だったことを思い出した。そういえば、ユリを見つけ出すために「眼」を無理に使い、その後彼女に不具合は出なかったのだろうか。
田辺博士の強い要請を受け、急遽田辺邸にギルモアとサイボーグたちが集結しておこなった先刻のミーティングでは、何気ない様子でソファに座っていた003だったが、彼女の辛抱強さが並みでないことを、ジョーはよく知っている。仲間たちとギルモアが揃い、田辺博士まで同席している緊迫した打ち合わせの場で、彼女が辛そうな表情をするはずなどない。もしかしたら、相当我慢していたのではないか。無性に気になったが、この時間では、それを確かめるすべもない。
 誰かのために。どんなに大変な思いをしても……。たしかに、サイボーグとなってからというもの、自分たちはいつもそうやって生きてきたのだ。この忌まわしい兵器である体で、呪われた力で、それでも誰かのために何かができるならと……それだけを心の支えにして生きてきたような気がする。
 
――ユリ、僕はもう逃げない。僕は、僕にしかできないことをする。誰にどんな誹りを受けようとも。それが、あのとき弱虫だった僕にできる、君へのただ一つの償いになるだろう。
 
 ジョーは確かめるように深呼吸した。その瞬間だった。
 
――009、気を付けて!
――003?
 
 叩き付けられるような鋭い通信に、ジョーははっと身構えた。反射的にジャンプし、始めの一撃をかわしながら、素早く奥歯のスイッチを噛む。
「…加速装置!」
 襲いかかってきた敵は、三体のアンドロイドだった。いずれもNBGの量産型らしく、いささかの特殊能力を付与しているとしても、奇襲が失敗すれば、所詮009の敵ではない。体勢を立て直しつつ、反撃に移ろうとしたとき、突然三体のうち二体が空からのレーザーに貫かれた。素早く身を翻し、残りの一体にレイガンを撃ち込む。三体とも動かなくなったことを確かめ、ジョーは加速を解いて空を仰いだ。思ったとおり、002が舞い降りてくる。 
「002!…ありがとう、助かった」
「ふん、余計なお世話だったかもしれねえが…やはり、ヤツら、ここをマークし始めたようだな」
「ああ。目的は、光子力エネルギーだ。僕達は平和会議とこの研究所と…少なくとも二カ所を守らなければいけない、ということになる」
「やっかいだな…そうでなくとも人手が足りねえのによ。001は生憎おねんねしてやがるし、003も」
「003?…そうだ、003は大丈夫なのか?」
 警告を放ってきたのが彼女の通信だったことを思い出し、009は思わず鋭い声を上げていた。
「大丈夫、と…まあ、本人は言ってるが…な」
「…002?」
「そう言われちゃ、それ以上どうしようもねえだろう?…博士もアレだし、今はちょっとした不具合でガタガタ言ってるような状況じゃないしな」
「そんな!…彼女の能力は、神経や脳や…繊細な生身の部分と連動しているんだ。僕達と同じ調子で無理をさせたら…」
「だから、実際のトコロは本人にしかわからない。で、その本人が大丈夫だと言っているんだ、それを信じるしかないだろう」
「しかし…!」
「…たしかに、今の彼女の能力は、本調子とはとても言えねえ。明日からの配置はそれなりに考えないとな。まあ、その辺は008がうまくやるさ」 
 配置も何も、そもそも彼女は戦えるような状態なのか?と飛び出しそうになる問いを、ジョーは懸命に呑み込んだ。002の言うとおり、今の状況で彼女を戦力外にすることはできない。そこが動かせない以上、どんな気遣いも無意味だった。
「確かなことは、ひとつ。俺たちは急ぐべきだ…ということさ。ヤツらの本拠地をさっさとあぶり出し、叩き潰す。そうすれば、警備もぐっと手薄にできる。003を休ませるのはそれからだ」
 002はこともなげに言い放った。とはいえ、彼の目にちらりと苛立ちがよぎったことにも、ジョーは気づいていた。
 
 
 
 ほう…っと大きく息をついた003に、彼女をじっと見つめていた004がふと表情を緩めた。
「…間に合ったか?」
「ええ。002も合流したわ。…もう大丈夫ね」
「ああ。警戒しているアイツらをしとめることのできる暗殺者などそうはいないさ。三体も送り込んで失敗したのだから、今日はこれで終わりだろう。もうゆっくり休め、003。……よくやったな」
「ありがとう、004……でも、明日からが…大変ね」
「いや、そうでもないと思うがな……これでしばらく連中の動きはないだろう。オマエも、ホテルの警備に専念するといい。田辺邸の方まで探る必要はない」
「…でも」
「オマエには、おそらく、大がかりなメンテナンスが必要だ。無理をするな。万一、完全に神経が焼き切れるようなことになったら、それこそ戦力外になっちまうんだぞ」
「…ごめんなさい」
 謝る必要などない、と言おうとして、004は口を噤んだ。そう言われても謝らずにはいられないだろう。むしろ、ごめんなさい、のひと言だけで、胸に溢れているだろう不安と焦燥を押さえ込もうとしている003がいじらしかった。
 数時間前のミーティングで、田辺博士の情熱に動かされたギルモアは、ついに光子力エネルギーの完成に協力することを決意した。彼は、そのまま田辺邸に泊まり込み、明日からはまさに研究漬けの日々をおくることになる。これで、ほぼ確実に、世界平和会議は、この新エネルギー開発の発表の場となるだろう。
もちろん、それを見過ごすNBGではないはずだ。彼らが送り込んでくる刺客たちから博士らと田辺家の研究室を守り、同時に世界平和会議を完全に護衛する。たとえゼロゼロナンバーサイボーグたちであっても、それを成し遂げるのは決して易しいことではない。
 俺たちは、もしかすると意地になってはいなかっただろうか…と、不意に004は思った。田辺博士の情熱と、NBGへの怒り、そして平和を守るゼロゼロナンバーとしての誇り……そういったものが、自分たちを動かした。それが誤りであるとは思わないが、001を欠いた今の戦力で、本当にこの作戦をやり遂げることができるだろうか。
 できる、と、あのとき009は強い視線を仲間達に向けた。リーダーである彼がそうしたときに、それができなかったことなど、ない。004が迷いを捨てたのも、その瞬間だった。しかし……
「003。オマエ…田辺博士のお嬢さんの様子を…どう思った?」
「どう…って」
 003は、首を傾げた。足を痛め、人嫌いになってしまったという彼女は、先ほどの田辺邸でのミーティングにも姿を見せていない。
「そうか。そっちはあまり『見て』いなかったんだな」
「…だって。ユリさんは、この件と関係ないでしょう…?プライバシーの侵害になってしまうわ」
 003はふと表情を曇らせ、うつむいた。
「ああ、もちろんそうだ…が、すまん。ちょっと気になってな。009は、彼女と相当親しかったようだから……」
「…004?」
「アイツを信用していない、というわけではないが、感情のちょっとした動きが、判断を曇らせることはある。もしかしたら、俺たちは、光子力エネルギーにまで関わるべきではなかったのかもしれない」
 珍しく弱気な004の言葉に、003は不安そうに彼を見上げた。そんな003の様子に気づき、004は思わず苦笑した。
「いや、本当にすまない。俺としたことが、余計なコトを考えすぎているようだ…わかってはいるんだがな。こうするしかなかった、ということも…後は、やり通すだけだ、ということも」
「…ええ」
「オマエには、辛い思いをさせるだろうが……」
「これくらい、なんでもないわ。私だって、003だもの」
 明るい声に、004はふ、と微笑した。能力を酷使するだろうということだけについて言ったつもりではない。が、彼女の青い瞳はあくまで澄んで美しく、僅かな翳りも見つけることができなかった。
 とにかく休め、と言い置いて004は部屋の灯りを落とし、出て行った。足音が遠ざかるのを聞きながら、003は静かに目を閉じ、高ぶりそうになる神経を懸命に鎮めていた。
 004は、気づいているのだろう…と003は思う。彼女が009…島村ジョーに、仲間以上の思いを寄せているということに。もちろん、気づいたからといって、何がどう、ということもない。その彼女の思いが、彼らの作戦を妨げる障害とならないかぎり。
 病院を抜け出し、倒れていた田辺ユリは美しく気高い面持ちの少女だった。009が彼女への見舞いに選んだ、あの深紅のバラのように。おそらく、009の心に強烈な印象を……忘れられない思い出を残した少女。彼女のために、彼が力を尽くそうと決意するだろうということは容易に想像できた。
 それなら、自分は、そんな009の力になりたい、と003は思う。そうすることで、彼が心からの笑顔になれるなら、それだけで十分に満足できる…と思っていた。
 それなのに、ユリを見つけた、これから田辺邸に連れて行く…と連絡したきり戻らない009に、心が騒いだ。やがてミーティングに呼び寄せられ、何が起きているのかを知り、更にギルモアの決意を確かめ……その時点で、003に「気がかり」なことは何もないはずだった。後は、自分のなすべきことを…今回は残念ながら、多くをなすことはできそうになかったが…実行するだけでいいはずだった。
 どうして、透視などしてしまったのだろう、と003は苦く思い返す。とりあえず今夜はここに残るよ、と微笑した009の姿を、宿に戻ってからも、つい追いかけてしまった。明日からのことを思えば、少しでも眼を休めておかなければいけなかったのに……
 結果として、彼への奇襲に気づくことができた。それでよかったのだとはいえる。おそらく003が警告していなければ、009は始めの攻撃を少なからず受け、戦闘不能とまではいかなくとも、相当のダメージを負っていただろう。そうなれば、戦力ダウンは言うまでもなく、ギルモアも彼のメンテナンスに追われることとなり、光子力エネルギーの完成に寄与することは難しくなっていたかもしれない。
 003の報告に、すぐさま飛び出していった002も、残った004も、彼女になぜ、とは聞かなかった。なぜ必要もないのに、009を「見て」いたのかと。おそらく、尋ねる必要がなかったからだ。
 
――もう、余計なモノを見ては駄目。心を揺らしては駄目。しっかりしなくちゃ。私は…003なのだから。 
 
 もし自分が003でなかったら、009の役に立つことなど何ひとつできはしないだろう。だからこそ、003でいたい。その思いを確かめながら、003はつかの間の眠りに自らを沈めていった。
 
 
 
 連中が動くとしたら、世界平和会議の当日か、光子力エネルギー完成の瞬間だろう、というのが008・004の読みだった。それに間違いはないように思われた。NBGの影は、その後かき消されたように見えなくなっていたのだ。
 だからといって、油断するわけではなかったが、長年の経験から、サイボーグたちは力の配分というものもよく心得ている。来るべき決戦に備えるため、心身ともにリラックスする時間を持つのも重要なことだった。
 しかし、今回はそのことが、サイボーグたちの間に微妙な困惑をもたらしていた。009が、警備の合間を見て、田辺ユリの歩行訓練を熱心に始めたのだった。
 もちろん、それは彼が田辺博士に約束したことでもあったから、その遂行も、今回の作戦の一部と言えなくはなかった。田辺家に世話になったことがあるという009が、いつもの彼らしい義理堅さと優しさで、かつての恩人のため力を尽くそうとするのも、別に目新しいことではない。だが、問題は、そのやり方だった。
「まったく…あれじゃ、あのお嬢さんがあんまり気の毒だ。見ちゃいられねえぜ」
「…009、考えあってのこと。俺たち、口出し無用」
「そりゃ、そうなんでしょうけどね……」
 かわいさあまって憎さ百倍ってヤツなんじゃないの?と、007は口ごもりながらぼやいた。
 009がユリに対して日々おこなっていた歩行訓練は、厳しい、とひと言でいうにはあまりにも過酷だった。足は治っているはず…ということなら、たしかに無理をしているわけではないのかもしれないが、怖がる彼女から松葉杖を奪い、脅迫めいた烈しい言葉で歩くよう促し、倒れれば乱暴に引きずり起こす。彼女が泣き出しても、容赦することはなかった。もうイヤ、と叫ぶ彼女の頬を思い切り張り飛ばすことさえ珍しくはない。日を追うごとに怯えていくユリの表情は、痛々しいほどだった。
 まさか、あの009に限って、作戦が滞っていることへの苛立ちを彼女にぶつけたりするはずもない。が、そうなのではないかと思えるほど、彼の仕打ちは残酷そのものに見えた。
 しかし…と、006は、危ぶむ007に微笑しながら言った。
「あのお嬢さん、009にどんなに叱られても、罵られても、叩かれても、ちゃーんと毎日訓練はしているネ。ワイたちにはわからない何かが、きっとあの二人の間にはあるアルよ」
「…何か、ねえ…?」
「そうだ。俺も、そう思う」
 005が深くうなずいた。
「だがよ、それならそれで、別の気がかりも出来ちまうだろうが…まったく、アイツはどうしてこう、オンナが絡むとややこしいコトになっちまうのか…あの砂漠のときだってよ…」
「ソレ、仕方ないアル。色男の宿命ネ!私らにはない苦労アルよ」
「……」
 005の沈黙は賛同してのモノなのか異議あってのモノなのか、もうひとつわからない。007は、深々とわざとらしい溜息をついた。
 
「立て!」
 数回倒れては立ち上がることを繰り返していたユリが、とうとう地面につっぷして泣き出すと、ジョーは荒々しくその腕をつかみ、強引に引き起こした。
「イヤ!…もうイヤよ!これ以上、私に構わないで!」
「そういうわけにはいかない。僕は、田辺博士に約束したんだ。きっと、君の足を治してみせると」
「思い上がらないでちょうだい!アナタに何ができるの?何がわかるって言うの?」
「少なくとも、君が本当は歩ける体なのだということだけはわかっている。さあ、立て!」
「離して!…もう放っておいてちょうだい!」
 ユリは渾身の力を振り絞り、身をよじった。が、ジョーはびくともしない。ふ、と彼が微笑した気配を感じ、彼女はハッと顔を上げた。
「ずいぶんと、いらない力がついてきたじゃないか。やっぱり、君はもう治っているんだよ。ぐずぐず仮病を使ってパパの気を惹こうとするなんて、いい年をして恥ずかしくないのかい?ワガママお嬢さん?」 
「――っ!」
 胸の奥に、カッと怒りが燃え上がり、ユリは薄笑いを浮かべるジョーをにらみつけた。
「そうよ、ええ、好きなだけ笑えばいいわ!こんな姿になって…さぞかし無様に見えるでしょう。私にはもう生きている価値なんて……」
「…もう、少しだったのにな」
「――え?」
 やや沈んだ声に、ユリはけげんそうにジョーを見つめ直した。彼の微笑は、挑発的なものから、ひどく寂しげなものへと変わっていた。
「君は、今…ものすごく腹を立てた。僕に、見下され、侮辱されたと思ったから。そうだろう?」
「…ジョー?」
「君のプライドは、傷つけられた。傷つけられたということは、君にはそれがあるということだ……まだ、ある。あの頃のように」
「……」
「僕は、君を確かめたかったんだ。君の心に、燃えていたものが…君に宿っていた、あの強い光が、決して消えていないということを、信じていたから…でも、ごめん。君を傷つけたことに変わりはない。」
「ジョー……」
「君は、大丈夫だ。ユリ。……君は、少しも変わっていない。大丈夫なんだよ。自分を信じてくれ。そして、田辺博士のことも。博士は、君を誰よりも大切に思っている。君が、自分の足でもう一度立って、歩き始めることを…そして、人々のために力を尽くしてくれることを、きっと待ち望んでいるんだ」
「……」
 ジョーは今度はそうっと、両腕で大切そうにユリを抱き上げた。
「とうとう、君を歩けるようにしてあげられなかったね。つらい思いだけさせてしまった…ごめんよ。訓練は、今日で終わりだ」
「え…?」
「明日は世界平和会議の初日だ。博士の研究も完成するだろう」
「でも…!会議が終われば…そうすれば、その後ならもう少し、ここにいてもいいのでしょう?」
「そういうわけに、いかないんだ。すまない」
「ジョー…!どうして…?どうして、また、アナタは…」
「僕は、君の傍にいられない。理由は、あのときとは…違うけれど。でも、どこにいても、僕は君が幸せでいることを願っている。君が、君らしく生きていることを」
「私が……私らしく?」
 ユリは口の中でつぶやいた。ジョーはただ微笑み、それきり何も言わなかった。
 
 
 
 明日が決戦の日となる。サイボーグたちは入念な打ち合わせを重ね、フォーメーションを組んだ。結局、NBGの基地が発見できなかったことは痛いが、いずれにしろ、明日になれば、彼らは向こうから姿を現すに違いない。
 とはいえ、本当に何もかもわからなかったというわけではない。物資や金の流れを追いかけた結果、NBGの基地は十中八九、この街のどこかにあり、しかも、それひとつしかないだろう、ということはほぼ確信できていた。したがって、サイボーグたちの作戦も、それを前提に進められた。
「ヤツらは、まず光子力エネルギーを狙ってくるだろう。それを手に入れてから、次に、会議だと思う」 
 008の言葉に、002が首をひねった。
「しかし、完成した光子力エネルギーの研究を手に入れたからといって、それを瞬時に兵器利用し、会議場を攻撃できるとは思えないぜ?いくらヤツらでもな」
「それはそうだが…でも、今日まで何の動きもなかった、ということは…」
 008はちら、と003に視線を送った。彼女が力なく首を振るのを確かめ、仲間達に向き直る。
「どうするつもりなのかは見当がつかない。が、ヤツらが本気で会議を潰そうとするなら、もう、フツウの手段では到底無理だ。光子力エネルギーという切り札で、一気に事を進めようとしているとしか思えないし、もしそれが不可能なら、つまりヤツらは、平和会議の妨害の方を諦めた…ということなのかもしれない」
「…それは、考えられるな」
 004がうなずいた。
「僕も、008の考えに賛成だ。明日は、とにかく田辺博士の護衛に全力を向けることにしよう。003を除いた全員で、徹底的に防衛線を張って…」
「…待って、009!」
 003が慌てた声を上げる。が、まったく反応しない009に、彼女は懸命に訴えた。
「私も加わるわ!…索敵をするなら、私の眼と耳が……」
「今の君がサーチできる範囲で敵を捕捉しても、防御には手遅れだ。こちらに加わる意味はない。君はこれまでと同じように、ホテルの警備に協力してほしい」
「…でも」
「009の言う通りだよ。それに、警備の人たちは、君を本当に頼りにしているんだから」
 穏やかな008の言葉に、003は口を噤み、両手を軽く握りしめた。そんな003を見るともなく見ながら、002はじっと腕組みをしたまま、沈黙を守っていた。
 003を除くメンバーの最終配置が決まると、ミーティングはほどなく散会となった。ゆっくり立ち上がろうとした009の肩を軽く叩き、002は耳打ちするように言った。
「008の言ったことだが……たしかに警備の連中、003にすっかりヤラれちまってるらしいぜ」
「…何の話をしているんだ?」
 怪訝そうな009に、002はにや、と笑ってみせた。
「特に、若手のエースとかいう刑事が、すっかり彼女にご執心でな、それがまた、結構いい男なんだよな」
「……」
「まあ、見るともなく見ちまったんだが…よく気の付く男だぜ?彼女が本調子でないとわかったらしく、そりゃあもう、親切にべたべたとまとわりついて…」
「…作戦に関係ない噂話なら聞く気はない。特に、限界まで消耗しきっている003を、少しでも中傷するような話なら」
「…なんだと?」
「もう、休ませてもらうよ」
「……」
 すたすた遠ざかっていく009の後ろ姿を憮然と見送っていた002は、いきなり思い切り背中を叩かれ、思わずうめき声を上げた。
「な、なにしやがる…004、てめぇ…!」
「余計なことをするからだ、馬鹿が」
「…へっ!ったく、可愛げのないヤツだぜ。少しは焦っても罰は当たらねえだろうが!」
「009はそういうヤツだろう?…それより、今の話は本当なのか?そんな妙なヤツが、003に…」
「…ほう?オマエ、気になるのかよ?」
「当然だ。彼女は…何と言ってもまだコドモだ。まったく、あれでパリジェンヌとは到底信じられん。せいぜい俺たちが気を付けてやらないとな。この任務中に余計な色目を使ってくるなんざ、どうせロクな男じゃあるまい?」
「はは、たしかにな。……だが、心配無用だぜ。俺が黙って見ているだけだったと思うか?」
「…思わん。いや、わかったよ。…それ以上は何も考えたくないし、聞きたくもない」
「…だろう?」
 愉快そうに思い出し笑いをする002を、004はにがりきった顔で見つめた。
 
 足を忍ばせて部屋に入り、すやすや眠っている001を静かにゆりかごから抱き上げる。柔らかく、温かい感触が嬉しい。003は優しくその小さい体を抱きしめた。
「ねえ、イワン…もう眼を覚ましたら?…私たち、置いていかれてしまうのよ…?」
 頬をそうっと寄せて囁いても、安らかな寝息が乱されることはない。なんだかうらやましいわ…とつぶやいた。
 
――君がこちらに加わる意味はない。
 
 009の言葉が何度も蘇る。彼はただ本当のことを…必要なことを言っただけだ。他意などない。それは十分わかっているのに、003はこみ上げる寂しさをどうすることもできなかった。
 あのコズミ邸でのミーティング以来、今日まで009とは全く顔を合わせていなかった。彼はコズミ邸に泊まり込んでいたし、彼女はホテルの警備から離れられなかった。
 彼がどうしているのか、見ようと思えば見ることができた…が、状況はそれどころではなかったし、何より、そうでなくても不安定な視力を、万一でもそんなことで損ねるわけにはいかなった。
 宿に戻ると、交替で仮眠を取りに来た仲間達が、それとなく、戻らない009の動向を伝えてくれる。特に、007は、ユリの歩行訓練の様子をつぶさに語った。
 おそらく、仲間達は…もちろん、007も…003を思いやってそうしてくれているのだとよくわかった。009が酷薄なまでにユリに厳しい仕打ちを重ねていることも、そういうわけで、多少大げさに伝えられたのかもしれない。
が、007の話を聞きながら、あの優しい009がそういう態度に出ていることこそが、彼のユリへの思いの深さを表している、ということを、003は直感的に悟っていた。
 
――本当に、大切なひとなのね……でも、そうしたら…ジョーは。
 
 この作戦が終わったら、どうなってしまうのだろう…と、003はあの海に囲まれた研究所に思いを馳せた。彼は、この街に留まるわけにいかない。どんなにユリを愛していたとしても…いや、愛しているなら、なおさらのことだ。そして、傷ついた心を抱き、あの研究所に戻り…彼はまた、海を見つめるのだろうか。
 決戦を明日に控えた今、そんなことを考えている場合ではないと思っても、彼の寂しい背中を思うと、心が折れそうになる。特に、003としても何もできなくなってしまっている今だからこそ。
 この眼さえ、いつものように見えていてくれれば。そうすれば、もしかしたら、NBGの基地はとうに発見できていたかもしれない。事件はほぼ解決し、009はユリとの短いふれあいをもっと大切にできていたかもしれない。
 とうとう、ユリが歩けるようにはならなかった…とも、007は言った。彼女の歩行訓練は、009としてではなく、島村ジョーとして彼が彼女にしてあげることのできる、唯一のことだったにちがいない。それが成功しなかった、というのも、どうしようもなく悲しい。
 
――どうして、あなたがこんな目に遭うのかしら。いつも…いつも、こんなに優しいあなただけが…!
 
 003はゆりかごの脇に置かれていた椅子にすとん、と腰を下ろし、腕の中の001をゆっくり揺らすようにしながら、思いにふけった。
 
 
 
 翌日、世界平和会議は初日を迎えた。サイボーグたちの予想どおり、ホテルの方に異常はない。003はちらっと腕時計に目を走らせた。昨夜のミーティングで示された、光子力エネルギー完成の予定時刻はもう過ぎている。仲間たちはどうしているだろうか。NBGの襲撃はあったのか。もう戦闘になっているのだろうか。
 落ち着かなければ、と思っても、体が小刻みに震えてしまう。あの夜、009を音もなく背後から狙っていた三体のアンドロイドの不気味なシルエットが、どんなに打ち消そうとしても心に浮かんでくる。
「マドモアゼル…顔色がよくありませんが」
 ためらいがちな囁きに、003ははっと顔を上げた。ここ数日、親切にしてくれている若い刑事だった。彼は、ふと表情を引き締めると、辺りを見回すようにした。
「…い、いや、失礼。今日は、大丈夫なようですね」
「…あ!」
 昨日、よほど暇だったのか、それともただの気まぐれだったのか、002が加速装置を微妙に使いつつ、彼にしつこく嫌がらせを繰り返していたのだった。悪ふざけはやめて、と003は何度も通信を送ったが、完全に無視された。警備隊に対しては、003はフランス軍から内密に単独で派遣された、諜報サイボーグ…という話になっている。まさか、サイボーグ仲間のイタズラなんですと言うわけにもいかず、さんざん気を揉まされていたのだった。
「こういってはなんですが、我々も、今日はもう何も起きないだろうと考えているんです。あなたも、お国の方でのお立場はあるでしょうが、少し休まれた方が…」
「…いいえ、ご親切にありがとうございます…でも……っ?」
 突然、息をのみ、立ち上がった003に、彼は思わずぎょっと身を引いた。さらに程なく、彼女はそのまま両手を胸の前で組み、何かを一心に祈り始めた。
「マ…マドモアゼル?」
 ややあって、ようやく気を取り直した彼が、恐る恐る声をかけたときだった。彼女の全身から、一気に力が抜けた。床に崩れ落ちる華奢な体を慌てて抱き留めると、彼女は堅く目を閉じ、完全に意識を失っている。
「これは…一体?」
「…ウ…!」
「マドモアゼル!…気がつきましたか、今、水を…」
「い、いいえ…大丈夫…です」
「何を言われる!…まずはおかけください、それから…」
「大丈夫です…行かなくちゃ」
「行く?…どこへ?」
「行かなくちゃ…早く…!」
 今にも倒れそうになりながら、それでもふらふらと歩き始めた彼女を、彼は懸命に引き留めようとした…が。
「離して…離して、ください…!私は、行かなければ…!」
「……マドモアゼル」
 彼は、呆然と腕の中の彼女を見つめた。青い瞳が、底知れない湖のように深く澄み、揺れている。何度か深呼吸を繰り返してから、彼はようやく低い声で言った。
「…わかりました。車を用意させます。…どうぞ、お気をつけて」
  
 男が用意してくれた車は、田辺邸まで行き着かなかった。途中、不気味な地鳴りに思わずブレーキを踏んだ運転手に003は叫んだ。
「もう、この先は危ないわ…!すぐに引き返してください!」
「は、はい…っ?」
 車はタイヤを鳴らしてUターンした。そのまま猛スピードで主要国道まで戻り、ようやく人心地をつけると、運転手は後部座席に声をかけた。
「マドモアゼル、すみません、荒っぽいことをして…大丈夫ですか?……何だったんでしょうね、今の音…は……?マドモアゼルっ?」
 運転手は急ブレーキを踏み、猛烈な勢いで振り返った。
後部座席には、もう誰も座っていなかった。
 
     
 
――もう走らなくていいよ、003!
――001!…起きてくれたのね!
 
 足をもつれさせ、倒れそうになる003の両腕にちょこんと収まり、001は小さくあくびをした。
 まだ数日は眠っているはずの001を起こさなければならない何かが起きた。今の003に解っているのは、それだけだった。ホテルで、突然感じた強烈な仲間達のテレパシーに共鳴し、一心に祈ったものの、一体何が起きているのか、なぜ001を起こさなければならなかったのか…ということについては、未だ何もわかっていない。
 
――もう大丈夫。あとは009たちがやってくれる…さあ、力を抜いて…目を閉じて。……ちょっと荒っぽいけど、跳ぶよ?
 
 言われるまま目を閉じると、ふっと意識が途切れた。次の瞬間、大きな地響きに、003は思わず目を見開き、息をのんだ。
「…こ、れ……は…?」
「おお、003か…!ヤツらにしてやられた!NBGの基地は、なんと、この田辺邸の地下にあったんじゃ…そして、ワシと一緒に研究をしておった田辺博士も、ニセモノじゃった!彼らは、光子力エネルギーを充填できる武器を、既に持っておる。あとは、エネルギーの完成を待つばかりだったのじゃよ…!」
「…何、ですって…?」
「君の不具合の原因もわかったぞ。基地からの特殊な妨害電波のせいだったんじゃ。今回のヤツらの作戦に、003の能力はどうあっても邪魔だったからじゃろう」
「…そんな…それでは、本物の田辺博士は…?」
 
――大丈夫、無事だよ…今、みんなが助け出した。
 
「まあ!…よかったわ……ああっ?」
「うおっ?」
 
――でも、どうやらもう一踏ん張りしないと駄目みたいだネ。
 
 どこか呑気な001のテレパシーが遠く聞こえる。003は、地下から突如出現した、異様な光沢の装甲に包まれた巨大戦車を呆然と見つめていた。
「…光子力エネルギーを充填した、NBGの戦車だ」
「009!」
 地を這うような低い声に振り返ると、すさまじい闘志を燃やし、戦車をにらみつける009がいた。
「アイツは、ここから世界平和会議の会場へと光子力砲を放ち、参加者を全滅させ……街を火の海にしようとするつもりなんだ。…そうは、させるものか……003!」
「…はい!」
 003は意識を集中し、戦車を懸命に透視した。妨害電波は既に止まっているようだったが、既に狂わされてしまっている「眼」は、思うように像を結ばない。それでも、急がなければならなかった。
「…見えたわ!009、心臓部は中央前方…砲身の、真下!」
「わかった…!」
 あっというまにかき消えた009は、次の瞬間、戦車の砲身めがけてジャンプしながら姿を現した。
「…危ない!」
 003は思わず叫んだ。砲身は、既にエネルギーを充填し、発熱を始め、不気味に震えている。
 
――間に合わないわ…!ジョー、やめて…!
――大丈夫だよ、フランソワーズ。彼は、009だ。
 
 落ち着き払ったイワンのテレパシーにハッと目を見開いたときだった。009が、砲身によじ登りながら、渾身の力でそれをねじ曲げた。ほぼ同時に、砲身の尖端から、凄まじい光が迸る。
 003は、声にならない悲鳴を上げ、同時に意識を失った。
 
 
 
 むせかえるような香りに、003はふっと意識を取り戻した。何も見えない……が、遠くに仲間達の声が聞こえる。
「オマエなぁ…だからって、全部投げ捨てるか、フツウ?」
「フランソワーズは優しいからね…もらったモノを自分で処分することなんかできないだろう?」
「それは、そうだろうが…ぅわ、もしかして花瓶まで捨てやがったのかよ?…おぉ、おっかねえこった!」
「カンベンならない匂いだ、ソックリ捨てちまえって大騒ぎしたのは君だろ、002」
「まあ、そのへんにしとけ、二人とも。たしかにカンベンならない匂いではあったからな…まったく、非常識な男だ」
「…だよな?見舞いにカサブランカの大束はないぜ。しかも、タップリ花粉付きだ。ご丁寧に、趣味の悪い大花瓶までつけやがって…」
「それが、彼女のイメージだったんだろうがな…迷惑な話だ。だがまあ、病院の見舞いに深紅のバラの大束を、しかもゴッソリ棘付きで持っていきやがった男に比べりゃ、幾分マシかもしれないが」
「なんだよ、ソレ…?」 
 何の話をしているのかしら…と思いながら、003は、辺りに漂っている強い香りが百合の花のそれであることに思い至った。微かに伝わってくる振動は、どうやらドルフィン号のもので…と、いうことは。
 
――もう少し眠った方がいいよ、003。大丈夫。みんな終わったから…009も、もうピンピンしているし、何も心配ない。
――00…1?
 
 ああ、と小さく息をつき、003はまだ何も見えない目を静かに閉じた。ようやく事態がのみこめたような気がする。
 
――そういうこと。世界平和会議は無事に終了したし、田辺博士も、ユリさんも無事だ。光子力エネルギーが兵器化されることも、しばらくは心配しなくていいだろう。それから、009も、全然…
――うそ。怪我はしたはずよ。私、見ていたもの。
――バレてたか。ふふっ、でも、あんなの、彼にとっては、怪我のウチに入らないさ。あのまま爆発に巻き込まれていたら、さすがにマズかったけど…でも、僕が助けてあげたから。あ。わざと怪我させたわけじゃないよ?ホラ、僕はさ、意識のある人間をテレポートすることができないだろ?
――人が悪いわ、イワン。…もともと、あなたが戦車を破壊すればすんだことでしょう?
 
 咎めるような003の心の声に、001は面白そうにおしゃぶりを揺すりながら言った。
 
――だってね、なんか、張り切ってたから…009も、君も。邪魔したら悪いかなーって思ったのさ。
――001?
――ねえ、それより彼らの話を聞いててごらんよ。スゴク面白い。
 
「…で、それは何なんだ、009?」
「ちょっと可愛いだろう?田辺博士がお礼にって、大事に育てていたのを一鉢くれたんだ。僕はこういうの、駄目なんだけど、きっとフランソワーズが喜ぶんじゃないかと思って…」
「可愛い、ねえ…そう言うにはずいぶんとデカイじゃないか」
「少なくとも、バラだの百合だのよりはマシだと思うよ」
「甘いな、ジョー。オマエ、日本人だろうが?日本じゃ、そういうのは最低のマナー違反じゃないのか?」
「…え?」
「見舞いに鉢植えは御法度だと聞いたことがあるがな。寝付く、とかなんとかで縁起が悪いんだと」
「ええっ?」
「なんだ、やっぱり非常識なヤツ…というか、そんなことを知ってやがるドイツ人ってのもかなり非常識だが」
「抜かせ…!非常識な連中に囲まれているとな、いつのまにかこういういらん知識がついちまうモノさ」
「そうか、非常識だったかのかな……でも、彼女はフランス人だから、きっと気にしないよ。別に見舞いってわけでもないし」
「…結構雑なトコロがあるよな、オマエって」
「まあ、わからないでもないがな、ジョー…確かに、この色は彼女の瞳を思わせる」
「アルベルト…?」
「だが…教えておいてやろう。ソイツの花言葉は、『移り気』だ」
「…えっ?」
「ははっ、本当かよ?…そりゃあ傑作だ!さすがだな、ジョー!」
「ど、どういう意味だよっ?」
 
――あーあ、この調子だと、そのうち着陸するぞって騒ぎ出すな…みんな、きっと一鉢ずつ何か花を買おうとするんじゃない?君のために……フランソワーズ…?
 
 いつのまにか、003は眠りについていた。001はふわり、と浮き上がり、その安らかな寝顔を見下ろした。
 
――おやすみ、フランソワーズ。わかっているかな。君はね、どうしたって、003で…そして、フランソワーズ・アルヌールなんだ。だから、置いていかれたりなんかしない。僕たちはみんな、003なしでも、フランソワーズなしでも、いられないんだもの。いつか、君の方が、僕達を置いていくことなら……あるかもしれないけれど、ね。
 
 僕も、何か花を探しておこう、と001は思った。
 次に目が覚めたら、君は研究所にいて、僕達からの、たくさんの鉢植えに囲まれているだろう。
 
――そう、あの研究所に足りなかったモノはたとえば、そういうモノだったのかもしれないよね…?
 
 
10
 
 ドルフィンがギルモア研究所に着いたときも、まだ003は眠っていた。移動のため、その華奢な体をシーツにくるんだままそっと抱き上げると、009はふと胸が痛むのを感じた。
 
――信じられないぐらい、軽かった。
――あれで、サイボーグなのか?
 
 あの男の、押し殺した声が蘇る。同時に、真っ白なシーツから微かに百合の香りがしたような気がして、009はぎゅっと唇を噛んだ。
 別に、悪い男ではなかったのだろう、と思う。目の当たりで女性型サイボーグを…特に、彼女のようなサイボーグを見れば、多かれ少なかれ、誰でも思うことは似通っているのかもしれない。
 むしろ、彼が送り届けてきた、あの百合の花束には、微かな畏敬の念のようなものが込められていた…そんな風にも感じる。それは、きっと、003とふれあううちに感じずにはいられなかった、彼女の美しさや気高さに打たれてのことだったのではないかと009は思う。
 
 光子力砲を止めるための戦闘で傷ついた009は、速やかにドルフィン号でギルモアの治療を受けた。処置はすぐに済み、続いて001によって意識を落とされていた003が治療室に運ばれた。
 NBGの妨害電波は弱いものだった。003本人も含め、誰もその存在に気づかなかったのだから。が、微弱ながら、視神経をかき乱す効果があるというその電波に昼も夜も曝され、彼女が一体何日を過ごしたのかと思うと、どうにもならないやりきれなさが、ギルモアとサイボーグたちを包んだ。
 特に、009は自分自身を許せない思いに囚われていた。もし、自分がリーダーとして、あの極めて個人的な思いを…田辺ユリへの複雑な感情をしっかり整理することができていたら、もっと冷静に003の不調を分析できたのではないか。彼女をここまで苦しめずに済んだのではないか。そう思わずにはいられない。
 003の容態が落ち着くまで、移動はしない方がいいだろう、というギルモアの意見に従い、サイボーグたちは、世界平和会議が終了した後も、数日間、街に残った。田辺ユリから届いた、歩けるようになりました、ありがとう……という直筆の手紙も、その間に受け取ることができた。
 光子力砲の凄まじいエネルギーを受けた瞬間、009は浮遊感に包まれた。001だ、と思った。そこからの記憶はあまりはっきりしていない。が、遠くユリの叫びを聞いたような気はしている。
 仲間達の話では、ユリは倒れたジョーに必死で取りすがろうと、松葉杖を捨てて歩き出したのだという。報われたな、と微笑む005に、009はただ微笑を返した。彼らはそれ以上何も言わなかったが、その話が本当なら、ユリは、009の傷も……機械部分が露出した、忌まわしいサイボーグの姿も、目にしたに違いない。
 それでも、手紙を書いてくれた…そして、ありがとう、と伝えようとしてくれたユリは、やはり優しく強い女性だと、009は改めて思う。そして、おそらく…彼がサイボーグだと知った彼女は、なぜ彼が去らなければならないのかも、理解しただろう。それならば、彼女と会うことは、本当にもう、二度とないはずだった。 
  
――鋼鉄の、体。
 
 灼熱の砂漠で、彼にそう言い放った女性…マユミの震える声を、009は忘れることができない。忘れてはいけない、とも思う。だからこそ、003を守れなかったことをすまないと思い、ユリの思いやりをかけがえのないものとしてありがたく思う。
そんな思いこそが、鋼鉄の体を持つ者が辛うじて人間であるための条件であるような気もした。
 
 003はまだ眠り続けていたが、もう危険はないだろうと、ギルモアが太鼓判を押し、明日は出発…という夜だった。009は一人でふらりと街に出た。何かアテがあるわけでもなかったが、あの、海に囲まれた研究所に戻る前に、何となく人の気配を感じてみたかった。仲間たちも、それぞれ思い思いの場所へと外出しているようだった。
 そうして彼が立ち寄った小さなバーで、サイボーグ、という微かな声を聞き取ったのは、やはり、どこか神経が高ぶっていたからなのかもしれない。
 
――本当か?オマエ、失恋ついでに適当なコトをフカしてるんじゃ…
――失恋…か。フフ、そういう風に見えるのかね、やっぱり…
――たしかに、今回…サイボーグが数体混ざっているという噂は聞いたことがあるが…じゃ、米軍のヤツか?それとも…
――フランス軍の所属だったと聞いている。
――フランス?ほう、知らなかったな、そんな技術があの国にあったとは…
――いや。改造度は極めて低いはずだ。一度だけ、気を失ったのを抱き上げたんだが…信じられないぐらい、軽かった。
――うむ?だが、そんなのが混ざってちゃ…かえって足手まといになんじゃないか?真剣勝負の現場を、科学者連中の実験室代わりにされたんじゃ、たまったもんじゃないぜ。
――だから、考えろって…怖いほどの美少女だったんだぜ?どんな男でも、アレには魂をもっていかれちまう。つまり、そういうこと、さ。戦うだけがサイボーグじゃない。真剣勝負といえば、これ以上の真剣勝負はないだろう。
――それは、それは…で、オマエも、もっていかれちまった、と。そいつはちょっとした役得だな。超ハイテクを駆使した美少女サイボーグとはね…で、味はどうだった?
――馬鹿。そこまで命知らずじゃないさ、俺だってな。そもそも、俺は彼女のターゲットでもなんでもない。およびじゃなかったよ。
――そうか。そうだよな…なるほど、天国の入口は地獄の扉ってヤツか。くわばら、くわばらだ。
 
 なぜ、自分はいつまでもココに座っているのだろう…?気が遠くなりそうな怒りの中でグラスを握りしめながら、009は思った。
003を…あの優しい少女を、彼女がサイボーグであるということだけを根拠に、好き勝手に貶める男達がいる。しかし、だからといって彼らを叩きのめすわけにはいかないのなら、早くココを立ち去るべきなのだ。が、009は凍りついたようにその場から動けなかった。
 
――あれが、サイボーグ、なのか?…可哀相に…
 
 ふと痛ましそうに、吐息とともに、男がつぶやいた。009はゆっくり振り返り、その卑屈に丸まった背中に向かって、心で叫んだ。
 
――オマエなどに、同情される言われはない…!
 
 どれほどそうしていたのかわからない。ふと我に返ったときは、店の照明は半分落とされ、客も自分だけとなっていた。あからさまな迷惑顔の店員に勘定を払い、009はのろのろと店を出た。
 
――サイボーグである、ということは……そういうこと、なのか?
 
 思い切り誰かを殴りつけたいような、声を放って泣きたいような、自分自身をナイフで切り刻みたいような、混乱しきった感情を009はもてあましていた。
 ほぼ全身をくまなく機械化された、戦闘サイボーグ009。この、鋼鉄の体。自分と比べれば、女性であるがゆえに生身の部分を多く残された003はまだ幸せな方なのだと、ひそかに思っていた。いつも、どこかでそう思っていた。
 不意に吐き気を覚え、009は口元を片手で強く押さえた。
 
――女性で、あるがゆえに…?
 
 女性だったから、003の改造度は意識的に抑えた。たしかに、ギルモアはそう言ったことがある。それは、どういう意味だったのか。
もし、あの男たちの言うとおりだったのなら…BGが始めから「そのつもり」で美しい彼女を狙って攫い、「そのため」に生身の部分を意識的に多く残しつつ改造したというのなら――。もしそれが本当のことなら、きっと自分はギルモアを殺すだろう。
こみあげるおぞましさに耐えきれず、ついに009は膝を折り、烈しく嘔吐した。とめどなく涙があふれる。
 
――何を考えているんだ、しっかりしろ!…守ると、決めたんじゃないのか?そのための…この、鋼鉄の体だと…!
 
 誰にも見つからないように宿に帰ったつもりだったが、どういうわけか、006に見とがめられてしまった。真夜中にもかかわらず、盛大に叱られ、シャワールームに押し込められ、ついでに、どういう早業で作ったのかわからない、やさしい甘さの中華菓子をあてがわれて、009はまた静かに泣いた。
 
 カサブランカの大束が宿に届いたのは、その翌朝、出発間際のことだった。誰からの贈り物と確認するヒマもなく、それは慌ただしくドルフィン号に積み込まれた。
 ほどなく機内に充満した、そのむせかえるような匂いに、まず002が文句を言い始めた。003への贈り物らしいのだから、彼女が目ざめるまでは我慢しろ、と諭す008の言葉に、ふと送り主の名前を確認した009は、突然顔色を変え、いきなりソレを花瓶ごと抱えて、走った。あっけにとられた仲間たちが後を追おうとしたときには、花は既にそっくり機外へと放り出されていた。
 珍しいコトをするじゃないか、男の嫉妬ってのは恐ろしいね、などと冷やかす仲間の声を、肩で息をしながら、009は遠く聞いていた。
「…何、あった?」
 005だけが、すれ違いざまに、低く尋ねた。009は堅く唇を噛み、ただ首を振った。
 
 
11   
 
 いきなり真っ青な花びらが視界に飛び込んできた。自分がどこにいるのか、全くわからない。戸惑う003の額を、009はそっと抑えるようにした。
「…気が、ついたかい?」
「…ジョー?…ここは…」
「研究所だよ。よく、眠ったね」
「…研究所……」
 細く白い首筋が微かに動くと、金糸のような髪がさらさらと枕を滑っていく。息苦しいような思いにつつまれ、009は003の額から手を離した。
「…キレイ。紫陽花…ね?」
「…ウン」
「どうしたの…?鉢植え?」
「ウン。田辺博士がくださったんだ」
「…すてき。大事にしなくちゃ…」
「それだけじゃないよ…見てごらん、フランソワーズ」
 009は起き上がろうとした003の背中をそっと支えた。ぐるり、と部屋を見回した青い瞳がぱっと明るくなる。
「すごいわ…!どうしたの、こんなに…たくさんのお花……!」
「みんなから、君にお見舞い。…気に入ったかい?」
「ええ…ええ!…ああ、こんな暗いトコロに置いていたら可哀相ね…どこに置こうかしら?」
「005がね、甲板の、君の気に入ったトコロに、植木鉢用の棚をすぐ作ってあげると言っていた」
「本当?」
「ああ。……そうだ、物干し台もついでに作ってもらおうか?ホントに救助隊が来るかもしれないけど」
「…ジョーったら…!」
 003は明るい笑い声を立てた。
 
――ああ、やっと笑ってくれた…!
 
 ずいぶん、長い間、彼女の笑顔を見ていなかったのだ。そのことに気づいたとき、009は思わず003を引き寄せ、抱きしめていた。
「…ジョー?」
「……。」
「ど、どうしたの…?ジョー……?離し……て」
「…ゴメン…」
「…ジョー…?」
「よかった……本当に…!」
 003はあ、と息をのんだ。ほろほろと落ちてきた数滴の滴に、肩が濡れるのを感じたのだった。
 
――泣いているの?…ジョー……どうして…?
 
 彼が涙する理由は、ユリとの別れ…ぐらいしか、003には思いつかない。どうしたらいいのかしら…と逡巡しているうちに、009はようやく我に返ったようだった。そっと003を離し、ゴメンね、と小さく言った。
「…ジョー?」
「…ウン?」
「あの……ユリさんの…足…は…?」
「…ああ。治った…って、手紙をもらったよ。もう自由に歩き回ることもできるようになったらしい」
「まあ…!よかったわ……アナタのおかげね、ジョー…!」
「え…?僕は……別に」
「アナタの心が、きっと通じたんだわ…本当に、よかった…!」
「…フランソワーズ」
 僕は、何を悩んでいたのだろう…と、009は思う。彼女の笑顔を見るだけで、何もかもがキレイに溶けて流れていくような気がするのは、どうしてなのだろう。わけもなく、また涙があふれそうになり、009は慌てて低い天井を仰いだ。無性に空が見たくなった。
「フランソワーズ。外に…出てみるかい?」
「…いいの?」
「僕が抱いていくならね……イヤ?」
「…そんなことは、ないけれど…」
 赤ちゃんみたい、恥ずかしいわ…と、頬を染め、つぶやく003に、009は微笑した。
 
 慎重に階段を上り、甲板に出ると、見事な快晴だった。003が009の腕の中で、ああ…と、嬉しそうに嘆息する。
「気持ちいいわ…それに、なんてきれいな色なんでしょう…!」 
「そうだね…」
「あなたが、どうして海を見るのか、やっとわかったわ」
「…フランソワーズ?」
「こんなに……きれいだったなんて…」
「……ウン」
 そう言われてみると、たしかに、空も海も、見たことがないほど青く深く澄み、美しい。009は思わず深呼吸していた。
「帰ってきたから…そう思うのかしら」
「帰ってきた…?」
「ええ。ここから外へ出て、帰ってきたのって…私、初めてでしょう?きっと、だからなのね。こうしてみると、わかるわ……ここが、私の家なんだ…って」
「ああ……そういうこと、か」
 そうかもしれない、と009は思った。ここが、僕達の家。活動の拠点となる研究所だから、というわけではなく…
「家族が、いて。いつも変わらない空があって…なんて、静かなんでしょう。どこにいるよりも安らげるような気がするわ…」
「…パリに、いるよりも?」
 思わず尋ねてしまってからしまった、と唇を噛む。が、003はふわっと柔らかく笑い、もちろんよ、とうなずいた。
「家族がいて…って、言ったでしょう?私の家族は、あなたたちなの…ねえ、ジョー…ココに作ったらどうかしら?」
「あ。植木鉢の棚、かい?」
「ううん。物干し台よ」
「…フランソワーズ。本気で言ってるのか?」
「ふふっ…ここが私の家なんだと思ったら…急に欲しくなっちゃった」
「それは、駄目だよ…救助隊が来ちゃうからね」
「まあ…!」
 009は、003を抱え直すふりをして、ひそかに抱きしめた。
 
この笑顔を踏みにじるような真似は誰にもさせない。世界が彼女を傷つけるというのなら、そんな世界になど、二度と出さなければいい。いつまでもここで、僕が大切に守る。切実にそう思いながらも、それが身勝手な感傷であるということにも009は気づいていた。
どれほど人々に傷つけられようと、003はその人々のために戦い続けることを願い、自分の命を差し出すことすら厭わない。彼女のそんな姿を、009はこれまで何度も見てきたのだから。
 
――ユリ。やっぱり僕は、今も弱虫なのかな…?
 
 ふと思う。ユリといい、フランソワーズといい、なんと強くまぶしいひとなのだろう。そして、そんな彼女たちのために自分ができることといえば、この鋼鉄の体をもって、血に染まる戦場を駆け抜けることだけなのだ。
 
――それだけしかできないが、それだけなら僕にもできる。
 
 黙り込んだ009を、003が不安そうに見上げる。その視線に気づかないまま、彼はつぶやくように言った。
「…僕に、守れるだろうか…?」
 短い沈黙の後、003がしっかりとうなずいた。
「きっと、守れるわ……あなたなら。この、世界を」
「…フランソワーズ?」
「009だからではなく…あなただからよ、ジョー。いつも、そう信じてる。だから、どんなときも…どんな場所でも、あなたがいてくれるなら、私は、少しも怖くないの」
「……。」
 
 ありがとう、という言葉は声にならなかった。どこまでも澄んだ空と海を挑むように見つめながら、009は003を抱く腕に、ただ力を込めた。                                   
 

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Last updated: 2011/8/3