3      ある高校の林間学校
 
レポート課題: 遠足 or 修学旅行シーンを展開せよ
 
 
 
バスから降りた生徒たちから、歓声と悲鳴とが同時に上がる。
1学期最後の行事、林間学校…2泊3日。宿所は学校所有の「歴史ある山荘」だったりする。
 
木造の古い建物。飛び交う昆虫。女生徒の中には、真剣に「帰りたい〜」と半泣きになっているのもいる。しかしだな、諸君、物事は…
 
「前向きに考えなくちゃ。こんなに涼しくて気持ちいいなんて思わなかった…ハイキングも楽しみ!」
「ノンキね、フランソワーズは…!」
 
振り返ると、青い目にぶつかった。が、その目は私のところになど留まってはいない。忙しく辺りをくるくると見回し、楽しげに輝いている。
 
次の瞬間、廊下の突き当たりで絶叫。
顔を見合わせているフランソワーズたちをおいて行ってみると、部屋に蜂がいる!…と大騒ぎ。
いや、蜂じゃなくて…虻なんだけど…どっちでもいいか。
ため息をついて、私は廊下の釘にかかっている座敷箒をつかんだ。一撃。
 
再び絶叫。
無用な殺生をしてしまった。
 
「いや…お見事、先生…」
いつのまにか、隣に学年主任がいた。
彼はかがんで、虻の死骸をつまみあげると、にやっと笑い、遠巻きにしている女生徒たちに示した。
「…ほしい?」
 
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う生徒たちを嬉しそうに眺め、死骸を部屋の真ん中に投げると、学年主任は、箒を持ったまま突っ立っている私を振り返った。
 
「じゃ…先生、散策の前に…打ち合わせ、始めましょうか?」
 
打ち合わせの間中、足音やら笑い声やら悲鳴やら…山荘が吹っ飛びそうな騒ぎが続いていた。3日間、この喧騒が静まることはない。慣れるけれど。
突然、雷鳴のような轟音がとどろき、部屋が大きく揺れた。一瞬飛び上がった同僚たちの目が、何となく私に集まる。今日2回目のため息をつき、私は立ち上がった。大きく息を吸い、座敷箒を掴む。
 
「ジェット・リンク!!…廊下を走るな、と、やかましく言っただろーがっ!!」
赤毛の少年が小馬鹿にしたように笑う。
「走ってませーん…あそこから飛んだだけ…!うわっ!何するんだよ、先生?…体罰反対!!」
「コトバの通じないヤツには、やむをえんっ!!」
壁際に追い詰め、箒で背中をばしばし叩く。
 
「大変ですねー」
部屋に戻った私に、学年主任がうなずく。
「ま、適当に相手してください…先生の体力を消耗しない程度に…島村ジョーもいることだし」
そうなのだ。正直、ジョーが来るとは思っていなかった。
でも、付属中の元担任から、彼が修学旅行に参加したことは聞いていた。それで、結局ケンカした。ということも。
 
口をきかない子だけど、気にしなければいいのよ、と彼女はあっさり言ったが、そう簡単に割りきっていいものだろうか。入学以来、わずか3ヶ月なのに、島村ジョーについては、薄氷を踏む思いの連続だった。とにかくケンカが多い。
 
それでも、オトナになったわよ、と元担任は笑う。
だって、自分から手出しはしなくなったもの。
 
それって、数秒早いか遅いかという問題にすぎないと思うが。
 
担任はなるべく女性にする。ジョーは男しか殴らないようだから。
それで、ジェット・リンクを同じクラスにする。宿命の好敵手をおいて、お互い適当にエネルギーを発散させる。
とはいえ、ジョーとジェットがそろったクラスの担任…あまりに気の毒。そこで、学級経営の切り札、天下無敵の学級委員長、フランソワーズ・アルヌールも同じクラスにする。
 
これが、付属中の作戦だったらしい。
内部進学者のクラス編成は中学に任されている。こちらが否という余地はない。
 
散策にでかける準備をしていると、アルベルトが「失礼します」と入ってきた。
「先生…ジョーが…具合が悪いから、歩けない…と言ってるんですが」
「…え?…バスで酔ったの?」
「さあ…?」
救急箱を持って、彼らの部屋へ急ぐ。
部屋の隅で、ジョーが足を投げ出し、壁にもたれて座っていた。フランソワーズが心配そうに枕を抱えて立っている。
 
「…昼ご飯は食べたの?」
うなずく。
「おなか痛い?」
首を振る。
「熱は…?」
言いながら、素早く栗色の頭を抱え込み、額に手を当てる。
3ヶ月のつきあいでわかってきた。
ジョーは不意打ちに弱い。
 
しかし、彼に触っていられたのは、ほんの数秒。振り払われ、私は尻餅をついてしまった。
「ジョー!…元気じゃねえか、おまえ?」
アルベルトが呆れ顔で言う。
いや。
たしかに、少し熱かった…気がするが。
 
「無理しない方がいいですよね、先生…明日のこともあるし」
フランソワーズはジョーの隣にそっと枕をおいて、私を見た。
まあ…そうかも。
 
 
 
 
散策のスタート地点は、いかにも立ち入り禁止、という感じの低い柵である。そこを乗り越えて林に入り、進む。
「こんなところ…いいんですか、先生?」
よくわからないが、何年もこうやっているし。
おまけに、林から出るときには、私の肩のあたりまである高さの柵を乗り越えなければならない。
前に来たときは軽々越えられたけど。体が重くなったから…
逡巡する私の肩から、アルベルトが黙って救急箱を取る。
「僕が持っていきます」
気の回る生徒だ。私は柵をつかみ、思い切り飛び上がった。
「ありがとう、アルベルト…」
私の後から、こともなげに柵を乗り越えたアルベルトは、救急箱を受け取ろうとすると、笑って首を振った。
「持ってますよ、先生…結構重いし」
再び、ありがとう、と言う間もなく、彼はすたすたと前を歩いていく。
 
アルベルト・ハインリヒは、高校に入学してまもなく病気になり、2年近く休学していた。
きわめて優秀だったので、自力で大学入試に挑むことも十分できたはずだが、高校生活を体験したい…と、彼は1年生に戻ることを望んだ。フランソワーズ・アルヌールとは遠縁にあたるらしい。
 
ほかの生徒より年上で、病苦を知っている…ということを考えに入れても、高校生離れした気配りをする生徒だった。うちのクラスの担任はアルベルトとフランソワーズだと言っても過言ではない。おかげで、私はジョーとジェットの相手に専念することができる。
 
散策の目的地は小高い丘。
夕日に照らされた山並みが一望できる。
一般の観光客の姿もちらちらと見える。
 
「先生ーっ!!写真ーっ!!」
ジェット・リンクだ。いつの間にか、丘の上のモニュメントによじ登っている。
とりあえず、シカト。
「先生!!…先生、シカトするなよっ!!」
「先生…ジェットが…」
フランソワーズが私とジェットを見比べる。
「人前で先生って言うな!…と言っておいて」
フランソワーズはくすくす笑うと、カメラを持ってモニュメントへ走っていった。
彼女が駆け寄るのに気づき、歓声をあげるジェット。情けないほど素直だ。
 
帰りは、別ルート。
途中、石づたいに小さな沢を渡る。男子はすいすい渡ってしまうが、女子が黄色い声を上げて怖がる。手を取り合って渡るのもいたりして。
よせって、かえって危ない…と見ているうちに、一人が足もとをふらつかせ、慌てて彼女の手を取ろうとしたフランソワーズが、バランスを崩し、倒れた。
水音と悲鳴。
 
急いで沢の中をじゃぶじゃぶ渡り、手を貸すと、フランソワーズは大きな目をますます大きく見開いて、ふらふらと立ち上がった。
 
「怪我しなかった?」
「だ…いじょうぶです…すみません…」
 
わあわあ騒ぐ生徒たちを、学年主任が一喝して先に進ませるのを見送ってから、フランソワーズの手を引いてゆっくり歩く。水は足首のあたりまでしかない。
岸で見守っていたアルベルトが、フランソワーズのぬれたザックを受け取った。
 
「馬鹿だな、お前…助けようとして、自分が落ちてたら世話ねえぞ」
「ごめんなさい…」
「帰ったら、よく拭いとけよ…風邪ひくからな」
 
私の言うべきことが、なくなってしまった。
黙ってアルベルトから救急箱を取り返した。
 
 
 
 
夕食は、カレー。
配膳を終わり、大騒ぎの末、一瞬静かになって「いただきます」。そして、また大騒ぎ。
やがて、お替わりの行列。ふと見ると、ジョーが列にしっかり並んでいる。
 
私の視線を追い、学年主任は、首を傾げた。
「島村ジョー…さっきのは、アレ…ですかね?」
アレ…とは、この場合、仮病のこと。
「…さあ…?」
よくわからない。
 
夕食後の、班長会議の最中だった。
班長会議は食堂でおこなう。規則では、その間、班員は部屋で待機…ということになっているのだが、騒々しい足音をたてて、ジェット・リンクが食堂に飛び込んできた。備え付けの自動販売機が目的だったらしい。
私より先に、学年主任が口を開いた。
 
「何の用だ?」
「え?」
 
ジェットはぴたっと足を止め、私たちを見回した。しまった…という表情。
素早く、笑ってごまかす作戦に出ようとした彼の方を向いたまま、間髪を入れず、学年主任は言った。
 
「こいつの班の班長…この後、残れ」
 
しん…とした中、フランソワーズが目を伏せる。ジェットの頬にさっと朱がさした。
 
「先生!それは…!」
「ジェット…!部屋に戻りなさい」
 
私もとっておきの声を出す。
叱られ慣れている生徒は、頃合いをはかるのにも長けている。ジェットは黙って食堂を出ていった。
 
「すみませんでした…これから、ちゃんときまりを守るように…伝えます」
残されたフランソワーズは学年主任と私に頭を下げた。
「絶対だな?」
「…え?」
思わず見返してしまったフランソワーズと私に、学年主任は真顔で言った。
「聞く気のない奴に、いくら言っても伝わらない…聞かなくちゃマズイって気にさせることが大事。それが、できるのか?」
フランソワーズはうつむいたまま返事ができない。
もちろん、私だって返事などできない。
 
「先生…俺…!」
フランソワーズがハッと振り向く。ジェットだ。
「お前は関係ない。帰れ」
とりつくしまなしの学年主任に、ジェットは懸命に食い下がった。
「班長は、ちゃんと話したんです…俺が…」
「結果が出なければ、伝えたことにはならないんだ」
「そいつのせいじゃない…!俺が勝手に…だから…責任は俺に…」
「班長じゃないやつに、責任はとれない」
 
「ジェット…」
フランソワーズが哀願するように彼を見つめる。
 
足音荒くジェットが立ち去ると、固まっていた私たちを振り返り、学年主任は首を傾げるようにした。
 
「これで、少しは聞かなくちゃマズイ…って気になったかなぁ?」
 
瞬きを繰り返すフランソワーズに、私は慌てて言った。
「わかったわね、じゃ、部屋に戻って…!もうすぐ消灯だし」
 
フランソワーズを見送り、私はため息をついた。
「だめですよ、先生ってば…種明かししたら…!」
「いや、彼女にはバレバレかなぁ…って思ったんですが…卑怯なやり方だし」
卑怯……確かに、かなり。
「これで…ジェット、少しはおとなしくなるかしら?」
「…なったら大笑いですねえ…」
 
大笑いだったのかもしれない。
その夜は、あっけないほど静かに更けていった。
 
 
 
 
ハイキングの出発は早い。
いつもなら、起床・洗面・朝礼・朝食…と、結構手こずるのだが、今年は何だか順調だ。
生徒はよく寝たようだし、時間もきっちり守ってくる。
 
どうやらジェットの仕業らしい…と、気づいた。
二度と班長が叱られないようにと彼は気張り、自分だけ気張るのが悔しくて、相手かまわずハッパをかけているのだ。
 
本格的なハイキングコースに入るまで、しばらく普通の道を歩かなければならない。
私は最後尾につき、ジェットとジョーの動向を見張っていた。
歩きながら、ジェットがさりげなくジョーの後頭部をつっつく。
ジョーはうるさそうに頭をふる。
かまわず、ジェットはジョーのザックに肘を乗せ、体重をかける。
ジョーは動じない。ジェットを引きずって、ずんずん歩いていく。
…やめてくれよ、おい…
私はつぶやいた。
 
大丈夫か?
もうすぐ、あのポイントだ。
 
地元の高校のすぐ脇。
平日だし、ちょうど登校時刻と重なっている。
 
いつもなら、別に問題はない。
しかし。
中途半端に攻撃本能を抑えこまれてきたジェットと、いらいらを募らせるジョーとが揃った今。
私は深呼吸して、気合いを入れ直した。
 
登校する高校生たちの行列とすれ違う。
お互いにちらっと好奇の視線をかわすが、もちろんそれだけ。
だが、安心するのは早い。勝負はこれからだ。
遅刻すれすれの時間…もしくはそれ以降にぽつぽつやってくるヤツが、危ない。
 
「…なんだ、アイツら?」
ジェットが口の中でつぶやいたのを、私は聞き逃さなかった。
来る来る来る。
「いかにも」な格好の少年が五人。
 
おとなしい生徒たちは、何となく目をそらすようにして、そそくさと歩いていく。
こっそりジョーをのぞいた。
ジョーはじっと少年たちを見据えている。
 
まずい。
 
少年たちは、ふと笑いさざめく女子のグループを見やった。
私は反射的に叫んだ。
 
「フランソワーズっ!!…遅れてるわよ、急ぎなさい!!」
 
フランソワーズはきょとん、と私を見た。振り向き、前との距離を確かめる。
大変…!とつぶやき、彼女は小走りを始めた。ほかの女子も、きゃあきゃあ言いながらついていく。
間髪を入れず、ジョーとジェットを突き飛ばした。
 
「あんたたちもっ!…道路が渡れなくなるっ!!」
「何すんだよ、先生…?」
 
ジェットのザックをぐいぐい押しながら、ふとアルベルトを見た。
アルベルトは薄く笑いを浮かべ、ジョーの腕をつかむ。驚くジョー。ほんとに不意打ちに弱い子だ。
「ホラ、行こうぜ!」
 
私とアルベルトは、二人をずるずる引きずるようにして、先を急いだ。
なんだか…
これって、何かに似ている…ええと…
 
国道を渡すため、待っていた学年主任が私に笑いかけた。
「お疲れさま…犬の散歩みたいでしたよ、先生」
 
…それだ。
 
 
 
 
急な斜面を降り、渓谷を歩く。
涼しい風が吹き抜け、木漏れ日も心地よい。
 
昼食の後、いよいよ、今日一番の難所にかかった。
谷を、一気に登るのである。
 
足場は滑りやすいし、なんといっても、傾斜がきつい。
鎖場…というほどではないが、一応鎖も設置されているくらいで。
登る時間はせいぜい10分というところだが、これが果てしなく長い。
 
一人、また一人と登っていく。
「ゆっくり行きなさい…!」
「ゆっくり…ゆっくりだぞ!」
上の方で先導する教員たちの声。
 
「苦しくなったら、できるだけ脇に寄って休みなさいね…無理したら駄目よ」
私は僅かに焦っていた。なんだか、急に雲行きがアヤシイ感じになっている。
ここで、雨に降られたら…
 
アルベルトの班を見送り…最後はフランソワーズの班だ。
突然、悲鳴が上がった。
女子の最後についたフランソワーズが、少し登ったところで、がくん、と足を捻り、滑り落ちた。
 
「フランソワーズ?」
 
慌てて駆け寄る。
フランソワーズは膝を折ったまま、きゅっと唇を結び、目を閉じている。
降りてこようとして、足を滑らせかけた女子が、また悲鳴を上げた。
 
「いいから!…あなたたち、先に行きなさい…!!」
 
『どうか、しましたか…?』トランシーバーが鳴った。学年主任だ。
「フランソワーズが、足を痛めて…」
『歩ける?』
「わかりません…」
『何だか、降ってきそうだから…こいつらを上のレストハウスに入れたら、そっちに戻ります…登れそうなら、登らせてください…でも、無理はしないで』
「了解」
 
ざざっ…という音に振り返ると、アルベルトが降りてきていた。
フランソワーズのもとに駆け寄ると、手早く靴と靴下を脱がせて足首をとった。慎重に動かす。
 
「…痛いか?」
フランソワーズが口を結んだまま、うなずく。
「じゃ…こっちは…?」
 
アルベルトは私を振り返った。
「先生…湿布、ありますか…?あと、テーピングと…」
まごつきながら、救急箱を差し出すと、アルベルトは実に手際よく手当を始めた。
 
「捻っただけみたいだから、大丈夫だ…こっちは…昨日、転んだとき痛めたな…変に庇ったから、うまく歩けなかったんだよ…どうして黙ってた?」
「…ごめんなさい…どうしても…みんなと一緒に行きたくて…」
 
きっちりとテーピングを終え、アルベルトはさっさと片づけを始めた。
…大したもんだ。
私の視線に気づき、彼は肩をすくめた。
「素人仕事だから…すぐ手当し直した方がいいと思います…でも、とりあえず…」
「大丈夫よ、アルベルト…とっても楽になったわ…ありがとう…」
立ち上がろうとしたフランソワーズを、私は慌てて押さえた。
「無理しちゃだめ…!とにかく、ここで待ってましょう…あら?」
 
ジョーとジェットが立っている。
 
「…いたの、あんたたち…?大丈夫だから、先に行ってなさい…それで…」
「こいつ、どうやって上に登るんだ、先生?」
「…どうって…おぶっていく…んでしょう…やっぱり…」
「誰が?」
 
ジェットの言葉に、私はふと考え込んだ。
確かに。
教員といえども、そうそう力持ち…というわけではない。
 
「…だから」
アルベルトが考えながら言う。
「…俺達のうち、一人がこいつを背負って、一人がこいつのザックを持ってやって…もう一人が、背負ってるやつのザックを持つ…ちょうど三人いるし…どうにかなるんじゃ?」
 
なるほど。
やってみるか。力なら、この子たちの方が上かも。
雨が降ったらやっかいだ。急いだ方がいい。でも。
 
私はまた考えこんだ。
誰にフランソワーズを背負わせるか。
 
ジョーは一番小柄だし…
ジェットは力ありそうだけど…たしか、こいつにはセクハラの前科が…去年、女子風呂覗きをしたとかしないとか。
やっぱりアルベルトだな…と思った私の前に、フランソワーズをおぶったジョーが立っていた。
 
「え…?」
「ほら、行こうぜ、先生…!」
 
ふて腐れた顔でジェットがジョーのザックを背負い、アルベルトにフランソワーズのザックを投げた。
 
 
 
 
先導はアルベルト。次がジョーとフランソワーズ。並ぶようにして、すぐ後ろに私。しんがりはジェットだ。
一歩一歩、慎重に登っていく。
暑い。
この斜面を登るのは、本当に久しぶりだけど…こんなにキツかったかしら?
ジョーは息一つ切らさず歩いている。
若いって…こういうことなのかも。
それにしても…
 
「ジョー、ここで交替しよう…アルベルトに替ってもらって」
返事がない。
「ジョー!…ちょっと、待ちなさい!」
フランソワーズが何か耳打ちしたように見えた。ジョーは立ち止まり、振り返った。
 
「大丈夫です。あと少しですから」
 
久しぶりに聞いたぞ。あんたの声。
意外に澄んだ、明るい声だ…とか、感心している場合ではない。
どうして、あと少しってわかるんだ。いいかげんな奴。
 
後ろからジェットが私をつっつく。
「先生…無駄だって、あいつ…強情だから。それに、フランは軽いし…」
「ザックよりは重いでしょう」
「いいからさ…!おいジョー、コケるなよ!!」
返事はない。ジェットは舌打ちした。
 
「ところで、先生…なんで、交替するの、アルベルトなわけ?オレは?」
「だって、あんた、セクハラ少年だって聞いたもん」
「誰に?」
「悪事千里を走る…!」
「だあっ…!だからイヤなんだよ、付属ってのは…!!」
ジェットの息も少しずつ乱れ始めている。
 
ジョー…頼むから、コケないでよ…
とにかく、神様にお祈りするしかない。
 
ほぼ登り切って、道が平坦になってきたころ、戻ってきた同僚に行き会った。
当然、「交替」しにきたわけだが。
ジョーは頑としてフランソワーズを下ろさない。返事もしない。ただ黙々と歩き続ける。
何とかならないの…?と言わんばかりに、同僚は私を見たが、シカト。
何とかしたいなら、自分でこの子と話をつけて。
私はそんなこと、ごめんだわ。
 
不機嫌きわまりない私の様子に、彼は肩をすくめ、それ以上何も言わなかった。
 
林を抜けた。
広々とした牧場の向こうに、レストハウスが見える。
フランソワーズの友達が、口々に何か言いながら、駆けてくる。
ジョーは黙ってフランソワーズを下ろし、そのまま、さっさとレストハウスへ向かった。
 
「ありがとう…島村君…」
 
振り向きもしない。返事もしない。
ジェットがザックを振り回しながら、彼の後を追う。
やがて、フランソワーズは友人達に取り囲まれた。
 
「お疲れさま…大変でしたね」
学年主任だ。
「…応急手当は?」
「あ…アルベルトが…やってくれて…」
そう?と学年主任はアルベルトを見てうなずいた。
「お前がやったなら、大丈夫か…でも、一応…」
「ええ…ちゃんと診てもらわないと…足だし。こいつ、バレリーナだから」
「…だよね、よし、じゃ…フランソワーズ、お前はここからすぐ病院行き…!それから…」
辺りを見回し、私を見る。
「先生…この子をおぶってきた奴は?大丈夫?」
「…ジョーなんですけど…」
学年主任はちょっと目を丸くして、遠ざかっていく彼の背中を眺め、息をついた。
「…しょうが…ないかぁ?」
 
 
 
 
万一のときに備えて、待機させてあった車にフランソワーズを乗せる。私が連れていきたいところだが…学年主任に止められた。仕方ない。私は配膳係に入浴係に保健係。この後、山荘に帰ったら、仕事が山ほどある。副担任に任せた。
 
レストハウスの敷地には、いかにも高原…という感じの土産物やら、ソフトクリームやらを売る店も並んでいる。
ハイキングはここでほぼ終わり。生徒たちもリラックスして、楽しげに買い物をしていた。
島村ジョーまでうろうろ歩き回っている。あの子も、お土産なんて買うのか。
 
やっぱり…どんな子でも、お土産選びは楽しみなんだよな…と思うと、フランソワーズがかわいそうになってきた。何か持っていってあげようか…と考えたのは、クラスの女子も同じらしく、さかんに相談している。私が気を遣うことはなさそうだ。
でも、ヨーグルトをいくつか買って、保冷袋に入れてもらった。ソフトクリームは無理だから。
 
ああ……とにかく無事に帰ってきた…!雨も降らなかったし、やれやれだわ…!
帰りつくなり、入浴を指示し、最初の班を風呂場へ押し込み、私はようやく自分の部屋で手足を伸ばしていた。
 
あとは、キャンプファイヤーに花火…花火か…ジェットが異様に張り切っていたけど…
いい。それはレクリエーション係の先生に任せよう。
あと30分したら、風呂場にプレッシャーかけにいって…それから…
 
涼しい風が窓から入ってくる。山荘を揺るがす喧噪は相変わらずだが、慣れた。
けたたましい足音が行ったり来たり。時折混じる「早くしろよ!」の怒鳴り声。ジェットだ。
彼は時間がおして、キャンプファイヤーが短縮されるコトを懸念しているらしい。
 
ふと、保冷袋が目にとまる。
ヨーグルト…フランソワーズが帰ってきたら、彼女に一つあげて、後は適当に教員で分けようかと思っていたけど…
考えてみたら、彼女は、一人だと遠慮するかもしれない…そうか。
 
数はちょうど、彼女の班の人数分。
私は保冷袋を下げて、生徒たちの部屋に向かった。
まず、女子の部屋で配ってから、男子の部屋へ。
 
ジョーがぽつんと座っていた。
 
「ジョー…?お風呂、入ったの?」
うなずく。
なんだか、顔が妙に赤い。
「…暑いの?…窓開ければ…」
開いてる。
 
何か変だ。
 
不意打ち!
さっと彼の額に手を当て……ぎょっとした。
 
「ちょっと?…何よこれ、あんた…!」
ジョーはうるさそうに私の手をはらったが…力が入っていない。
「…騒ぐなよ」
「は?」
「騒ぐな…!」
「騒がないわよ…保健室に来なさい」
「……」
「じゃ、ひきずって行こうか?…救急車呼んでもいいけど」
 
彼は大儀そうにため息をついて、立ち上がった。
 
「どこだよ、保健室って…?」
「ふふふん。秘密の場所よ」
 
それはホントだ。
一種の隠し部屋だった。
目を丸くしているジョーを部屋にいれ、布団を敷く。
 
「とにかく、寝なさい…いつから?」
 
返事はない。
ジョーは横たわり、眉を寄せながら目を閉じた。
 
まず救急箱から体温計。
それから、厨房に行って、氷と保冷剤。
管理人さんのところから氷枕。
最後に学年主任を呼ぶ。
 
熱は40℃を越えていた。
 
「熱中症だな〜」
 
ジョーに無理矢理水を飲ませ、体のあちこちに保冷剤を当て、うちわで風を送っている私に、学年主任は腕組みしながら言った。
 
「風呂がとどめだったね…島村、なんで入った?」
 
返事はない。
しないのかできないのか、よくわからない。
 
「……病院ですね、こいつも。こっちは私が連れて行きましょう。管理人さんのクルマを借りて…」
「え、え、え…?でも、でも先生がいないと…キャンプファイヤーとか…花火とか…」
「ジェット・リンクがいるでしょう…『花火師』と聞いてますよ」
 
ちょっと待った!
叫びそうになる私ににっこり笑い、彼は立ち上がった。
 
「じゃ…ヤツに指令を出しときます…後は、よろしく」
「あのっ!…あの、よろしく、は…レク係の先生に言ってくださいっ!」
 
笑いながら学年主任はうんうんとうなずき、部屋を出ていった。
 
ジョーを乗せたクルマを見送ったのは、私とジェットとアルベルト。
車が見えなくなると、アルベルトはふうっとため息をついた。
 
「バカだな、あいつ……」
 
おっしゃるとおり。
ジェットも大きくうなずいた。そして、力一杯拳を握りしめる。
 
「よおしっ!キャンプファイヤーに……花火だぜっ!!」
 
 
 
 
集まった配膳係を指導しながら、食堂の窓から外を眺めた。
暗くなりかけた中、ファイヤーが着々と組まれている。
少し手際が悪いが…それにかけては「プロ」の学年主任がいないのだから、仕方がない。
ジェットが頓狂な声を上げてあちこち飛び回り、その後をアルベルトが追っている。
 
「先生…」
 
振り返ると、フランソワーズが立っていた。
 
「ああ…!帰ってきたの…どうだった?」
「大したこと…ありませんでした…すみません…あの、島村君が…」
「…うん。聞いた?」
 
フランソワーズは曖昧にうなずいた。
ちらっと、てきぱき働いている配膳係の生徒たちに目をやる。
まあ…少しなら大丈夫。
私はフランソワーズをうながし、廊下に出た。
 
「風邪と熱中症と…ってことじゃないかな…あの子、昨日から少し調子悪そうだったから」
「熱中症…?熱が…あったんですか?」
「うん…40℃くらいね…それで、病院送り」
フランソワーズは小さく息を呑み、堅く握り合わせた手を口元に持っていった。
みるみる、青い瞳が涙でいっぱいになる。
少し慌てた。
 
「…キモチはわかるけど…あなたのせいじゃないわよ…こういうのはね、自己管理の問題で…」
「大丈夫…なんですか、島村君…?」
「意識もしっかりしてたし…大丈夫でしょう…入院しなくちゃいけないようなら、とっくに連絡が入ってるはずだから…」
 
ホラ、泣くなよ…と、肩を叩く。
が、フランソワーズは強く首を振った。
 
「私が…私が、昨日、転んだから……!」
 
もう泣きじゃくっている。
途方にくれた。
昨日この子が転んだことと、ジョーの熱中症と何か関係が……う〜ん、あるのか?
 
「誰のせいかなんて、考えてたらキリがないわよ…アルベルトに交替しろって言ってもきかなかったんだし…第一、あなたを背負ってたのは、ほんの10分くらいだもの…」
「…そうじゃ…なくて…」
 
フランソワーズは首を振り続ける。が、それ以上は言葉にならない。
友人たちが、彼女の姿を見つけて駆け寄り、口々に慰め始める。
ほっとして立ち去ろうとしたとき。一人が私を呼び止めた。
 
「先生…島村君、大丈夫ですよね?」
 
他の生徒たちも心配そうに私を見ている。
 
「大丈夫でしょ。さくさくっと点滴打ったら、帰ってくるわよ」
「…キャンプファイヤーには出られますか?」
「それは無理だなあ…」
 
一斉に悲しげな声。
わいわい言い始めたところによると、彼女たちはフォークダンスで彼と踊るのを楽しみにしていたらしい。ジョーと…フォークダンス?
 
夕食の間中、フランソワーズはうつむいていた。食もすすまない。
それにしても…
大騒ぎの合間に、クラスの女子の間から、「島村君」という単語が時折聞こえる。
彼がこんなに人気があるとは知らなかった。
高1の女子なんて、他愛ない…ちょっと顔が可愛ければ、激烈な性格の悪さはおいとけるわけだ。
まあ…そうか。
ホントにつき合うんじゃなくて、きゃあきゃあ騒ぐだけなら、害はないよなあ…
それに、いくら騒いでも、どうせ口をきかない相手だもんね。
 
 
 
 
どんな物事にも、必ず終わりはある。
そう念じ続け、私はもうもうと白煙が立ちこめる前庭を眺めていた。
周囲をぐるっと取り囲んだ木々が、ドームのようになって、煙を閉じこめているらしい。
が、かつて、花火でこんなになったなんて、聞いたことがない。
 
消えかけたファイヤーが白煙の中で揺れる。その前を何度も横切る影。
そのたび、新しい火花が飛び、また煙が上がる。
大半の生徒が咳き込みながら逃げ出しても、ジェットはひるまない。
 
花火師、恐るべし。
 
収拾がつかなくなってきたので、逃げてきた生徒をどんどん山荘に帰していった。火の始末だけしっかりさせて…あとは明日の朝だ。
 
「スゴイことになってますね〜」
 
驚いて振り向いた。学年主任だ。
 
「お、お疲れさま…でした…先生、いつ戻られたんですか?」
「さっき、煙幕に紛れて…ジョーはもう保健室で寝てます」
「そう…でしたか、ありがとうございました…具合は…」
「うん。点滴2本打って…大丈夫でしょう、明日はバスで帰れますよ、きっと」
 
ほっと息をついた。
 
「…昨日の朝から、調子悪かったらしい…林間学校、参加しなければよかったのに…馬鹿だね」
私は首を傾げた。なぜ休まなかったんだろう。いつも、欠席は多い子なのに。
「ハイキング…したかったのかしら、そんなに…?」
「心配かけたくなかったから…って言ってましたよ」
「は…あ…」
さらに首を傾げた。
 
「先生…?」
「はい?」
「先生、ジョーと話したんですか?」
「ええ、車の中とか…待合室とか」
黙り込んだ私に、学年主任は面白そうに言った。
「あいつと話をする方法……知りたいですか?」
「……知りたくありません」
彼は吹き出した。
 
「…でもね、ホントに心配かけたくないなら…もっと周りのことや、いろんなことを考えなければダメだ…って言っておきましたよ…結局、死ぬほど心配かけたんですからねえ…間抜け、ですよ」
「…はあ」
「少しは考えたと思いますけどね」
「だと…いいんですけど」
 
保健室の窓は暗い。
心配かけたくなかったから…か。
学年主任を見上げた。
 
「でも先生…私、そんなに心配なんてしてなかったですよ」
「そりゃそうでしょう、先生はね…わかってますとも」
 
彼は笑いながら、ジェットたちの方へ歩いていった。
「撤収するぞ〜!……8分でだ!…始め!!」
師弟ともに、はしゃいでいる。彼らは水を汲みに駆けだした。
 
翌日。
バスに乗り込み、点呼をとる生徒たちを眺め、迷っていた。
今日は全員制服に着替えている。
山荘の中で、私服でいるときにはさほど気にならなかった女子のネックレスやブレスレット…指輪。
校則では違反物品…場合によっては没収…ということになっているが。
 
こんな大量に没収なんかしたら、あとが大変だ。
それに、今更注意するのも変だし…
でも、このまま黙ってたら、帰ってから収拾つかなくなるかなあ…?
 
「先生…全員揃いました」
 
報告にきたフランソワーズの、少し開いた襟元に、銀の鎖とガラス細工の花がのぞいていた。
 
…こいつまで…?
思わずため息が出る。
 
怪訝な顔になったフランソワーズは、私の視線を追い、ハッと両手でネックレスを庇うように押えた。なんて要領の悪い奴。しかたない。
 
「それ…」
「すみません…あの…!」
「…はずすか、隠すか、どっちかにしときなさい。今度見つけたら、預かるわよ」
 
フランソワーズは頬を真っ赤に染め、大事そうに襟元を押えながら、席に戻った。
ちょっとかわいそうだけど…あのネックレス、昨日レストハウスの土産物店で見かけた。
昨日まではつけてなかったから…貰い物だろう。
よく似合ってた。でも、それとこれとは別。
 
前例を作ってしまった。今日の指導はこの線で行くしかない。いちいち注意するの、面倒なのに。
…なるべく見つけないことにしよう。
そう心に決める。
バスが動き出し、私は目を閉じた。
 
 
 
10
 
成績会議も終わり、後は夏休みを迎えるだけ…
職員室で大きく伸びをしていた私に、フランソワーズが書類の束を持ってきた。
 
「先生…文化祭クラス参加の企画書です…顧問の承認印をください」
 
はいはい…そういえば、なんだか熱心に話し合いしてたけど…
 
「あんた、暑そう」
「え?」
「襟のとこ…ボタン1個あけとけば楽なのに…」
 
フランソワーズはちょっと戸惑い、襟元をそっと手で押えた。
まあ、そんなことはどうでもいい。
書類に目を落とす。妙に厚い。
 
「…ん?」
1枚…2枚、3枚、4枚…慌ただしく紙をめくり、私は思わずフランソワーズを見上げた。
 
「何…これ?」
「…先生、承認してください」
 
ちょっと待て。
題目はお化け屋敷…何かとやっかいだけど、それはいい。
問題は…この設計図だ。
 
「…アルベルトだな?!」
 
呻いた。フランソワーズは嬉しそうにうなずく。
ものすごく精緻な設計。
あいつ、ホントに高校生か?
 
「無理ね。このとおり作ると、大量の材木やら金具やらが必要でしょう…予算オーバーになっちゃう。却下!」
「ジェットが、安い仕入れ先を知ってるんです」
フランソワーズは、見積書を出した。
 
勘弁してよ…いくら設計が完璧で、材料が揃ったって…
 
「駄目駄目…こんなの作るのに、どれだけ技術がいると思ってるの?…少なくとも大変な根気と労力がいるわよ…誰もそんな面倒なこと、ついてこないって」
「大丈夫です…島村君がいますから」
「…え?」
 
島村君…ジョーのことだよな?
なんで、あいつがいると大丈夫…なの…?
 
「あ〜あ、先生…ハンコ押しちゃいましたね〜?」
背中で学年主任の声。
「え、ええっ?」
我に返った私から、フランソワーズは、さっと書類を受け取った。
満面の笑顔。
 
「ありがとうございました!!先生、ちゃんと成功させます、心配しないで…」
「ちょっと!…ちょっと待ちなさい〜!!」
 
周囲から口々にからかいと懸念の声。私は額に手を当てた。
「ああっ、もう〜っ!!知らないわよ、どうなったって!!」
「まあまあ…先生、どうせ、面倒なんかみるもんか…って言ってたじゃない?」
「当たり前ですっ!!」
 
それに…考えただけでうんざりするのは…。
「…ジョーがいるから…ってことは…あの子も何かするつもりなんですよね…」
どうやって指導したらいいのか見当もつかない子なのに。
ぼやく私に、学年主任が腕組みしながら言った。
 
「とりあえず、暑いときにはこまめに休憩し、水分をとれ…と、言っときましょうかねえ」
 
 

PAST INDEX FUTURE



Last updated: 2011/8/3