8      Rosa rugosa
 
春雨はまじへて降りぬ 朱(あけ)の夢 さびしき人のしろがねの夢
与謝野晶子
 
目が覚めてしまった。
まだ早すぎる時間だが…もう一度眠るのはたぶん無理だ。
 
起きあがり、カーテンを開けてみる。
明るくなってはいるが。
 
空は、灰色をしていた。
窓を開けて、初めて分かった。
細かい雨が降っている。
 
ジョーは、目覚めただろうか。
ふと、昨夜の彼女の笑顔を思い出した。
 
 
息づかいがね、昨日までと全然違うの。
もう大丈夫だわ…きっと。
明日には目覚めるだろうって…博士も。
 
 
フランソワーズは幸福そうに微笑み…
晴れるといいな、とつぶやいた。
 
雨か…でも。
 
アルベルトは大きく窓から身を乗り出してみる。
 
雲は、薄い。
きっと、昼頃には日射しも出るだろう。
 
…何か聞こえた気がした。
 
館は静まりかえっている…が。
廊下を覗くと、ジョーの部屋のドアがわずかに開いていた。
 
 
 
 
「アルベルト…!」
「なんだ…もう気がついてたのか」
 
目を丸くするジョーに、アルベルトは苦笑した。
 
部屋に足を踏み入れた瞬間、ジョーは飛び上がるように上半身を起こした。
誰が入ってきたのかを捉えた瞬間、茶色の瞳が僅かにかげるのを、アルベルトは見逃さなかった。
 
「まだそんなに動くな」
「…フランソワーズ…だと思ったから」
 
首をかしげた。
珍しいことを言うじゃないか。
 
まじまじ見られているのに気づき、ジョーは慌ただしく瞬きした。
 
「あ…そ、そういう…意味じゃなくて…その、僕は…ただ」
「馬鹿、何焦ってるんだ…彼女、ずっとお前につきっきりだったんだぞ…とうとう昨夜、博士が無理矢理寝室に追いやった…このままじゃ倒れる…ってな」
「…ええ…っ…?!」
「そういうことだ…スネるな、罰があたるぞ」
「そ、そんなこと…っ!それより…本当かい、アルベルト…?フランソワーズ、そんなに疲れて…」
「ああ…?だが…」
 
ベッドを飛び降りようとするジョーを慌てて抑え、アルベルトは眉を寄せた。
 
「まだ動くな、と言っただろう?…それに、お前が行ったら、彼女、かえって落着いて休むことなんか…」
「連れ戻さなくちゃ…!」
「……何?」
「フランソワーズ、さっきまでココにいたんだ!それが、花を摘みにいくって急に言いだして、外に…」
「…花…?外に?……雨だぞ」
「ええっ?!」
 
思わず高い声を上げ、次の瞬間、小さくうめいたジョーを無理矢理ベッドに寝かしつけ、アルベルトはため息をついた。
 
「…何考えてるんだ、あいつ?」
「アルベルト…頼むよ、すぐ迎えに…」
「花か…で、何を摘みに行ったんだ?…どこに?」
「わからない。聞いたんだけど、返事もしてくれなくて…すぐ戻るからって飛び出していって…でも、もう20分近くたってる…知らなかった、雨が降ってるなんて…!」
 
そんな泣きそうなツラするほどのことでもないと思うが…
 
茶色の瞳が真剣そのものの光をたたえ、すがるように見つめている。
アルベルトは言葉を飲み込んだ。
 
 
傘を開きかけて…やめた。
こんな細かい雨では、さほど役に立たない。
 
外は、ひんやりしていた。
あっという間に絹糸のような雨が体にまとわりつく。
たしかに…冷える。これでは。
 
さて…どこまで花摘みにいったんだ?お嬢さんは…?
 
春も終わり…とはいうものの、手入れの行き届いた花壇には、可憐な花々がまだ咲き競っている。
だが、彼女のお目当ては他にある…らしかった。
ぐるっと見回してみたが…彼女の姿はない。
 
まったく…何を考えているんだか…な。
こんな雨の中をわざわざ。
 
つぶやきかけ、アルベルトはふと微笑んだ。
 
そうか…何を考えているのか、考えてみればいい。
それが、手がかりだ。
彼女…フランソワーズなら。
戦場で傷つき、生死の境をさまよい、そして、戻ってきた恋人に…どんな花を捧げるか。
 
……見当もつかんな。
 
息をついたとき。
耳元で、微かに鈴を振るような笑い声がした。
 
 
まぁ…!
忘れちゃったの、アルベルト?
 
 
 
 
…あの日。
 
絹糸のような銀の雨。
その中で、彼女は頬を火照らせていた。
 
「見て…アルベルト、咲いてる…!間に合ったわ…」
 
冷たい雨に濡れた、うす紅の指から…鮮やかな花弁がこぼれ出ている。
野バラだ。
いつもの、通り道のフェンスに無造作にからみつき、伸び放題に伸びている枝。
 
花が咲くわずかな間をのぞけば、やっかいもの扱いだが…だからといって、あえてそれを堀りとって処分しようとするヒマな奴も、この町にはいない。
 
「呆れたな…そんなものをわざわざ摘みに来たのか?こんな…」
「こんな時だから…摘みに来たかったのよ、アルベルト」
「…で、どうするんだ?…まさか持っていくつもりじゃ…」
「もちろん、持っていくわ…!ああ…よかった…昨日少し暖かかったから、咲いたのね……間に合ってよかった…」
 
傘はさしていなかった。
こんな細い雨では役に立つまい。
それに、ヒルダは、すぐ帰るから…と、わけも言わず、止めるのも聞かずに外に飛び出してしまったから。
 
なりふりかまわず、追わずにいられなかった。
このまま、彼女が雨の中に消えてしまいそうで。
しかし。
大切そうに初咲きのバラを捧げ持つ、恋人のあどけない笑みに、アルベルトは思わず苦笑した。
 
馬鹿だな、俺は…
何を…考えていた?
もう二度と離れないため…俺たちは明日旅立つのに。
 
生き延びることが…できないのだとしても。
 
君が手折った故郷のバラ。
初咲きのすがすがしい香り。
これが、俺たちへの手向けの花になるのなら。
…何も恐れることはない。
 
 
「忘れるわけないだろう…だがな、手がかりにはならん…彼女は君とは違う。いや」
空を見上げ、アルベルトはつぶやいた。
 
「彼女だけじゃ…ない」
 
君は…一人しかいないから。
 
絹糸のような銀の雨が、冷たい頬を濡らしていく。
 
…まあ、結局のところ。
ジョーも俺も…何もわかっちゃいないってことだ。
俺たちの心配なんてのは、何もかも…とんだ的はずれなんだろう。
 
彼女たちは、雨の中で柔らかな頬を火照らせ、
うす紅の指で、愛する者のために花を摘む。
夢多き澄んだ瞳で…一心に明日を見つめながら。
 
だったら、探さなくてもいい。連れ戻すことなどない。
 
彼女たちは、きっと駆け戻ってくる。
頬を染め、息を弾ませて。
あふれるほどの夢を両手いっぱいに抱え…
いつか、俺たちのもとに。
 
それでいい。
そうだろう、ジョー。
それ以上…俺たちは何を望む?何ができる?
 
雨の中、一人立ちすくむよりほか、なすべきところを知らない俺たちなのに。
そう、待つよりすべのない俺たちだ。
だから、待っていよう…ここで。
 
どんなに凍えても、どれだけ時が流れても。
ただ、信じて。
 
 
 
 
 
「…怒らないで、ジョー…」
「怒ってるわけじゃない…!こんなに濡れて…すっかり冷えてしまって…」
「何でもないから大丈夫よ…あの、私ね…」
「君の大丈夫はアテにならないんだ!」
「…大きい声、出さないで…あなたは、まだ…」
「僕のことより、自分の心配してくれよ…全然寝てないんだろう?博士に休めって…言われてたんだろう?こんなに…蒼い顔して…それなのに、雨に濡れてくるなんて…震えてるじゃないか!ほんとに…ほんとに君は…!」
「お願い…怒らないで…ね、見て、今年初めての花なのよ…あなたが教えてくれたでしょう…ローザ・ルゴサ…はまなす…よね?」
「はまなすが…それがどうしたんだよ?!」
「だって…!」
 
フランソワーズはきゅっと唇を噛んだ。
 
ずっと楽しみにしていたの、あの…夢のようにきれいな花。
風が容赦無く吹き付ける海岸で、鮮やかに薫り高く開く花。
また、あなたと見に行きたかった。
 
でも、まだつぼみが堅いころ…戦いが始まって。
そして、あなたが倒れて…
 
なおも言いつのろうとして、ジョーはハッと口を噤んだ。
青い瞳が今にもこぼれ落ちそうだ。
思わず目をそらし…視線を落とすと、白い手も細かく震えている。
ごく小さい傷が、幾つも。
…棘でやられたんだろう、たぶん。
 
「…フランソワーズ」
 
いたわるように、その手をとった。
冷たい。
 
「…わからないよ…」
 
うめくようにつぶやき、抱き寄せる。
 
彼女が摘んできた花が、大ぶりのグラスにこぼれそうに挿してある。
芳香を放つ紅紫の花びらには、びっしりと細かい露がついていた。
ジョーはそっと唇を彼女の耳に寄せ、ため息まじりにささやいた。
 
「君を…あたためさせて」
「ジョー?…で、でも…」
 
ベッドに引っ張り込まれ、慌てるフランソワーズをしっかり抱きしめ、ジョーはもう一度大きく息をついた。
 
「ジョー…!お願い…離して…こんなところ、みんなに見られたら…!」
「見られないよ…さあ、眠って、フランソワーズ」
「眠るわ…ちゃんと部屋に戻って眠るから…だから、離して…ね?」
「駄目だ、信用できない…ここで眠るんだ」
「…ジョーったら…!」
 
隣で、微かな物音がした。
飛び上がりそうになるフランソワーズを、ジョーはぎゅっと押さえつけた。
 
「みんなが、起きてくるわ…!今の音、ジェットが…」
「大丈夫だよ…アルベルトが見張ってるから」
「…え?」
 
…そうだろ?アルベルト?
 
かなり棘を含んだ調子の通信に、廊下の壁にもたれていたアルベルトは肩をすくめた。
 
…ふん、やっぱり気づいてたか…言っておくが、俺はノゾキの趣味なんてないからな。フランが帰ってきたようだったから…
…なんだよ、今頃!あんなに頼んだのに、どうして探しに行ってくれなかったんだ…!
 
それには答えず、アルベルトはいきなりドアを開けた。
フランソワーズの小さな悲鳴を背中に聞きながら、ドアを閉め、内側からしっかり鍵をかけると、そのままつかつかとベッドに近づき…二人の脇をすり抜け、窓を開けた。
 
「そろそろ、雨が上がる…な」
 
耳まで真っ赤にしてジョーの胸に顔を埋めているフランソワーズと、同じように真っ赤な顔をしながらも、懸命に自分を睨み付けているジョーを振り返り、アルベルトは薄く笑った。
 
「八つ当たりはカンベンしてくれよ、ジョー」
 
手を伸ばし、ほころびかけたつぼみを一輪グラスからぬきとる。
次の瞬間。
彼は窓の外へ身を躍らせた。
 
 
 
薄日がさしている…が。
雨は、まだやんでいなかった。
アルベルトは、空を仰いだ。
 
「やれやれ…」
 
きらきら輝く雨粒が、光の中で少しずつ薄れていく。
 
…行くのか…もう。
 
つぶやき、微笑んだ。
 
今日は、俺が朝メシ作る羽目になりそうだな。
とにかく、あの部屋に誰も近づかないようにしてやらないと…
 
また、微かに鈴を振るような笑い声。
 
わかってるさ。そういう意味じゃない。
まあ、見にいってみろよ、ヒルダ。
今頃あいつら…きっと、きょうだいの仔犬みたいにくっつきあって、くーすか眠ってるぜ。
 
そんな朝があってもいいだろう。
俺たちにも…覚えがないことじゃない。
 
 
絹糸のような銀の雨。
最後の一滴が、手の中の花に舞い降りる。
 
アルベルトは大きく伸びをして、歩き出した。
いつもの、朝の中へ。
 

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Last updated: 2011/8/3