春雨はまじへて降りぬ 朱(あけ)の夢 さびしき人のしろがねの夢
与謝野晶子
1
目が覚めてしまった。
まだ早すぎる時間だが…もう一度眠るのはたぶん無理だ。
起きあがり、カーテンを開けてみる。
明るくなってはいるが。
空は、灰色をしていた。
窓を開けて、初めて分かった。
細かい雨が降っている。
ジョーは、目覚めただろうか。
ふと、昨夜の彼女の笑顔を思い出した。
息づかいがね、昨日までと全然違うの。
もう大丈夫だわ…きっと。
明日には目覚めるだろうって…博士も。
フランソワーズは幸福そうに微笑み…
晴れるといいな、とつぶやいた。
雨か…でも。
アルベルトは大きく窓から身を乗り出してみる。
雲は、薄い。
きっと、昼頃には日射しも出るだろう。
…何か聞こえた気がした。
館は静まりかえっている…が。
廊下を覗くと、ジョーの部屋のドアがわずかに開いていた。
2
「アルベルト…!」
「なんだ…もう気がついてたのか」
目を丸くするジョーに、アルベルトは苦笑した。
部屋に足を踏み入れた瞬間、ジョーは飛び上がるように上半身を起こした。
誰が入ってきたのかを捉えた瞬間、茶色の瞳が僅かにかげるのを、アルベルトは見逃さなかった。
「まだそんなに動くな」
「…フランソワーズ…だと思ったから」
首をかしげた。
珍しいことを言うじゃないか。
まじまじ見られているのに気づき、ジョーは慌ただしく瞬きした。
「あ…そ、そういう…意味じゃなくて…その、僕は…ただ」
「馬鹿、何焦ってるんだ…彼女、ずっとお前につきっきりだったんだぞ…とうとう昨夜、博士が無理矢理寝室に追いやった…このままじゃ倒れる…ってな」
「…ええ…っ…?!」
「そういうことだ…スネるな、罰があたるぞ」
「そ、そんなこと…っ!それより…本当かい、アルベルト…?フランソワーズ、そんなに疲れて…」
「ああ…?だが…」
ベッドを飛び降りようとするジョーを慌てて抑え、アルベルトは眉を寄せた。
「まだ動くな、と言っただろう?…それに、お前が行ったら、彼女、かえって落着いて休むことなんか…」
「連れ戻さなくちゃ…!」
「……何?」
「フランソワーズ、さっきまでココにいたんだ!それが、花を摘みにいくって急に言いだして、外に…」
「…花…?外に?……雨だぞ」
「ええっ?!」
思わず高い声を上げ、次の瞬間、小さくうめいたジョーを無理矢理ベッドに寝かしつけ、アルベルトはため息をついた。
「…何考えてるんだ、あいつ?」
「アルベルト…頼むよ、すぐ迎えに…」
「花か…で、何を摘みに行ったんだ?…どこに?」
「わからない。聞いたんだけど、返事もしてくれなくて…すぐ戻るからって飛び出していって…でも、もう20分近くたってる…知らなかった、雨が降ってるなんて…!」
そんな泣きそうなツラするほどのことでもないと思うが…
茶色の瞳が真剣そのものの光をたたえ、すがるように見つめている。
アルベルトは言葉を飲み込んだ。
傘を開きかけて…やめた。
こんな細かい雨では、さほど役に立たない。
外は、ひんやりしていた。
あっという間に絹糸のような雨が体にまとわりつく。
たしかに…冷える。これでは。
さて…どこまで花摘みにいったんだ?お嬢さんは…?
春も終わり…とはいうものの、手入れの行き届いた花壇には、可憐な花々がまだ咲き競っている。
だが、彼女のお目当ては他にある…らしかった。
ぐるっと見回してみたが…彼女の姿はない。
まったく…何を考えているんだか…な。
こんな雨の中をわざわざ。
つぶやきかけ、アルベルトはふと微笑んだ。
そうか…何を考えているのか、考えてみればいい。
それが、手がかりだ。
彼女…フランソワーズなら。
戦場で傷つき、生死の境をさまよい、そして、戻ってきた恋人に…どんな花を捧げるか。
……見当もつかんな。
息をついたとき。
耳元で、微かに鈴を振るような笑い声がした。
まぁ…!
忘れちゃったの、アルベルト?
3
…あの日。
絹糸のような銀の雨。
その中で、彼女は頬を火照らせていた。
「見て…アルベルト、咲いてる…!間に合ったわ…」
冷たい雨に濡れた、うす紅の指から…鮮やかな花弁がこぼれ出ている。
野バラだ。
いつもの、通り道のフェンスに無造作にからみつき、伸び放題に伸びている枝。
花が咲くわずかな間をのぞけば、やっかいもの扱いだが…だからといって、あえてそれを堀りとって処分しようとするヒマな奴も、この町にはいない。
「呆れたな…そんなものをわざわざ摘みに来たのか?こんな…」
「こんな時だから…摘みに来たかったのよ、アルベルト」
「…で、どうするんだ?…まさか持っていくつもりじゃ…」
「もちろん、持っていくわ…!ああ…よかった…昨日少し暖かかったから、咲いたのね……間に合ってよかった…」
傘はさしていなかった。
こんな細い雨では役に立つまい。
それに、ヒルダは、すぐ帰るから…と、わけも言わず、止めるのも聞かずに外に飛び出してしまったから。
なりふりかまわず、追わずにいられなかった。
このまま、彼女が雨の中に消えてしまいそうで。
しかし。
大切そうに初咲きのバラを捧げ持つ、恋人のあどけない笑みに、アルベルトは思わず苦笑した。
馬鹿だな、俺は…
何を…考えていた?
もう二度と離れないため…俺たちは明日旅立つのに。
生き延びることが…できないのだとしても。
君が手折った故郷のバラ。
初咲きのすがすがしい香り。
これが、俺たちへの手向けの花になるのなら。
…何も恐れることはない。
「忘れるわけないだろう…だがな、手がかりにはならん…彼女は君とは違う。いや」
空を見上げ、アルベルトはつぶやいた。
「彼女だけじゃ…ない」
君は…一人しかいないから。
絹糸のような銀の雨が、冷たい頬を濡らしていく。
…まあ、結局のところ。
ジョーも俺も…何もわかっちゃいないってことだ。
俺たちの心配なんてのは、何もかも…とんだ的はずれなんだろう。
彼女たちは、雨の中で柔らかな頬を火照らせ、
うす紅の指で、愛する者のために花を摘む。
夢多き澄んだ瞳で…一心に明日を見つめながら。
だったら、探さなくてもいい。連れ戻すことなどない。
彼女たちは、きっと駆け戻ってくる。
頬を染め、息を弾ませて。
あふれるほどの夢を両手いっぱいに抱え…
いつか、俺たちのもとに。
それでいい。
そうだろう、ジョー。
それ以上…俺たちは何を望む?何ができる?
雨の中、一人立ちすくむよりほか、なすべきところを知らない俺たちなのに。
そう、待つよりすべのない俺たちだ。
だから、待っていよう…ここで。
どんなに凍えても、どれだけ時が流れても。
ただ、信じて。
4
「…怒らないで、ジョー…」
「怒ってるわけじゃない…!こんなに濡れて…すっかり冷えてしまって…」
「何でもないから大丈夫よ…あの、私ね…」
「君の大丈夫はアテにならないんだ!」
「…大きい声、出さないで…あなたは、まだ…」
「僕のことより、自分の心配してくれよ…全然寝てないんだろう?博士に休めって…言われてたんだろう?こんなに…蒼い顔して…それなのに、雨に濡れてくるなんて…震えてるじゃないか!ほんとに…ほんとに君は…!」
「お願い…怒らないで…ね、見て、今年初めての花なのよ…あなたが教えてくれたでしょう…ローザ・ルゴサ…はまなす…よね?」
「はまなすが…それがどうしたんだよ?!」
「だって…!」
フランソワーズはきゅっと唇を噛んだ。
ずっと楽しみにしていたの、あの…夢のようにきれいな花。
風が容赦無く吹き付ける海岸で、鮮やかに薫り高く開く花。
また、あなたと見に行きたかった。
でも、まだつぼみが堅いころ…戦いが始まって。
そして、あなたが倒れて…
なおも言いつのろうとして、ジョーはハッと口を噤んだ。
青い瞳が今にもこぼれ落ちそうだ。
思わず目をそらし…視線を落とすと、白い手も細かく震えている。
ごく小さい傷が、幾つも。
…棘でやられたんだろう、たぶん。
「…フランソワーズ」
いたわるように、その手をとった。
冷たい。
「…わからないよ…」
うめくようにつぶやき、抱き寄せる。
彼女が摘んできた花が、大ぶりのグラスにこぼれそうに挿してある。
芳香を放つ紅紫の花びらには、びっしりと細かい露がついていた。
ジョーはそっと唇を彼女の耳に寄せ、ため息まじりにささやいた。
「君を…あたためさせて」
「ジョー?…で、でも…」
ベッドに引っ張り込まれ、慌てるフランソワーズをしっかり抱きしめ、ジョーはもう一度大きく息をついた。
「ジョー…!お願い…離して…こんなところ、みんなに見られたら…!」
「見られないよ…さあ、眠って、フランソワーズ」
「眠るわ…ちゃんと部屋に戻って眠るから…だから、離して…ね?」
「駄目だ、信用できない…ここで眠るんだ」
「…ジョーったら…!」
隣で、微かな物音がした。
飛び上がりそうになるフランソワーズを、ジョーはぎゅっと押さえつけた。
「みんなが、起きてくるわ…!今の音、ジェットが…」
「大丈夫だよ…アルベルトが見張ってるから」
「…え?」
…そうだろ?アルベルト?
かなり棘を含んだ調子の通信に、廊下の壁にもたれていたアルベルトは肩をすくめた。
…ふん、やっぱり気づいてたか…言っておくが、俺はノゾキの趣味なんてないからな。フランが帰ってきたようだったから…
…なんだよ、今頃!あんなに頼んだのに、どうして探しに行ってくれなかったんだ…!
それには答えず、アルベルトはいきなりドアを開けた。
フランソワーズの小さな悲鳴を背中に聞きながら、ドアを閉め、内側からしっかり鍵をかけると、そのままつかつかとベッドに近づき…二人の脇をすり抜け、窓を開けた。
「そろそろ、雨が上がる…な」
耳まで真っ赤にしてジョーの胸に顔を埋めているフランソワーズと、同じように真っ赤な顔をしながらも、懸命に自分を睨み付けているジョーを振り返り、アルベルトは薄く笑った。
「八つ当たりはカンベンしてくれよ、ジョー」
手を伸ばし、ほころびかけたつぼみを一輪グラスからぬきとる。
次の瞬間。
彼は窓の外へ身を躍らせた。
5
薄日がさしている…が。
雨は、まだやんでいなかった。
アルベルトは、空を仰いだ。
「やれやれ…」
きらきら輝く雨粒が、光の中で少しずつ薄れていく。
…行くのか…もう。
つぶやき、微笑んだ。
今日は、俺が朝メシ作る羽目になりそうだな。
とにかく、あの部屋に誰も近づかないようにしてやらないと…
また、微かに鈴を振るような笑い声。
わかってるさ。そういう意味じゃない。
まあ、見にいってみろよ、ヒルダ。
今頃あいつら…きっと、きょうだいの仔犬みたいにくっつきあって、くーすか眠ってるぜ。
そんな朝があってもいいだろう。
俺たちにも…覚えがないことじゃない。
絹糸のような銀の雨。
最後の一滴が、手の中の花に舞い降りる。
アルベルトは大きく伸びをして、歩き出した。
いつもの、朝の中へ。
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