10      泡沫
 
 
やがて、雨の季節が訪れた。
そうなると、やはりどこか沈んだ感じになる内裏に、僕は淡々と通い、公務を果たした。
 
意外だったが、三の君さま…いや、藤壺の女御さまにも、しばしば御簾越しにお会いすることができた。
帝は相変わらず僕に優しかったし…僕を呼び出し、女御の「父」と扱うことを面白がられているトコロも、たぶんあった。
 
新しい女御さまが入内された…となると、いきおい人の流れもそちらの局へと引き寄せられるものだと思うのだが、藤壺はそうならなかった。
それは、帝のお指図だったのかもしれないし…後見である僕の性質からだったのかもしれない。
 
女御らしい華やぎは薄かったが、帝は毎晩のように藤壺に通われ、女御さまと心を交わし合っておられるという。
そのむつまじいご様子は、内裏の女房たちからたびたび聞こえた。
 
「まさか、と思っておりましたが…もしかしたら、ご懐妊の可能性も…このご様子では…」
 
そうなったら、そしてお生まれになった若宮がもし男なら、次の東宮は…そして、僕の立場は…?という不安を抱きつつ…なのだろう、複雑な表情で語る女房の言葉を、僕は笑い飛ばした。
そんなことはありえない、と、何の根拠もなかったが、僕は確信していた。
 
一方、兄の左大臣は、控えめではありながらも…明らかにそれを期待している様子だった。
熱心に藤壺へと足を運び、女御の衣装やら香やらに気を配った。
年齢からも、彼の方がよほど「父」らしいと、女房たちは笑い合っているという。
 
そうして藤壺の噂が流れてくるたび、傍らに控えるピュンマが、何か言いたげな…どこか不安そうな眼差しを僕に向けるのを、僕はわかっていた。
 
そんな心配はいらない、と彼に言おうと思ったことも何度かあった。
実際、そのとおりだったから。が、僕はそうしなかった。
それはつまり、そんなことは当然のことであって、わざわざ説明する必要などない、と思っていたからだ。
 
だから、その晩も僕は帝に呼ばれるまま、何を思うこともなく内裏へと赴いた。
女房に導かれ、席につくと、ややあってジェットも到着した。
彼が同席するとは、聞いていなかった…が。
それでも、僕の心は凪いでいた。
 
それは、たぶん…赤子が父を慕うように、僕が帝を慕い、帝に頼り切っていたからだったのではないか…と思う。
 
 
 
お出ましになった帝は、管弦の遊びをしようと思ってな、と朗らかに言われた。
ジェットには和琴が、僕には笛が用意された。
女御さまにお渡しした、あの笛だった。
 
「女御が、お前から笛を賜ったと聞いて…久しぶりに、お前のそれを聞いてみたくなったのだよ」
「…もったいない仰せです」
 
僕は静かに一礼し、笛を手に取った。
そのときだった。
 
御簾の向こうに、微かな気配があった。
そして、わずかに薫るのは…
 
「今宵は、女御も控えている…もとより見事な箏の腕前だったが、私からも少し手ほどきをしたのだ…その成果を是非『父君』にお聴かせしたくて…な」
「ほう…?となれば…当然、主上も何か弾かれる、ということですか…これは楽しみだ」
「お前にあっては、どうにもならぬな、ジェット…仕方ない」
 
帝は苦笑しながら、楽器を用意させた。
もちろん、琵琶…だ。
 
 
その一夜は、長く女房達に語り継がれ、彼女たちが書きすさんでいるというさまざまな仮名日記や物語にも、それぞれ少しずつ形を変えて描かれたのだという。
それほど、すばらしい管弦の宵だった。
 
僕は、何もかも忘れて笛を奏で続け…女御さまの箏を追い続けた。
立ちふさがるように響く荘厳な琵琶も、奔放にうねり流れる和琴も、僕に彼女の調べを見失わせはしなかった。
 
…が。
 
夜もすっかり更けた頃。
突然流れ始めた、はっとするほど儚い音色に、僕の指は止まった。
ゆっくりと笛を下ろすと、ジェットも、帝も…同じように楽器を手放していた。
 
箏の音色だけが、僕達を包む。
その哀切な曲は…「想夫恋」。
 
 
…フランソワーズ。
 
僕は、もしかしたらつぶやいていたのだろうか。
 
あなたは…この曲を、誰のために…?
 
静かに目を上げ…僕は、それまで僕をじっと見つめていただろう、銀灰色の強い眼差しを見つめ返した。
 
ハインリヒ帝…彼女の夫、を。
 
幼い僕をはぐくんでくれた父ではなく。
悲しむ僕を励ましてくれた兄ではなく。
迷う僕を導いてくれた師ではなく。
 
ただ、男としての彼が…初めて見る彼が、そこにいた。
 
 
 
その夜…宴を終え、藤壺に戻った女御さまは突然倒れられた。
幸い、お命に関わるようなことではなかった…というが、帝はひどくご心配になり、手厚く祈祷をするように僕に命じられた。
 
「そろそろ宿下がりをさせてもよい頃だったかもしれぬ」
「…宿下がり、ですか…?」
 
帝に、祈祷と医師の手配について報告しようとしていた僕は驚いた。
入内から、まだふた月足らずしかたっていない。
そんな僕に、帝は苦笑するのだった。
 
「案ずるな、『父君』よ…女御を心から愛おしく思うがゆえのことだ。…たしかに、少々心配しすぎではあるかもしれぬ。女御はお若い…私が遅れることなどあり得ないが…だが、もしも…万一にでも」
「そのようなこと…!」
 
僕は慌てて帝の不吉な言葉を遮った。
そうしながらも、彼の気持ちは…わかるような気がした。
 
「そうだ。…これを」
「え…?」
 
帝が差し出した錦の袋に、僕は目を見張った。
あの、笛だった。
 
「あの夜の褒美に…これをとらせる」
「……」
「何だ、その顔は…ふふ、たしかに元はお前のものだからな…褒美がソレでは不服か?」
「い、いいえ…!そのような…ことは」
「見事だった。やはり、お前が持っているがよい…お前に…返すべきものだった」
「…帝…?」
 
何か、を感じた…気がした。
が、僕に視線をとらえられるのを避けるように、帝はさっと席を立たれた。
 
「女御を迎える用意ができたら、知らせよ…なるべく早くに、な」
「…御意」
 
僕は深々と頭を下げた。
そして、それが、この方との最後の別れになるとは…そのときは思ってもみなったのだ。
 
数日後。
女御の宿下がりの準備が整ったその日は、生憎の雨だった。
日延べしようか…と迷う僕に、ピュンマが言った。
この季節では、いつに日延べしようと同じことでしょう、と。
それもそうだと思った。
そして、更にピュンマは言うのだった。
 
「方違えでもございますが…その準備もできております」
「…方違え?それでは、やはり日延べした方が…」
「準備は、できております」
「…ピュンマ…?」
「…あとは、殿のお心のままに」
 
彼が用意したその場所は、都の外れにある、古びた邸だった。
古びた、というか…むしろ廃屋に近い。
いくら方違えとはいえ、このようなところに女御さまをお迎えできるはずはなかった。
 
何を考えているんだ、ピュンマは……と苛立った。
あの、何事にもソツのない男が、これはどうしたことだろう。
…これ、は。
 
――あとは、殿のお心のままに。
 
まさか。
そういう、こと…なのか?
 
しかし、なぜ…?
なぜだ、ピュンマ?!
 
――殿の、お心のままに。
 
――すべて…あなたのお心のままに。
 
僕の……心?
僕の、心とは…?
 
しかし、思い悩んだ時間はそれほど長くはなかった。
やがて、網代にやつした車から心細げに降りられた女御さまの目を見たとき。
畏れと不安の中で、僕を見つけた…その瞬間の、澄んだ輝きを見たとき。
僕は、はっきりと知ったのだ。
 
僕の心は……この方のもとにある。
そして、この方の心も。
 
 
 
夢を見ているのかと…何度も思った。
幸せな夢のようにも…恐ろしい悪夢のようにも思えた。
 
ただ、ひとつ確かなことは…
僕はもう二度と手放すことなどできない、ということだ。
この人を。
 
「…フランソワーズ!」
 
もう、何度呼んだかわからない。
それでも、まだ呼ばずにはいられなかった。
 
「どう…して…?」
 
あえぎながら、彼女は何度もつぶやいた。
どうして…と。
 
どうして、だろう。
どうして…僕は、今になって。
 
あれほど誓ったはずなのに。
この清らかな人を守るのだと…清らかなままに。
それなのに、僕は、どうして…?
 
答は出ないまま、それでも僕は彼女を手放せなかった。
文字通り、精魂尽き果て、深い眠りに落ちるまで。
 
 
目ざめたのは日も高くなったころだった。
何事もなかったかのように…いつものように手水を用意するピュンマを、僕は思わず探るように見つめていた。
 
「なんだよ…怒って…いるのかい?」
「…ピュンマ…?」
「でも…これ以上、見ていられなかったんだ。君も…三の君さまも。僕は、あの晩…聞いてしまった。君の笛と…あの『想夫恋』を。もちろん、微かな音色だったけれど…でも、それで十分だった」
「……」
「そして、おそらく…帝も、僕と同じように思っておられたから…」
「帝…も?」
「これから…どうする、ジョー?」
 
久しぶりに、名を呼ばれて、僕ははっとピュンマを見やった。
彼はふと懐かしそうな笑みを浮かべた。
 
「僕は…君の味方だ。これまでと同じように。…どこへでも、ついていくよ」
 
ピュンマはゆっくりと語った。
おそらく…帝は女御さまが宿下がりから長く戻られなくとも、おとがめはしないだろう、と。
そして、かねてのお望みどおり、間もなく退位され…出家を果たされるに違いない。
 
いくら帝が退位されたからといって、女御さまとなられた女性を、僕があからさまに妻とすることはできない。四宮さまの後降嫁もある。が、彼女の後見である僕ならば、彼女を自邸に引き取ってもさほど目立ちはしないはず……
 
「楽な道だとは言わない…でも、今の君なら…きっとできるはずだ」
「…今の…僕?」
「ああ…気づいていないのかい、ジョー?…僕は、君がそんなに幸せそうな様子でいるのを、これまで見たことがない」
「幸せ…そうな」
 
本当だろうか…?
本当だとしても、僕に、そんな資格があるとは思えない。
 
何の罪も…穢れもなかった女御さまを、ようやく手に入れたささやかな安らぎの中から引きずりだし、こんな…廃屋のような粗末な場所でほしいままに蹂躙した…この僕に。
 
 
 
ピュンマが運んできた手水を几帳の奥へと持ち込み、僕はわずかに身じろぎされた女御さまをそっと抱き起こした。
 
「…お目覚めに…なりましたか?」
「……」
 
一晩中、僕の情欲に翻弄され続けたお体ははっとするほど華奢で、儚い。
丁寧に…侍女のようにその白い肌を清め、金糸のような髪を梳る僕の、なすがままに彼女は身を任せていた。
 
「これから…」
「…え?」
 
消え入るような声に、僕は彼女の青い瞳をのぞき込んだ。
どんな非難の言葉でも受け取るつもりでいる。
それでも、心が震えた。
…が。
 
「これから…どうされるのでしょうか」
「…どう…?」
「このようなこと…どんなおとがめを受けるか……」
「そんなご心配はいりません…罪は…全て僕にあるのですから」
「だから…!だから…わたくしは…」
「…フランソワーズ…?」
 
澄んだ青い瞳の底から、泉のように次々わき上がってくる…涙を、僕は呆然と見つめていた。
 
「あなたは…泣いて、くださるのですか…?僕の…ために…?」
「お願いです…どうか…どうか、わたくしのことはお捨ておきください…あなたは光の中にいらっしゃらなければならない……四宮さまのことも…」
「何を、仰せになるのですか…!」
 
思わず叫んでいた。
が、彼女は弱々しく首を振った。
 
「お美しく…聡明な姫宮さまとうかがっております。あなたのお側におられるのにふさわしいお方です……ですから、どうか…」
「…あなたは…何もわかっていらっしゃらない…僕は、そのような者ではありません」
「いいえ…!あなたは…わたくしの光でいらっしゃるお方…いつも冷たい霧の中をさまよっていた、よるべないわたくしを…導いてくださいました」
「…フランソワーズ」
「あなたの仰せなら、わたくしはどこへでも参ります…どなたのもとへでも…深い山の中へも…海の底であっても…あなたが行け、と言ってくださるのなら…!だから、どうか…!」
 
僕は夢中で彼女をかき抱いた。
胸が、熱く締め付けられる。
あえぐように言った。
 
「それなら…申し上げましょう。僕とともに…どこまでも、おいでください。罪に汚れた道を…地獄の業火へと…!」
「…!」
 
彼女は震えながら僕を見つめ…小さくうなずいた。
 
 
 
さようなら…と、悲しい声が聞こえたような気がした。
懸命に手を伸ばそうとするが、体が動かない。
 
「…フランソワーズ!」
 
自分の叫び声で目が覚めた。
体が汗でぐっしょりと濡れている。
大きく息をついた。
 
結局、ピュンマが用意してくれた食事にも申し訳程度にしか手をつけず…僕は、ひたすら彼女を求め続けた。
さすがに疲れ果て、それでも彼女を堅く抱きしめて眠りについた…のだが。
 
はっと飛び起きた。
 
「フランソワーズ?!」
 
抱きしめていたはずの彼女が消えている。
冷たい予感が、水のように広がった。
 
「フランソワーズ…!フランソーズ!」
「どうした、ジョー?!」
 
僕のただならぬ声にかけつけたピュンマも、部屋を見回すと、さっと顔色を変えた。
 
「君はここにいるんだ…!僕が探してくる!」
「…待て、ピュンマ…見ろ!」
 
僕は地面にわずかに残るくぼみを見つけた。
…足跡だ。
 
僕達は、とぎれがちになるその跡を懸命に追った。
やがて、細い道は行き止まりとなり、その先は背の高い草が生い茂っている。
ピュンマが、草の折れた跡に気づき、それを追う。
 
辺りは、朝霧に包まれていた。
彼女がここを歩いたときは、夜明け前だったのではないだろうか。
不吉な予感を打ち消すように草をなぎ倒し、前に進む。
不意に、ピュンマがひゅっと息をのむ気配がした。
 
「どうした…?…っ!」
 
思い切り頭をなぐられたような衝撃に、僕も言葉を失った。
 
草むらが途絶えた先は…川だった。
そして、その中州に何か白いモノが見える。
ピュンマがためらうことなく、川に飛び込んだ。
 
「…これ…は」
「衣…だ…まだ、新しい…おそらく、つい先ほど…」
「……」
 
見誤るはずはない。
それは、あの方の肌を包んでいた…白絹だった。
 
「どういう…ことだ?」
「…ジョー」
「フランソワーズ…!フランソワーズ!どこだっ?!」
「ジョー、落ち着け!」
「フランソワーズ!」
 
夢中で川へざぶざぶと入る僕を、ピュンマがすさまじい力で押さえ込んだ。
 
「待て、ジョー!」
「離せ…!」
 
ピュンマを思い切り振り払い、僕は川の深みに向かって飛び込んでいった。
たちまち、速い流れに巻き込まれ、体の自由がきかなくなる。
 
「…フランソワーズ!」
 
水底は、思いも寄らないほど澄んでいた。
あの方の…瞳のようだった。
 
 
 
次に、目を覚ましたとき…僕は、邸の中にいた。
 
川の深みに引きずり込まれた僕を、ピュンマが懸命に助け出したのだという。
それから、僕が生死の境をさまよっている間に、ことは進み…全てが終わっていたに等しかった。
 
藤壺の女御は宿下がりの途中、突然病が重って…亡くなられた。
訃報をきいた帝は、ほどなく退位されたという。
 
ピュンマが噛んで含めるように語るそれを、僕はぼんやりと聞いていた。
 
「…すまない…ジョー」
 
血を吐くように言うピュンマに、僕は静かに首を振った。
彼のせいではない。
すべては、僕が…望んだことだったのだから。
 
僕は、やはり…罪の中でしか生きられない者だった。
この手に触れる全てを…そこに巻き込んでしまう。
 
それでも…
それでも、僕は…幸せだったのだ。
ピュンマが言ったとおり。
 
あの方に出会い…あの方に焦がれ…そして、思いを交わして。
僕は、たしかに…幸せだった。
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