9      春雷
 
 
三の君さまの入内は三月の末に…と決まった。
まだ若年の僕が後見であることを鑑み、そして帝のご意向もあり…あまり華美にならないよう、あまり目立たぬよう…という方針で、準備は進められていった。
 
四宮さまの御降嫁はそれより後に…といっても、それでは夏になってしまう。
兄は、思い切って、御降嫁を伸ばそうと言い出した。
秋の…あでやかな紅葉の頃に、盛大な宴を開くのが目論見のようだった。
 
できれば時期を逆にしたいものだ、若々しく美しいお前たちの婚礼にこそ春がふさわしいのに…と、兄はひそかに残念がったが、三の君さまをごらんになれば、その気持ちも変わるだろうと思う。
 
ピュンマの進言を理由にし、ジェットが二度とああいう気を起こさないためでもあると自分に言い訳を繰り返し、僕は三の君さまをしばしば訪れるようになっていた。
今日は装束の打ち合わせ、今日は調度、今日は書物…と、その気になれば、入内を控えて「父」としてすることはいくらでもあったのだ。
 
さすがに何度もお会いしているうちに、三の君さまと対面し、言葉を交わしていても、平静でいられるようになった。
なんとか後見めかして背伸びをしようとする僕と、そんな僕に調子を合わせてくださる三の君さまの様子はかなり滑稽だったらしく、女房達を何度も笑わせた。
 
「まあまあ、お二人とも…お父様と姫君というよりは、姉上と弟君のようでいらっしゃるのに…!」
 
明るい気性の若い女房がそう言いながら、文字通り涙を流して笑ったとき、彼女をたしなめながら、三の君さまも楽しそうにお笑いになった。
それは、夢のように過ぎた…美しい春だった。
 
 
 
僕と三の君さまが、特に好きだったのは合奏だった。
ギルモアさまのはからいで、部屋を隔てて三の君さまの箏を聞き、笛を合わせたあのときと同じように…いや、それよりもっと深く、僕たちはそれぞれの調べを手繰り合い、それに酔った。
 
僕たち、というのはもしかしたら、あたらなかったのかもしれない。
が、楽の調べの中に漂うときだけ、僕はなぜかそう信じることができていた。
三の君さまも、僕と同じ気持ちでいらっしゃる…と。
 
その夜も、僕は笛を奏でていた。
帰ろうとした矢先に、不意に激しい風雨となり、女房たちにも三の君さまにも引き留められていたのだ。
 
それでは、雨が小やみになるまで…と笛を取り出した僕に合わせ、三の君さまも箏を用意させた。
それから…どれほどの時間が流れたのか。
 
雨で足止めされている、という気持ちのゆるみもあったのかもしれない。
僕たちはすっかり時間を忘れていた。
ふと我に返ったときは、夜も更け、伺候する女房たちはどこか恍惚とした表情になっていた。
 
「素晴らしい…調べでございました…」
 
ようようそれだけつぶやくように言う様子は、たしかに楽に酔いしれているようにも見えたが、いや、つまり眠くなってしまった…ということなのだろう。
気の毒なことをした…と三の君さまを見やると、彼女も困ったように微笑し、女房たちに下がるようにと命じられた。
 
それでは、僕も…と、三の君さまにご挨拶し、とっくに用意されているだろう部屋へと下がるため、簀の子に出たとき。
突然、辺りがまばゆい光に包まれ…ややあって、地を揺るがすような雷鳴がとどろいた。
女房の悲鳴があちこちで聞こえる。
やがて足早に三の君さまのもとへと駆けつけてきた1人の女房を、僕は落ち着き払って押しとどめていた。
どうしてそんなことをしたのか、今となってはわからない。
 
「あ…あの…でも、姫君さまがお心細い思いをされていては…」
「三の君さまはもうお休みになられる…これぐらいの雷で心乱される方ではあるまい…お前たちが行けば、またその分だけお心を使われることになってしまうだろう…そういうご主人ではないか?」
「は…はい」
 
女房はしばし迷うように僕を見上げ…小さくうなずいた。
 
「あまりに姫君の箏がすばらしかったので、私もつい度を越してしまった。お気の毒に、さぞお疲れのことだろう…そっとして休ませてさしあげたい」
「…そう…で、ございますね」
 
女房は微笑し、一礼すると、部屋へと戻っていった。
その後ろ姿を見送り、僕も歩き始める…はずだった。
が、そのとき。
 
再び、すさまじい光が辺りを照らしたのだった。
夜に沈んでいるはずの、あらゆるものが、その一瞬、僕の前に姿を現した。
僕は、それをはっきりと見た…気がした。
 
遅れてとどろいた雷鳴は、僕が簾を跳ね上げ几帳を引き倒す音を消してくれた。
三の君さまは、声をたてることができなかった。
それより早く、僕の手がしっかりと彼女の口を塞いでいたから。
 
僕に抱きすくめられ、自由を失った三の君さまのお体は微かに震えていた。
そして、僕もまた、震えていたのだ。
 
これから、どうしようとしているのか…どうすればいいのか。
僕は、途方にくれていたのかもしれない。
 
 
 
ああ、やはり…お美しい。
 
僕は、三の君さまを抱きしめたまま、身動きできないままでいた。
彼女は、声を立てることもなく…あらがうこともなく、ただ僕に身を任せておられた。
 
口を塞いだ手も、とっくに離している。
あまりに強く塞がれたため、呼吸を失い、ぐったりとなりかけた彼女に、僕は驚き…そしてようやく我に返ることができたのだ。
 
「おとがめに…ならないのですか?」
 
声が震える。
不意に、どうしようもなく不安になった。
三の君さまは、僕を獣同様の…声をかける価値すらないものとお思いになって…それで、こんなにも従順に身を任せておられるのだろうか。
ご自分を次々と襲った災厄と、僕とを同じものとお思いになって…そして。
 
「…三の君さま!…どうか…お言葉を…!」
 
身動きした弾みで、ころ、と何かが転がった気配がした。
笛だ。
僕の、父の……形見。
 
父も、こうだったのだろうか。
愚かで、身勝手で、弱くて、醜かったであろう、僕の父。
罪に汚れた手で、欲望のまま愛しい者を抱き、穢した父。
そして、母は……
 
不意に、僕の頬を温かく柔らかい指がなぞる。
その動きで、自分が涙を流していたのだと気づいた。
 
「とがめてなど…おりません…わたくしは、申し上げました…すべて…あなたのお心のままに、と」
「…フランソワーズ…?」
「でも…これ以上は、なりません」
「……」
「わたくしも、あなたをお守りしとうございます」
「…僕、を?」
「はい。あなたは…大切な、おかたです」
「僕…が?」
「はい。わたくしにとっては、誰よりも…わたくし自身よりも」
 
そして……母、は…?
 
何も考えられないまま、僕は夢中で三の君さまを冷たい床へ押し倒し、慌ただしく衣を開き、雪のような乳房に顔を埋めた。
そして、三の君さまは逃げようとせず、あらがいもせず…震える僕の背を、細い両腕で優しく抱きしめてくださるのだった。
 
だから…僕は、それきり動くことができなかった。
このまま、時が止まればいいと…ただ、それだけを思った。
 
 
 
笛は、置いてきた。
その思いを、三の君さまならきっとわかってくださるだろう。
 
朝露を一方一歩踏みしめ、僕は大きく深呼吸した。
何も変わらない…新しい1日が始まろうとしている。
 
僕たちの別れの時はもうそこまで来ていた。
どこからともなく流れてきた桜の花びらが、袖にからみつくように止まる。
そういえば、帝はあの方を山桜の精だと言われた。
その通りだったと、僕は思う。
 
もしかしたら、母は…
母は、父をそれでも愛していたのかもしれない。
愛していたからこそ、手放した。
 
愛していたからこそ…父も、我が子も手放した。
そして、その身を捨て…髪を落とし、世を捨てて。
 
そうだったのかもしれない。
でも…それはあまりに悲しい。
 
愚かで、身勝手で、弱くて、醜かったであろう、僕の父。
罪に汚れた手で、欲望のまま愛しい者を抱き、穢した父。
 
僕も父と同じだ。
が、僕はたぶん、父ほど弱くはない。
僕は、あの方を穢さずにすんだ。
 
だから、僕は生きる。
父のように死んだりはしない。
 
僕は、生きて…生きて、あの方を見守り続ける。
あの方が、母のような悲しい生き方をしないですむように。
何があっても、生き続ける。
それだけが、あの方が僕にくださった全てに報いる方法だと思った。
 
 
桜が散り…花びらが風に舞うこともとうになくなったころ。
華やかな春が終わりを告げようとするころ。
まるで、そうなる時を待っていたかのように、三の君さまはひっそりと入内された。
 
御局は藤壺。
その庭を彩る藤は既に散り…来年の花を待つことなく、おそらく帝は退位されるだろう。
思えばそれもその方らしい、と…帝は僕に語り、寂しくお笑いになった。
 
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