3      流転
 
大げさにならないように、ギルモアの心を乱さないように…と、帝は気遣われたし、僕もそうするつもりだった…けれど。
でも、帝からのお見舞い品を届けるとなると、それなりの支度は必要で、それはやはり、ギルモアさまの慎ましいお住まいには「大げさ」にうつるものとなってしまった。
 
無理をして床を離れ、居住まいを正されたギルモアさまに迎えられ、僕はひたすら恐縮した…が、彼はそれを煩わしく不快だとは少しも思ってはおられない様子だった。
 
「ハインリヒ帝が…私をそのように気遣ってくださるとは…畏れ多いことです」
 
ギルモアさまはうっすらと眼に涙を浮かべられていた。
 
「先帝も、あなたの父上も、しばしばこうして私にお見舞いを下されました。憎い敵と思し召されても…流罪にせよと仰せられても当然だった、この私に」
「何を…何を仰せになるのですか!それは、あなたのせいなどでは…!」
 
僕は思わず叫んだ。
先帝や父との対立は、ギルモアさまが望んでされたことではなかったはずで。
しかし、ギルモアさまは微笑して首を振るのだった。
 
「…何も知らず、利用されていただけだった…などとは言いますまい。たしかにあの頃、私は若かったが…分別のつかぬ年ではありませんでした。私は、自分の立場と世の動きを十分知り、私に近づく者たちの真意を知った上で、彼らと手を組んだのです」
「違う…!あなたには、そうするより他に道がなかった…あなた自身とあなたの大切な人たちを守るためには…!あなたは、追い詰められて…」
「追い詰められて…そして、何の罪もない東宮さまを廃そうとする企みに加わったのですよ。実の弟でもある東宮さまを…」
「…ギルモアさま!」
「どんなに追い詰められようが、私は彼らの誘いを蹴ることができました。たとえば、今のような暮らしをあの頃から選び取っていれば…私がそうしなかったのは、私自身の心が求めたからです。弟を廃し、兄を陥れて、自らが帝位を横取りすることを…私には野心がありました。私は、それを確かに望みました」
 
ギルモアさまは優しく微笑されたままだった…が、その声の冷たさ…厳しさに、僕は声が出せなかった。身動きすらできなかった。
 
「だが、ありがたいことに…天は私に罰を与えてくださった。私が大罪を冒すより前に…それで、私は眼が覚めたのです。初めて、自分が何をしようとしていたのかを思い知ったのです」
「…そんな」
 
「天罰」とは、おそらく、幼い頃に亡くなられたという大君のことを指すのだろう、と思い、僕は唇を噛みしめた。
が、ギルモアさまはそんな僕をちら、と痛ましそうな眼差しで見やっただけだった。
そして彼は、帝から賜ったあの華やかな冬衣装をさりげなく手にとりながら、不意に明るい声を出されたのだった。
 
「しかし、それも間もなく終わると、私は思っています。この命が、最後の購いとなりましょう。そうとなれば、遺された者がこのような影を背負うこともありますまい…そうあってほしいものです」
「…三の君さま、のことでしょうか」
「不憫な姫です。早くに母を失い…それでも中君がいた頃は、母代わりを懸命につとめてくれようとしたものだったのですが…その姉をも程なく失い、今このように父を失おうとしております」
「そのような…!そう思われるのでしたら、お元気にならなくてはなりません!」
 
思わず高い声を出してしまった。
ギルモアさまは驚いたように僕を見つめ…また微笑するのだった。
 
「まったく、仰せの通りですな…しかし、あなたさまが三の君のことをご存じだったとは…失礼ですが、そうした方ことにはとんと関心のないお方のように思っておりました」
「い、いえ…知っていたわけでは…先日、帝にうかがっただけで…それも、そうした方がおられる、ということしか…その」
「なるほど…そうでしたか」
 
探るように見つめられた…気がして、僕は思わずうつむいていた。
後ろ暗いことがあるわけではない。
ない、けれど……
 
「父の私が申し上げるのも愚かなことですが、あれは本当に優しい…美しい娘です」
「…え」
 
おそるおそる顔を上げると、ギルモアさまはやはり微笑していた…が、その笑顔にはどこか少年のようないたずらっぽさが潜んでいるように見えた。
彼のそんな表情を見るのは初めてだった。
 
 
 
その日から、ギルモアさまは僕に少しずつ…少しずつ、三の君さまの話をしてくださった。
それは三の君さまを僕にくださる…という意思表示にも、ひどく先走って取ろうと思えば取れたのかもしれない。が、もちろん、その頃の僕にとって、そんなことは思いも寄らないことだった。
 
ギルモアさまの方でも、おそらくそんな意図はなかったのだろう。
彼はただ、最愛の娘をひとり遺していくことになる不安を、そういう形で少しでも紛らわそうとしていたのではないかと思う。
僕は、少なくとも、その程度には信用に足る相手となりえていたのだ。
 
三の君さまは、僕よりひとつかふたつ年上のようだった。
姉君たちとは年が離れていて、ギルモアさまの身辺もすっかり静かになった頃…この邸でお生まれになったのだという。
もちろん、その頃は北の方と中君さまがお元気でいらした。
 
「思えば、あれがごく幼い頃…あの頃が、私どもの一番幸福な時だったように思います。あの時間がもっと続いていれば…いや、これもまた妄執にすぎないことですがな」
 
世間から忘れられた暮らしは豊かではなかったが、静かで、愛情に満ちたものだったのだという。たしかに、その暮らしが長く続いていれば……
しかし、そうはならなかった。
北の方が、病に倒れられたのだ。
 
「私どもは、何をおいても、妻の病を治すことを第一義としておりました。その結果、中君に重い荷を負わせることになってしまった…妻は病床でしきりに嘆いていたものでした。中君に頼もしい婿君を迎えてやれないことを…」
 
ふとジェットを思った。
その頃、彼は元服したばかりの少年で、恋の冒険に夢中になっていた…ように思う。
あちこちに出歩いては、美しい姫君の噂を求めていた。
その彼の情報網にかからなかったということは……
 
中君さまに魅力がなかったから、ということではないだろう。
それなら、それなりに彼は何かを知っていたはずだから。
でも、ジェットは僕がギルモアさまのもとに通うと知ったとき、そこに姫君がおられる…あるいはかつておられた、ということなど思いも付かない様子だった。
…ということは。
 
ギルモアさまの言われる通りだったのだろう。
この邸は、本当に人々から忘れられていたのだ。
 
「妻が亡くなったとき、中君は…そうですな、好ましい結婚をするには、それにふさわしい年齢をすぎようとしておりました。私が思いやりのある父親だったら、何よりそれを考えてやらなければならなかったのに…お恥ずかしいことですが、私は自分の悲しみと向き合うのに精一杯だったのです…気づいたとき、中君は、妹の母代わりをつとめる覚悟を決めておりました。自分はこの邸で朽ち果てても、三の君には幸福な結婚をさせてやりたい…と」
 
そうはいっても、中君さまにはそういう結婚を取り結ぶようなつてが、当然、何もなかった。
彼女は自分にできる精一杯のこととして、三の君さまに箏や書を教えつつ、侍女のようにかしずいたのだという。
 
「中君のそんな姿を、私はいたわしいとも思わず…むしろ、仲むつまじい姉妹の様子に心を癒されるばかりの、弱い父親でしかありませんでした。そう、姫たちは、私に何かを求めたことがありません。私はいつも、気遣われているだけでした…そして、中君もやがて病を得ました」
 
中君さまが亡くなられたときの三の君さまの悲しみは、母君を亡くされたときに勝ったように、ギルモアさまには見えたのだという。
そして、それはギルモアさまご自身にも同じことだった。
 
嘆きと絶望の中で、ギルモアさまはかねてから心をよせていた仏道修行に、次第に傾いていかれるようになった。もちろん、出家を望まれた…のだが。
 
「さすがの私でも、そこまで非情な父にはなりきれませんでした。よるべない三の君をここにひとり残していくことが、どうしてできましたでしょうか…しかし、そうやって三の君を守っているつもりで、守られていたのはたぶん私の方だったのでしょう。私は、いつもそのようにしか生きられなかった。妻を、娘を次々と犠牲にして、何かを追い続けていたのでした…今に至るまで」
 
そんなことはありません、と、僕は言えなかった。
それはあまりに白々しい言葉に思えたから。
でも、ギルモアさまが北の方や姫君さまたちを蔑ろにした結果、このような悲しいことになったわけではない…それだけは強く感じられた。
そして、だからこそ僕は何も言えず、うつむくしかなかったのだ。
 
 
 
ある晩、ギルモアさまはいつになくお元気でいられた。
そういえば、まだこうしたことはしておりませんでしたな、と微笑しながら、彼は見事な琵琶を僕に見せてくれた。
ギルモアさまは琵琶の名手として名高い、と聞いたことがある。
 
僕は琵琶を弾くことがそれほど得意ではない。
そう言うと、ギルモアさまは、それは残念、この手をお伝えすることのできるお方ではありませんでしたか、と冗談を言われた。
 
「三の君さまにはお手ほどきをされたのではないですか?」
「いや…あれは箏を好んでおりましてな…琵琶は、中君が達者でした」
「…ああ」
「弾けば中君を思い出すことになる…それもあって、長いこと、手を触れずにおりましたが…あなたには、お聞きいただきたい。この老人の形見として」
「それは、是非!…ですが、形見などと仰せになってはなりません」
 
ギルモアさまは微笑で応えられ、静かに琵琶をお取りになった。
やがて、奏でられたその音色に、僕は瞠目した。
 
それは、美しい…とか、赴き深い…という言葉ではとうてい言い表せない音だった。
澄んだ哀切な調べの中に、見え隠れするのは…業、とでもいうのだろうか。
僕にはとてもつかみきれない、熱く…重く、恐ろしい…底の見えない闇、のようなものだった。
 
荒い呼吸に、僕ははっと我に返った。
金縛りにあったように、身じろぎすらできなかった体から、ふと力が抜けると…いつのまにか、曲はすっかり終わっている。
文字通り、渾身の演奏だったのだろう…ギルモアさまは先ほどまでの元気が嘘のように、憔悴しきっておられた。
しかし、慌てる僕に、ギルモアさまは大丈夫です…と微笑まれた。
 
「薬湯よりも…あなたさまの笛をお聞かせいただけないものですかな」
「…僕の…笛…?」
「はい…失礼ですが、初めてお会いしたときから、心にかかっていたのです…実に、見事な笛をお持ちだと…」
「…これ、は」
 
…母の形見だった。
 
母が、生前、笛をよくしたのかというと…そうではなかったらしい。
が、僕の元服のとき、兄が僕に授けてくれたのだった。
母宮さまの形見である、と……
 
母もまた内親王だったし、その笛は見るからに由緒のあるものだったが…それがどのように伝えられたものであるのか、詳しくは知らない。
兄も知らないようだった。
 
笛は子供の頃から好きだった。
帝に特に求められて奏でたことも何度かある。
が、今のギルモアさまの演奏をお聴きしたあとで奏でるのは…さすがに気がすすまない。
でも、ギルモアさまはなお、是非に…と、言われるのだった。
 
「今の琵琶を…おそらく三の君も聞いたことでしょう…可哀相なことをしました。あなたの笛で、慰めてやってはもらえませんか」
 
そんなことを言われてしまったら、なおさら何もできない。
そう咄嗟に思った僕だった…が。
 
不意に、何かが胸をよぎった。
何か、とてつもなく悲しいもの…それでいて熱く胸を焦がすものが。
 
それが何かはわからなかった。
が、僕はいつのまにか笛を取り出し…唇に当てていたのだった。
 
時は流れる。
人は去りゆく。
今、ここでも。
 
それでも、引き留めたいものがある。
追いかけたいものがある。
僕達は…どうしようもなく愚かで、悲しい。
 
俗聖と呼ばれる、流転の宮。
その生涯が、まもなく尽きようとしている。
僕は、それをただ惜しみながら…涙しながら、見送るしかない。
おそらく、三の君さまがそうでいらっしゃるように。
 
やがて、僕が笛を静かに下ろし、夢から覚めたような気持ちでギルモアさまを見ると。
彼は無言のまま、涙を流していた。
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