4      月夜
 
ギルモアさまの容態は気になったが、その日はどうしても都に戻らなければならなかった。
心を残しながら暇を告げると、いつもの年配の女房が見送ってくれた。
 
「先ほどは、素晴らしい笛をお聞かせいただき、ありがとうございました」
「…いえ…そんな」
 
彼女にじっと…穴の開くほど見つめられ、僕は少々まごついた。
この邸にただ1人しかいないらしいその女房は、そうはいってもギルモアさまの邸にふさわしく、いつもは物腰の洗練された奥ゆかしい方だったから。
 
「こちらは…かえって失礼とは存じますが、どうかお持ちください…ご無事でお帰りになられますよう」
 
彼女が差し出したのは、小さな守り袋だった。
感触で、ごく小さい木彫りの仏像…おそらく観音像…がおさめられているのがわかった。
僕は丁寧に礼を言い、馬に乗った。
 
守り袋から微かに立つ香りには覚えがなかった。
おそらく、三の君さまがくださったのだろう…と思い、何となく胸が熱くなるのを感じた。
 
やはり、三の君さまは僕の笛を聞いてくださっていたのだ…どう思われただろうか。
ギルモアさまが望まれたように、少しでもお心をお慰めすることができたのならいいのだけれど。
 
優しくゆかしい香りに、僕はふと三の君さまの面影を心に描いていた。
まだ見ぬ姫君の、何かお力になりたい。そうなれるといい。
僕は強く思った。
 
僕が、この世にあるものについて何かを強く願ったのは…もしかしたら、それが初めてだったのかもしれない。
 
 
 
そのわずかな香りに気づいたのは、ジェットだけだった。
さすがだなあ…と、僕は妙に感心しながら、彼の勢いにおされるようにして、三の君さまのことを話した。
 
「そうだったのか…あの俗聖に、そんな美しい姫君がおられたとは…!俺と同い年…だな、そうすると」
「…ジェット、まさか君…!」
 
思わず語気を強めた僕に、ジェットは笑った。
 
「馬鹿。いくら俺が節操のない男でも、お前の恋人に手を出すわけがないだろうが」
「恋人…だって?やめてくれよ!そんなんじゃないんだから!」
「よく言うぜ…そうやっていただいた守り袋を後生大事に身につけていやがるくせに」
「これは…!これは、ギルモアさまのお心でもあるから…僕は、本当に…誓って、ギルモアさまに顔向けできないようなことを考えたりはしていない!」
「そんなこと誓ってどうするんだよ?馬鹿だな、お前は…誓うならその三の君さまとやらに誓えばいいものを」
「…君には、わからないよ」
「まあ、そうらしいな」
 
溜息をつきながらも、ジェットはこれは面白い話題だ、と思ったらしい。
しぶる僕をさんざんせっついて、例の守り袋を僕から取り上げると、それをしげしげ眺めて言うのだった。
 
「うーん。これは……どうやらかなりの女だぞ、その三の君さまは」
「ギルモアさまの姫君だからね…当たり前だろう?…もういいだろう?返してくれよ!」
「ふん」
 
つまらなそうに守り袋を僕に投げ渡すと、ジェットはにやっと笑った。
 
「何もわかっちゃいないんだな、お前は…俺なら、どうにかして手に入れようと思うがな。これほどの女とはそうそう出会えるものじゃないぜ?」
「…どうしてそんなことがわかるんだい?」
「まず、この香りだ…わざわざコイツにたきしめたものではないらしい…となると、三の君が普段から使っている香がうつった…ということさ」
 
馬鹿馬鹿しい、と思いながらも、僕はついジェットの次の言葉を待ってしまっていた。
彼の女性を見る目はかなり確かだ…と聞いていたし、それだけの経験も積んでいる。
その彼が、三の君さまをどう見たのか…やはりちょっと興味があった。
 
「香りってやつはな、ジョー…その女の心映えを表すものなのさ。お前、この香りをどう思った?」
「どうって…優しい、奥ゆかしい香りだと思う。心が安まる、でも清々しい香りだ」
「ほう…?やるじゃないか。お前、結構素質があるぜ?」
「…何の素質だよ」
「ふふ。まあ、いい見立てだ…ってことだ。俺もそう思うぜ、ジョー。それで、だな…心映えの美しい女は、見目形も美しいものなんだ…実際にな」
「そう、なのかな…?」
 
僕は、咄嗟にギルモアさまのお顔を思い浮かべていた。
失礼だとは思ったのだけれど。
 
「お前、その女に惚れてるだろう?」
「…そんなことはない」
「なら、気づいていないだけだ。お前は、その女に惚れている」
「まったく、話にならないな」
「素直に認めろ。もたもたしていると、話がややこしくなるばかりだぜ?」
「ややこしくなる…?たとえば、君が乗り出してくる、とか?」
「まあ、そういうこともあるかもしれん」
 
僕は無言のまま、ありったけの気合いをこめてジェットをにらみつけた。
僕のこういう視線には相当の「効果」がある、と皆は言う。
案の定ジェットは肩をすくめて、冗談だよ馬鹿、と言ったのだ。
 
本当に、冗談だけにしてほしい。
もちろん、ジェットは立派な男なのだが…彼の身分のこと、立場のことを考えると、三の君さまにはお気の毒なことになるとしか思えない。
 
 
 
それからしばらく、ギルモアさまの容態ははかばかしくなかった。
訪ねていってもお会いできない日が続いた。
そんな日はあの女房と静かに語り合い、笛を吹いて過ごすのだった。
 
彼女は、僕の笛を聞くたびに涙を流した。
妙に涙もろいひとだな…と不審に思わないことはなかったけれど…
彼女から、ギルモアさまも三の君さまも、僕の笛を楽しみにしてくださっていると聞いたので、僕は心をこめて吹き続けていたのだ。
 
その夜は、美しい満月だった。
いつものように笛を吹き、とりとめのない話を女房と交わしてから、僕は暇を告げた。
 
ギルモアさまの邸の近くには、浅い川が流れている。
その水面に月が落とす影の美しさに、僕は思わず馬を止め、たたずんでいた。
満月はまだ天高く輝き、山の端に沈む気遣いもなかったから、道を急ぐ必要もない。
 
どれだけそうしていただろうか。
僕はふと、瀬音に混じって、微かな箏の音を聞いたのだった。
ごく微かな…それは、この世のものとは思えないような、儚く清らかな音色だった。
 
三の君さまが弾かれているのだ、とそのときはなぜか思いつかなかった。
僕はただ、その音色に惹きつけられるように、馬を離れて…おそらく、ふらふらと…ギルモアさまの邸へと戻っていったのだ。
 
音は次第に近くなり…とうとう、僕は邸を囲む生け垣の傍らに立っていた。
やがて、箏の音が止まった。
 
「そのように、月をごらんになってはなりません、姫さま」
 
あの女房の声だった。
それに答える声は、とても柔らかく優しくて…そして、消え入るように小さかった。よく聞き取れない。
何を言っているのだろう、と焦れた僕は、思わず生け垣の隙間に顔を寄せていた。
そして、見たのだった。
 
天女がいらっしゃる、と思った。
 
僕がそのとき思ったのは、本当にそれだけだった。
おかしな話だが、そのお姿がどれほどお美しかったか…ということすら思い出すことができない。
僕は、ただ憑かれたように彼女を見つめていたのだ。
その姫君……三の君、を。
 
しかし、それはおそらくほんの一瞬のことにすぎなかったのだ。
衣擦れの音にはっと我に返ると、もう三の君さまのお姿は見えなくなっていた。
 
…あれが、三の君さま。
 
僕はぼんやりと月を見上げた。
あの方は、この月をごらんになっていたのだ。
ああ、なんと美しい月だろうか。
 
そのお姿がこの世のものでないと思われるほど清らかで、かなしかったから…だから、あの女房はとがめるようなことを言ったのだ。
 
…そのように、月をごらんになってはなりません。
 
物語の月の都の姫君のように、いつかふわりと天に飛び立っていかれるお方なのだろうか。そうかもしれない。
醜いこの世の全てをお見捨てになり…もちろん、この僕も。
 
どうやって歩いていったのか、覚えていない。
馬をつないだ川岸まで戻った僕は、傾きかけた月を見上げ、笛を吹いた。
 
なぜか涙があふれて止まらなかった。
 
 
 
それからしばらく、僕はふさぎ込んでいた…ように見えたらしい。
ギルモアさまの邸にも、お便りをしたり、薬などを届けさせたりはしたが、出かけようとは思わなかった。
勇気がなかった…のかもしれない。
 
ジェットは、僕が恋をしているのだ、と言った。
そんなものではない、といくら言っても彼は耳を貸さず、あちこちにそう言いふらしていたらしい。
とうとう兄の左大臣までが僕に尋ねるのだった。
誰か、気にかかる姫がいるのか?…と。
 
兄上まで、何を言うのだろう…と、正直うんざりしたのだが。
彼は、僕が思いも寄らなかったことを心に入れ、心配していたのだった。
気にかかる姫などいません、と僕が答えると、兄はそれでもまだためらいながら言ったのだ。
 
「それならいいのだが…実は、そろそろお前にふさわしい姫君を探さなければならないと、以前から思っていたのだ」
「…ふさわしい…姫君…?」
 
僕は、あっけにとられた。
兄は、僕の縁談を進めようとしていたらしい。
 
僕には…ついでにいえばジェットにも、まだきまった北の方というものがない。
ひとつには、僕たちの身分と地位が、うかつにそれを決めさせない…という事情がある。
それに加え、僕もジェットも…方向はまったく正反対だったが…まずは自由を求めた。
 
僕たちが元服したとき、兄たちの世代と僕たちの利害はそのように一致していた。
また、兄自身にも、かつて初恋の姫への純情を貫き、長く結婚を拒んだといういきさつがある。
 
そのようにして長い苦しい恋を経てようやく結ばれた兄夫婦の間柄が、それでは美しいものかというと、僕にはよくわからない。
わからないが…兄は、少なくとも幸せそうにみえる。
結婚とは、つまりそういうものなのかもしれない…僕は、自然にそう思うようになっていた。
 
あの天女のような三の君へ抱く思いは、穢れない美しいものへの憧れ…だと僕は思った。
手が届かないものへの、届かないからこそ抱くことができる憧れ。
 
だから、僕は兄の真摯な眼差しに、ただうなずいたのだった。
 
気にかかる姫君などおりません。
兄上に全ておまかせいたします…と。
 
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