5      誓約
 
 
恐れていたことが起こった。
 
小康状態を保っていたはずのギルモアさまの容態が、急に悪くなったのだという。
僕は、帝に事情を話し、しばらく出仕できないことをお許しいただくと、すぐに走った。
間違いならいい、と心に念じながら。
 
ギルモアさまの邸に着き、例の女房に案内されて部屋に入ると、微かに、覚えのある香りがした。
これは…三の君さまの。
 
僕が僅か顔色を変えたのに、女房はめざとく気づいた。
彼女は声を潜め、さきほどまで三の君さまがこちらにおられたことを教えてくれた。
…考えてみれば、当たり前のことだった。
 
「すまない…もし、ギルモアさまがお許しくださるのなら、だが…三の君さまをこちらにお連れしていただけないだろうか」
「…え」
「僕は、もの越しの対面でよいのだ…三の君さまこそ、誰よりも…少しでも父宮と御一緒にいらっしゃりたいはずなのに…僕が、その邪魔をするのでは心苦しい」
「でも…それは…」
「頼む…申し入れだけでも…してはもらえないか」
 
僕は熱心に頼んだ。
女房も、正直のところ、それが気にかかっていたにちがいない。
何しろ、僕のことだから…こちらに泊まり込むことも辞さないと、わかっていたはずだから。
 
しばらくして、通された部屋には、ギルモアさまがお一人で横たわっておられた。
が、その奥に、見慣れない几帳が置かれているのを素早く見取り、僕はほっと胸をなでおろした。
おそらく、何かご用があるときはいつでもそこに三の君さまがお出でになれるように…ということなのだろう。
 
「よく…おいでになられました……このような姿で…大変失礼…を」
「そのようなこと…!ご無沙汰をしておりまして、申し訳ありません…それに…」
 
僕はややためらってから、三の君さまにお気の毒なことをしているのではないか…という懸念を口に出した。
 
「僕はもの越しでも…いえ、簀子で控えさせていただいても一向に…」
「そのような失礼はできません…第一、あなたとそのようにお話しようにも、我が家には十分な女房もおりませんでな…いちいち口伝えをさせるのでは、まどろしくてかないません」
 
思ったよりも元気そうなギルモアさまの口調に、僕はひとまず胸をなでおろした。
 
 
 
とりとめのない話を続けたところで、ギルモアさまはふと口をつぐまれた。
さすがにお疲れになったのだろう…と、僕も話すのをやめた。
しばらく沈黙が続いてから…ぽつり、とギルモアさまはつぶやかれた。
 
「三の君が…あなたの笛を好きでしてな…いつも、楽しみにしておりました」
 
どきん、とした。
何も答えられず、ただうつむく僕に、ギルモアさまは微笑された。
 
「今夜は、あの子の箏をお聞かせしましょう…お気に召すとよいのですが」
 
どうかなってしまうのではないかと思うほど、鼓動が早くなる。
うつむいたままの僕が真っ赤になってしまっていることを、おそらくギルモアさまは悟っておられただろうと思う。
 
「もっとも…都の名だたる姫君たちを見慣れていらっしゃるあなたさまには…お耳汚しにしかならないでしょうが」
「そんな…!そんな、ことは…!」
 
どこからどう否定したらいいのか、わからない。
僕は「姫君たち」と語らったことなどまずないし、第一、どんな姫君であろうとも、あの天女のような三の君さまと比べたら……
…が、もちろん僕は何も言えなかった。
 
ギルモアさまは、お言葉どおり、その晩、三の君さまの箏を聞かせてくれた。
さすがに、三の君さまは例の几帳のトコロまでおいでになったわけではなく、次の間でお弾きになっていたのだけれど。
 
素晴らしい音色だった。
僕は高鳴る胸を懸命におさえながら、その調べに酔った。
やがて、笛を…と所望された。
 
指がおかしいほど震える。
が、一旦笛を唇に当てると、僕は何もかも忘れてしまった。
 
空を舞う清らかな天女を、地を走り追いかける人間のように…僕は限りない憧れをこめて、笛を吹いた。
あの方の奏でる調べ…とらえられそうでとらえられない、天上の調べに…少しでも近づきたい…触れたい、と願いながら。
 
やがて、ぱたり、と箏がやんだ。
夢から覚めたような気持ちで、ぼんやりと笛を置くと、ギルモアさまは僕をじっと見つめておられた。
 
「…失礼…いたしました」
「素晴らしい…調べでしたな」
 
ぽつりとつぶやくギルモアさまの声に、なぜか額を打たれたように感じ、僕はただその場にかしこまって頭を下げた。
が、ギルモアさまは穏やかに次の間に声をかけられたのだった。
 
「フランソワーズ。お前からも、お礼を申し上げなさい」
 
フランソワーズ。
 
それが、あの方のお名前だった。
 
 
 
衣擦れの音がさらさらと近づいてくる。
顔を上げたとしても、そのお姿は几帳の向こうにあるのだから、見えるはずはない。
そう思っていても、どうしても顔を上げられない。
 
「…素晴らしい笛をお聴かせいただき、ありがとうございました…わたくしのつたない手がはずかしゅうございます」
「そんな…ことは…僕の、方こそ…目障りな者よと、お思いになられたのでは、と…」
 
自分が何を言っているのか、よくわからない。
 
初めて聞く三の君さまのお声は、柔らかく…優しく、そして、思ったよりも若々しい明るい響きだった。
おそらく、僕がこんなに緊張していなければ…聞く人の心をほっと和らげてくださるようなお声であるにちがいない。
 
三の君さまは、それきり何もおっしゃらず、几帳の向こうに控えていらっしゃった。
やがて、あの香りが微かに僕の座所に届いた。
 
おそらく、僕は真っ赤になり…しどろもどろにしか話せなくなっていたのだろう。
ギルモアさまはほどなく三の君さまを下がらせたのだった。
 
…ああ、行ってしまわれる。
 
名残惜しいような、ほっとしたような複雑な思いで頭を下げていた僕に、ギルモアさまが穏やかに話しかけた。
 
「年の割には…幼い姫でしてな……私の亡き後、どうやって暮らしていくものなのか…このような迷いは罪とわかっていても…どうにもなりません」
「…ギルモアさま」
「所詮…私は俗聖、ということなのかもしれませんな…」
「そのようなことは…!三の君さまをご心配になられるのは、人として無理のないこと…帝も、気に懸けておられました」
「…帝、が?」
「はい。もちろん…私も」
「…そうです…か。かたじけないことです」
「どうか…どうか、三の君さまのことはご心配なきよう…私も、命あるかぎり、心をこめてお仕えいたします」
「あなたのそのお言葉を…頼りにしてもよろしいのでしょうか」
「…はい…!」
 
ギルモアさまは、不意に深い溜息をつかれた。
驚く僕に、彼は微笑してゆっくり首を振った。
 
「なんと…ありがたいお言葉をいただきました…それだけで、この年寄りには…身に余る幸せでございます」
「……」
 
僕は、信用されていない。
 
直感だった。
頭をなぐられたような衝撃と同時に、当たり前ではないか…という乾いた声も聞こえた気がした。
 
当たり前ではないか。
あの方は…あまりに、お美しすぎる。
あの方も…ギルモアさまも…あまりにも。
 
 
 
そうして、数日が過ぎた朝。
内裏からの使いがやってきた。
さすがに、あまりに長い留守だと…帝がご心配されているのだという。
 
ギルモアさまの容態がやや持ち直したこともあり、僕はとりあえず都へ戻ることにした。
見送りに出た女房は、しかし、あの日のように三の君さまからの言づてをすることはなかった。
 
帰宅したらすぐに内裏に参上するつもりだった…のだが。
邸では、昼日中から兄が待ち受けていたので、僕は思わず目を丸くしてしまった。
彼は左大臣の公務で忙しいはずなのに…
 
「ジョー、待ちかねたぞ…!」
「兄上…申し訳ありませんでした」
「ギルモアさまのご容態はどうなのだ?」
「はい。お悪いことに変わりはありませんが…今は少し…落ち着いていらっしゃいます」
「そうか…いたわしいことだ」
 
どこか上の空で言うと、兄はそわそわと座り直した。
 
「兄上…何か、あったのですか?」
「うむ。実は、前に少し話しておいた…その、お前にふさわしい姫君の話なのだが…」
「…あ」
 
そうだった。
でも、あれきり兄はその話をちらりとも出しはしなかったから…忘れていたのだ。
 
目を丸くしている僕を探るように見つめながら、兄は小声で言った。
 
「先帝の…四の宮さまの、後降嫁が…どうやらお許しいただけそうになってきたのだ」
「え、ええっ?!」
 
思わず高い声を出してしまった。
先帝の四の宮さま…というと、つまりジェットの妹宮だ。
そういってしまえばなんだか気楽な気がしてしまうが…。
 
「兄上、恐れながら…それは私にはあまりに重いお話だと存じます。私には…とても…内親王さまをお迎えするなど…!」
「ふむ。まあ…気持ちはわからなくもない。お前はたしかに若すぎるかもしれない…が」
 
僕は一生懸命うなずいた。
 
兄も…父でさえ、内親王さまをお迎えできる身分になったのは、四十を越えてからだ。
確かに僕は、最後は太上天皇に上りつめ、ただ人の身分を乗り越えた父と、内親王の母との間に生まれた。元服のときは、異例とも言える二位をいただいている。
が、当たり前だが、役職の方はまだ納言ですらない。
 
「お前は幸い、おそろしく優秀な若者でもある…なに、役職の方はあと数年でそれらしくなってくるだろう」
「…兄上」
「四の宮さまは、まだ十五だが…もしこれからご降嫁があるとしても、その候補となる男は結局お前ぐらいしかおらんのだ…それなら、お若いうちから親しまれておられた方が、宮さまもお前も幸せというものではないだろうか」
「…しかし」
「お前なら、十分に四の宮さまをお守りできる…もし力が及ばないと思ったときには私がいる…帝も助けてくださるだろう」
「……」
「それとも…やはり、心にかかる姫君でも…おられるのか?」
 
どきん、とした。
 
心にかかる、姫君……でも。
でも、僕は…僕には…!
 
 
 
三日後。
再び都を離れ、ギルモアさまの邸へ向かう僕の心は重かった。
 
結局、僕は兄に三の君さまのことを話すことができなかった。
が、仮に話したとしてもどうすることもできないだろう。
 
兄は、ギルモアさまの邸に姫君がおられることを知っている。
もし、僕がその姫君に心を奪われているということが兄の知るところとなれば…僕は、二度とギルモアさまをお訪ねすることができなくなるかもしれなかった。
それは、どうにも耐え難いことだった。
 
頬に冷たいものを感じ、僕は空を見上げた。
雪…だった。
 
…何を…思い乱れているんだ、僕は…
 
ふと思った。
どのみち、かなわない思いと諦めていたのではなかったか。
あの方は…天上のお方。
僕には、どうあっても手の届かない……
 
だが、こうなってみて、僕は初めて気づいたのだった。
あの方へ…三の君さまへ抱いたこの思いは…恋、であったのだと。
 
美しいもの、清らかなものへの憧れ…それだけではなかった。
僕は、あの方を求めていた。
あの方をこの胸に抱きしめ、あの香りに包まれ…あの優しいお声を僕のものだけにして、そして…!
 
「…フランソワーズ」
 
小さくつぶやいてみる。
その名は、掌で受けた雪のひとひらのように溶け…流れていくように思えた。
 
 
ギルモアさまの邸の前で、僕は深呼吸を繰り返した。
決意は、できている。
 
…大丈夫だ。
 
僕は、必ず…あの方をお守りする。
どんな身の上になろうとも。
 
 
 
「それは…どういうこと…でしょうか…?」
 
ギルモアさまの厳しい視線を、僕はそらさずに受けることができた。
声が震えないようにと祈りながら、ゆっくりと口を開く。
 
「思い上がりかもしれませんが…私は、三の君さまをお守りしたいのです」
「それはつまり…あの子を妻に迎えたい、ということですかな?」
「…いいえ」
「……」
 
短い沈黙の後、ギルモアさまはほっと息をつかれた。
 
「では…妻としてではなく…後見人として、あの子を守ってくださると…?」
「…はい」
「それは…この私へのご厚意から…と考えてよろしいのでしょうか」
「そう、お考えください」
「……」
「もし、三の君さまがそれをお望みなら…いずれ、ご結婚のことも、私にお任せいただきたいと考えております」
「…かつて…あなたの父上が…なされたように、か?」
「はい。父に及ぶとは思いませんが…私にできる限りのことは…必ず」
 
父は、兄帝に中宮を奉っていた。
帝に先立たれた未亡人としてひっそり暮らしていた御息所さまを恋人とした父は、彼女の亡き後、そのご息女である内親王さまを養女として手元に引き取られた。
そのままご自身の恋人にしてしまうおつもりなのでは、という世間の囁きをよそに、父は内親王さまの後見を忠実につとめ、当時の帝であった兄のもとへ入内させたのだ。
それは、亡き恋人…御息所さまの御遺言であった…とも聞いたことがある。
 
「…なるほど」
「お許し…いただけるでしょうか」
「…許すも許さないも…身に余るお言葉です」
「ギルモアさま…?」
「許していただかなければならないのは…私の方です。私は、あなたが三の君を…ひとときの恋のお相手としようとしているのではないかと…案じておりました」
「……」
「それだけは…あまりに、あの子が不憫だと…私は…そう思って…」
「…ギルモアさま…!」
「あの子は…このような暮らしをしておりますが、宮家の娘…おそれながら、あなたにとっても従姉にあたる血筋の姫です。仮にあなたに見初められ、ひとときの恋に酔ったとしても…後ろ盾の何もないあの子には、あなたと生涯連れ添うことなどかないますまい」
「……」
 
何も、言えなかった。
おそらく、彼の言う通りにちがいない。
現に、今…たった今でさえ、僕は何かに縛られ…思い通りにならない身の上なのだから。
 
「あの子がいずれ、都のご立派な姫君たちに押しやられ…あなたにうち捨てられ、宮家の誇りを失い、朽ちていくのは、あまりにも……それならいっそ、清らかな身のまま世を捨て、私のゆかりの寺に尼として…」
「…何を仰せになりますか!」
 
僕は、思わず叫んでいた。
あの方が尼になる…この世を捨てる、など……!
 
「…そう、でしょうな…それはそれで、いたわしいことでありましょう」
「私が…必ず、姫君をお守りします。そのような思いは決してさせません…!」
 
ギルモアさまが震える手を差し出した。
僕は、その手を両手でしっかりと握りしめ、額におしいただいた。
 
「お誓いします。…三の君さまをお守りいたします。男として…恋人としてではなく、あなたの代わりをつとめる者として…この命に替えても…!」
 
ギルモアさまは無言で、僕の手を強く…強く、握り返した。
 
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