6      落日
 
 
それからほどなくして、ギルモアさまは静かに息を引き取られた。
 
公務に追われていた僕は、そのご臨終にすら立ち会えなかったが、すぐさまピュンマをギルモアさまの邸へ送り、葬儀など全てのとりはからいをさせた。
夜ごと報告のため戻ったピュンマは、三の君さまが深くお嘆きになりながらも、お心強く父宮の野辺送りをなされた…ということを僕に語った。
 
知らせは帝にも届いていた。
沈痛な面持ちで、帝はお悔やみの品々を整えられ、僕にことづけるのだった。
 
「おいたわしいのは…三の君だな。どれほど心細くいらっしゃるだろう…あの清らかで優しい姫君が…」
 
ふと帝がもらした言葉に、僕は首を傾げた。
僕のいぶかしげな視線を受け、帝は苦笑された。
 
「私としたことが、油断だったな…大事な秘密を漏らしてしまった。まあよい。ジョー、お前には話しておこう…お前はギルモアの最期に深く関わった者だからな…私は、昔、三の君と親しく語らったことがあるのだ」
「…えぇっ!?」
 
驚く僕に、帝は楽しそうに笑った。
 
それは、ヒルダさまが亡くなられた春のことだったという。
ふさぎこむ帝をなんとか元気づけようと心を砕いた貴族たちは、しばしば帝をお忍びで野山へとお連れしたのだという。
そして、その日も、帝は桜が美しいと評判の山をひっそり訪れていた。
 
「そこで…出会ったのだよ。実に可愛らしい…山桜の精のような姫君に」
「…それが…三の君…?」
「後でわかったことだったがな……無邪気で、優しい少女だった。ヒルダを亡くした私が、初めて笑うことができたのは…あのときだったかもしれない」
「そんな…ことが…」
「今度は、私が姫をお慰めする番だ。あのときのように語り合うことはかなわぬが…せめて文を交わすことにしよう」
 
僕は黙ったまま、深くお辞儀をした。
ひどく、胸が騒いだ。
 
 
 
帝の文使いなら、立派な「公務」だ。
僕は、堂々と他の仕事を捨ておいて、ギルモアさまの邸へと急いだ。
もしかしたら、帝が三の君に文を書かれた本当の目的はそれ…僕を気遣われてのことだったのかもしれない。
 
「殿!…大丈夫なのですか、まだ、起こしになっては…!」
 
驚いて飛び出してきたピュンマに、僕は黙って帝からの文を見せた。
たちまち目を丸くし、平伏す彼の姿に、僕は思わず笑った。
 
「なんと!…畏れ多い…!」
「これを、三の君の女房にお渡ししてくれ」
「わ、私が…ですかっ?」
「お前しかいないだろう?」
 
ピュンマは深い溜息をついて文を押し頂き、奥へと入っていった。
その後ろ姿を見送り、僕は簀子に腰掛けて辺りをあらためて見回した。
 
さすが、ピュンマ。
としか言いようがない。
 
庭も家の中も、端正に整えられ…ひっそりと厳かな喪の空気に満ちていた。
それでいて、冷たい感じはしない。
隅々まで行き届いた彼の気配りに、僕は満足…というよりむしろ、驚嘆していた。
 
やがて、いつもの部屋に通され、簾をくぐった僕は、思わず声を上げそうになった。
体が凍り付いたように動かない。
部屋の隅に立てられた几帳から、白い手がかいま見え、続いて亜麻色の髪が見えたのだ。
…まさか。
 
「…わたくしには分を過ぎたお心ざしをいただき、本当にありがとうございます」
「……」
「あなたさまのおかげで、父を心安らかに見送ることができました…どのようにお礼を申し上げればよいか、わかりません」
 
…三の君さま。
 
しばし呆然としていた僕は、ふらふらとその場に座り、とりもなおさず頭を床にすりつけるようにした。
 
「いいえ…参じますのがこのように遅れ…面目もございません。お許しいただきますよう」
 
やっとの思いで、それだけを言った。
 
 
 
考えてみれば、当然だった。
ギルモアさま亡き今、この邸の主人は三の君さまだ。
都から、身分高い客人…というのはつまり僕のことだが…がお悔やみに訪れたとあっては、主人として相手をし、礼を尽くさなければならない。
 
なんと、おいたわしいことだろう。
宮家の姫君が、女房のように人前に出なければならないとは。
 
僕の胸は痛んだ。
が、その痛みはやがて少しずつ溶けるように消えていった。
 
三の君さまは、しとやかな深窓の姫君でありながら、才気のある明るいお人柄でもいらっしゃったのだ。
彼女は何の物怖じをすることもなく、危なげなくよどみなく…しかも慎ましやかに、僕の言葉に答えられた。
 
「帝から、お返事をいただいて参れ…と言付かっております」
「…畏れ多いことでございます。私のような者のつたない手蹟を帝にお見せするなど…」
 
と言われて、はいそうですか、と下がっていては使いにならない。
僕は何度もお返事を、と所望し、三の君さまは何度もご辞退され……それがしばらく続いた。
ひとつの手続きのようなものだったから、退屈なやりとりのはずなのだが、奇妙に楽しい。
とうとう、三の君さまが、それでは…と筆をとられた気配に、僕は溜息を押し殺さなければならなかった。
安堵ではなく、彼女との語らいが終わってしまうことを惜しむ溜息だった。
 
これを…と、例の女房に文を差し出される白いお手は、喪服の鈍色に映え、それが悲しかった。
またこぼれそうになる溜息を抑え、僕は深々と頭を下げた。
 
「ところで…三の君さまには、父宮さまからお聞きになられていたでしょうか。今後は、この私が…微力ながら、三の君さまの後見をさせていただきたいと考えております」
「…聞いておりました」
「気の利かぬ目障りな者よと、お腹立ちになることもおありと存じますが、命かけてつとめて参ります…どうぞ、よろしくお見知りおきください」
「私の方こそ…このような片田舎で生まれ育った、愚かな女でございます。お心を煩わせていたけるほどの価値もございません。どうか、お気づかいなきよう…」
 
僕は、頭を上げることができなかった。微かな衣擦れの音がしたからだ。
たぶん…三の君さまは、几帳のかげからわずかお顔をお出しになり…こちらをごらんになっている。そう思うと動けない。
 
…でも。
震える心に耐えきれず、僕はとうとうわずかに目を上げ…次の瞬間、息をのんだ。
 
青い…青い瞳。
空のように明るく、泉のように澄み、海のように深い。
 
ふと、帝の声が胸をよぎった。
山桜の精のような姫君…と。
胸の奥にちり、と焼けるような痛みを微かに感じながら、僕も心でつぶやいた。
 
山桜の精のような……僕の、姫君。
 
 
 
三の君さまの文をごらんになった帝は、ほう…っと溜息をつかれ、そのままじっと沈思黙考を続けられていた…が、やがて、顔を上げ、僕を見つめた。
 
「ジョー。…三の君の後見は、今後お前がつとめる…と申したな」
「…はい」
「父宮の代わりとして、か?」
「はい」
「ずいぶんとまた…幼い父があったものだ」
 
からかうように言われ、頬が熱くなった。
が、帝の眼差しは鋭く、真剣だった。
 
「だが…お前は、どのように姫をお守りするつもりでいるのだ?」
「どのように…?」
「左大臣から漏れ聞いているが…お前自身、これからはかなり忙しくなるのではあるまいか?例の、四の宮の…」
「…あ」
 
…そうだった。
 
きょとん、としている僕に、帝はまた息をつかれた。
たぶん、呆れられたのだろう。
 
「ジョー。三の君を、都に呼び寄せるがいい」
「え…?!」
「後見として、まずしなければならないのは、しっかりした婿を見つけることだろう。そのためには、あのようなへんぴな場所に姫をおいていてはならぬ。第一、どんな過ちが起きるやもしれぬ」
「あ…やまち…?」
 
僕は思わず真っ赤になっていた。
過ち、というのは、つまり……!
 
「父代わりの後見といっても、お前、まさかギルモアのように、姫と一生ひとつ屋根の下に住み続け、守るつもりではないであろう?」
「…そ、それは」
「父宮を失われて間もないときに、住み慣れた邸をも出よと言われては、たしかに気の毒ではあるが…どうにもなるまい。三の君は利発で思慮深い姫君のようだ…きっと道理をのみこんで耐えてくれよう」
 
たしかに、僕は父というにはあまりに幼かった。
帝のお言葉に、初めて三の君さまの心細い身の上を思い知った気がしたのだから。
 
 
 
結局、またピュンマに任せることになった。
 
急ぎ造られた三の君さまのための邸は、ささやかながら情趣に富んでいて、奥ゆかしい住まいとなった。
真新しい木の香りはすがすがしくもあり、しかし、大きく変わられたご自身の身の上をいやでも思わせる心細いものでもあり…さすがに、三の君さまは複雑なお気持ちに揺れておられるように見えた。
…というのも、ピュンマの報告だったのだが。
 
一方で、僕は自邸の増築も監督しなければならなかった。
それは主に兄のはからいで進められたことだったのだが…もちろん、四の宮さま御降嫁のためだ。
 
兄は、四の宮さまのために数々の見事な調度を方々から取り寄せ、着々と事を進めていた。
もちろん、僕もそういう仕事には関わった…が。どこか、他人事のような気がいつもしていた。
僕にとって、それはあくまで「内親王御降嫁」の準備であった。そして、自分の結婚の準備である…とはどうしても思えなかったのだ。
 
ピュンマは、三の君さまの邸が完成に近づくと、そこで仕える女房たちの選出に腐心しはじめた。
なんといっても、よい結婚をするには、優秀な美しい女房が多く必要です、とピュンマは力説した。その辺りのことはよくわからなかったが、三の君さまのお心をお慰めするために、若く思慮深い女房がお話相手になるのは良いことだろうと、僕も思った。
 
それで、気づいたときには、三の君は都の新しい邸に住まい、女房たちにかしずかれ…ということは、あの日のように、僕が訪ねていったからといって、御自らお出ましになるようなことはなくなっていたのだ。
 
慌ただしく時は流れ、季節がめぐり…ようやくその年もくれようとしていた。
三の君さまに古くからお仕えしていた、あの年配の女房が重い病を得て、重態である…と、ピュンマが僕に伝えたのは、そんなときだった。
 
 
 
女房は死期を悟り、既に三の君の邸を辞していた。
その粗末な家を僕が訪ねていったのは、彼女から密かにおくられてきた文がどうしても気にかかったからだ。
 
それは、ただの時候の挨拶…のように見えた。
が、激しく震える手で息も絶え絶えに書かれたことが見てとれる、どこか鬼気迫る筆跡に…僕は不吉な胸騒ぎを感じずにはいられなかったのだ。
 
その夜。
僕は、供もつけず…もちろん、ピュンマにも黙って…彼女の家を訪れた。
粗末な家だったが、さすがに掃除は行き届いていて、乱れたところがない。
 
女房は、すっかりやつれ果てていた。
死期が迫っていることが明らかに見てとれる肌は土気色で、声も弱々しくかすれている。
どこかやりきれない思いで枕辺に座ると、彼女は僕をみとめ、涙を流した。
 
「ああ…おいでくださいましたか……」
「無理をされませんように…」
 
起き上がろうとする彼女を、僕は慌てて抑え…ぎくり、とした。
暗い…底知れず暗い二つの目が、僕をじっと見つめていたのだ。
やがて、その目から、涙があふれた。
 
「…父君に、生き写しでいらっしゃる……」
 
……父君?
 
ひんやりとしたものが背筋をのぼっていく。
このひとは、何を言おうと…してる?
 
「そうでしょうか。そう、言われたのは……初めてです。僕は、あまり父に似ていないらしく…」
「ええ、そうですとも…源氏の院さまのことではありません」
「何を…おっしゃりたいのです…?」
「お許しくださいませ…お話するつもりはありませんでした…が、もはやこのことを存じているのは私のみ…このまま何もあなたさまにお話せずに逝くことは…おそらく罪となりましょう…そう思うと恐ろしく…」
「何を、おっしゃりたいのだ、あなたは?!」
 
思わず声を荒げていた。
それは…僕が、いつのころからか抱いていた疑惑そのものだったから。
 
 
 
その日から数日後。彼女は逝った。
親類の者たちが作る長い葬列を、僕は遠くから見ていた。
 
なぜ、この女に巡り会ってしまったのか……
 
涙がとめどなく頬を伝っていく。
 
「このことを確かに存じているのは私ひとりです…が、おそらく、左大臣さまは…何かを察しておられたのではないか…と思います」
 
兄は、その男…僕の実の父…の親友だったのだという。
僕の笛は、彼が死ぬ前に兄に伝え、その後兄が母に献上したものだった。
 
母とその男の間に何があったのか。
女房は、それを「恋」だと語った。
 
恋、とは何だ?
 
源氏の院は、男と妻の密通をご存じだった…と、女房は言った。
まるで、今ここに彼がいるかのように、恐れおののきながら。
 
男は罪の意識に戦き、父の視線に怯え…僕の誕生を見届けると、自ら命を絶つようにして弱り、亡くなったのだという。
そして、母は剃髪し、世を捨て…僕を捨てた。
 
そういう、ことだったのだ。
 
流れる涙を拭いもせず、僕は遠ざかる葬列を見つめ続けた。
山の端に沈みゆく夕陽が、血のように赤い光を投げかける。
 
それが、僕の…罪。
僕の体の奥に潜む、暗い…悲しいもの。
 
恋などではない。罪だ。
僕は…罪によって生を受けた子供だったのだ。
だから、僕は幼い頃から、世を厭い…清らかな生に憧れていたのか。
 
僕が世を疎んじていたのではく、世が僕を疎んじていたのだ。
清らかな生に憧れたのは、それが届かぬ夢だからだ。
 
やがて、辺りは夕闇に包まれた。
ふと、あの方にお会いしたい、と思った。
 
…三の君さま。
 
今、あの方のもとにこの身を投げ、思い切り声を上げて泣くことができたなら。
あの方から、憐れみのかけらをお恵みいただくことができたなら…!
 
それもまた、かなわぬ夢だ。
でも、僕は。
…でも。
 
それを望んでいいものなのかどうか…僕にはわからなかった。
望むことは許されないだろうとも思った。
 
が、他に望むことができるものなど、僕には何もないような気も…していた。
 
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