8      初音
 
 
ジェットの訪問はいつも突然だ。
こんな、取り散らかしたところに…と、慌てる女房たちを僕は抑えた。
こういうのも、彼なら趣向のひとつとして面白がってくれるだろう、とわかっ ていたから。
案の定、彼はぐるっと部屋を見回すなり、愉快そうに扇をならした。
 
「なるほど。珍しく華やかだと思ったら、正月用の贈り物選び…か。こいつは ひと仕事ってところだな、親父殿…いや、婿殿、か?」
「どっちも君に言われるとすっきりしないなあ…でも、ちょうどよかった。君の…兄宮さまのご意見を伺えると嬉しい」
「…兄宮さま、か。ふん。お前に言われるとすっきりしないな、たしかに」
 
僕達は顔を見合わせ、笑った。
 
「で?…白と紅で…桜、か。まあ、無難な選択ではあるな…だが、あのじゃじ ゃ馬に映えるという保証はないぜ?」
「ヒドイ兄宮だな。四宮さまは、桜の花がお好きとうかがったから選んだんだ…たしかに無難すぎる…のかな」
「はは。…うん?そっちの二藍はなんなんだ?」
「ああ…これは、ギルモアさまの三の君に…と思ってね。これにも白を重ねるつもりなんだ」
「ほう。たしか、三の君は俺と同じぐらいの年だと聞いたが…新年の衣装にしては、ちょっと地味じゃないか、親父殿よ?」
「うーん…僕も、そう思うんだけど…父宮の喪が明けてすぐの新年だからね…それに、きっとお似合いになると思う」
「…そうなのか?」
 
何かからかわれるのかと、咄嗟に身構えた僕に、ジェットは意外なほど静かに 尋ねた。
 
「お前、その姫君を結局どうするつもりでいるんだ?」
「…結局…どうする…って」
「左大臣が慌てやがったから、四宮との縁談がばたばた決まっちまったが…本当は、あの姫君…三の君が欲しいんだろう、お前?」
「…ジェット」
 
不意打ちに、咄嗟にどう答えたらいいのか…わからなかった。
こんなときのジェットの眼差しはどこまでもまっすぐで、逃れようがない。
…でも。
 
「欲しいとか…そういう勘ぐりはやめてくれよ。三の君さまに申し訳が立たな いことになる」
「何をごまかそうとしているんだ?…俺は、お前のことならよーくわかってるぜ。お前は、欲しくもないものをたぐり寄せたりはしない。絶対にな。 …いくらギルモアに傾倒していたからといって、その娘をわざわざ引き取って 、邸をしつらえるなんざ……」
「そういう言い方をするなら、僕が欲しかったのは…今も欲しいと思っている のは、ギルモアさまが到達された、澄んだ境地さ。三の君をお引き取りしたのも、その道のありかたのひとつだ」
「…何の寝言だ、それは?」
「君には、わからない」
「そうだな…ついでに言うなら、三の君にもわからないだろうさ」
 
吐き捨てるように言うジェットの目に、軽蔑の色が浮かんだ…のは、しかし一瞬で、彼はすぐにいつもの笑顔を取り戻すと、四宮さまのお好みや、ご様子などを面白おかしく語りはじめた。
そして、帰り際、僕に囁いたのだ。
 
三の君が欲しいのなら、四宮に遠慮する必要はない。
お前の父も、兄も、内親王をただ1人の妻とはしなかった。
しかも最愛の第一の妻としておくことさえしなかったのだ…と。
 
その、愛されなかった内親王の、僕が息子であることなど忘れたかのように、 彼はまた笑うのだった。
 
 
 
三の君さまに衣装を届けたピュンマは、彼女からの謝辞を僕に淡々と伝えた。
 
「大変、お気に入られたように拝見しました」
「…よかった」
 
彼から渡された文を、僕はさりげなく広げた。
ごく儀礼的な…謝礼の挨拶が書かれているだけの短い文。
それでも、あの方の御手蹟と思えば胸がどうしようもなく高鳴る。
 
ふと視線を感じて顔を上げると、ピュンマの真剣な目とぶつかった。
彼は、何か言いたげに眼差しを揺らした…が、口を開きはしなかった。
僕も、沈黙を守った。
 
子供の頃から一緒だった彼には、僕の思いなど、もう手に取るようにわかっているのかもしれない。
それでも、口に出すわけにはいかない。
彼が、全てをわかった上で、沈黙してくれているのなら。
 
「それで、入内のことですが」
「…うん」
「三の君さまは、相変わらずお気が進まないご様子です…が、おそらく、最後にはご承諾いただけるものと思います」
「…そうか」
 
当然のことだ。
彼女は、僕の意志に逆らうことなどできない。
今は彼女の後見であり、父であり……亡き父宮の遺言を預かるこの僕に。
 
「ただ、帝のお側に上がるとなると、その…畏れながら、装束や調度だけではなく、そろそろ三の君さまご自身のご準備も進めなければならないのではないかと思います。楽や和歌などの手ほどきも…」
「その必要はない。三の君さまの御教養は、帝にひけをとらないさ…お前もそう思うだろう、ピュンマ?」
「…ええ、まあ……たしかに…そうなんですけれどね」
 
あれ?と思ううちに、ピュンマの口調が微妙に変わり…声が低くなった。
 
「…ったく、相変わらずニブくて困るな…つまり、たまには三の君さまをご訪問していただきたい、ってことなんだけど」
「…えっ?」
 
僕は目を丸くしてピュンマを見つめた。
 
「この頃、お寂しそうなご様子なんだよ、三の君さまは…!父宮の喪が明けて 、本当に父宮が遠くに行ってしまわれたことが身にしみる…この世に1人取り 残されたような、心許ないお気持ちでおられる…と」
「…ピュンマ」
「三の君さまの新しい父君になるつもりだ、というなら、そういう気配りもできてほしいよなぁ…使いに行くたび、女房たちに睨まれ通しなんだぜ?…殿は冷たい、何を考えておられるのかわからない、三の君さまがお気の毒だ…とか 、それはもう、聞こえよがしに……」
「ピュンマ、それって…?」
「だから、『父君』としてのご訪問をもーちょっとお願いしたい、ということ…かな」
「『父君』として…って。そんなこと、いったいどうすればいいか…」
「…あのさ。どうすればいいか、わかってるから始めたんじゃないのかい、何もかも?」
「で、でも…そんなこと言ったって。どうすればいいと思う、ピュンマ?」
「やれやれ。こんなこと、僕にはそもそも思いも寄らないことなんだぜ?ついでに言うなら、誰に聞いたって同じさ。おそらく、君がこの世で初めての挑戦者なんだから、君の好きにやるだけ…それしかないじゃないか」
 
…それは、そうかもしれない。
 
どうすればいいのか、見当はつかないままだったけれど、とにかくピュンマの言うことはもっともだと思った。
とはいっても、僕が三の君さまを急ぎ訪問しようと決めたのは、やはり僕自身が彼女に会いたかったから…だったにちがいない。
 
それとも。
虫の知らせ、というヤツだったのか。
 
ともあれ。
今夜うかがいます、という文をひそかにつかわしてから、僕は三の君さまの邸へひとりで向かった。
ピュンマをさえ連れていかなかったのは、なんとなく気まずい思いがあったから…だったのだけれど、それももしかしたら、虫の知らせだったのだろうか。
ひとりでよかったのだ。
 
というのは、「彼」もひとりだったから。
 
 
 
何がどうなっているのかわからず、呆然と立ちすくんでいる僕を、ジェットはじろりと眺め、長い息をついた。
 
「なんだよ…そういうことか」
「…そういう…こと?」
「ふん。妙にあっさりと入れてもらえそうだったから、おかしいと思ったんだが…お前が来ることになっていたのか」
「入れて…もらえるって。ジェット…君、三の君さまに…何か?」
「何か…だと?バカか、お前?」
「…だって」
 
…だって。
 
バカ、と言われればそのとおりだったにちがいない。
でも、僕は本当にわからなかったのだ。
 
なぜ、ジェットが三の君さまの邸の前にいるのか。
こんな、時間に…ひとりで。
 
「…だって。ジェット…まさか」
 
ち、と舌打ちが遠く聞こえる。
おそらく、相当マヌケな顔になっていただろう僕を、ジェットの冷ややかな視線が射貫いた。
 
「まさか…なんだ?」
「まさか…君…三の君さま、に」
「お前がそれだけ執着する女だ。…悪くはないだろうと思ってな」
「ジェット。でも、彼女は…もうすぐ帝に…」
「じきに退位する帝より、これから東宮になる俺の方がいい相手だぜ…そうじゃないか、父上?」
「…ジェット」
「そうだろ?彼女がうまくやれば、将来は中宮さまだ…いや、国母にだってなれるかもしれないぜ」
「何を…何を、言ってるんだ、君は?」
「そうすりゃ、お前だって…いずれ帝のお祖父様、関白も夢じゃない」
「…っ!」
 
不意に、凄まじい怒りがわき起こった。
 
「フザけるな!」
「フザけているのはお前の方だろう…お前こそ、何しに来たんだ?」
「僕は…僕は、三の君さまに…笛を、お聞かせしようと」
「…笛?」
「ここから立ち去れ…!」
「笛?…笛かよ、恐れ入ったな…!」
「立ち去れ…!」
「三の君を慰めに来たんだろう?…なあ、たぶんお前の笛よりも俺の方がずっ と彼女を幸せにしてやれるぜ?」
「…立ち去れ、と言っている」
 
僕は、自分の右手が太刀にかかっているのに、気づいていなかった。
ジェットがふん、と笑う。
 
「ソレを抜いたら…お前、もう都にはいられないぜ?」
「…立ち去れ」
「俺を誰だと思っている…?」
「…立ち去れ」
「女房たちも心得たものさ…俺の正体をわかった上で、俺を招き入れる準備をしている…もうすぐ門が開く」
「いいから、立ち去れ!」
「わからんな…俺に渡すのがそんなにイヤなら、なぜ帝に渡す?…俺と帝と、 何が違うというんだ?」
「違うとも…君は、彼女を守れない」
「帝ならできる、というのか?…冗談だろう、アイツの心はあの女のものだ…未来永劫、な…他の女を愛することなどあり得ない」
「だからこそ…!だからこそ、帝は彼女を守ることができるんだ!…本当の悲 しみを知っている、あの方なら…きっと彼女を」
 
また、舌打ちが聞こえた。
不意にジェットの右手が腰の太刀にかかる。
氷のような光を放つ刃が、何のためらいもなくするりと抜かれ、僕の目の前に 突き出された。
 
そんなことで、ひるみはしない。
僕は、誓ったのだから。
この命かけて、彼女を守る…と。
 
「…やってられねえな」
 
やがて、溜息とともに、ジェットは太刀を収めた。
 
「ここでお前を切り捨てておけば、三の君は幸せになれるだろうよ…だが、悪いが、そこまでしてやる義理はない。三の君にも…お前にも、だ」
 
僕は堅く目を閉じ、答えなかった。
足音が遠ざかっていく。
 
ややあって、身じろぎもせず立ちつくしていた僕の背後で、門がためらいがちに開いた。
僕の姿を認め、わずかに怯んだ若い女房は、それでもすばやく作り笑いを見せた。
反吐が出るほど醜い笑顔だ。
 
それに応える僕の笑顔と、同じくらいに。
 
 
 
結局、その後僕が三の君さまにお会いすることができたのは、年が明けて、正月の挨拶にうかがったときだった。
口上を述べ、平伏していると、几帳が押しやられる気配と微かな衣擦れの音がした。
 
「…どうぞ、お顔を上げて…おくつろぎください」
 
…あの方のお声だ。
おそるおそる顔を上げ、僕は目を見張った。
 
二藍に白を重ねた衣装の上に、金糸のような髪が流れている。
その青よりいっそう青い瞳と、白絹よりも白い肌と…
 
どうして、このような方がおられるのだろう。
ぼんやりとそう思った。
 
「昨年は…悲しいことが多くございましたが…新しい年は、きっと三の君さまにとって喜ばしいものとなるでしょう」
「…そう、でしょうか」
「そのように…全身全霊、つとめさせていただきます」
 
三の君さまはほんのわずか、微笑まれた。
 
「わたくしは、全てあなたのお心のままに…いたします」
「……」
「父も、そうせよと申しました」
「…三の君さま」
「あなたに、全てを預けよと…そう申しました」
「……」
「そのようにいたします…ですから…どうか」
「…どう…か…?」
 
思わずつぶやいた。
が、三の君さまはまた微笑まれ…それ以上何もおっしゃらなかった。
 
僕は、きっと…この方を幸せにはできない。
 
ふと、そう思った。
 
僕が何をしようと…どうつとめようと。
入内を果たそうと、帝のご寵愛を得ようと、この方は幸せになれない。
それが、僕の仕業である限り。
 
ジェットの言った通りだ。
僕は、あの晩、彼に斬られていればよかった。
 
そうすれば…今頃、あなたは幸せだったろう。
彼に抱かれ…汚され…苦しんで。
もしかしたら、嫉妬と疑いの涙に沈みながら…それでも、あなたは幸せだったろう。
そんな気がする。
 
それでも、と僕は思った。
 
それでも、フランソワーズ。
穢れないあなたでいてほしい。
 
清らかなあなたのままでいてほしい。
この世で一番美しい、そして一番不幸な天女でいてほしい。
 
やがて帝はあなたを得る。
そして僕は四宮さまを。
 
この手であなたを幸せにできないのなら、僕の身に幸せなどありはしない。
それでいい。
 
それが、僕のさだめなのだから。
 
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