家庭料理
 
おそるおそる……という感じでスプーンを口に運んだジョーの目が、意外そうに見開かれた。
 
「おいしい……かな」
「なんだ、てめぇ。ケンカ売ってやがんのか?」
「い、いや……ちょっと意外だったんだ。だって。君が作ったんだよな、ジェット?」
「悪りぃかよ?」
「ハインリヒの教育の効果……ってことかい?」
 
まったく悪びれる様子もなく、ジョーは、野菜と肉がくたくたに煮込まれたシチュウにしきりに感心している。
ジェットは思わず舌打ちした。
 
「下手なコトを言うと痛い目に遭うぜ、ジョー。こんなモノ、アイツに言わせりゃ人間の食うモンに入らねえ」
「え、そうかい?……おいしいけどな」
「俺もそう言ってるんだが、問題は見た目らしいぜ?」
「…ふうん」
 
そんなものかな、と首を傾げるジョーをちらっと見ながら、ジェットはさりげなく聞いてみた。
 
「アイツも、そういうコトには結構うるさいだろう?」
「いや、それほど気にしないと思うよ……家庭料理って、そういうものなんじゃないかな」
「……」
「あ……もちろん、僕はそういうの、よくわからないんだけどね」
「……」
 
フランソワーズは今、パリで暮らしている。
ついこの間、新しいアパルトマンに引っ越したと手紙が来たばかりだ。
読み返しながら「いつまでもぐずぐずしやがって……」とつぶやいたハインリヒが珍しく少々苛立たしげだったのをジェットは思い出す。
もちろん、自分もそう思った。
 
宇宙での戦いから生還した後、パリに向かうジョーとフランソワーズを見送りながら、これでようやくコイツらも……と安堵したのもつかの間、ジョーはモナコ・グランプリを終えるとあっけなく日本に戻ってしまった。
では、フランソワーズも日本に住むのかと思った矢先に、この引っ越しの知らせだ。
 
――俺がアイツと言うんだから、アイツしかいない……よな。
 
おそらく、そこに間違いはない……はずだ。
確かめる必要はないし、確かめたくもない。
 
憮然としているジェットの様子に気づく様子もなく、ジョーは満足そうにシチュウを平らげ、ふと時計を見上げた。
 
「飛行機の時間なら気にすることはないぜ、ジョー。俺がいるんだからな」
「……え」
「なに、オマエを抱えて大西洋を越えるなんざ、散歩程度のモノさ」
 
あえて大西洋、と言ってみる。
ジョーはただ笑って、遠慮するよ、と答えた。
 
「ごちそうさま……ハインリヒによろしく」
「おう。すれ違ったのは運が悪かったな……だが、また来るといい」
「ああ、そうさせてもらうよ。やっぱりいい所だね」
「今度は、アイツも連れてこい」
「……うん」
 
屈託のない笑顔で、ジョーはうなずいた。
 
 
空港までジョーを送り、彼の乗る飛行機はトロント行きなのだということを知った。そもそも、そこに仕事で来たついでに寄ったのだというのから、当たり前といえば当たり前だ。
で、問題はその後どこに行くか、なのだが。
結局、ジェットはそれを尋ねなかった。
 
戻ってきたハインリヒは、ジョーと行き違いになったことをことさら残念がる様子でもなかったが、ジェットが用意したシチュウを一瞥すると、これを食わせたのか……とおおっぴらに息をついた。
 
「満足そうに食っていったぜ?……家庭料理はこんなもんだろう、とか言いながらな」
「ったく。フランソワーズも見かけによらんな」
「……」
 
何の迷いもなくそう吐き捨てるハインリヒにジェットは思わず畏敬の念のようなものを抱いた。
仲間を信頼する、というのはこういうことなのか。
 
――何か違うような気もするが。
心のかたち
 
彼の心を、読み取ることができない。
初めて彼と語らったときから、そのことにタマラは気づいていた。
 
タマラはファンタリオン星の王族として、テレパシー能力を生まれながらに持っている。
彼女にとって、他者の心を読み取ることは、表情の動きを視覚でとらえることとほとんど同じ感覚であり、特別なことではなかったし、それができない相手になど会ったことがなかった。
それなのに、009だけは違った。彼の心だけは、どうしても読み取ることができなかった。
むしろ、心を読めない彼に出会ったことで、タマラは改めて自分には本来、人の心を読み取る能力があるのだ、ということを自覚しなおしたのだ。
 
彼女が009に関心を持った第一のきっかけはソレだったのかもしれない。
もっとも、その関心があまりに速やかに恋慕へと姿を変えたため、彼女はそれについてあまり多くを考える暇を持ち得なかった。
 
それに、心は読み取れなくても、009の表情はそれをいつも素直に表している……ようにタマラには思えた。
その不思議な感覚に魅了され、気づいたときには、ひとときであっても彼から目を離していることに耐えられないような気持ちになっていたのだ。
ファンタリオン星の王族は、テレパシーについての研究を独自に重ね、受け継いできた。
かろうじて破壊を免れた一部の書庫から、彼女はそうした専門の研究書を数冊見つけ出し、「心が読めない人間」についての記述を探した。
 
ようやく見つかったいくつかの論文での結論は皆同じだった。
手っ取り早く言うなら、心が読めないのは心がないからだ……ということ。
 
しかし、たぐいまれな強く優しい戦士である009がそれにあたるとはとても思えない。
たしかに、彼はサイボーグであるということではあったが、体の大部分が機械であるということと、心の有無とは直接関係がないはずだった。
何より、心を持たない人間にこれほどまでに惹かれることなどあるはずもない。
 
 
この謎が解けたのは、運命の日……ダガス軍団の攻撃を受け、彼女が命を落とした、その日だった。
 
おそらく、報われることはないと漠然と予感していた通り、その日、彼はタマラの告白に心を動かしてはくれなかった。
夢中でとりすがると、優しく抱きとめてくれたものの、その腕はあくまで静かで、冷たい。
 
やっぱり……駄目だったんだわ。
私の心は……このかたに届かない。
 
涙があふれそうになるのを懸命にこらえ、タマラがそっと彼の胸を押し返そうとしたとき。
不意に、彼の腕に異様な熱が走った。
 
――え?!
 
思わず彼を見上げると、彼はタマラを見ていなかった。
すばやく追いかけたその視線の先に、彼と同じ服に身を包んだ女性が立ちつくしているのをタマラは見、同時に強い衝撃を受けた。
 
――この、ひと……?!
 
彼女……003の心は009と違い、容易に読み取ることができた……のだが。
タマラはしばらくの間、それをそうと信じることができずにいた。
 
003の心は、ただ「009」の姿をしていた。
他には何もない。
そのようにしか、見えなかった。
 
まさか、そんなことが?
このひと……003……が、彼の、心……?
 
タマラは、呆然と立ちつくしながら、自分の直感の正しさを感じていた。
書物が記していたとおり、009の心が読めなかったのは、彼に心がなかったからだった。
そして、にも関わらず彼には心があった……あるように見える。
それは、この女性……003が、彼の心そのものとなり得ているからで。
 
自らを消し、他者の心となる。
それは、その他者を「愛する」ということ。
 
 
その日の夕暮れ。
遠のく意識の中で、タマラはふと009の「悲しみ」を感じ取った。
死んでいく自分を惜しみ、愛おしみ、悲しんで、彼が涙を流している。
 
それは、いつもあれほど読み取れなかった彼の「心」だった。
おそらく今、彼のものであり、彼のものではない「心」が……あの女性、003が彼の傍らにいるのだろう。
 
それを確かめる力はもう残っていない。
だから、タマラはささやくように言った。
 
「あなたにこの星に残っていただけない本当のわけは、わかっていました……」
喪失
 
振り返ったら、彼女がいなかったから。と、彼は説明した。
 
それでは説明になっていないと誰もが思ったし、説明できるようなことではないのかもしれない。
彼がそう言っていたということを、意識が戻ってから聞かされたフランソワーズも、まあ、と微苦笑を漏らしただけで、何も言わなかった。
 
ともかく、ジョーは振り返るなり加速装置を噛み、その場から消えたかと思うと、数分後にはフランソワーズを抱きかかえて戻ってきたのだ。
彼女は拉致されかけていた……のだという。
 
敵は、サイボーグたちの戦い方をよく知っていた。
一人一人の特徴や癖、弱点も調べ上げていたらしい。
その結果、ここしかない、という僅かな隙をついて003を拉致するのが、どうやら主な「作戦」だったようだ。
もちろん、003を拉致することが彼らに与えるダメージについても熟知した上でのことだ。
 
しかし、そんな敵でも、009が003の不在にこれほど早く気づき、更に気づくと同時にためらいなく「009」のフルスペックを挙げて行動を開始する……とは予想しきれなかった。
 
これじゃ、オマエ、おちおちトイレにも行けねえな、と軽口を叩こうとした002は思い直して口を噤んだ。
まあ、当たり前じゃない……と、驚いた眼差しがまっすぐ返ってくるような予感がしたからだ。
 
戦場で行動を共にするとき、003が009の傍を黙って離れることなど、たしかにありえない。
だったら「振り返ったら、いなかった」ことの意味は重大だ。
ただ、それだけ……ではないような気が、仲間たちはしたのだった。
 
少なくとも、加速装置を噛んだ瞬間、戦いのコトなど009の念頭にはなかっただろう、と004は思う。
 
アイツはただ……探しに走っただけなのだ、なくしたものを。
それが、なくすわけには絶対にいかないモノであることを、なくした瞬間悟ったから。
悟れば、走らずにはいられない。
それだけのことだったのかもしれない。
 
 
たとえば、あのとき。
体が動きさえすれば、俺もきっとどこまでも走っただろう。
失ったモノを取り戻すために。
 
――いや。
 
今も走り続けているのかもしれない。
変わらないもの
 
店に入るなり、所在なさげに辺りを見回していた青年が、張々湖の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせた。
 
「張大人!……よかった、店を間違えたかと思った…!」
「これは珍しいお客さんネ!ジョー、よく来たアル……こっちに座るヨロシ!」
「ありがとう……すごく立派なお店だね」
 
素直な称賛に、張々湖は嬉しそうに鼻をうごめかせた。
 
「それで、間違えたかと思ったアルか?いきなり失礼なコトヨ!」
「いや……そういう意味じゃ……」
「さて、何食べるアルか?どんな店でも、ワタシの出す料理、いつも一緒アルよ」
「うーん……久しぶりだから、大人に任せるよ。すごくお腹が空いているんだ」
「やれやれ、相変わらず自己主張のない御仁ネ。よろしい、任せとくアル!」
 
丸っこい体が弾むようにすばしこく動き、厨房の方へ消えるのを見送り、ジョーは改めて店の中を見回した。
入口の豪華な飾りつけにも驚いたが、内装はもっとスゴイ。テーブルや椅子もいかにも高級品らしく、堂々とした品格がある。
以前、横浜にあった「中華飯店張々湖」のややがたついたテーブルを思い返し、ジョーは思わず息をついていた。
 
「はい、お待たせね!」
「え…?」
 
張々湖がたった一つだけ運んできたのは、熱い中華粥の入った鍋だった。
目を丸くしているジョーに、張々湖は微笑した。
 
「お腹がすいている、嘘アルね。ワタシの目はごまかせないヨ!……こっちには仕事で来たアルか?……接待疲れ、みたいな顔してるアル」
「……さすが大人だね。ばれたか。ごめん、実はそうなんだ。北京に本拠地のあるスポンサーと打ち合わせがあって来たんだけど……なんだか毎日パーティみたいなのがあって」
「それは、くたびれるネ……少し胃を休ませるヨロシ。いや、胃というよりは、ココロを、アルかもネ」
「……うん。いただきます」
 
ジョーは粥をゆっくり口に運んだ。
一口食べるたび、懐かしい温かさが体にしみわたる気がする。
 
「すごく、おいしい。……僕はこれが、食べたかったんだ」
「そうアルやろ……ゆっくりしていくネ。ワテを思い出してくれて嬉しいヨ」
「ありがとう、大人」
 
どんな無理なスケジュールをこなそうと、疲れたり弱ったりする体ではない。しかし、心は別なのだということを、ジョーはあらためて感じていた。
 
「ホントに、変わらないな」
「ワテの料理、アルか?」
「うん……いつも、こんなにおいしいモノはないって思う。初めて食べたときからずっとそうだった」
「本当なら嬉しいことネ」
「本当だよ…!」
 
子供のように一心に箸を動かしている彼は、とても百戦錬磨の一流レーサーには見えないし、まして最強の戦闘サイボーグには見えない。
張々湖はふと、つい先月、同じようにこのテーブルについていた亜麻色の髪の少女を思い出した。
 
「店も立派になったアルやろけど……アナタほどじゃないネ」
「……え」
「でも、ワテにとっては、アナタはいつも同じジョー、ネ。料理が同じなのと一緒アル」
「……うん」
「他の皆もそれぞれ立派になったアルけど……それは同じ、ネ」
「そう……かな」
「もちろんアル」
 
会いに行けばいいネ、と言いかけた言葉を張々湖はのみこんだ。
フランソワーズにも同じことを言おうとして言えなかった。
どうしてかは、わからない。
 
――でも、変わらないモノ、きっと、見つかるネ。いつか……きっと。
 
 
ゆっくりと食事を終え、すっかりくつろいだ表情になったジョーは、名残惜しそうに立ち上がった。
支払いをしようとするのを押しとどめ、張々湖は出口まで彼を送った。
 
「ありがとう、張大人。ごちそうさま」
「こっちこそありがとうネ。……元気でがんばるヨロシ」
 
張々湖の言葉にジョーは嬉しそうな……しかし、どこか寂しげな笑顔でうなずいた。
 
「それじゃ……みんなに、よろしく」
「……」
 
少しずつ遠ざかり、消えていく背中を張々湖はいつまでも見送っていた。
これで、この店をまだ訪ねていないのはイワンとギルモアだけになったと気づき、思わず苦笑する。あの二人だけは来るはずがない……という気がした。
 
「あん人たちは、そう、ワタシたちのホーム、アルからネェ……」
 
そして、この店もまた、別の意味で仲間たちの「ホーム」であるのかもしれない。
 
華やかで贅を極めたキッチンでも。
質素なラーメン店の厨房でも。
暖かな湯気がたちこめる研究所の台所でも。
そして、戦場のただ中、風吹きすさぶ野営地でも。
 
どこでも、いつでも変わらないモノがある。
それを守りたいと、張々湖は思う。
ここを訪れた仲間たちは、皆、ジョーと同じことを言って立ち去ったのだから。
 
――みんなに、よろしく……と。
1月25日
 
年を取った……と、今さらながら思う。
 
今度また「何か」が起きたとしても。
自分は、やはりもうサイボーグたちと共に出撃することはかなわないのだろう、とギルモアは思った。
 
しかし……
 
「博士……?何かおっしゃいましたか?」
 
やさしい声に、ギルモアはふと顔を上げた。
青い目が心配そうにのぞきこんでいる。
 
「いや……何でもないよ、フランソワーズ」
「お疲れなのでしょう…?お休みになりますか?」
「何の、まだまだ。せっかく諸君が儂のために集まってくれたのじゃから……」
 
ふん、と気合いを入れ、揺すってみせようとした肩が、不意に強い両手で押さえつけられた。
 
「まさか、サイボーグと張り合うおつもりじゃないですよね、博士?ご自分で調整された僕達のアルコール分解機能のスゴさは誰よりよくわかっていらっしゃるはずですが。……それに、少しはお年を考えてくださらないと」
「な、なんじゃと!……失敬な!」
 
憤慨するギルモアを、ジョーはひょい、と抱え上げた。
何をする、離せ、とわめいてみたものの、たしかにもう足腰に力が入らない。
フランソワーズが思わず苦笑しながら息をついた。
 
「ほら。やっぱり飲み過ぎですわ、博士」
「僕が寝室までお送りします……じゃ、後は頼んだよ、フランソワーズ」
「後は……って。ちょっと、ジョー?」
 
さっさと歩き出したジョーを見送りながら、私にどうしろというのかしら……と、フランソワーズは肩をすくめた。
ギルモアの誕生日を口実に宴会を始めた仲間たちは、既に正体もなく泥酔しつつあったのだ。
 
ギルモアを抱え、寝室への階段をゆっくり上りながら、ジョーはのんびりと言った、
 
「博士は、相変わらずですね……心配の方向がまるで逆なんですから」
「……何のことじゃ」
「こうして年を取れば、僕たちと一緒に出撃できなくなって……取り残される、なんて考えておられる。フツウ、逆じゃないですか?……僕たちが、博士に取り残されるんです」
「……フツウ、ならばな」
「……」
 
ギルモアは目を開け、暗い天井を睨んだ。
 
――そうだ。我々は、フツウではない。おそらくは。
 
「でも。僕たちは……帰ってきましたよ」
「……」
「帰ってきたじゃないですか……博士のもとに。一人も欠けることなく」
「……」
「信じて、いただけませんか?」
 
柔らかいジョーの声が、僅かな痛みとともに心に沁みていく。
ギルモアはうめくように言った。
 
「すまない。……そもそも、君たちに望みのない戦いへ赴け、と命じたのは儂だった。いつも、君たちを死地に追いやるのは、この儂自身なのじゃ。それを取り残されるなどと言っては罰が当たるというものじゃの」
「僕たちは、誰からも命令はされていません。ただ、あなたの子供たちとして……あなたと志を同じくするモノとして、戦うだけです。そこが宇宙の果てであっても」
「……ジョー」
「ギルモア博士。僕たちは、あなたを置き去りにはしません。親より先に死ぬのは、一番の親不孝らしいですから」
「……親、不孝……か」
「ええ。……本当を言うと、親不孝って、どんな気分がするものなのか……ちょっとやってみたい気もしますが。でも、博士がそのときどんな顔をされるのか、見ることができないのなら、意味がないでしょう」
「……全くじゃ。そんなことは無意味だとも」
 
そして、儂は、きっとこの子達を置いていくのじゃろう。
いつか、この子の言う通りに。
しかし、それは……
 
ギルモアは目を閉じた。
 
儂は、いつから忘れておったのか。
この子たちがどれほど過酷な戦いに身を投じておるか……儂がこの子たちに追わせた十字架がどれほど重いものであるかということを。
 
そう、忘れておったのじゃ。
この子たちに守られて……ぬくぬくと忘れていた。長い間。
 
あのときまで。
この子たちが、一人残らず儂の許を去り、いつ帰るともしれない……おそらく帰ることはかなわない旅に出てしまった、あのときまで。
 
「……ジョーよ」
「はい。……ギルモア博士」
「それでも、儂は……どこまでも諸君とともに在りたいと思っておるのじゃ」
「……」
「たとえ……老いさらばえた身であっても、儂は、いつでも諸君と共に戦場に在るじゃろう」
「いいえ、それは駄目です」
 
きっぱりとジョーは言った……が、その言葉の強さとは裏腹に、彼の茶色の瞳は優しさをたたえ、身を震わせる老人を懐かしそうにただ見つめていた。
 
「博士は……ここにいてください。僕たちは、いつもあなたのところに帰ります。必ず……帰りますから」
「……ジョー」
「博士がそうしてくださらなければ、僕はどこに帰ればいいのかわからない」
 
短い沈黙が落ちる。
やがて、ジョーはぽつりと言った。
お誕生日、おめでとうございます……と。
ギルモアは堅く目を閉じ、曖昧にうなずいた。
チューリップ
 
誕生日には、いつもチューリップの花束が届く。
差出人は分からない。
 
赤だったり、白だったり、ピンクだったり。
とにかくいつもチューリップ。
カードもついていない、ただの花束だ。
 
差出人はわからない……けれど、見当はついている、とフランソワーズはひそかに思っていた。
その花束が届かなかった年が、一度だけあったから。
 
そのとき、彼女はパリにいなかった。
003として、戦場にいたのだ。
 
戦いはかなり長引いた。
1月のはじめに009から連絡を受け、パリを離れた彼女は、誕生日をひと月ほど過ぎた頃、ようやく帰宅した。
アパルトマンにはたくさんの郵便物にまじって、友人たちからのバースデーカードも届いていた……が、花束はなかった。
 
……だから。
 
その人は、私がその日、戦場にいることを知っていた。
その人は……
 
しかし、胸をときめかせながらも、フランソワーズはやはりそんな自分をたしなめずにはいられなかった。
思い過ごしかもしれない……偶然かもしれない。
 
何より、その日、確かに傍にいた彼は、彼女の誕生日のことなど思いも掛けない様子でいたのだ。
もっとも、それは彼女自身も同じだったけれど。
 
翌年、またチューリップの花束が届いたとき。
フランソワーズは、もう差出人について考えるのはやめようと思った。
わからないのだから、自分の好きなように解釈していればいいのだ。
きっと、差出人もそう思っているから名乗らないのだろう……と。
 
そして、数年がすぎて。
その年の誕生日、フランソワーズは正直、花束のことを忘れていたのだった。
というのは、思い出す必要もなかったから。
 
長い間ひそかに寄せていた思いが、一方通行ではなかったのだと知ってから、初めての誕生日。
彼女の部屋には、彼がいた。
 
おめでとう、と彼が照れながらはめてくれた美しい指輪に、思わず幸福な吐息をもらしたとき。
呼び鈴が鳴った。
 
「――っ!」
 
フランソワーズは、呆然と花束を受け取った。
いつもと同じ……咲きこぼれるチューリップの花束。
 
「……フランソワーズ、どうした?」
「ジョー……」
 
屈託のない恋人の声に、振り向くことができない。
玄関で、花束を抱えたまま立ちつくしているフランソワーズにジョーは静かに歩み寄った。
 
「きれいな花だね……誰から?」
「……わからないの」
 
ふっと涙が溢れそうになり、フランソワーズはうつむいた。
豊かに重なった花弁が、熱い頬を冷やしていく。
 
――わからない。
 
「それは、穏やかじゃないな」
「……あ!」
 
不意にジョーの手が花束を奪った。
思わずそれを追いかけ、フランソワーズは叫んでいた。
 
「返して!……それは」
「本当だ。カードもついていないね」
「ジョー、返して……」
「妙だな。ただのファンなら、この住所をしるはずもないし、君の知り合いなら名乗らないわけもないだろう……どういうことだ?まさか……」
「いいえ、違うの……怪しい人じゃないわ!」
「でも、誰だか、わからないんだろう?」
 
ジョーはいかにも不快そうに花束を高く振り上げ、そのまま力任せに床へと叩きつけた。
が、次の瞬間、花束は床に倒れ込んだフランソワーズの胸にしっかり抱えられていた。
 
「……フランソワーズ!」
「いや。これは、大切なものなの!」
「……。」
「誰からなのか、本当に、わからなくなってしまったけれど……でも」
 
体がわけもなく震える。
やがて。
そっと抱き起こされ、頬を撫でられて、フランソワーズはいつの間にか自分が涙を流していたことに気づいた。
 
「……ごめん」
「ジョー……?」
 
ジョーは花束ごとフランソワーズを強く抱きしめ、ごめん、と繰り返した。
彼が何を謝っているのか、わかるような気もしたし、わからないようにも思う。
 
それでも。
胸にはしっとりと冷ややかな花弁の感触があり。
背中からは彼の熱が伝わってくる。
 
フランソワーズは目を閉じ、ジョーの胸に身を預けながら、ありがとう、と小さくつぶやいた。
愛よりも
 
あなたには、私よりも大切なものがある。
だから、私はあなたが好き。
 
時折空を見上げるあなたが、あのひとのことを考えているのだとわかるときがあるの。
あのひとが、生きていればいいと。
 
きっと、あなたの願いはかなえられているわ。
私には、わかる。
 
そして、いつかあのひとがあなたの前に現れるときがきたら……
あなたに、助けてほしいと語りかけるときがきたら……
きっと、あなたは行ってしまうでしょう、あの星へ。
今度は、あのひとの番だもの。
 
あなたが、あのときあの星に残らない、と言ったのは、あなたに助けなければならない人がいたから。
そのために、戦わなければならなかったから。
あのひとを助けるのは、そのあと。
 
だから、今度はあのひとの番。
 
あなたには、いつも大切なものがあるのね、ジョー。
それは、私よりも大切なもの。
でも、だから私はあなたが好き。
 
私を誰より愛してくれるひとよりも。
私のためにすべてを捨ててくれるひとよりも。
誰かのために戦うあなたが、私は好きなの。
 
ジョー、あなたが好き。
安らぎよりも、夢よりも、幸せよりも、愛よりも。
 
私は、あなたが好き。
誤解
 
「もちろん、ジョーがこの星に残るなんてことはあり得ないさ……だが、心の方まではわからんだろ?」
「アンタ、よっぽど暇アルね……くだらないコト言ってないで、仕事するヨロシ!」
「くだらなくはないぞ、張々湖。今までだってなかったわけじゃない。オマエは信じないかもしれないが、インカの事件のとき、アイツはイシュキックって女について行ってやろうとしたんだ」
「その話は何度も聞いたアル……で、結局行かなかった、結構なことネ」
「結果がどうこうってことじゃない。もちろん、ジョーがあのタマラって女に惚れるとは思っとらんさ。だが、アイツは、か弱い女に「助けて」と言われると、絶対にノーとは言えないヤツだ」
「それもまた結構ネ。ジョーは優しいアル」
「だ、か、ら、だ!」
「あ、あの……」
 
おずおずかけられた声に、グレートはぎょっとして振り向いた。
サバが不安そうな表情で立っている。
張々湖は思い切りグレートの足を踏んづけておいてから、サバに笑いかけた。
 
「いいところに来てくれたアル、サバ…!ちょっと手伝ってほしいネ。グレートときたら、無駄話するばかりでさっぱり役に立たないアル」
「な、何をぅ!」
「あの!……今のお話って……ジョーのことですよね?」
「へ?……い、いやその……」
 
サバの澄んだ瞳にまっすぐ見つめられ、グレートと張々湖は思わずたじろいだ。
 
「ジョーは、たしかにタマラと親しく話をしていますし、一緒に行動することも多いようですが、それは僕たちのリーダーとしてのつとめを果たしているだけだです。ハイドロクリスタルの調達にしても、今後のスケジュールにしても、この星の王族と打ち合わせをしないわけにはいかないですから」
「そ、それは……もちろん、アルよ」
 
迷いのないサバの声には、009への揺るぎない信頼がはっきりと現れている。
張々湖は相づちをうつのがやっとだったし、グレートはわけもなく自分を恥じるような気持ちになっていた。
 
「――すまん、サバ。軽率なことを言ったよ……もちろん、009に限って、そんな安っぽいメロドラマを演じることなどあり得ん。それは、一緒に戦ってきた俺たちが一番よくわかっていることだ」
「……いいえ。すみません、僕の方こそ……ですぎたことを言いました」
 
サバは一瞬はにかんだようにうつむいてから顔を上げ、ふと遠くを見る目になった。
やがて、彼はふわりと幸福そうな微笑を浮かべた。
 
「僕は、ただ……ジョーが、001を……イワンを忘れることなどないと思ったのです。僕の父は……いつも研究で忙しくて、僕と遊ぶ時間などありませんでした。ゆっくり話をすることもなかったのです。……でも、父は、いつも僕を見守っていてくれました。僕を何より大切に思っていてくれたんです。父とこうして離ればなれになって、僕にはそのことがよくわかりました。だから……」
「……」
「――あ。すみません……お忙しいところに、つい……自分のことばかり話してしまいました」
 
すみませんすみませんと慌てて頭を下げ、逃げるように立ち去ったサバを引き止めることもできず、グレートと張々湖はしばらくじーっと立ちつくしていた。
……やがて。
 
「――つまり、要約すると、だ。……サバは、001が009の息子だと思ってるってことだよな?」
「そういうこと、アル……かな?」
「……なんでだ?」
「なんでって……そりゃ……」
 
二人は国際宇宙研究所で001を抱いて優しくあやしていた003の姿を思い浮かべた。
つまり、サバは、003と001を母子だと思ったのだろう。
初めてあの二人を見た者がそう思うことは自然だろうし、今思えば、それが誤解だということを説明する間もなく001は連れ去られたのだ。
以後、003と001は母子ではない、とわざわざサバに教える必要はなかったから、誰もあえてそうしようとする者はいなかったし、サバの方からもそれを問いかけることはなかった。
これも、当たり前と言えば当たり前だ。
 
そして、だから……009は、つまり。
 
「――相当の誤解、アルね」
「ああ。……だが、誤解だとわざわざ説明するのもどうか……いや、しかし今の状況ではそうも言っていられないのか?信頼し、尊敬していた009が異星人と不倫、なんてなあ……そりゃ、サバにはショックが大きすぎる」
「アンタ、結局009信じてないアルねぇ」
 
張々湖は深々と溜息をついた。
 
といっても、その問題についてそれ以上悩む必要も時間もその後はなかった。
二人がこのことをふっと同時に思い出したのは、全てが終わり、サバがイシュメールで去るのを見送っているときだった。
 
結局、誰も何も言わなかったし。
サバも何も聞かなかった。
 
お幸せに、と彼が009に向けたまなざしには、そう思えば深い光が宿っていたかもしれない。
父を失い、その遺志を心に抱いて故郷の復興に力を尽くそうと決意した彼は、どんな思いで009を……そして、001と003を見つめたのか。
 
「もう、会うことはないアルかね……」
 
ぽつり、と張々湖がつぶやいた。
 
そうだなとうなずきながら、やはり何も言わなくてよかったのだと、グレートは思っていた。
 
秘密
 
なんでもいい、というのが彼の口癖。
本当にそうなのから?
 
どんな聞き方をしてもわからなかったから、聞き出すのは無理なんだとあきらめて……観察することにしたの。
それは、彼を好きだったから……というよりは、好奇心、みたいなものだったかもしれないわ。
 
彼は、とても不思議な人だった。
優しい……といえばそうなのだけど、それだけじゃなくて。
 
ずいぶん熱心に観察したと思うわ。
でも、やっぱりわからなかった。
彼が、どうして「なんでもいい」と思うのか。
ただ、本当に、心から「なんでもいい」と思っているんだわ……ということはわかった気がして。
信じられないけれど、そういう人も世の中にはいるのね……と考えることにして、私はそれから彼に何がほしいのか、どちらがいいのか、と尋ねることをやめたの。
 
――ええ、今もそうよ。
 
今日のお茶の時間、私は熱いカフェオレを自分の前に、レモン入りの紅茶を彼の前に置いて、ただ「どうぞ」と言ったの。
もちろん、彼は「ありがとう」と言って、静かに紅茶を飲んだわ。
 
その表情が、あまり穏やかで満足そうに見えるから。
私には、いつも彼の一番欲しいものがわかるんだわ……って思うことがとても簡単で。
だから、私はいつもそう思うようにしているの。
 
それは誰にも話したことのない……きっとこれからもそう、私だけの秘密。
 
つめたい手
 
初めて彼の手を握ったのは、戦場で。
夢中でつかんだその手が、氷のように冷たかったから……絶対離せないと思った。
 
離したら、このひとは行ってしまう。
ほんのわずかもためらうことなく。
 
彼は、私を振り払おうとはしなかった……けれど、足を止めようともしなかった。
ふらふらとおぼつかない足取りなのに、迷わずまっすぐ向かっていく。
燃えさかる、炎の中へ。
 
「009!止まって!……ジョー!」
 
何度も彼の名を呼んだ。
でも、彼は反応しない。
 
「止まって、お願い……!もう間に合わないわ!みんな、死んでしまったのよ!」
 
血を吐くように叫んだ。
だって。
私の眼はそれをとらえていたから。
折り重なるように倒れた人々。
私たちが助けなければならなかった……助けられなかった人々。
 
彼は、足を止めない。
聞こえていないはずないのに。
わかっていないはずないのに。
 
彼の力にかなうはずもなく、私はずるずると引きずられていった。
熱風が渦を巻いて襲いかかってくる。
髪がちりちりと音を立て始めた。
 
生身の人間なら、とうに焼け死んでいるにちがいないけれど、私の皮膚も強化されている。
でも、このままでは……!
 
死ぬ覚悟などしていなかった。
ただ、氷のような彼の手を離すことができなくて、気づいたらこんな炎の中にいて。
私は……いったい……
 
それでも、離すことができない。
ジョー、と呼ぼうとしても、口を開くことができない。
息を吸い込むこともできない。
体内の酸素ボンベが動き始めるのを感じながら、私の意識は少しずつ遠のいていった。
 
熱い。
もう、目を開けていられない。
力が抜けかけた指先の、一点だけがいつまでも氷のように冷たかった。
そこに……彼の手がある。
 
 
不意に、頬にひんやりとした感触を感じ、私は懸命に目を開いた。
大きな茶色の目が私を見下ろしている。
 
「なにを、考えているんだ……君は」
「……」
「死ぬつもりだったのか…っ?!」
「……」
「どうして、ついてきた?!」
「……」
「僕、なんかに……なんで……!」
 
彼の手が頬から離れていく。
思わず追いかけようと伸ばした腕が焼けるように痛んだ。
 
「003!」
「…きもち……いいの」
「……え?」
「あなたの……手……つめたくて……」
 
自分がそんなことを言ったなんて、覚えていない。
でも、彼は、それから助けがくるまで、ずっと私の焼けただれた頬を押さえていてくれたのだという。
 
彼の手は、今もやっぱりつめたい。
だから、私はまだその手を離せない。
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Last updated: 2015/11/24