花など育てられない、とジョーが何度言っても、彼は「コレなら絶対大丈夫ですから!」と引かなかった。
「育てるとか育てない、じゃなくて。島村さんの家には、小さい庭があるでしょう?そこにちょこっと埋めておきさえすればいいんです。どうやって埋めるか、って……そうだ、小学生のとき、アサガオ育てませんでした?」
育てた……かもしれないが、あまりいい思い出ではなかった。
みんなで一緒に種まきをしたのだけど、彼の植木鉢だけはとうとう芽を出すことがなく、担任がどこからか別の苗をもってきてくれたのだ。
「それも大丈夫です。種、こんなにたくさんあるんですよ!そもそも、育つとものすごーく広がる花ですから、間引きしなくちゃいけないぐらいで」
間引き……など、考えたくもない。
憮然とするジョーの反応に敏感に気づいたのか、彼は「もっともそんな高度なテクは島村さんには無理ですね……でも大丈夫ですって!」と言い放った。
結局、ジョーはその細かい種をティースプーン一杯ほど受け取る羽目になった。
ファンの女の子が育て、採取し、送ってきたという花の種で、数種類あったモノを広報スタッフが吟味し、ジョーでもどうにか育てられそうな品種を選んだ……のだった。
要するに、ジョーがファンから送られた花の種を蒔き、育て、春にはこんなにきれいに咲かせましたよー、という写真を撮りたいらしい。
そんなモノを何に使うのか、ジョーには皆目見当がつかないのだが、スタッフは「要するにエコ!」だと言うのだった。
やっぱりわからない。
とはいうものの、是非蒔いてくれ、後は忘れていいから、とまで言われて受け取った種なのだ。放っておくのも申し訳ない気がして、ジョーはとりあえず庭をあちこち歩き回って吟味した結果、一番日当たりのよさそうな地面をせっせと掘り返した。
アサガオ……のときどうだったか記憶はおぼろげだったが、こんなモノだろうか、と柔らかくなった土に人差し指で穴をあける。ごま粒のような種をひとつだけの中に落とし込んでみると、どうもその穴はずいぶん深すぎるような気がして、なんとなく心許ない。考え考え、ジョーは土にぷすぷすと浅い穴、深い穴、と無数の穴を開けていき、そこに一粒ずつ種を落とし込んでいった。
かなりの時間をかけてようやく最後の一粒を穴に落とし、あとは一気に埋める。
作業が終わり、立ち上がると、土の表面は冷たい沈黙に沈み、その下に生命の息吹を守り育てているようには到底見えない。
ジョーは深く嘆息した。
水も肥料もやらなくていい、と言われていたものの、せめて種を蒔いたときぐらいは水をやる責任があるだろうと思い、じょうろを買っておいた。が、水を汲んでこようと顔を上げたとき、額にぽつ、と水滴が落ちた。
ぽつぽつ降り始めた雨はやがて本降りとなり、種を蒔いた地面はあっという間にぬかるみとなってしまった。
ジョーは逃げるように家に駆け込んだ。
その後数日間、ジョーはおそるおそるその地面を眺めたが、芽が出る気配は一向になかった。
予想はしていたが、やはり駄目だったのだ……と、暗澹たる気分になる。
――僕が蒔いたせいで、あんなにたくさんの種が芽吹くことができなかった。もし、僕なんかじゃなくて……
ジョーは、ふと秋晴れの青く澄んだ空を見上げた。
もし、種を蒔いたのが僕じゃなくて「彼女」だったら……
それ以上考えるのがイヤになった。
忘れてしまおう、とジョーは思った。
仕方がない。
もう過ぎてしまったことなのだ。
僕が種を蒔いてしまった。だから芽吹かなかった。
悔やんでも意味がない。
それでも、進むしかないのだから。
アレ、全滅させてしまったよ、ごめん……と謝ると、彼は頓狂な声を上げて驚いた。
「ありえません!……島村さん、水をやりすぎたんじゃないですか?」
「……いや」
「肥料をむやみにやったとか?」
「……いや」
「あ!もしかして、ビニールかけたりしませんでした?寒いからって」
「……だから。ホントに何もしなかったんだ……さすがに、それじゃマズかったんじゃないのかな」
「えー。ソレでいいはずなんですが……」
彼は何度も首をひねりながら言った。
とにかくその花は、放っておけば咲くのだという。
気を付けなければいけないのは、手を掛けすぎること。
それから、もっと気を付けなければいけないのは、移植に弱いので、ずっと同じトコロに植えておかなければならないということ。
そこがどんな劣悪な場所であろうとそこに根を下ろせばそこでしか咲かない。
どんなに丁寧にどんなに良い場所に移植しようと、弱ってしまう……のだという。
移植もなにも、芽を出さなかったのだから話にならない。
そうジョーは思ったが、口には出さなかった。
結局、その謎企画は実行されなかった。
花が育たなかったからではなく、島村ジョーが突然レースから引退したからだ。
引退にまつわる事情を詳しく知る者は誰もなかった。
が、事情がどうであれ、後の処理はしなければならない。
スタッフが知る限り極めて生真面目な男だった島村ジョーは、身を引くときも周到な準備を密かに進めていたようで、わけのわからない半ば蒸発事件のような引退劇だったにもかかわらず、スタッフたちの負担は意外なほど軽かった。
順調に進んだ後始末も終わりに近づき、ジョーが借りていた家を不動産業者に引き渡すことになったとき。
久しぶりにその家を訪れたスタッフたちは、門を開けるなり、思わず目を見張った。
柔らかく輝く春の空をそのまま地上に写し取ったような青い花々が、庭一面を覆い尽くし、咲き広がっている。
「なんだ……島村さん、結局咲かせてたんじゃないですか…」
彼は思わずつぶやいた。
ジョーから花の話を聞いたことはあの後なかったのだから、たぶん彼は何も気づかないままこの家を去ったにちがいない。
見せてあげたかったなあ、喜んだだろうなあ、と残念に思いつつ、でもまあ、こういうのが、なんだか島村さんらしいんだよな、とも彼は思うのだった。
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