こそこそこくご


8    どうして古典を勉強するのか
 
古典を勉強する理由をよく聞かれる。
 
もちろん、聞いてくる生徒の多くは、諦めつつ腹立ち紛れに聞いてくるのだから、真面目に答えるよりは、その腹立ちに共感しつつ話を聞く方が教員としては正しいような気がする。
 
で、それはそれとして。
いったい、どうして古典を勉強するのか、である。
 
古典の勉強は、いわゆる古典作品を読み鑑賞する…というところにその中心が置かれている。
文語文法をがんばって覚えるのも、それらを「自分で」読むためであって、自分で文語文を作るためではない。
 
中学生が古典を勉強しなければならないのは、「そういうものがある」ということを知るため…だと思う。
 
日本にはこういうモノがある。昔から。
よくわからなくてもいいから、「ある」ということを知る。それが中学校で…というか義務教育で古典を扱う意味だと思う。
 
で、問題は高校。
なぜあんなに苦労して古典を勉強しなければならないのか?
古典なんて読めたって、将来何の役にも立たないではないか?
 
この質問は実は根本に大きな見落としがあったりする。
 
今となっては「そうだっけ?」なのだけど…
高校というのは、義務教育ではない。
より高い教養を身につけたいと思う人が入る学校なのだった。
 
古典は「より高い教養」なのであって。
したがって、実際に役に立つかどうかという問題はここでは度外視されている。
それに文句を言われてしまうのは困る。
 
役に立たないのは当り前。
より高い教養の中にはそういうものもある。
 
…が。
だったら、教養として、とにかく古典を学ばねばならない理由というのは何か。
 
…なのだけど。
 
とりあえずはそれらを維持するため…であるだろう。
 
古典に使われている言葉は、現在では失われた言葉だったりする。
勉強する人がいなければ、三世代くらいで読めなくなってしまうかもしれない。
 
もちろん、読みたい人は喜んで読むし、そう考えれば、読みたい人だけが読めばいいのだ。
でも、現代の社会でそれは簡単にできることではない。
或る程度の人数が「面白い」と思って読んでくれないと、おちおち本の出版もできないのだ。
 
古典作品の維持と、それを読める人間がいる、ということは、日本という国にとって大事なことだと思う。
何の役に立つかはわからないのだけど、千年前の文学作品を自国の言葉として比較的すんなり読める、というのは世界的に見ても結構貴重なこと…という気がする。
 
何の役に立つのかはわからないけれど、学校で古典を教えるのをやめてしまったら、百年ぐらいで、古典はごくごく一部の…それこそ全国でも数十名の専門家だけのモノになってしまうと思う。
それはあまりよくない…ような気がする。
 
だから古典を学ぶのだ、とか言うと、今ソレに苦しんでいる受験生は納得いかない…と思うのだけど。
でも、古典が完璧にできなくても、それだけで不合格になることはあり得ないのだから、あまり気にしない方がいいのかも。
 
もう少し真面目に言うと(?)
 
たとえば、島崎藤村の文語詩「初恋」の最終連はこんなことになっている。
 
林檎畑の樹の下に
おのずからなる細道は
誰が踏み初めしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
 
この、「問ひたまふこそこひしけれ」を口語訳するのは不可能だと思う。絶対不可能。
 
ここには「こそ」の係り結びがある。
そして、「たまふ」という尊敬語がある。
「こひしけれ」という形容詞がある。
 
このいずれも、現代では使われていない言葉なのだった。
 
文語文法にある、この係り結びや助動詞などなどは、口語文法をはるかに越える豊かな表現法になっていると私は思う。
もちろん、それを口語で説明するのは不可能なのだ。
 
無理矢理説明すると。
「こそ」でその直前の恋人の愛らしさをさりげなく強調し、静かな感動を表す。
そして、「たまふ」は恋人への敬意を…高貴なものへの敬意として表す。
「こひしけれ」は「いとしい」でも「かわいい」でもない。
ひたすら彼女の美質を愛で、敬いつつ切実に求める表現なのだ。
 
現在使わない言葉は、もちろん使えない言葉なのだけど。
でも、その言葉が織りなす世界があって、それが古典の世界なのだった。
できれば、それは自分の力で、自分の感覚の一部として理解できるとよい。
 
それが実際の言語生活にどれくらいの足しになるのかはわからないけれど…
普段使っている言葉で表現できない言語世界を体内に持っているのはいいことだと思う。
 
外国語を学ぶのに似ているが、古典の場合は地上のどこにもソレを用いるところがない…というのが特徴だと思う。
 
どうみても、それは全然役に立たない言語なのだ。たしかに。
 
でも、繰り返しになるが…
役に立たない言語を体内に持つのはいいことなのだ、と私は思っているのだった。


| Prev | Index | Next |