1
フランソワーズは静かに深呼吸し、目を閉じた。
辺りの物音がさっと遠のき、ターゲットの声だけが浮かび上がる。
5分、と決めている。
衆人環視の中で、それ以上「眼と耳」を使い続けることは避けるべきだったから。
なるべく人通りが少なく、知り合いが訪れることもないだろうカフェを選んではいたが、安心することはできない。
やがて、彼女はゆっくりと目を開けた。
冷めかけたコーヒーを一口飲み、思わず息をつく。会話は、ありふれた商談…のようにしか聞こえなかった。
もっとも、探った時間がわずか5分では何とも言えないのだけれど…
あの宇宙での戦いから、2年がすぎていた。
仲間たちとはいつ、と決めているわけではないが、ぽつぽつと連絡を取り合い、機会を作って会うこともある。
ジョーとはほぼ月に一度のペースで手紙のやりとりをしている。
忙しい彼には、電話やメールの方が手軽そうに思えるのだが、なぜか彼は頑なに…とフランソワーズは思う…手紙にこだわるようなのだった。
そういえば、そろそろ返事を書こうと思っていたところだったんだわ…と、フランソワーズは思い出した。
このことを書くべきか…それとも。
こうして普通の生活を続けていても、やはり、自分は普通の娘ではないのだ…とフランソワーズは思う。
彼女は毎日新聞を丁寧に…細かい広告に至るまで、読むことにしている。「何か」に気づくことが、本当にごく希にだが、あるからだ。
そんな風に「気づいてしまう自分」を疎ましく思う気持ちがないわけではない。
が、それでも、気づかないよりは気づくことができた方がよい。長い目で見れば、結局はそれが自分たちの平穏な生活を守ることにつながるのだから。
数日前、フランソワーズはある小さな記事に「気づいた」。
何でもないことかしら…とも思いながら、なんとなく見過ごすことはできず、少しずつ独自に調査を進めている。
もし、本当に「何か」があると確信したら、そのときはもちろん、仲間達に連絡をとることになる。そのタイミングは少々むずかしい。
こういうとき、ジョーからはいつも、なぜもっと早く連絡しなかったのか、と叱られる。
調査した結果、結局「何か」はなかった…ということがはっきりしたときでも、そう叱られてしまう。彼のその気持ちがわからないわけではない。
「もし、僕の知らないところで、万一でも君に何かあったら…それが、僕にとってどんなに恐ろしいことなのか、君にはわかっていない…!」
彼はいつも、うめくようにそう繰り返す。
そうだと知っていても、フランソワーズはやはりためらってしまう。
自分が…003が「異変」を感じている、と告げれば、009は何を措いても駆けつけなければならない。島村ジョーとしてのすべてを捨てて。
彼は言う。彼女を守るためなら、島村ジョーとしてのすべてを捨てることなど、少しも惜しくはないのだと。
その言葉を信じていないわけではない。
が、だからこそ、その言葉に簡単にうなずくわけにはいかないのだと、フランソワーズは思う。
ぼんやり考え事をしながらカフェを出たフランソワーズは、いきなり現れた人影に、息が止まりそうになった。
「やあ。久しぶりだな」
「元気そうだね、フランソワーズ」
「目と耳」を使っているときは、特に自分の身近への警戒が薄れがちになる。
彼らがソコにいることに気づかなかったなんて…と、うかつさを悔やむ思いが再会の喜びより先立つ…ということは、やはり「何か」が起きているからなのかもしれない。
それでも、フランソワーズはどうにか笑顔を作った。
「こんばんは、アルベルト…ピュンマ。あなたたちも元気そうね」
2
アルベルトに小さな花束を手渡され、フランソワーズは目を丸くした。
ピュンマが笑う。
「僕は知らなかったから…何もなくてごめん。今日は、バレンタイン・デーなんだって?」
「…あ!そうだったわ…ありがとう、アルベルト…!」
「どういたしまして」
「そんなわけでさ、これから僕たちと一緒に食事でも、どう?」
「え、ええ…でも」
「どうやら、気になっていることが…ありそうだしな」
「…アルベルト」
アルベルトは微笑し、見上げるフランソワーズの亜麻色の髪をぽんぽん、と叩くように撫でた。
「たぶん、俺もここのところ、同じものを追っていた…ピュンマもだ」
「……」
「そういうこと。でもね、どうやらなんでもなさそうだとわかったのさ…だから、ついでにといっちゃなんだけど、君も誘ってささやかな祝杯をあげたいなーと」
「そう…だったの」
ほう…っと大きく息をつくフランソワーズに、二人は優しい眼差しを向けた。
「やっぱり、ジョーが言ったとおりだったか」
「…え?」
「ジョーもね、気にして…調べていたらしいんだ。で、やっぱり、なんでもないだろうという結論に達した…でも、主な問題のポイントが、このパリにあったから…彼は君のことを心配したんだよ」
「心配…って」
「うん。たぶん君もこのことに気づいているだろう…けど、君一人で調査したところで、なんでもないという結論にまで到達できるかどうかは怪しいと、彼は思ったんだな。だから、なんでもないんだということを伝えて安心させてあげてほしい…って、僕とアルベルトにね」
「……」
「だったら自分で言え、と俺たちもさんざん文句を言ったんだがな…ヤツはきかなかったのさ。フランソワーズは僕がそう言っても信じないから、だと。どうなってんだ、オマエたちは?」
「…まあ!」
くすくす笑いながら、フランソワーズは、でも、たしかにそのとおりだわ…と思った。
「それは、私だけじゃないでしょう?あなたたちだって…あのジョーが『安心して』と言うときに、本当に安心できて?」
「ははっ、たしかにそうかもしれない…僕も、彼についていえば、むしろ『気を付けろ!』って言われたときの方が気楽だね」
「…まあ、そうだろうな…だが」
アルベルトはじっとフランソワーズを見つめた。
「オマエは…オマエだけは、安心してやれ。オマエは、俺たちとは違う」
「…アルベルト?」
いぶかしげなフランソワーズの視線に、彼はそれきり応えなかった。
3
アルベルトの言おうとしたことは…なんとなく、わかるような気がした。
それでも、結局フランソワーズはその夜遅く、別れた二人の行き先と通信先を密かにサーチしたし、夜明け前には、負傷して動けない体を地下の下水道に隠し、救助を待っていたジョーの傍らにたどり着いたのだ。
「いつになったらわかってくれるのかしら。私を騙すことなんて、できないのよ、ジョー。アルベルトとピュンマまで巻き込むなんて…恥を知りなさい」
「騙してなんか…いない。本当に全部終わらせたんだ…これで」
「私の知らないところでこんなふうに終わらせるなんて、駄目。あなたがいつも自分で言っていることよ?」
「それは…違う」
「違わないわ」
「違う。僕は、君よりもずっと強いサイボーグだ。君が心配する必要なんか、少しも…」
「知っているわ。でも、安心なんかできない…あなたはこの世にたった一人しかいないんですもの」
「……」
「強くても…そうでなくても、それは同じことよ」
「…違う」
「意地っ張りね…ジョーは」
「君こそ」
短い沈黙が落ちる。
フランソワーズは耳を澄ませ、アルベルトのトラックが近づいていることを確かめた。
「今…何時?」
ふとジョーがつぶやくように言った。
フランソワーズは腕時計に目を落とした。
「…もうすぐ、4時よ。あと1時間ぐらいでアルベルトが着くわ。あなたが二人にあんなことをさせなければ、今頃は…研究所に着いて、傷の手当てができていたかもしれないのに…」
「でも、その前に間違いなく…君に見つかっていただろう?」
「…結局見つかったくせに」
「彼らなら、うまくやってくれると…思ったんだ。フランソワーズ、せめて二人が着く前に、君は帰ってくれないか」
「嫌よ」
「頼むから…これじゃどうにも…二人にも格好がつかない」
「いい薬だわ。これに懲りたら、もう二度と…」
「何度だって、するよ…僕は」
「……」
「僕は、君を…君の安らぎを乱したくない。君には、いつも幸せでいてほしい。光の中にいてほしいんだ」
「そのために、あなたがひとり戦って、傷ついて、こんな暗い地の底に倒れているのなら…そんな安らぎはいらないわ」
「…フランソワーズ」
ジョーは微かに首を振り、僅かに自由の利く片腕を伸ばして、フランソワーズの肩をそっと抱き寄せた。
こんな傷を負った自分に気づかないでほしい、気づかせたくない…懸命にそう思った気持ちは嘘ではない。
が、一方で、気づいてほしいと思わなかった…といえば、それも嘘になるような気がする。
「昨日は、バレンタイン・デーだったわね」
ふと思い出したように、フランソワーズがぽつりと言った。
「日本では、女の子が大切な人にチョコレートをあげるのでしょう?」
「…あ…うん…」
「私…あなたに何もあげられなかった…ごめんなさい」
「……」
…僕こそ。
ジョーは心でつぶやいた。
4
昨日がその日だということは、ジョーにもわかっていた。
というのは、アルベルトにそう言われたから。
負傷して動けなくなったジョーを、とりあえず海岸に隠した小型艇まで運ぶため、トラックを調達しようとしたアルベルトとピュンマは、その間彼を一人にしておくことを危ぶみ、フランソワーズを呼ぼうと提案した。
が、ジョーは頑としてそれを拒んだ。
それだけでなく、彼は、おそらくこの件を独自に探っているだろう彼女が、自分を発見してしまうことをも防ごうとした。
だからジョーは、何も起きていない、心配はない…と、まずフランソワーズに伝えることを二人に命じたのだった。
アルベルトもピュンマも、もちろん難色を示した…が、二人とも、彼と長く議論しようとはしなかった。
彼らは009の頑固さをよく知っていた。まして、それが003に関わることであるなら、なおさらだ。
「…まあ、いいだろう。そういえば、今日はバレンタイン・デーだったな。ちょうどいい、可愛い花束でも持っていけば、彼女も完全に安心するだろう」
アルベルトはさらりと、しかも挑発的に言ってのけた。
正直、胸がざわついた…が、そんなことを考えている場合ではない、と、ジョーはすぐに思い直したのだ。
そして、フランソワーズも。
そんなことを考えている場合ではない、と夢中で駆けつけたのかもしれない。
花束もチョコレートもない、暗い地の底で。
あるのは、壊れてがらくたとなった機械の体だけ。
…それでも。
僕は…思ってもいいのだろうか。
こうして、君に触れていることを…幸せだと思っても…いいのだろうか。
「…やっと…」
「…え?」
「やっと…安心できた…わ」
「……」
「むずかしい…人、ね」
「……」
声が出なかった。
ジョーは、ただ彼女の肩を抱く腕に力を込めた。
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