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完結篇を読む 3
 
5 ふたつの宿題
 
完結篇がなぜこうしてかなり無理をして(涙)書かれなければならないのか、というと、それはもちろん、天使篇と神々との闘い篇があったからだ。
いずれも、闘いの始まり……にすら到達していない、という状態で中断しているけれど、それぞれ辛うじて残したモノはあり、それは当然、完結篇に伝えられている。
 
天使篇の場合、やはり印象に残るのは「抵抗(レジスタンス)」だ。
009は「僕たち人類は生きたいのだ!」と叫び、それを神々に伝えるために戦おう、と決意する。
 
これは、どうも「サイボーグ009」という作品の特徴といっていいのだけれど、彼らは勝利のために戦うのではない。
だったらなぜ戦うの?という疑問が当然でてくるわけで、それが結局のところ彼らを悩ませる問題ともなるのだった。結構ややこしい作品だったりする。
で、それはそれとして。
 
この「生きたい」という思いについては前章で触れている。
完結篇でも、009たちが戦う最大の動機となるのは結局はそれなのではないか、と思うのだった。
 
後に描かれた「神々との戦い」篇にはもっと多くの手がかりがある。
特に、神は宇宙人であるという発想や、彼らと人類の関わりについてもかなり突っ込んだ言及がされているのだった。
 
が、神々との戦い篇では具体的な「神」が出てこない。
どうも宇宙人であり、人間を「監視」し、秘密に近づきすぎた人間を殺す、ということはしているのだが、それはただそういう「存在」として描かれているだけなのだった。
 
そして、009たちの身を直接脅かす「敵」として現れるとき、彼らはしばしば「憑依」という手段をとるのだった。
002、005は何者かにあやつられ、仲間を襲った。
009に秘密を教えようとした少女ノアを襲ったのは、瞬間的に何者かによって操られた人間や、機械(自動車)だった。
004を襲った「三人の黒衣の男」も、もしかするとそういう憑依された人間なのかもしれない。
そして、何より問題なのは、もちろんギルモアなのだった。
ギルモアを「殺した」001が言う。
 
敵ガ……博士ノココロヲスリカエテイタカラダ
博士ニナリスマシテイテキミタチノ心ヲムシバンデイタ……!
 
読んだ当時、あまりにも思いがけない展開についていけなかったのを覚えている。
その前に、002と005がサイボーグ達を襲ったものの、正気に返った……というエピソードを見ていたから、なおさらだった。
 
ギルモアへの「なりすまし」は、「神々の戦い篇」を読んだ頃の私が漠然とイメージしていたソレとはまったく違うものだったのだ、と、今、完結篇を読んで思う。
 
001は、自分がギルモアを「殺した」と言ったが、それは正確ではない。
ギルモアは既に「殺されていた」のだと言ってもよい。
それが、神々による「なりすまし」なのだった。
 
前章でアランとカネットが語った「人間にとっての死」についてもう一度考え、009の「死」について更に考えると、やはり問題は身体と心、ということになると思う。
 
身体を離れると、心は存在を維持できない。
これは、たとえば石ノ森章太郎が「サイボーグ009」において思いついた、という発想ではない。
古今東西を問わず、魂と身体とはそういう関係にある、と信じられている。
 
そして、それが「人間」というものであるなら。
たとえば、「身体は心のいれものにすぎない」と言い放つことができるモノは、人間ではない。
それが、「神」の定義だと言ってもいいかもしれない。
「神」は個別の身体を必要としない。
 
ただし。
本当に身体を必要としないなら、わざわざ憑依する必要はない、といえる。
そういう意味で、神にはたぶん限界があるのだ。
それが、「宇宙人」ということなのかもしれない。
 
人としての身体を失ってなお存在し続けた009は、おそらく「神」の領域に入った。
そして、翡巫女をモアイ像の中に「封印」した。
 
翡巫女は死んだわけではないはずだ。
が、こう言ってしまうとばかばかしいが、モアイ像は決して動けない。
 
神と神との戦いは、このようにして決着する、ということなのだろうか。
烈しい戦いの敗者が「封印」され、それが解かれたとき、新しい戦いが始まる……という、このイメージもまた、古今東西を問わずありふれたものではあるけれど。
 
天使篇と神々の戦い篇。
あまりに断片的なイメージしか残されていない感はあるが、それでもここが出発点なのだった。
完結篇T・Uを見ると、そのうち、今考えてきたように、天使篇からは「生きたい」という願いが、神々との戦い篇からは「心と身体」というテーマが引き継がれているように見えるのだった。
 
 
6 家畜か友か?
 
「神々の戦い篇」で、ギルモアを殺した001は言う。敵に勝利するためには、本当の意味での連帯が必要だ、と。
サイボーグたちが垣間見たエゴ……個としての欲望を超越し、ひとつになることが必要であり、それは自己犠牲だ、というのだった。
 
“連中”ト闘ウツモリナラ心ノ防備ヲマズ堅固ニシナケレバイケナイ
ソシテ闘イニ勝利ヲオサメルツモリナラ……
真ノ友情ガ武器トナル
真ノ友情トハ……自己犠牲ダ
オノレヲ無ニしシテ他ト協調スルコトダ
コレハ簡単ナヨウデ難シイコトナノダ
個ト個ガ合体シテ大キナ個トナル
個ノ数ガ新シイ個ノ能力ト比例スル!
 
001が難しい、というだけあって、本当に難しいのだった(しみじみ)
 
これは、単純にエゴを捨てろ、一つになれ、ということではない。
「完結篇」で006が見た「理想郷」がそれを教えてくれる。
 
不老不死の理想郷で暮らす人々は、皆不自然なほど穏やかで明るい。
それは、彼らが女神シヴァによって、「改心」し、欲望を捨てたから……らしい。
その一員となるための「不老長寿の食材」は赤ん坊だった。
 
シヴァから助け出した赤ん坊を抱き、走りながら張々湖は思う。
 
何がシャングリ・ラだ。こんなもん理想郷でもなんでもねェ。欲があったっていい。それが人間だ。操られて生きて何が楽しい?怒ったり悲しんだり喜んだり、それぞれがそれぞれの感情を持ってこそ、生きてる価値がアルってもんだ。ワシと同じ“力”だって?ジョーダンじゃない。一緒にすンな!人の気持ちがあってこその、その“力”だ。間違ってっか?オイ、黒豚よ。
 
ちなみに、問われた黒豚は、おそらく「間違っていない」という意味をこめて一声鳴く。
 
この「黒豚」も、そもそもは「食材」だった。
が、006は常にそれに語りかける。
厳しい旅の中で、黒豚はやがて仲間のような存在に変わっていく。
……とはいえ、食材であることに変わりはないような気もする。
豚は、人間ではない。
そしてもちろん、人間も、神ではない。
だから、シヴァは平然と赤ん坊を食らおうとする。
 
シヴァと赤ん坊の関係は、006と黒豚とのソレとは明らかに違う。
シヴァにとって、それは語りかける対象ではない。
ただ食らうべきもの、自分の身と同化させるべきモノにすぎない。
 
おそらく、理想郷の人間たちの「心」も同じようにシバに喰われたのだと言える。
無垢なモノでなければ食すことはできない。
だから、人間たちは「欲望」を捨てる必要があった。無垢な赤ん坊がそうであるように。
 
003の章で、敵となったアランとカネットが語った「一つになる」というのも、おそらくシヴァのやり方と同じなのだろうと思われる。
たしかに、それは「オノレヲ無ニ」することであり、自己犠牲のようにも見える。
 
が、違う。
006が叫んだように、それは違う。
001はこう言ったのだ。
 
個ト個ガ合体シテ大キナ個トナル
個ノ数ガ新シイ個ノ能力ト比例スル!
 
合体はするが、「個」が消えているわけではない、というのが注意すべき点だと思う。
特に、「個ノ数ガ新シイ個ノ能力ト比例スル!」は注意深く読む必要がある。
これは、たとえば3人の人間が、いっせーのせ、で力を合わせたら3人分の力になる、というようなことではないと思う。
 
「新しい個」はやはり個なのだ。
つまり、3人の人間が力を合わせたときは、それぞれが自分1人の力ではなく、3人分の力を持つ個となる、というイメージではないかと思う。3倍の力を持ちつつ、彼らは以前として3人のままなのだ。
 
だから。
001の言う自己犠牲ができれば、神々に……少なくとも、シヴァには確実に勝てる。
どんなに多くの人間の心を集めようと、それを力にしようと、結局のところシヴァは「ひとり」だからだ。
もし、001の言う自己犠牲ができるのなら、シヴァが100人を取り込んだとしても、10人で相手ができる計算になる。
 
「天使篇」で、天使達は人間を「収穫にきたが、あまりに出来が悪い」と言った。
彼らにとって、自分たちは家畜にすぎないのか、とサイボーグたちは戦慄する。
 
彼らが食らうモノが、心なのだとしたら。
それが悪に蝕まれていては、とても食べられたモノではないだろう。
だから「出来が悪い」ということなのだろう。
 
家畜なら、出来が悪ければ処分する。
その「病」が他にも広がる可能性があるなら、なおさらのことだ。
だから、天使たちは人間を葬ろうとする……のかもしれない。
 
そして。
結局、006は彼の「黒豚」を食らうことができるのか。
問題は、ここではないかと思う。
 
非常用食料として同行させながら、時にその力を借り、ともに長い旅をゆき、語りかけるうちに、006にとって黒豚は家畜ではなくなった。実際、006は
 
もはや、食材というより友達に、黒豚は近付いたのかも。
 
と思ったりもするわけで。
それは、彼が黒豚に「個」を見たからではないか、と思う。
 
黒豚は、たしかに徹頭徹尾ただの豚であり、奇跡が起きて超戦士になったりはしない。
が、「友達」である黒豚は、黒豚独自の能力によって006を手助けするのだった。
 
「個」をのみこみ、支配するシヴァを否定したものの、その自分が放った刃はやがて006自身に跳ね返ってくる。
個であろうとすればするほど、個は他の個をのみこみ、否定する。
自分も同じことをしているのではないか。自分とは何者か。
 
黒豚は答えを持たない。
が、孤独に打ちのめされる006に、同じように震えながら黒豚はそれでも身を寄せる。
答えはまだない。
 
しかし、間違いないことがあるとしたら。
「家畜」には何もできない、ということなのだった。
 
シヴァの家畜であることを否定した006と、006の家畜であることを否定した黒豚とは、その闘いの入口に立つと同時に烈しい雪にうたれ、震え、立ちすくむ。
それでも、他に道はないのだと思う。
 
 
7 「神」と「悪魔」
 
神は、身体と心を切り離すことができる。
身体は心の枠組でもあるから、それができなければそもそも他の個との合体は不可能だろう。
 
が、身体と心を切り離すことができさえすれば問題が解決する、というわけではなさそうなのだった。
実際、シヴァも、翡巫女も、003を襲ったアランとカネットも、他者と個のままでつながる、という発想を持たなかった。
彼らは、他の個を個と認めず、ただ自分(たち)との同化を要求する。
それは、要するに「食らう」のと同じことだ。
 
完結篇には二つのタイプの「神」が登場する。
どちらにしても人間から見れば神なので、まずはその圧倒的な力に眼が向いてしまうのだが、008の章ではかなり明確に、彼ら自身が二つの勢力に分かれて争っている、ということが示されている。
 
神は闘いを克服したわけではない。
001の言う協調ができているわけではないのだ。
 
この二つの勢力の違いとは何か。
かなりヒントをもらえる……のが003の章だと思う。
 
003と心を通わせるアランと、彼が見つけたという赤いクリスタル。
その中には、どこか003に似ている(という)女性の姿が見える。
そして、そのクリスタルによって、003に、一瞬「未来視」の能力が宿った。
この能力もまた、「サイボーグ超戦士」としてのもの……とすると、クリスタルは彼女の「目ざめ」を誘った、ということになるのかもしれない。
 
クリスタルをめぐって、二つの勢力が争っている。
ひとつは、クリスタルを人間の手の届かないところに隔離することを目的としているらしい。
もうひとつは、とにかくクリスタルを自分たちの手に入れようとしている。
 
アランは、この二つの勢力の双方と接触する。
まず、クリスタルを隔離してほしいと願う側と。
それは、003が未来視を経験し、倒れた後に、彼が見た夢という形で実行された。
 
クリスタルとの接触によってそれぞれ不安に駆られた003とアランは、電話で互いの声を確かめることによって安らぎを得、「芯から一つになっていくような」感覚を覚えつつ、眠りにつく。
そのときの夢だ。
 
足元から視線を少し上げてみると、いつの間にか一人の女性が立っていた。しかし、一目見て、何か人間ではない別の感触を得たのである。なぜなら、その女性は向こうの景色がうっすらと覗けるほど透き通った身体をしていたからだ。その肌は、硝子や氷などに喩えるのは適切ではない、そんな弾力性を感じさせる。そして、身体の奥底からは光を放って眩かった。
 
女性は、やはり身体を持っていない。
少なくとも、私たちが身体だと思っているモノは持っていない。
彼女はフランソワーズに似ており、アランは彼女の微笑に懐かしさを感じる。
孤児である彼は、そこに母の面影をだぶらせる……のだが、
やがて、彼女と同じような身体をもった幼い少年が現れる。
その少年は、幼い頃のアランとそっくりな顔をしているのだった。
 
アランは、少年が母の手で宇宙に放たれるのを見る。
母は泣きながら「瞳をさがして……」と訴える。
 
ぼーっと考えると、アランは実は宇宙人だったのだ!ということになったり、ついでに言うと003も宇宙人で、アランのお母さんだったのだ!ということになったりもしそうだが、もちろん、そういう話ではない。
 
少年がアランに似ていたのも、女性が003に似ていたのも、彼らがその「使命」を果たすべく選ばれたモノであるということを示している、と考えたほうがよいと思う。
 
瞳、とはクリスタルであるらしい。
そして、アランは発見された不思議な彫刻……彼が持つものと同じ赤いクリスタルを右目にはめこまれた、フランソワーズに似た女性の彫刻と接触する。
彼がくりぬかれた左目にクリスタルをはめこんだとき、彫刻に異変が起きた。
 
烈しいショック状態に陥りながらも、アランは一旦左目にはめたクリスタルを抜き取り、部屋を出て……そして、死んだ。
が、彼はおそらく最後の力を振り絞って、そのクリスタルを砕いたのだった。
 
カネットはアランが立ち去った後、やはり彫像の異変に気付く。
そのとき、おそらく偶然に……振動で、彫刻の右目に残っていたクリスタルもこぼれ落ちた。
カネットは、ほとんどその場で倒れ、死んだ。
 
二人を殺したのは、おそらく、女性の彫刻の中に封じ込まれていたモノ、なのだろう。
それはやがて、アランとカネットの「遺体」に憑依し、003の前に現れた。
 
クリスタルが片方だったとき、彫刻はただの彫刻だった。
そして、一瞬、ふたつのクリスタルを得て「それ」は封印を解かれた……ものの、やはり十分な力を発揮するには至らなかったのだろう。
ぼーっと考えれば、カネットを「殺して」すぐ彼に憑依していれば、そこに転がっていたクリスタルは最低でも回収できた……はずだと思うのだけど、なぜか憑依までにはタイムラグがあった。
 
その間に、二人の遺体はクリスタルから引き離されていたから、二人に憑依した「それ」はクリスタルを探し始めたのだろう。
 
赤いクリスタルは、003と自分を本当の意味で一つにする、と、憑依されたアランは003に語る。
ということは、クリスタルの力は、心を体から引き離す……というようなものなのだと思う。
 
「瞳を探して・隔離して!」と謎の女性は言った。
彼女は自らを模した彫刻の中に「それ」を永遠に封じておかなければならなかった……それが使命だったのだと思う。
クリスタルを人間から隔離してほしい、というのは、つまりアランがうっかりやってしまったように、その封印をいつか解くものが人間である、と予想されたからだろう。
 
が、一方でアランは、003の言葉を借りれば「元の自分でいられなくなるのが怖くて」クリスタルを割った。
人間はしばしば愚かな過ちを冒すが、その過ちを贖うのもまた人間の意志だ……ということなのかもしれない。
 
003の前に二人のアランが現れる。
アランを「殺したもの」を、彼女は許さない。それが敵となることは必然だ。
とすると、もう一人のアランが……片方のクリスタルを砕き、使命を果たしたアランが、彼女の味方、ということになる。
 
クリスタルを抱え、003はひたすら闘いを拒絶し、逃げる。
そして、彼女の命が現実的に危機にさらされたとき、もう一人のアランが現れる。
逆に言うと、そうならなければ、彼は彼女を助けない。
 
もしかすると。
アランが彼女を助けているのではないのかもしれない。
彼女が、自らの死をも受け入れ、彼らの思いに「同調」したとき初めて、彼らの力が発揮される、ということなのかもしれない。
 
そして、そのようにして、死の間際、アランもクリスタルを砕いたのかもしれないのだった。
それは、「個」であることを死を賭してでも守ろうとする意志である。
 
人間にすぎないアランは、過ちを冒し、クリスタルを片方しか砕くことができなかった。
が、片方は砕くことができたのだ。
そして、もう片方のクリスタルは003にゆだねられ、彼女は無条件でそれを守ろうとした。
闘いを拒絶し、自らの死を前にしてもその思いを揺るがせることはなく、ただ「生きたい」とだけ彼女は願った。
 
宇宙人には、二つの勢力があるらしい。
一つは、明らかに「邪悪」と見えるモノだ。
それは、罪を捨てよ、欲望を捨てよ、と高らかにうたいつつ、人々から「個」を奪うことによって「ひとつ」になろうとする。
 
もう一つの勢力は、「個」による連帯……001の言葉を借りるなら「真の友情」によって「ひとつ」になろうとする。
彼らは、おそらく「闘う」ことをしない。
が、たぶん……だが、「家畜」を「食らう」ことならあるかもしれない。
 
人間は選ばなければならないのだろう。
前者……悪魔にのまれるか。
後者……神に認められるか。
 
言うまでもないが、悪魔にのまれる方が、容易だ。
幸せ、ということではないけれど。
 
009たちがそれを選ばないことだけは間違いない。
彼らは、それと闘わなければならない。
 
が、おそらく闘うことによって勝利することは難しいだろう。
それを本当に滅ぼすためには、003が見たように「神」の連帯をもたなければならないと思うからだ。
そして、その道は果てしなく険しい。
 
完結篇で、003は闘わなかった。
襲いかかる相手がアランだったから。「闘いたくなかった」から。
 
そして、009も闘わなかった。
翡巫女の中には紛れもなく彼の「最愛の女性」翡翠がいたからだ。
だからこそ、彼の心は深く傷ついた、とも言える。
実際に闘えない状態であったことは間違いないが、それ以前に、彼もまた「闘いたくなかった」のだろうと思う。
 
闘わなければ、殺される。
003は「神」によって辛うじて救われたが、009は「悪魔」によって完全に壊された。
結果は大きく違うが、殺されても闘わない可能性があるという点について、二人は一致している。
その根底にあるのは、別の個を自分と同等に尊重する思いだったのではないか。
 
愛、と呼んでもいいし、真の友情、と呼んでもいい。
ただ、彼らがそれを向けた相手はか弱い人間にすぎず、それを受け止めることができなかった。
つながるためには、受け止められなければならない。
 
心が身体を離れる……その能力を持つだけでは「連帯」はできない。
身体を離れた心は、むしろ何にも規制されることなく、力ある者がない者にのりうつり、支配する……ということを繰り返すだろう。それが「悪魔」たちのやり方だ。
 
一方で、枷であった身体を捨てることで自我を無限に肥大させるのではなく、むしろ身体を砦ととらえ、それを捨てる……つまり自我を守ることを放棄することによって他者とつながり、新境地に入る。
それが、自己犠牲であり、真の友情による連帯なのだと思う。
 
 
「天使篇」「神々との戦い篇」では、実現しなかったものの、001が先導役となり、まずはその境地を目指してサイボーグたちを導く、という展開が暗示されていた。
が、「完結篇」で009がたどった道は、それと全く異なっている。彼の場合、自我を「捨てた」というよりは「壊された」というほうが限りなく近い。
ただ、おそらく結果としては、神々との戦い篇の001が目指したモノとほぼ同じ状態に到達した、ということなのではないだろうか。
 
「もう闘わない」「生きたい」と叫んだ003。
「個」を徹底的に破壊し、それでも消えなかった009。
天使篇と、神々との戦い篇で残された宿題が、この辺りにつながっている、と思うのだった。
 
更新日時:
2012.10.19 Fri.
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Last updated: 2015/11/23