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記念品など

完結篇を読む 2
 
3 血の霧
 
 
「完結篇」で気になるのは、サイボーグたちの「身体」というか、「肉体」の問題なのだった。
 
まず衝撃的だったのは、005が、頭部を銃で撃たれたら死ぬ、ということだ。
彼の「内蔵の大部分と頭部は生身のまま」なのだという。それは、こういう理由なのだった。
 
そもそもジェロニモを含む九人のサイボーグ戦士達は、実験材料として造られた意味合いが強い。だから、それぞれ部分的な能力のみを誇張し特出させた。特色を限定させたのは、データを取りやすくするためだ。逆に言えば、それ以外の箇所は放置されたのだ。
 
そして、ジェロニモはその残された生身の体を通して、精霊たちと語り合う。
生身の体が残っているから、語り合えるのだ、ということらしい。
 
004の体にも血が流れている。
カトウリクスとの「決闘」で、彼の剣を受けた004の肩からは、血が滲み、滴り落ちた。
 
008の肌は、水に触れると銀色の鱗に変わる。
平ゼロでもその描写はあったが、完結篇ではそれが何とも生々しい。
 
その能力の適応環境に触れるだけで、この黒い肌が無数にひび割れ、幾千もの銀色の鱗が逆立つように現れる。
私自身、全身に広がるその鱗を見るだけで、嫌悪感を通り越し、身の毛もよだち、薄気味悪くて吐き気を催す。
 
原作では、その鱗をつけられた008が、004に励まされるシーンがある。
完結篇でそうした描写はないが、008は自分と同じように改造された仲間達が、能力とポジティブに向き合う姿に心を動かされている。
が、そうは言っても彼のコンプレックスは消えることなく、それを本当に癒したのは、その肌をそのまま認め受け入れてくれた、生身の人間である恋人だった。
 
恋人、と言えば。
恋愛の設定が目立つのも、「完結篇」の特徴だといえる。
005の章にある改造のコンセプトから考えると、これまでの設定よりも、彼らが気持ちの問題だけでなく身体の問題としての「恋愛」をすることが可能であるという確率は格段に上がるし、それゆえの009の章だともいえる。
 
009の章では、彼と翡翠との肉体関係について結構しつこく(笑)言及されていて、それが93ファンに波紋を呼んでいたりもするのだけれど、実もフタもないことを言ってしまえば、これまでの009はそーゆーことが「できる」体なのかどうか、というところにそもそも微妙な疑惑があったりした……のだと思う。
 
もちろん「神々との闘い」篇での003とのベッドシーンを忘れているわけではない。
現実か非現実かわからないような描き方ではあったものの、とにかく、ああしたことが「あった」ことは間違いない。
ただ、逆に言えば、「あれしかない」のだった。
ついでに言うと、それは作品の中で「熱病的愛情」と呼ばれ、ネガティブな扱いを受けている。
 
009を始め、サイボーグたちにそういうシーンがこれまで用意されていなかったのは、作品がそれを必要としていなかったから……なのだろう。
だから、「サイボーグ009」にはそういうシーンが「必要ない」のだろう、と読者はなんとなく思ってしまうかもしれないが、もちろん、それを必要とするのかしないのかを決めるのは、読者ではなく作品そのものだったりする。
 
で、完結篇はそれを「必要とする」作品なのだ……と思う。
そう思って読むしかない。
 
「神々との闘い」篇で、008が身体についての疑問を口にする場面がある。
体は、心の入れ物にすぎない、というが、それは本当だろうか?と。
 
この問いには、これまで、答らしいものが用意されていなかった。
それどころか、たしか完結篇序章アニメでは001が「体は心の入れ物にすぎない」と明言していた。
そのとき、それでいいの?と違和感を感じつつ、でも、それでいいというスタンスで物語は続くことになったのかそういうことだよな……と、私は思っていた。
そもそも、身体の問題なんて、限りなくややこしいのだから、実際に完結篇を作るということになったとき、そこを削ることになっても、仕方ないといえば仕方ない。
が、もしも今回、この身体の問題に触れてくれるなら、かなり楽しみなのだった。
 
完結篇の翡巫女は、物質を素粒子にまで分解する力を持っているらしい。
彼女のその力で高垣詩織の体は「血の霧」となり、合田真太も「赤い霧」となって消えた。
そして、同じ力で、009も消される。
 
両の眼が霧状になり、次に頭部がそれに続き、遂には顔を消し去り、最後はとうとう全身をも霧となり……、
 
ジョーは・消・え・た。
 
ジョーの体型を象っていた衣服が、ハラリと舞い落ちた。
 
その霧が赤かったのかどうかは書かれていない。
彼の体には確かに血が流れているはずだが、生身の人間ではない。
もしかしたら、彼の霧は赤くはなかったのかもしれない。
 
が、その霧がどんな色であろうと、消えてしまえば残るのは衣服だけであり、高垣詩織も合田真太も島村ジョーも変わりは無い。
 
ということは、
009の体は……機械と生身との複合体である「サイボーグ」という体は、翡巫女の前では高垣詩織たち「人間」の体と大きな変わりはない、ということなのではないだろうか。
 
翡巫女は、009の「力」を認める。
その力が機械に由来するものなのか、彼に潜む未知の力なのか、彼女にはわかっていないらしいし、私たちにもわからない。
ただ、彼女は、それが機械に由来するものであるのかどうかということについてはほとんど関心をはらっていない。
力はただ力なのだ。
 
消えた009の体は、もちろんサイボーグだった。
だとすると、「復活」したらしい彼の体はどうなっているのか。
 
完結篇で、それはまだ明かになっていない。
が、かつて「復活」した超銀の004は、サイボーグ体ではなかった。
 
復活した004は、サイボーグ手術をしてほしいとギルモアに頼む。
彼は、自分はこれまでどおりのサイボーグであり仲間でなければならず、それがかなわないなら生き返った意味がない、と言い切る。
一方で、003(と009)は、「せっかく」生身の体になったのに……という言葉を口にする。それは、むしろ「常識的な」発想だろう。
だからこそ、それを敢えて否定する004の決断が印象に残るのだった。
 
……が。
もしかしたら、それは004にとって、特別な決断ではなく、本当に、単に、当然のことだっただけ……なのかもしれない。
生身の体とサイボーグの体とが「違う」と感じるのは、第三者的な見方であって、本人の感覚としてはただ当たり前に「これが自分」であるということにすぎないなのかもしれない。
そして、身体とはそういうものなのだ。たぶん。
 
体を形作る素粒子に色の区別はない。
身体とは何か、ということを突き詰めると、そういう結論も出てくる。
それでもやはり、身体とは何か、という問いの答にはならないのだけど。
少なくとも完結篇は、その問いをなかったことにはしない、という姿勢で書かれているように思えるのだった。
 
 
4 サイボーグ超戦士
 
 
アニメの完結篇序章を始めとして、「完結篇」のキーワードとして既に知られているのが「サイボーグ超戦士」だ。
それはつまり、超能力を持つサイボーグ、ということである……という解釈しか、これまでやりようがなく、なぜ009たちがそんなモノにならなければならないのか、ということについて、もうひとつスッキリしない感じがあった。
 
完結篇小説では、今のところ「サイボーグ超戦士」という言葉は出てきていない。
最後まで出てこないのか、第三巻で出てくるのかは不明だが、少なくとも、サイボーグたちの「進化」がどのようなモノであるのか、ということはおぼろげにつかめるようになってきたと思う。
 
ここまでの物語で、その進化を遂げた……らしいのは、001と009である。
そして、その入口に立った……らしいのが002と006で。
更に、それを「夢」という形で体験した……らしいのが007。
もしかすると、005が完結篇序章で見せた、地割れを起こすようなすさまじい力も、今回の小説で現れた精霊たちの力……が何か関連しているのかもしれない。
 
ほとんど石ノ森章太郎が書いた、ということらしい002の章におけるその描写は興味深い。
「神皇」と対峙した002は不思議な光に射貫かれて動けなくなり、思考も白濁する。そのときだった。
 
俺もツキにはまだまだ見離されちゃいないようだ。脚の生来の筋肉ではない、後に強化された人工的筋肉が、買ってに動き出した。脳からの指令は、ない。思考は止まっている。指令は筋肉自身が発していた。サイバネティック・バイオ・マスルズそのものが考えて、動いていた。
 
そして、その力で難を逃れた002は、おそらくその力によって、〈神の神〉から「同類」と認められた……ようなのだった。
 
しかし、それにしてもなんと、やはり、この創られた神も超能力を所持していたのだ。そしてあれは、〈神の神〉は、俺を識別した。自分と同族、人間のあやまちが産みだしてしまった存在そのものだ、と。
 
この〈神の神〉がそうだったように、サイボーグたちが出会った「神」のようなモノたちは、皆、サイボーグたちが「力」を持つ者である、ということを認めている。
そして、その力が機械に由来するモノである、ということについては無頓着である。
003と対峙した、死んだはずのアランとカネットはこう言う。
 
「あのクリスタルさえあれば、君と、本当の意味で一緒になれる」彼女を見据えたまま、アランはそう告げた。
「どういうこと?」
「僕らと同じになれるっていうことさ。君を仲間に迎え入れたいんだ。君の力が……いや、本当のことを言うと、君たちの力が必要なんだ」
 
彼らは、彼女に仲間がいることを見透しているかのような発言をする。
が、彼らが9人のサイボーグ戦士のことを知っているのかというと、そうでもないように思える。
例えば、006と対峙したシヴァは、彼に、仲間は何人いるのか、と尋ね、9人だとの答えにこう言うのだ。
 
ほう。随分と多いではないか。会ってみたいものだね。何だったら、ワラワ達と同志になるかい?全員で。今だったら、まだ……
 
そして翡巫女は、009についてこう語る。
 
……チリチリするような、“危険”な香り。感じていたのよ、ずっと。私と同種の“力”じゃないけど、なにか得体の知れない“力”を持っている。きっとこの男は、やがて私に危機をもたらす。そんな感じ……
 
彼らが感じた「力」とは何か。
009たちが持っている、常人とは違う「力」とは、もちろんサイボーグとしての力だ。
が、一方で、その力は、翡巫女らの力と比べたとき、あまりに弱い。
更に、その僅かな「力」すら、翡巫女らの前では完全に封じられるのである。アニメの完結篇序章で描かれたように。
 
翡巫女が予感していた「力」……彼女に危機をもたらす「力」は、009が消滅した後に発現する。
 
ジョーと思しきその男は、翡巫女に向かって走ってきた。いや、その言葉は適切ではない。常人の歩幅ではあり得ない距離を、まるでコマが中抜けした映像のように、一足飛びで向かって来る。加速装置が機能したとしても、この動きは不可能だ。身体的な動きの加速とは、到底思えないからだ。
意識の“加速”。瞬時に、血と肉と神経と骨と体液とが、意識に同調して、“加速しているのか。つまり、移動の瞬間は、その身体はこの世に存在し得ないモノのように、消えては別次元から現れ出る。
 
これは、アニメの完結篇序章で描かれた「意識加速」と同じものだと考えてよいと思う。
とすれば、これこそが「サイボーグ超戦士」としての009の力だということになる。
 
この力を振るうとき009は「身体」を持っていない、というようなことになるらしい。実際、彼は翡巫女によって「消された」のだから、当然といえば当然ということになるのだが。
そういえば(?)003の章で、彼女にクリスタルを渡すよう迫ったカネットが、こんなことを言っていた。
 
僕たちにとっては、〈死〉とは呼べないことでも、貴方たちには、それを意味することになるのですよ。
 
彼の言う「死」とは、身体としての死……たとえば、翡巫女による009の「消滅」を意味するのかもしれない。
だとすると、少なくともカネットは、003をその「死」を乗り越える自分たちの「同類」だとまでは考えていない。
その上で「力」と言っているのだから、やはり彼が認める「力」とは、サイボーグとしての力なのだろうと思う。
 
なんだか混乱してきている……けれど。
 
「神々」がサイボーグたちに認めた「力」というのは、彼らにとって未知なものであるのだろう。
ただし、それは、少なくとも現時点では非常に弱い。
そもそもサイボーグたちは、身体の滅びが死となる、という意味で「人間」であることに変わりなく、そこは明かに「神」と異なるのだった。
 
が、002の章で垣間見えるように、どうやら、その「力」の宿るサイボーグとしての身体こそが、彼らの「力」の源であるようなのだった。
超能力、というと、精神がもたらすものというイメージになりがちだが、サイボーグたちの場合は違う。むしろ、身体……それも、機械の部分が、そのトリガーとなっている。
奇妙な気もするが、問題は「力」なのだとしたら、それもうなずける。
「力」を持っているのは、生身の肉体でもなく、精神でもなく、身体に埋め込まれた機械なのだ。
 
私たちは、機械は人間が創ったモノ、生身の身体は神が創ったモノ、と色分けをしているが、神々はそういう観点を持たないようなのだった。
そして、追い込まれたサイボーグたちはその機械の力の延長線上に、新しい力を見る。
 
002の場合、「サイバネティック・バイオ・マスルズそのもの」が自分の意志を離れ、動き出した、という感覚を得る。
009の「意識加速」はもちろん「加速装置」の発展型、といえる。
そして、007は得体の知れない人型のエクトプラズムを前に、咄嗟に変身する。
 
私はそれを見て、本当に咄嗟に、ヘソのボタンを押した。私は一瞬、何に変身しようか躊躇したが、霊体に対抗出来るものは霊体しかないような気がして、即、イメージをした。
すると急に身体が宙に浮くような感覚を覚えたので、見下ろすと、私自身の肉体が床に崩折れていっているのが見えた。これは細胞配列を組み替えて変身したわけでない。紛れもなく私は、幽体離脱しているのだ。
 
結局この体験は夢……らしいのだが、おそらく、これが「サイボーグ超戦士」としての007の能力なのだろうと思う。
機械の力として発動したはずの力が、超能力へと進化する。
それは、ただ力としての力がより大きな力へと進化したということだから、その元の形が機械なのか生身なのかは問題にならない。
むしろ、機械か生身か、というようなことを問題とする「身体」そのものが消滅したときに「サイボーグ超戦士」が発現するのだと言ってよい。
 
「サイボーグ超戦士」とは、「サイボーグである超能力戦士」ではなく、「サイボーグであることによって目ざめ得た超能力者」なのだと思う。
それを完全に発動させた009は翡巫女に勝利した……が、その端緒に触れただけだった他の仲間達は、神々にとって「同類らしいが問題にならないほど弱い」と認識された。
そういうことなのではないかと思うのだった。
 
 
5 機械と心
 
この世に、恐るべき力を有する人工物はたくさんある。
核兵器を始めとする、あらゆる兵器もそれにあたる。
しかし、「神々」はそれらについてほとんど関心を示していない。
 
サイボーグたちが神々に注目されたのは、「機械」の力をもっているからであるが、それが機械によるものかどうかについて神々は頓着しない、と前項で触れたが、それなら神々はもっと強大な力を持つ、地球上の膨大な「兵器」をなぜ無視するのか。
 
言うまでもないが、サイボーグが「兵器」と違うのは、そこに「心」があるからだ。
彼らの心が彼らの機械の体を動かし、力をコントロールする。
とすると、より強い力をコントロールできる彼らの心は、フツウの人間の心と何かが違うはずだ。少なくとも、神々の眼にはそう見えるのではないか。
 
人格者でなければサイボーグになれない、というようなイメージが到底できないので、こういう発想になるのはかなり難しいが、「力」という視点に立つと、そういうことが言えるように思う。強い力は、そのまま強い心を意味するのだ。
 
力を進化させる……その入口に立ったように見える002、006、007に共通するのは敵に対する烈しい怒りと、抵抗しようとする強い意志だ。
また、物語の冒頭とラストで、涙を流しながら空を撃ち続ける004の姿はこのように描写される。
 
ハインリヒは、クロウが飛び去って消えた上空を睨み据えて、ロックオンした。そして、膝を折り、小型ミサイルの発射口を開き、掃射準備に入っている。その両手の指先に装備された10本の銃口を、その照準に合わせた。
それらを、姿も見えなくなった空の果てに放射したところで、意味を成さないのは百も承知である。それもハインリヒは、銃口を向け吐き出そうとしている。
彼が生きてきた全ての怒り。報復。失望。鬱積したあらゆる感情が、今まさに破裂する瞬間を迎えようとしている。
 
彼の絶望・憎悪と、サイボーグとしての力は複雑に絡み合っている。
彼とふれあったイエレは、彼の想いを感じ取る。
 
彼を襲った悲劇。それに漂いながら闘い続ける姿。狂った歯車に巻き込まれながら、その運命を受け入れても、負けてはいない。
仕方が無い……。彼はこうやって生きてきた。決して逃げずに生きてきた。
 
機械の体を持たなければ、こういう葛藤はなかった。
葛藤し続け、闘い続ける004の心は「強い」としか言いようがないだろうし、それは他の仲間も同じことだ。
彼らの機械の「強さ」と心の「強さ」は連動している。
だからこそ、翡巫女は009の「心」を攻撃したのだと思う。
 
サイボーグたちの中でただ一人、おそらく完全に「超戦士」に進化した009だが、その直前、彼の心に「怒り」はなかったし、抵抗の意志もなかった。
 
身体を突き抜ける痛みを感じながら、ジョーは恐ろしくなっていった。それは、今まで経験した事のない恐怖だ。
自身の戦闘能力が全て封印されて、何も抵抗出来ぬまま、やられ放題に攻撃を受け続けている自分が信じられなかった。未だかつて、これ程までに強大な能力を持つ敵と出会ったことなど無い。しかもそれが、最愛の人だと信じて疑わなかった相手なのだ。
幾度も打ち付ける身体を襲う衝撃よりも、遙かに深い衝撃が、彼の精神を引き裂いていった。そして、初めて“死”というものにも直面している事実を、ジョーは薄れゆく意識の中で、悟っていた。
 
その後、無抵抗のまま消された009が、直後に超戦士として出現し、翡巫女を倒すのだった。
いったい、009に何が起きたのか。
 
強い力を統べる強い心。
しかし、その力も心も、神々の前では無力だ。
 
サイボーグたちの「能力」が封じられる、というのも「機械が作動しなくなる」という観点で見ると奇妙に思えるが、単純に力の問題だと考えれば不思議なことではない。
より強い力を持つ神々が、弱い彼らの力を押さえ込んだ。それだけのことなのだろう。
 
009にも怒りはあったし、抵抗の意志もあった。
が、それらは翡巫女の前では無力だった。
他の仲間達は、神々と闘いを交えることなくその章を終えていったが、闘っていれば009と同じように、徹底的に敗北しただろう。
009は、なぜ目ざめることができたのか。
 
それより前、イースター島で翡巫女の力によって「死」へと誘われかけた009を救ったのは001だった……らしい。助けられただけだったから、009に新しい目ざめはなかった。
 
が、そのとき彼は、怒りでも抵抗する意志でもない「力」を得ている。それは、003の姿と声を借りて現れた。
結局、その時点では翡巫女にねじ伏せられる程度の弱い力でしかなかったが、少なくとも、それに対峙できる力であることは間違いない。
 
「フランソワーズ!」彼女が立っていた。
「そっちに行ってはいけないわ」
「フランソワーズ……。君なのか?本当に……」
忘れかけていた愛しい思い出が、突然に降って湧いたような、ポジティブな響きがあった。
 
それでも、009は翡巫女の声に従い、崖から落下する。
その彼に「フランソワーズ」の声はなおも語りかける。
 
死ぬ間際に、人は人生を顧みるというが、彼も走馬灯のように脳裡を駆け巡っていた。それもで彼の耳の奥では、フランソワーズの声が続く。目を覚まして……、目を覚まして……。この言葉の意味を、ふと理解した時、ほのかな後悔が彼を襲った。
 
その言葉の意味とは、何か。
素直に考えれば「目を覚まして」の意味は、今の009は本当の009ではない、本来の009に戻ってくれ、ということだろう。現れた003も「そんな姿、今まで見た事なかったもん。どうしちゃったの?」と彼に問うたのだ。
 
彼女の言う「そんな姿」とは、もちろん憔悴しきった009の姿を指すのだろう。
彼は徹底的に「心」を打ちのめされていた。彼の「罪」を見せつけられることによって。
その「罪」に深く関わるのが、彼のサイボーグとしての生だった。
 
運命が醜く動いた。望んでもいない改造手術に、放り出された戦場。その血塗られた日々を思い返すと、ジョーの震えは止まらなくなった。
 
彼は絶望の中で翡翠に救いを求める。翡翠だけが彼の救いとなる。彼はそう信じ、ひたすら彼女を求めるようになる。もちろん、それこそが翡巫女の計略であり、彼への攻撃である。
009は翡巫女に服従するしかない。それ以外の生きる道は絶たれ、その結果、翡巫女は009を殺さずにすむようになる。
 
009に限らず、サイボーグたちはそれぞれ自分たちの「機械の体」と「闘いの日々」に嫌悪感を持ち、それを封印しようと……忘れようとする。
そのベクトルを、翡巫女は巧みに利用したのだ。
特に009の「力」は強い。彼自身を滅ぼすことも容易であるほどに。
 
機械の「力」こそが、彼らの心の強さを支え、生きる力を得るヒントともなり得るのに、彼らはそれを忌むべきものとし、遠ざけようとする。
003もまた、009と同様に、その思いによって死へと誘われた。
彼女はアランとカネットに襲われ、追われつつも、闘いなくない、と願い続ける。
 
フランソワーズは耳を澄ませた。改造され、人並みはずれた能力を持つ期間。元来、それを使うことすら、彼女自身、本意ではない。なぜなら、その能力に触れた瞬間、過去に引き戻される気がしてならないからだ。
 
フランソワーズは、この期に及んでも、自分から手を出すつもりは一切無かった。戦うという行為、自分の過去を捨てたはずだからだ。敵を淘汰し、時には罪なき人々をも巻き込み、殺傷し続けてきた自分たちが犯した罪。そして後悔。
 
相手を傷つけるくらいなら、自分自身が、背負い込んだ罪の意識と共に沈んだ方がましなのではないか。彼女はそこまで、苦悶に喘ぎ、自分自身を追い詰めた。
 
しかし、003の場合、敵がその「心」を利用しようとはしていなかった。
だから、彼女は009と異なり、本来の彼女であり続けることができた。
彼女は死を身近に感じながら、ひたすらに「生きたい」と願う。そして、その先に「島村ジョー」の笑顔を見る。
 
彼女は生きようと、前を向く。何処へ向かっているのかもわからず、それでも前を向く。生きたい。生き続けたい。安住の地を求め、今度こそ心底から人生を謳歌したい。
 
この「生きたい」という願いが、009の感じた「ポジティブな響き」なのではないかと思う。その向こうに、003は009の、009は003の幻影を見る。
 
彼らが「生きたい」と思うなら、機械の体を、その力を肯定するしかない。
それは兵器に成り下がることではない。兵器は決して「生き」てはいないものだからだ。
その願いは「罪」の意識を超えるだろう。
生身だろうが、機械の体だろうが、心はいつも生きたいと願っている。
その願いが全てをのみこんだとき、サイボーグたちは機械である自分の身体を受け入れ、過去を受け入れ、罪を受け入れることができるのではないかと思う。
 
誰よりも強い機械の体を持ち、それゆえに誰よりも多くの殺戮を繰り返し、誰よりも重い罪を負った009は、その純粋な心のエネルギーを翡巫女によって全て自己破壊へと向けられた結果、完膚なきまでに壊された。
が、それでも、おそらく彼は「生きたい」と願ったのではないか。
 
それは、彼の全てを超える願いであり、それゆえ彼の中に自ら見つけ出すことのできない願いだった。
だから、009の「全て」が消滅しても、それは消えなかった。
その結果として、009は009を超えたモノとして出現した……のではないかと思うのだった。
 
更新日時:
2012.10.09 Tue.
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Last updated: 2015/11/23