第四章 三番目のサイボーグ
第一節 男装の少女
新ゼロについて考えると、どうしても自分の思春期が重なってしまうので、極めて個人的な話になってしまうのだった。
いいかげんそこから離れて、マジメに(?)「003」という存在の特性について考えてみようと思う。
彼女が、いろいろなヒロイン…というか、女性キャラクターと明らかに違う、ごく素朴な点は、紅一点であるにもかかわらず、それにふさわしい衣装を持っていない…主人公の少年と同じ服を着ている、ということだと思う。
もちろん、それを言うなら、主人公の少年ですら特別な衣装をもっているわけではない。
もっとも、衣装どころか、独自の武器のようなものも彼は持っていないのだけれど。
例外が、もちろん旧ゼロ。
というか、旧ゼロを見て、私は初めて「みんな衣装が同じ」というそれ以外の009たちの在り方に気づいた、のかもしれない。
石森章太郎が九人のサイボーグチームを作った背景には、まず野球チームがあった…とよく言われる。
そう言われてみると、野球選手はみんなが同じチームユニフォームを着ている。そして、野球選手は全員男性と決まっている。「決まっている」というのは、ルールがそうであるという意味ではなく、私たちの意識がソコに固定されている、ということだが。
もしもその中にある者が、あえて女性であるなら、彼女はやはり水原勇気に…ってことは物語の主人公に…なるような特殊な者でなければならないだろう。
水原勇気はピッチャーだった。
それには一応の合理的な理由もつけられていた…と記憶しているけれど、理由がつこうがつくまいが、彼女を他のポジションにしてしまっては、いまいち話にならない…というか、それなら何のために水原勇気…女性をチームに入れる話をわざわざ作るのかがわからなくなるような気がする。
003がオカシイのは、水原勇気なのに、ピッチャー…主人公ではなく、何事もなかったかのように、ごく無造作に他の脇役男性と同じポジションについている、ということなのだ。
ついでに言うなら、もし003が009の「恋人」に位置づけられたキャラクターなら、彼と同じユニフォームを着せ、グラウンドに送るよりも、女性らしい衣装を着せてグラウンドの外に置く方がずっとわかりやすいはずで。
ちなみに、石森章太郎の後のSF作品では、実際に野球チームに所属し、何食わぬ顔で(?)フツウにプレーする少女が二人出てきたりする。
彼女たちが女性である「意味」が何かあったのかどうか、については、作品がほとんどイントロダクションの段階から抜け出ないウチにあっけなく終わってしまっているため、謎なのだけれど、少なくとも現存する作中に、そういう類のエピソードはない。
ただ、彼女たちは二人いる…紅一点ではない…ので、もしも特殊な意味づけのないままで話が展開しても、どうにかごまかせそうな気がする。
で、石森章太郎は、どのみち彼女たちが女性である「意味」をつける気は特になかったのではないか…という気もしている。
それはなかなか画期的…というか革命的、というか。
もっと言うと、既存の固定観念を鮮やかに破壊しているのだけど、何のためにそういう破壊をしているのかがいまいち見えにくい、というか。
もしかしたら…と思うのだけど。
彼女たちを紅一点にしてしまったら、結局003になっちゃうから、彼女たちは二人になった、ということなのかもしれない。
石森さんは何をしたかったのかなあ…と、003を重ねながら、やはり思うのだった。
もしかしたら、単純なコトなのかもしれない。
私たちの世界で、男と女はホントに同じぐらいの数だけいる。
だから、9人のグループだったら、4人ぐらいは女でも別におかしくはない。
そうならないのは、物語の世界が特殊だからで、その特殊なトコロを壊してみようとした…壊したらどうなるのか、と試してみた…とか。
実際のところ、003が女性になったのは「女の子が1人ぐらいいたほうがいい・主人公とのロマンスができる」というコトのようなので、それとはかなりズレている。
ただ、なぜか石森さんは彼女に主人公たち…男たちと全く同じ服を着せてしまったのだ。
おそらく、野球チームがそうであるように、ごく自然に。
原作009が、「怪人島」篇で、謎の少年の世話を焼いている003に、「サイボーグ服を着ていると男の子みたいだけれど、そうやっていると女の子らしい」と言う場面がある。
彼女についてコメントすることがほとんどない009としては珍しいセリフなのだった。
つまり、003は男装の少女であり、女の子なのに男の子みたい…というキャラクターでもあるのだ。
にも関わらず、もちろん彼女はサファイア姫というわけでもない。
009は彼女を「男の子みたいだ」と思っているようなのだけど、「女の子なのに…」と思っているわけではない。
もちろん、「女の子は女の子らしくしたほうがいいよ」と彼女に対して言ったことなどないし、そういう発想すらないように見える。
どっちかというと009は、ああ、003って女の子なんだよなーと「特別なきっかけ」があるとしみじみ思い出すわけで、普段は彼女の性をほとんど意識していない・自分と同質の者であると考えている…ようなのだった。
もっとも、原作も後期になると、微妙に違ってくるかな…という気はするのだけど。
もし、石森さんが003を009とのロマンス要員、と考えていたのなら、「怪人島」の時点では、ロマンスどころか、彼女が異性であるという意識づけすら009にはできていなかったということであって、これは無惨なまでの失敗だと言わざるを得ない。
が、同時に石森さんは、女性キャラクターは、あくまで女性であるがゆえに存在することができる、という物語の枠を壊すことに成功していたのだった。
003は、明らかに女性である。ごく自然に女性に見える。紅一点だし。
でも、009たちと同じ者でもあるのだった。
別におかしなことではない。女性はそうやって、私たちの世界に存在している。
が、女性が社会で活躍することが当たり前のようになった現代でもなお、物語の世界では、女性はやはり女性であることを特別に求められている場合が多い。
60年代に「野球」を手がかりにしてその枠をすんなり越えてしまった石森さんは、フェミニストというより、やはり、なにものにもとらわれない創造が軽々とできてしまう人だったんだろうなーと思うのだった。
第二節 終わらなければ始まらない
後期原作では、003はいつのまにか常に009の傍らに立ち、しかもそれでいてそこに恋物語はない…ように見えてしまう。
どーも腑に落ちないような気がしてしまうのだが、これまで考えてきたように、そのひとつは003がかなり特異なヒロインであることに起因しているのだと思う。
私たちから見ると、彼女と主人公の位置はほとんど同じであり、彼女と主人公はほとんど同質の者でもあるので、彼らの間に何らかのエネルギーが蓄積されることはない。
もちろん、恋愛のような不安定な磁場は発生しない。
そんな関係を、物語の中に描く必要があるのか…というと、微妙だと思う。
そんなモノは描く価値がない、という考え方もアリ、かもしれない。
私たちは、非日常的な感動を求めて物語に触れるのだから。
ところが、彼らの間にそうした磁場が存在せず、エネルギーも存在しない、と考えるのは誤りなのだった。それは、物語に描かれてはいないが、存在はしている。
私たちの日常において、恋愛がそうであるように。
ここで問題なのは、物語においては、描かれなければ存在していないのと同じだろう、ということで。
だから、描かれていないのに、003が009の恋人であるかのように見えることなど、あり得ないのだった。
どこかに、ソレは描かれているはずで。
そうなのだった。
ソレは、一度…たった一度だけ、この上なく明確に描かれている。
それが、ヨミ篇ラストなのだった。
これを経て、後期原作のあの二人の関係が成立するのだろうと思う。
それにしても、その描かれ方は冷酷なまでにリアルですさまじい。
二人の恋愛は、その終焉によってのみ描かれる。
あらゆるプリミティブな恋愛物語の在り方の、最も核心のみを焼き付けたような形で。
そして、二人の終焉はそのまま「サイボーグ009」という世界の終焉でもあった。
その位置づけがされた後、作品が復活したことが、後期原作のあの在り方につながったのだろうと思う。
同時に、これによって、二人の恋愛は作品中で描かれることがほぼないだろう、という予感も私たちは感じるのだった。
なぜなら、二人の恋愛が成立するのは、その終焉が描かれるときであり、それは物語自体の終焉でもあるのだから。
009と003は、作品中では同じ岸辺に立つ者である。
だから、その二人の間に恋愛をもたらそうとすると、まず二人を彼岸と此岸に引き離さなければ始まらない。
ヨミ篇の場合、やはり009が彼岸へと去った。
もとから依って立つ世界が違う男女の場合よりも、この別れは生木を裂かれるような悲痛なものとなりうる。
で、もし、彼岸へ去るのが003であれば、物語本体そのものはかろうじて進むことができる。その例が「ギルガメッシュ」の紀世子だと思う。
が、今さら(?)「009」でソレをするには、003はリアルな女性でありすぎる。
009もある意味リアルな男なのだが、一応(?)主人公として物語を支える人物ではあるので、その任にどうにか堪えうるだろうな、と思うのだった。
ヨミ篇ラストで、空と地上に引き裂かれた二人は、はじめてお互いを想う。
009は幻の中に。
003は彼の死を受け入れたそのときに。
あのラストでは、やはり009と002は死んだものとしか考えられない。
考えられないわけではないのだけど、周到なまでにしつこく、物語はそのように作られている。そのひとつが、地上に残された003に004が話しかけるあの場面だ。
「009をすきだったのかい?」と問われた003は「もちろんよ!あなたたちもすきだったでしょう」と答える。
しかし、004は「そういう意味じゃない…」と微笑する。
004は彼らの恋愛においては第三者であり、それゆえ、恋愛がそこに「在る」ことを相対化し、認め、保証する者となる。
ヨミ篇では、これより前、同じように第三者が彼女の恋心を見抜き、暴露し、相対化することによって現実化する…という場面があることはあった。
しかし、その第三者とは001であり、彼は彼女の心を「読んだ」のだから、相対化としてはちょっと不十分だなーと思う。
同様に、地底でヘレンたちだけを助けた009に003が拗ねたことを仲間達がからかう場面もある。009は一応赤面したりしているのだが、コレもあっさり流されてしまった。
ちなみに、どちらの場合も、二人は見抜かれた「恋」の存在をはっきりと認めない。
ところが、ヨミ篇ラストで、004の言葉を聞いた003は、彼の言葉に涙するのだった。
ああ、003は(やっぱり)009に恋をしていたのだ!
ということが、いきなり、あからさまに表現される。
だから…同時に、読者は知ることになる。
彼が永遠に去り、彼女と遭うことは二度とないのだということを。
おそらく、彼らが「ちゃんと」恋を表現するなら、この方法しかないのだろうと思う。
それは、物語が終わるとき、そのただ一度しかないチャンスにおいて。
結局、009は復活した。
これを003との恋のレベルで考えると、つまり、「夕鶴」で、一旦去ったつうが、何かの事情で与ひょうの許に戻った…ようなものなのだった。
いくらなんでも、ソレはちょっと物語になっていないというかなんというか。
009を彼岸から003の許に引き戻す力は、物語の中にはあり得ない。
文字通り、彼の復活は物語の外の力によってもたらされた。
だから、再び「夕鶴」でいうなら、つうが戻るとしても、与ひょうを想って・想われてという「愛」の結果ではないだろう。おそらく、そんな「つづき」は作りようがない。
ところが、003と009は、もとより同じ岸辺にいる者同士だった。
だから、009が戻った「あと」の話も比較的自然に続けられたのだと思う。
もちろん、ソコに恋物語など存在しない。二人はふたたび、同じユニフォームを着て戦うモノとなっただけのことだ。
009と002の「復活」を読者に「説明」しなければならなかった場面での009の独白をのぞけば、ヨミ篇後の原作では、あのラストがサイボーグたちの…009も含めて…誰の記憶にも全く残っていないように見える。
それは、そもそも物語の中では起こりえないことが起きたから…なのだと思う。
しかし、読者の私たちはそれを覚えている。
003と009が実は物語の定めた「恋人」同士であるということも。
それは二度と描かれない恋物語なのだけど、もともと003は紅一点であり、主人公の恋人の位置に立ちやすい女性だった。
だから、読者の「読み」によって、二人の関係は補完され、後期原作では恋がないのに恋人同士、という不思議な二人の表現が成立した。
では「完結編」ではどうなるのか…ということだけれど。
物語が再び終焉するとき、二人の恋の終焉がまた描かれるのか…と考えると、そうとは限らないなあ…と思う。
というのは、読者も作者も、この二人の恋愛については既に「知っている」からで。
知っていることをわざわざ描く必要はないよなあ…という気がするのだった。
何より、その「恋の終わり」は一度しかないものであり、それが既に描かれてしまっているのだから。
第三節 21世紀のフランソワーズ・アルヌール
平ゼロは、いわゆる93者にとってはキビしいところもある。
それは、平ゼロがヨミ篇を経ていないからで、まったくもって無理のないことだろうと思う。
009と003の恋物語など、そう簡単に成立するものではないのだった。
…というか、成立するはずない、と言っても過言ではない。
なぜなら、003は21世紀になっても相変わらず009と同じ服を着る者であり、彼と同じ場に立つ者であったからだ。
更に言うと「紅一点」それ自体の魔力も、21世紀であるがゆえに、さすがに薄れたなあ…と思うし。
平ゼロで二人の恋愛を語るなら、「ちゃんと」語る覚悟が必要だったと思う。
なんといっても、近代以降、ごくフツウの男女がフツウに繰り広げる「恋愛」を写実的に描いた作品は数え切れないほどある。そのように本格的に語れば語れないことはないだろう。
が、ソレをするなら、当然、「恋愛」は、作品のテーマのひとつに据えなければならない。
「サイボーグ009」という、そうでなくてもさまざまなテーマがてんこもりになりがちな作品において、それは至難の業だったろう。それになにより、そういう近代的・写実的な恋愛劇を、いわゆる93に望む読者など、そう多くはいないんじゃないかなーという気もするのだった。
だから…だと思う。
平ゼロの003は、女性として…つまり、009との関係…よりも「三番目のサイボーグ」としての姿がより多く描かれていた。
第一世代の設定は、別に彼女のためにあったわけではないだろうが、結局はソレも彼女の「三番目」としての印象をより色濃くしたと思う。
それはそれで、なかなか魅力的なフランソワーズだった、と私は思う。
彼女の009への恋は相変わらず報われないのだけど、それもごく近代的・写実的な文脈の中で、女の子のごく自然な恋心として、ごく自然に語られていた。
少なくとも、新ゼロを見ていたときのような、収まりの悪い妙な疼きはなかった…と思う。
とすると。
時代がようやくイシノモリに追いついた…のかもしれない。
女性が男性と同じ衣装を着て、恋の磁場を離れ、物語の同じ地平で同じ仲間となってもさほど違和感がない、そういう物語がようやく自然に語られるようになってきた、ということなのかもしれない。
が、実をいうと、私自身が…もしかしたら、多くのいわゆる93者も…まだソレに追いついていけず、物語の王子さまでも姫でもない二人に時に違和感を感じてしまいがちなのかもしれないのだった。
平ゼロのフランソワーズは魅力的ではあったけれど、陰影のようなモノが乏しかった…と私は感じた。陰影、というかロマンというか。
それがつまり、紅一点の危うさであり、003に秘められた、ごくプリミティブなヒロインとしての物語的役割の気配…だったのだと思う。
平ゼロの彼女にそれが乏しかったのは、まずは21世紀という現代の感覚に合わせて一からリメイクした結果から…と、繰り返しになるが、ヨミ篇を経ていないから…だったと、私は考えている。
平ゼロが描いた009と003の、とびぬけて美しいシーンは二つあったと思う。
ひとつは、「結晶時間」で二人が引き裂かれたとき。
もうひとつはもちろん、最後の最後で二人の別れを描いたとき。
あの美しさのモトは、むしろ「古さ」…古い物語的な美しさだった…ように思うのだ。
ともあれ、平ゼロもヨミ篇を描いた。
とすると、後続の物語があるとすれば、003にも微妙な変化が現れるような予感がする。
気のせいかなーとも思うのだけど、完結編序章の彼女は、そうであるように感じたのだった。
平ゼロ前の003はあくまで理想の少女だった。
それは、物語の少女として…ということはつまり、009の恋人として…の資質であったから、彼女の立つ場所では、十分にその魅力を発揮できなかった。彼女の理想の少女としての資質を第一に認め、保証するのは恋人009でなければならないのに、彼との恋愛を語ることが物語の構造上不可能だったからだ。
009が認めないものを、他の男が認めるわけにはいかない。まして、女が認めてもほとんど何の意味もない。
平ゼロ003にその縛りはない。
それは同時に、彼女を理想の少女と設定するべきだ、という制約も物語から消えた、ということなので、平ゼロ003はとりあえずフツウの少女なのだった。
そもそも、それ以前の003も、009との恋愛関係がハッキリ描かれないために、ぱっと見は平ゼロと似ているのだった。が、根にあるものがおそらく違う。
平ゼロ前の003は、理想の少女らしいことをしてもしなくても、彼女は理想の少女なんだ!という妙な確信をもたらす何かを漂わせていた。
平ゼロに、それはない。そしておそらく、完結篇小説にもないのだろう。
それでも、完結篇小説は、003は009を愛している、と語る。
それは恋ではなく、もっと深い愛なのだと。
たとえ、二人がその想いについてひと言も語り合ったことがなくても…離れて暮らしていても…ついでに言えば、それぞれの生活の中で「恋人」をもっていたとしても。
そして、彼女のその「愛」は、やはり命の危険…「死」に直面したとき、鮮やかに浮かび上がるのだ。
もしかしたら、石ノ森さん自身も、イシノモリに追いついていけなかったのかなあ…などと思ったりする。
私たちはなぜ、003をフツウの女の子と思い切ることができないのか…それは正直なところ、はっきりわからない。
が、なぜかはわからないけれど、003には「何か変わらないもの」を…おそらくは、古い物語の持つ様式美のようなものを…持ち続けていてほしいような気がするのだった。
どんな時代にあっても、常にごく新しい設定の中にある新しい女性でありつつ、その古い美を秘めているのがフランソワーズ・アルヌールなのだろうと、私は思う。
で、そこが彼女のなんというか鈍くさいトコロでもあり、それを潔しとしない読者もまた多くいるのだろうなーとも思うのだけど。
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