第三章 オンナノミチ
〜新ゼロ003〜
第一節 どこにでもいてどこにもいない
新ゼロ003に出会ったとき、私は中学生だった。
そして、一番に引きつけられたのは、その容姿だった。
カワイイ、とかキレイ…というより、なんというか、デフォルメがかなり中途半端…という気がしたのだった。
象徴的なのが、亜麻色の髪だった。
キンパツ、なら、とりあえずこーゆー色!
…というわかりやすさが、あの髪にはなかった。
なぜ、あんな微妙な中間色を用いなければならなかったのか。
いっそ、原作のカラーリングの方が、ずーっと定型的、というか…わかりやすい。
今思えば、単純に技術的な問題から、絵柄があまり安定しなかった(涙)のも、そういう印象を強調したのかもしれない。
とにかく、微妙に不安定で中途半端な感じが、この描かれた少女の向こうに何かホンモノの彼女がいるんじゃないだろうかとか、そういう怪しい気持ちをかき立てた…のかもしれない。
そして、彼女に注目するようになった私は、すぐ気づいた。
彼女が紅一点であり、それだけでなく、いつもこれといった意味もなく、主人公少年の傍らにたたずんでいることに。
と、いうことは。
つまり、この少女は、主人公との恋愛物語要員としてのヒロイン、なんだー!と、思ったのだった。
…が。
どーも、違うのだ。
だって、主人公少年は彼女に気がない(というように私には見えた)みたいだし、そもそも彼女だってそれほど積極的に少年にアタック(死語)しようとしているわけでもないし。
いや、セーヌ川のほとりとかではそれなりにしてたかなーと思うけど、003が彼のことについて考えたり悩んだり愚痴ったり…とかしている場面はほぼないのだった。
更に、前章で触れたように、主人公少年…009の「恋」は、003との間ではなく、むしろ「外」の女性との間で語られることになっているようで。
ただし、もちろん、009とそうした「外」の彼女たちの恋は絶対に成就しない。
考えるまでもなく、当然すぎるほど当然な物語的帰結だ。
だからキャサリン王女の一件だって、マトモに「どうなっちゃうの?このままでは003が可哀相!」とは感じられなかった。それは、超銀のときも同じで。
当時の私が、そういう場合に主人公少年に対して何か苦言を呈するのだとしたら、おそらく
いいからさっさと仕事しやがれシマムラ番組終わっちまうぞ(怒)
という感じだったと思う。ちょっと方向がズレている。
とりあえず、「よそ見なんかしないで、フランソワーズをもっと大切にしてあげて!」という感じの要求を彼に対して真剣にぶつけたくなることはなかった…ように思うのだ。
そんなことよりも、私が003についてひたすら気になり、心を痛めた問題は、
アレ(シマムラ)の恋人じゃないんだとしたら、003の居場所って、この物語のドコにあるの?
ということだったと思う。
もちろん、当時ハッキリとそう意識していたわけではなかった…はずだけど。
ところが、003は物語の中に存在し続けていた。
居場所があるのかどうかは極めて不明なまま…でも、ほとんど毎回登場するのだった。
やはり曖昧な容姿の美少女として。
それは、つまり私たちフツウの少女の在り方と同じなのだった。
私たちも、私たちの世界の中で特に居場所を与えられているというわけではない。
恋もする…かもしれないけれど、それが人生の、生きることの全て、なんてことがあるわけはない。少なくとも、日常のレベルでそれはない。
003…フランソワーズ・アルヌールは、そういう少女として、私の前に現れた。
どこにもいない、物語世界の美少女。
でも、どこにでもいる当たり前の少女として。
どこにでもいる、と思うから探さずにはいられず。
どこにもいない、とわかっているから、いつまでも探し続けなければいけない予感にとらわれ。
そうやって、彼女を探し求めることが、私にとってのサイボーグ009を読む、ということだった。
その奇妙な情熱は、おそらく、私が私自身を捜し続けていた思春期の情熱と密接に結びついていて、その終焉とともに消えていったのだと思う。
どこにでもいる少女なら、探す必要などないし。
どこにもいない少女なら、探してもむだなのだから。
第二節 彼女が女であるために
思春期まっただなかの私がその混乱の象徴として、あえぐように探し続けていた003とは、結局のところ「女」としての彼女の在り方だった…のではないだろうか。
前節で触れたように、新ゼロを見ているかぎり、彼女の009への恋はどうにも成就しないように感じた。
003が恋物語のヒロインにふさわしい、美しく気立てのよい少女であろうことは、たぶん明らか…と思われるのに、肝心の009がソレを認める言動をほとんど全くと言っていいほどとらないのだった。
で、主人公009がそうと認めないのなら、紅一点たる彼女は何のために美しくあり、何のために優しくあらねばならないのか。
009の態度は新ゼロシリーズを通じて、腹立たしいほど一貫していた。
50話もあるのだから、彼がドコカで彼女を恋人として…そうとまではいかなくとも、恋人となりうる女性として、その美質をウッカリ認めてしまう場面があってもおかしくはなった…と思うのだが、009は頑ななまでにそういうヘマ(?)をしなかった。
もちろん、その一方で、彼が黙って彼女に微笑する…とか、ちょっと彼女を見つめる…みたいな表現はないわけでなく、それがまたかなり中途半端で…つまり、リアルなのだった。
003が「女」であるためには「男」である009の認知が必要だ、と中学生の私はぼんやり思っていた。が、それはどうもハッキリしない。
ハッキリしないだけでなく、時に009は外から訪れた「女」こそを「女」として認める言動をとったりもするわけで。
だから、ほどなく、新ゼロ003は
男に認められない女は、女としてどのように立つことができるのか?
という問題を提起する存在となった。
それは、私にとってかなり新しい問題だったと思う。
なぜなら、当時の私には、女とは男と対であるものであり、それ以外の在り方など考えられなかった…からだ。
もちろん、それは或る意味真実なのだけど、現実に生きる女である私たちは、それだけで自分を測ることはできないと本能で知っている。
男がいないときでも、女は依然として女であり続けるものである…ということを。
中学生の私は、おそらくまだ女になりきっていなかったために、それが理解できなかった。
だから、心を痛めつつ、003を追っていたのだと思う。
そうしながら、私は009に003を女として認めてほしい、彼女を女として愛してほしいと思っていた…わけでもなかった。
むしろ、彼がそうしないことこそが全ての前提・スタート地点であるのだから、それを下手に覆されると却って困るのだった。
003は、なぜか009に女と認められることがない。が、そんな彼を003は慕い続け、常に彼の傍らに立つ。
009がそうと認めない限り、彼女の恋は成就どころか実在すらし得ないのに、それでも彼女は紅一点として生き続ける。
つまり、それは。
女が女であるためには、男の認知が必要である…と思いこんでいたことが間違いだった、ということではないだろうか。
最後に、私はそう思わざるを得なかった。
女が女であることに、それ自体を越える意味や理由などない。
女はただひとりであっても、佳き女になるべく、懸命に生きることができる。
女は男のために在るわけではない。
だから、009に認められようとられまいと、003はゼロゼロナンバーの一員として、紅一点として生き続ける。
009を慕い、彼に愛情を注ぐ彼女は、それが彼に認められようとられまいと、自らの心の求めにのみ従って、そうし続けるし、そうし続けてもよいのだった。
それが幸せであるのか、魅力的な女の生き方であるのか…ということまではわからなかったが、ともかくも、003はそういう女の在り方を中学生の私に見せたのだった。
第三節 女の出番
…とはいえ。
新ゼロを見ながら、私は時折嘆息していた。
それにしても、003の出番って、少ないなあ…と。
それは、紅一点としての檜舞台が与えられない…ってのはつまり、主人公との恋物語!がないから…だったのだと思う。
それどころか、時折現れるゲスト女性がその舞台に立ってしまったりする。
正直、009が誰を好きなのか、ということには既に全く関心がなかったのだけれど、主人公の恋の相手、という舞台から追い出されてしまうと、紅一点003の出番はめっきり減ってしまう。
せめて、003が彼への「片思い」を憂い、思い悩む場面でも入れてくれるなら、それなりに心は痛むけれど、彼女の姿を見ることができるのに、「番組」はソレすら十分にしてくれないのだった。
そもそも、「サイボーグ009」は少女マンガではないし、本来、小さい男の子が見るアニメ(と私は思っていた!)なのだから、003の恋が中心に語られるはずはない、ということはとりあえず諦めていた。
009だって主人公としてそれなりに忙しい上に、番組の時間は毎回20分程度しかなかったのだから、たぶん、どうしようもなかったのだ。
009と、一話限りのゲスト女性との恋…なら、ちゃちゃっと物語らしきモノを時間内に収めることも、どーにかできるだろう。
が、009とレギュラーメンバーの003…だと、そうはいかないかもしれないし、第一、その次の話からはこの二人をどうしたらいいんだ、というようなことも考えておかなければならないはずで、それはかなりややこしいことになりそうで。
そして、そんな状況もまた、私たちの現実と奇妙に似ている…のだった。
私たちは恋をするけれど、いつもそのことだけで生きているわけにはいかない。
まして、公共の場で…仕事中に、ソレを表現するなんてことはちょっとあり得ない。
で、言うまでもないが、番組の中で、009はたいてい「仕事中」なのだった。
その点において島村ジョーは極めて常識的な男であり、それゆえ、彼に仕事場を舞台として、同僚フランソワーズ・アルヌールの「王子さま」となれ、と要求するのは酷な話なのだった。ついでに言うなら、フランソワーズ・アルヌールもまた、かなり常識的な女であったから、なおさら話は一向に進まない。
と言っても、恋物語が「進む」ということは、「終わり」に近づくということでもあるから、下手に進むのはやっぱりマズイのだった。
では、紅一点003はどうすればもっと出番を増やせるのか?
馬鹿馬鹿しいなーと今になっては思うのだけど、私が悩んだのはそういう問題だったのだ。
超銀のタマラや旧ゼロ映画のヘレナの存在をかなり邪魔、と感じたのも、彼女たちが003にとっての「恋のライバル」であるからではない。
彼女たちによって、そうでなくとも少ない、003の貴重な「尺」をとられてしまうのが目に見えていたから、そのことこそを私は憂えていたのだった!
…でも。
でも、それは仕方がないことだ。
003が下手に009との恋物語の正ヒロインになってしまったら、それはそれで絶対ロクなことにならないのだ。彼女はほぼ確実に死ぬか、よくてゼロゼロナンバーサイボーグのメンバーから外される…みたいなハメになるのだから。
もちろん、それについて009には何の責任もない。物語の構造としてそうなる、というだけで。
それでも、超銀のときは、頭のおかしい思春期まっただ中だったし、なんというかかなりヤケクソになっていたので、心からしみじみ思ったものだ。
どーせサイボーグが1人死ぬコトになってたのなら、004なんかじゃなく、003にしてくれればよかったのに!と。
003は思春期の私が直面していた「女」そのものだった。
だからこそ、彼女の生、もしくは性が、物語世界の中であまりに「地味」であることに、私は漠然とした不安を感じていたのだと思う。
女とは、そういう風にしか生きられないものなのだろうか?と。
出口が、一つある。
それは当時の私でも知っていた。
ゼロゼロナンバーサイボーグの「紅一点」という立場に縛られているから、彼女はそういうことになる。
だったら、ソコを打ち破ればよいのだ。
具体的に言うと。
彼女がサイボーグとして再改造なりなんなりを受け、たとえば009並みの「仕事」ができるようになるとか!
いや、もっとドラマチックに展開するなら、その再改造をいっそ敵方にやられてしまって、悪の女サイボーグとして登場し、009と愛憎こもごも、血みどろの戦いを展開するとか!
…………。
そういうわけで。
それって最早「サイボーグ009」じゃないし、「003」じゃないんだよなー、と程なく気づいた私は、やはりその出口から出て行く勇気を持たなかった。
出て行かなくてよかった…のだとは思うけれど。
ともあれ、あれこれ思い悩み、ときに暴走しながらも、なぜか私は「こんなの女じゃない!」「こんな女はイヤだ!」という具合に003を捨てる…ことはできなかった。
それは、そんな彼女の中にこそ私が探していた「答」があったからであり、それこそが新ゼロ003の動かしがたい魅力でもあったからなのだった。
第四節 わたしはわたしを知っている
003がなぜ紅一点であるのか…他に女性メンバーがいないのはなぜなのか、物語は何も語らない。その世界の中で、紅一点でありながら003は、主人公009と「同じ」ゼロゼロナンバーサイボーグであるがゆえに、彼との「恋」のプリミティブな磁場から基本的には遠ざけられている。
にもかかわらず、003は紅一点であり続けなければならず、それゆえに009をはじめとする男達に比肩する華々しい(?)活躍も十分にはできない。
そんな中で、彼女にできることといえば、どーにもこーにも地味で中途半端な役割を果たすことだけなのだった。
地味、というのは、それまで私が見たことのある物語に登場するいわゆるヒロインたちと比したときの印象で。
少女マンガのヒロインは言うにおよばず。
少年ヒーローものにしたって、ヒロインにはそれなりの特化された役割というものがあった。
そして、独自の見せ場というものも、それに応じてどこかにあったのだった。
003には、それがない。
ないのに、サイボーグで美少女でバレリーナで紅一点…という具合に、彼女は設定てんこもりの少女だったりするのだ。
サイボーグで美少女でバレリーナで紅一点、という少女が、物語の中ですることといえば、赤ん坊を抱き、主人公の傍らに黙って立ち、時々仲間と談笑したりたしなめたりすることだけ。
更に、その赤ん坊から特に母と慕われるわけでなく、主人公に愛されるわけでもなく、仲間のアイドルとなるわけでもない。
もちろん、戦いにおいては索敵要員であり、これといった活躍もあまりない。
見方によれば、設定の無駄遣い。
003はそういう意味では失敗したキャラクターなのかもしれない。
が、中学生の私はしみじみ思ったのだった。
こんなに立派な女性が、こんなことしかやらせてもらえない。
でも、彼女はそんなことでも、黙々と誠実にやり続けるのだ。
それが、スゴイなあ…と。
素朴な表現をすれば、003は理想の少女としての資質を持ちながら、それを誰も認めてくれない…認めてくれそうにない世界の中で生きているのだった。
なぜそんなことになっているのか…については次章で整理していこうと思う。
その不運を気の毒に思うよりも、不運の中にあっても、自分の力の全てを注いで自分の役割を果たし続けている彼女を美しいと思う気持ちが勝った。
そんなふうにして、私は新ゼロ003にどうしようもなく惹かれたのだった。
私は思春期を迎え、コドモから大人へなろうとしていた。
コドモは、誰かに評価してもらえる…誉めてもらえることをする、というのが「よいこと」と信じて生きていける。
が、実は誰かに評価されたり、誉めてもらえたり…ということは、なかなか期待通りにいかないのが大人の現実というものだ。
それを漠然と悟りつつあり、ぼんやりと不安を感じていた時期だったから、この003の姿は私に沁みたのかもしれない。
不安に感じることはないのだ。
誰かに誉めてもらえることはなくても、私は私であることができる。
誉めてもらえないのは、寂しいことではあるけれど、決して悲劇ではない。
その寂しさに耐えつつ、私は私を生きていけばよい。
彼女のように。
新ゼロ003の亜麻色の髪も水色の瞳も、私にはこのうえなく美しく思えた。
それがよりどころだったのだと思う。
私は、彼女が美しいということを知っているのだった。
シマムラが認めなくとも、作中の誰もがそれに気づかなくとも、私だけはそれを知っている。
私が、私を知るように。
新ゼロ003は、私にとって、そういう存在であり、そういう「女」であった。
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