孤独なファンだった学生の頃、私はよく本屋を渡り歩いた。
「サイボーグ009」の影を探そうとしていた…のだと思う。
何も見つからないと承知の上で、一生懸命探すのだった。
それでも、「サイボーグ009」といえば有名な古い作品なので、時々思いがけずそのタイトルを見ることもある。
これも、そうだった。
「ユリイカ」1987年2月号。
マンガの特集が組まれていた号なのだった。
詩人や評論家たちがいろいろなマンガについて論評をしている特集で。
さすがに、その中に「サイボーグ009」が正面切って取り上げられているということはなかった。
…が。
その論評の始めに、それぞれの著者が選ぶマンガBEST5というのがあったのだった。
そこに「サイボーグ009」の名を出した著者は二人。
ひとりは「佐武と市」と「009」とどちらにしようか迷った…けど、結局「佐武と市」にした、のだという。
だから、厳密に言えば、ひとりだけがBEST5に「009」を選んでいたのだった。
その著者は、加藤幹郎氏。
「009」を選んだ理由として、こんな言葉が添えられていた。
石森は、その透明な線(中略)ゆえに、素晴らしい漫画作家たり得ている。
…透明な線。
当時の私は、「サイボーグ009」のファンであったけれど「石森章太郎」のファンというわけではなかった。
「009」の影を追いかけて、片っ端から石森作品を読みあさる…ということはしていたけれど、それは手段であって目的ではなかった。
だから、石森章太郎がどんな絵を描くのか、ということについて考えてみたこともあまりなかった。
よく聞くのは、石森章太郎も初期の頃はよかったけれど今は量産とマンネリズムとで見るべきものはない…みたいな酷評だったと思う。
が、この加藤氏の評は、どうも褒めてくれてるみたいなのだった。
珍しいなーと、まず素朴にそう思った。
そして。
透明な線、ってなんだろう。
なんだか、気になる言葉だった。
でも、考えても、その後石森作品を読んでも、その意味はわからなかった。
今も、わかっているわけではない…と思う。
でも、もうしかしたら、こういうことかも、という考えはある。
1987年からはずいぶんたっていたのだ。
石ノ森章太郎が亡くなってしばらくした頃のことだった。
仕事帰りの買い物途中に、雑誌を立ち読みした。
石森プロ、というような名前を見つけたからだった。
その作品がなんであったのはあまりよく覚えていない。たぶん「HOTEL」か何かだったのではないかと思う。
要するに、石ノ森章太郎の死後、石森プロの人たち(?)が続編を連載している…みたいな感じの作品だった。
なんとなく頭をよぎったのは、石ノ森章太郎の後期作品は、アシスタントに任せきりなので、誰が描いているのかわからない、どこまで本人が描いているのかアテにならない…というような評だった。
あまり愉快な評ではなかったけれど、それなら、この作品も今までのものとそんなに変わっているはずないだろう、見てみようかな…なんて思ったのだった。
やっぱり、淋しかったのだと思う。
そして。
ページを開いて……私は呆然とした。
コマ割りの感じも、人物の顔も、雰囲気も、「石ノ森章太郎」なのだった。
そっくり…というか、そのもの、で。
それなのに。
線が、違う。
絵を全くわかっていない私の目にも、それが違う、ということはあまりに明瞭だった。
一生懸命、全部のページを眺めた。
でも、違う。やっぱり違う。
こういう線じゃなくて。
石ノ森さんの線はもっと……
…と思い、また呆然とした。
石ノ森さんの線はもっと、どうなのか。
言葉が見つからない。というか、何も頭に浮かんでこない。思い出せない。
違う、ということはわかるのに、何がどう違うのか、どうしても……
…透明な線。
いきなり、その言葉を思い出した。
そして、それがどういうことを意味しているのか、ようやくわかりかけた気がしたのだった。
※※※※※
「サイボーグ009」の完結篇はまず小説で出したい。
石ノ森章太郎がそう考えている、ということを知ったのは、ずいぶん前だったと思う。
なぜ、まず小説なのか。
それがずっと不思議だった。
私の頭の中にはやはり、例の酷評があった。
石ノ森さんは、もしかしたら描けなくなってる…のではないか、とひそかに思っていた。
納得のいく絵が、線が描けないから、小説で、と言っているのではないか、と思っていたのだった。
そう思うと、淋しかった。
でも、たぶん私は間違っていたと思う。
もうひとつ。
石ノ森章太郎は、完結篇で、大幅な設定の変更をした。
それを初めて知ったときも、不思議に思った。
石ノ森さんといえば、たしかに、新しいコトへの挑戦者…というイメージがある。
だから、これも、それなのだろうか、と、まず漠然と考えた。
でもどうしてそれを「009」で、しかも完結篇でやらなければいけないんだろう、なぜ設定を変えなければいけないんだろう…と、やはり不思議に思ったのだった。
完結篇はなぜ小説で…だったのか。
なぜ、設定は変更されたのか。
その疑問が、完結篇firstを読み、初めて腑に落ちた感じがした。
あまりにコトが大きすぎて、うまく説明しきれるかどうか微妙なのだけど、なんとか試みてみたいと思う。
テーマは、「島村ジョーは誰のものか?」
鍵は「透明な線」
…なのだった。
|